「琉大事件」を考える(仮称)

~琉大事件に関する情報を集めています~

1953年、米軍の支配下にあった沖縄で、
学生の「原爆展」開催を理由に 4人を退学処分にするなど 
若者たちの平和への叫びを封じようとしたのが「琉大事件」

朝鮮戦争下で原爆展 『琉大事件とは何だったのか』

奄美

『奄美の奇跡』 言葉の運動、復帰実現

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『奄美の奇跡』 言葉の運動、復帰実現
2015年9月20日 09:09
奄美群島といえば田中一村、島尾敏雄の2人の名が浮かんでくるだけであったものが、本書により中村安太郎、泉芳朗、昇曙夢、村山家国らの優れた人物の存在を知り、敗戦後、米軍政下に置かれた奄美が、いかに過酷な状況であったかも知った。

 島外に出た者の送金で成り立っていた奄美の経済は、焼け跡の中、海外からの5万人の引き揚げ者を抱え、ソテツを食べ、マッチが貴重品、チョークも教科書も鉛筆もなく、小学生もアメ売りで金稼ぎするありさま。
 しかも軍政は厳しく、1947年に就任したラブリー軍政官は集会・言論・出版・信教・平和的結社・労働組合の自由などの一切に停止指令を出す。
 だが、それにもめげず、人々は、特に若い人々は、生き生きと「中村学校」で学び、「世の中は変えられる、知性的たれ」のメッセージに応え、復帰運動へと立ち上がっていき、あまたの困難を乗り越えて、53年12月、復帰を実現させる(それは沖縄と奄美が切り離された日でもあったが)。その復帰運動は、非暴力で子どもたちまでが参加した島ぐるみの署名運動・断食闘争であり、かつ、著者も述べているように「奄美の奇跡は社会運動であるとともに、言葉の運動であった」ユニークさ。
 だいたい奄美大島日本復帰協議会議長に推された泉芳朗からして教師であり詩人であった。断食闘争最終日の「挨拶」には、あいさつでなく自作の詩を朗読している。
 「よしや骨肉ここに枯れ果つるとも/八月の太陽は/燦として今天井にある/されば膝を曲げ頭を垂れて/奮然五体の祈りをこめよう/祖国帰心/五臓六腑の矢を放とう」(「断食祈願」部分)
 集いも秘密裡に開くしかないなか、若者たちにとって「詩は自己を表現するための大切な武器」であったのだ。
 安倍政権下、奄美でも自衛隊のミサイル計画が反対運動を押しのけて進み、日本国全体が戦争前夜の様相を呈している今「世の中は変えられる…」のメッセージがとりわけ胸に響く。(石川逸子・詩人)
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 ながた・こうぞう 1954年、大阪生まれ。東北大学卒。77年、NHK入社。ドキュメンタリー、教養番組に携わり、ディレクターとしてNHK特集や「NHKスペシャル」などを制作してきた。現在、武蔵大学教授

奄美群島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定 1953年



奄美群島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定及び関係文書をここに公布する。

御名御璽

昭和二十八年十二月二十五日

内閣総理大臣  吉田   茂

アメリカ合衆国は、同国国務長官が千九百五十三年八月八日に声明したとおり、奄美群島に関し、千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第三条に基くすべての権利及び利益を日本国のために放棄することを希望するので、また、

 日本国は、奄美群島の領域及び住民に対する行政、立法及び司法上のすべての権力を行使するための完全な権能及び責任を引き受けることを望むので、

 よって、日本国政府及びアメリカ合衆国政府は、この協定を締結することに決定し、このためそれぞれの代表者を任命した。これらの代表者は、次のとおり協定した。

第一条

1 アメリカ合衆国は、奄美群島に関し、千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第三条に基くすべての権利及び利益を、千九百五十三年十二月二十五日から日本国のために放棄する。日本国は、前記の日に、奄美群島の領域及び住民に対する行政、立法及び司法上のすべての権力を行使するための完全な権能及び責任を引き受ける。

2 この協定の適用上、「奄美群島」とは、附属書に掲げる群島(領水を含む。)をいう。

第二条

1 アメリカ合衆国が奄美群島で現に利用している二の設備及び用地は、千九百五十二年二月二十八日に東京で署名され、その後改正された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定に定める手続に従つて合衆国軍隊が使用するものとする。もつとも、避けがたい遅延のため千九百五十三年十二月二十五日前に、前記の手続きによることができない場合には、日本国は、アメリカ合衆国に対し、その手続が完了するまでの間、これらの特定の設備及び用地を引き続き使用することを許すものとする。

2 日本国政府は奄美大島の名瀬にある測候所の運営を引き継ぐものとし、且つ、行政協定第二十六条に定める合同委員会による協議を通じて合意されるところに従つて気象観測の結果をアメリカ合衆国政府に提供するものとする。避けがたい遅延のため千九百五十三年十二月二十五日に日本国政府がその運営を引き継ぐことができない場合には、現状どおりの運営が、日本国政府がこの責任を引受ける準備ができる時まで、継続されることが合意される。

第三条

1 日本国政府は、千九百五十三年十二月二十五日に、奄美群島における流通からすべての「B」号円を回収し、且つ、一「B」号円につき三日本円の割合で「B」号円と引き替えに日本円を交付することを開始しなければならない。この通貨の交換は、できる限りすみやかに完了しなければならない。回収した「B」号円は、沖縄の那覇にいる合衆国民政官に返還しなければならない。アメリカ合衆国政府は、「B」号円又は「B」号円と引き替えに交付される日本円について、日本国政府に対し何ら償還の義務を負うものではない。

2 予算及び財政に関する現行の措置で資金の収集及び債務の支払に関するものは、千九百五十三年十二月二十四日まで維持されるものとし、その後は、日本国政府が、奄美群島における完全な財政上の責任を有するものとする。

3 日本国政府は、奄美群島における郵便組織のすべての金融上の債務を負うものとする。奄美群島における郵便組織と南西諸島のその他の島における郵便組織との間の勘定は、日本国政府とアメリカ合衆国政府との間で、奄美群島における郵便組織のその他の資産並びに南西諸島のその他の島における日本国政府郵便組織の戦争前の資産及び債務を考慮に入れて、後日合意される通りに決済しなければならない。

4 琉球政府の財産(書類、記録及び証拠物件を含む。)千九百五十三年十二月二十五日に奄美群島に存在するものは、その日に無償で日本国政府に移転しなければならない。

5 日本国政府(地方公共団体を含む。)の財産で、千九百五十三年十二月二十五日に奄美群島に存在し、且つ、同日前にはアメリカ合衆国政府の管理下にあったものは、その日に無償で日本国政府に返還しなければならない。

6 千九百五十三年十二月二十五日に、奄美群島における各種の機関及び団体が奄美群島への貨物の積送の結果南西諸島のその他の島における政府機関その他の機関に対して負う当座勘定並びに奄美群島における個人及び団体が琉球復興金融金庫に対して負う長期債務が存在する。両国政府は、これらの勘定の残高並びに債権者をできる限りすみやかに確認しなければならない。アメリカ合衆国政府は、確認された勘定に関するすべての権利及び利益を無償で日本国政府に移転しなければならない。

7 千九百五十三年十二月二十五日に、奄美群島における個人(法人を含む。以下同じ。)が南西諸島のその他の島における個人に対し、又は南西諸島のその他の島における個人が奄美群島における個人に対し負う債務が存在する。両国政府は、これらの債務の決済を促進する手続を定めることに同意する。

第四条

1 日本国は、戦争から生じ、又は戦争状態が存在したために執られた行動から生じたアメリカ合衆国及びその国民並びに南西諸島の現地当局及びその前身たる機関に対する日本国及びその国民のすべての請求権を放棄し、且つ、アメリカ合衆国の軍隊又は当局の存在、職務遂行又は行動から生じたすべての請求権で、千九百五十三年十二月二十五日前に、奄美群島で生じ、又は奄美群島に影響を有するものを放棄する。但し、前記の放棄には、千九百四十五年九月二日以後制定されたアメリカ合衆国の法令又は南西諸島の現地法令で特に認められた日本人の請求権の放棄を含まない。

2 日本国は、占領期間中及び奄美群島の軍政府又は合衆国民政府の期間中に占領当局、軍政府又は合衆国民政府の指令に基いて若しくはその結果として行われ、又は当時の法令によつて許可されたすべての作為又は不作為の効力を承認し、合衆国国民又は南西諸島の居住者をこれらの作為又は不作為から生ずる民事又は刑事の責任に問ういかなる行動も執らないものとする。

第五条

1 日本国は、公の秩序又は善良の風俗に反しない限り、次の裁判が有効であることを承認し、且つ、それらの効力を完全に存続させるものとする。

(a)奄美群島におけるいずれかの裁判所が千九百五十三年十二月二十五日前にした民事の裁判で、同日前の法令によつて再審査の手段又は権利がなかつたもの及び

(b)沖縄における琉球上訴裁判所が千九百五十三年十二月二十五日前にした民事の最終的裁判で、奄美群島におけるいずれかの裁判所に係属した事件に関すもの

2 日本国は、訴訟当事者の実質的な権利及び地位をいかなる意味においても害することなく、千九百五十三年十二月二十五日に奄美群島におけるいずれかの裁判所に係属中の民事事件又はそれらの裁判所に係属した民事事件で千九百五十三年十二月二十五日に琉球上訴裁判所に係属中のものについて、裁判権を引き継ぎ、且つ、引き続き裁判及び執行をするものとする。

第六条

 日本国は、奄美群島にいる者で、千九百五十三年十二月二十五日前に南西諸島におけるいずれかの裁判所が科した刑に服役中のもの又は千九百五十三年十二月二十五日に前記の裁判所若しくは沖縄における琉球上訴裁判所に事件が係属中のものに対して、日本国の法令及び手続に従つて刑事裁判権を行使することができる。但し、これらの者が千九百五十三年十二月二十五日に抑留中である場合には、適当な措置が執られるまでの間引き続き日本国の当局の下に抑留されるものとする。日本国の当局は、前記の者に対して刑事裁判権を行使するに際し、南西諸島における裁判所又は沖縄における琉球上訴裁判が前記の者に対して刑事裁判権を行使する際に用いた証拠資料に対して相当な信頼を置くものとする。

第七条

 日本国が当事国である条約及びその他の国際協定(千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約、同日に署名された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約及びこれに基く改正された行政協定、同日に日本国総理大臣とアメリカ合衆国国務長官との間で交換された公文並びに千九百五十三年四月二日に東京で署名された日本国とのアメリカ合衆国との間の友好通商航海条約を含む。)は、この協定の効力発生の日から奄美群島について適用されるものとする。

第八条

 この協定の実施に関する事項は、両国政府又はその権限のある当局の間で協議によって合意するものとする。

第九条

 この協定は、千九百五十三年十二月二十五日に効力を生ずる。

以上の証拠として、下名は、各自の政府により正当な委任を受け、この協定に署名した。

 千九百五十三年十二月二十四日に東京で、ひとしく正文である日本語及び英語により本書二通を作成した。

 日本国のために

   岡崎勝男(署名)

 アメリカ合衆国のために

   ジョン・M・アリソン(署名)

奄美群島の歴史 現代 アメリカ統治下

奄美群島の歴史 現代 アメリカ統治下


1945年(昭和20年)9月2日、米軍によって本土から分割され米国民政府の統治下に置かれた。

同年9月22日に行われた現地守備隊と米第10軍とで交わされた降伏調印式の際、日本軍守備隊は米軍側が用意した降伏文書に奄美群島が「Northern Ryukyu(北部琉球)」と書かれていることを発見、日本から分割する意図を悟り、鹿児島県所属であることを訴えて調印しなかった。
これには米第10軍司令官が譲歩し、鹿児島県奄美群島であることを確認した後に降伏した。


1946年(昭和21年)2月2日、正式に日本からの行政分離が連合軍総司令部から発表され、米国民政府の命令により本土出身者が公職から追放、本土に強制送還となった。
空席となった役職には地元出身者が就任し、10月3日に臨時北部南西諸島政庁が成立した。
1950年(昭和25年)11月25日に奄美群島政府に改称。

しかし民選で選出された知事は日本復帰を公約に掲げた人物であったため(他の民政府も同様)、不快を感じた米国民政府は権限の縮小を決意し、1952年(昭和27年)4月1日には首班が米国民政府任命である琉球中央政府及び奄美地方庁を設立して民政府の権限を縮小、後に廃止した。

それらの米国民政府の政治的動きや、沖縄戦で疲弊した沖縄本島への資金集中、本土との分離により換金作物や物産の販売経路の途絶などにより経済が疲弊し飢餓の兆候さえ出てきていた奄美群島の住民は不満を増大させた。

分離直後から始まっていた奄美群島祖国復帰運動は激しさを増し、日本復帰を願う署名が1951年(昭和26年)2月19日より始まり、署名は最終的に14歳以上の住民の99.8%に達し、マハトマ・ガンディーの非暴力運動にならい集落単位または自治体単位でハンガーストライキを行い、小中学生が血判状を提出する事態も発生した。

復帰運動の指導者に奄美大島日本復帰協議会議長の泉芳朗や、ロシア文学者の昇曙夢などがいる。

日本国との平和条約の1952年(昭和27年)4月28日発効によって日本の主権が回復することが決まると、アメリカは基地が少なく復帰運動の激しい奄美群島の統治を諦め、1952年(昭和27年)2月10日にトカラ列島が[3]、残りの奄美群島も1953年(昭和28年)8月8日のダレス声明による権利放棄を受け、12月25日に返還された。

クリスマスであったことから、米国は「日本へのクリスマスプレゼント」として返還を発表した。



米軍占領・軍政時代を「アメリカ世(あめりかゆ)」とも呼ぶ。





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奄美群島の歴史 近代

奄美群島の歴史 近代

明治維新後の1879年(明治12年)4月、太政官通達により奄美群島は大隅国に編入され大島郡が設置されたが、これに前後して行われた廃藩置県により薩摩藩が廃されて鹿児島県となり、奄美群島も含まれることとなった。

1908年(明治41年)4月1日、島嶼町村制制の施行に伴い、大島郡に16村が成立する。

第二次世界大戦中、連合国軍上陸の危険が高まった1944年(昭和19年)7月以降、沖縄と並んで子供や女性、高齢者の本土疎開が進められた。


同年9月には疎開船「武洲丸」が潜水艦に撃沈され、約160人の徳之島島民が犠牲となっている。

このほか、近海では軍隊輸送船「富山丸」など多くの日本船舶が撃沈された。

1945年(昭和20年)3月末からの沖縄戦の間、北隣の奄美群島には陸海軍合わせて2万人以上が守備に就いていた。

特に奄美大島南部の瀬戸内町付近は要塞化(奄美大島要塞)が進められており、特攻兵器である震洋の基地も数箇所に置かれていた。


しかし、奄美群島への連合国軍上陸は無く、全体として小規模な空襲だけに終わった。

奄美群島の歴史 近世



1603年(慶長8年)、江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸の明と通航を考えるようになり、薩摩藩主・島津忠恒に琉球王国に進出して明と通じることを許可した。

1609年4月8日(慶長14年3月4日)、島津軍3000名余りを乗せた軍船が薩摩の山川港を出帆した。
4月12日(3月8日)に奄美大島へ上陸して制圧、4月26日(3月22日)に徳之島、4月28日(3月24日)に沖永良部島を次々と攻略し、4月30日(3月26日)には沖縄本島北部の運天港に上陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。尚寧は止む無く和睦を申し入れ開城した。島津軍は5月8日(4月5日)に首里城を接収し、4月半ばには薩摩に凱旋帰国した。
薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし(ただし名目上は琉球の一部とされた[2])、1613年(慶長18年)、代官所(赤木名、名瀬など、その他多数)や奉行所を設置した。

中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。

この頃の奄美群島は、薩摩からは道之島と呼ばれた。

薩摩は住民にサトウキビ栽培を奨励したが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾取のようになり過酷になっていったといわれる。

薩摩はサトウキビを原料とした黒砂糖を幕府や商人に専売することで富を得たが、サトウキビ中心の栽培はひとたび作物の不作が起こると飢饉に結びつくような有様だった。

しかし、このころに黒砂糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生している。

庶民の嗜好品として評判となり密造酒が多数作られたが、黒砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩がこれを取り締まらなければならないほどだった。

主食は主にサツマイモだが、飢饉の時はソテツの実(なり)を毒抜きしたり、幹からでん粉(サゴの一種)をとって粥などに加工し、食用とした。


奄美群島の民謡である島唄は、徳之島以北は本土と同じ五音音階の陽音階(律音階。ヨナ抜き音階参照)で、日本民謡の南限という側面を持つ。

一方で沖永良部島以南では琉球音階が用いられ、琉歌の北限という側面も持っており、琉球民謡の一翼を担っている。

16世紀に弦楽器の三線が琉球からもたらされると島唄にも取り入れられた。

また、本国から離れたこの地は薩摩藩の流刑地とされていたが、送り込まれた罪人の中には知識人もおり、博学の彼等の中には住民に受け入れられた人もあった。

幕末には西郷隆盛も流人生活を送り、島の女性愛加那と結婚して子供ももうけた。

お由羅騒動に連座して流刑に処せられた名越左源太は、在島時の見聞を元に奄美大島の地誌『南島雑話』を著している。


薩摩藩の統治時代を「大和世(やまとんゆ)」とも呼ぶ。



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奄美 琉球時代

奄美群島の歴史 琉球時代 ウィキペディア

 1266年(文永3年)、奄美群島から沖縄本島の英祖王に入貢した事が、『中山世鑑』などの琉球正史に記されているが、交易の存在を元に創作されたと考えられる。
当時の沖縄地域は群雄割拠の状態であり、英祖王の勢力は沖縄本島の一部を支配しているに過ぎず、それ以前から奄美群島に対して行われていた日本本土からの直接的な移住や出先機関の設置と同様な能力がある事も考えられないため、後に宗主国の明に倣った琉球版冊封体制の装飾であると考えられる。

琉球王国成立前後の状況は、沖縄本島からの距離もあって各島々で異なっている。
奄美群島南部の沖永良部島と与論島は、14世紀に沖縄本島北部に存在した北山王国の勢力圏に入った。
徳之島のカムィ焼生産販売勢力の衰退した時期と一致している。

15世紀に入り、沖縄本島の統一を進めていた第一尚氏は1416年(応永23年)に北山王国を滅ぼし、その領土であった与論島と沖永良部島に服従を要求する。
沖永良部島において、北山王の一族であった島之主一家とその重臣達は使者船を侵攻と誤認して自刃、1429年(応永23年)に両島は琉球王国の領土に組み込まれた。
次いで徳之島も服属し、島之主西世之主恩太良金が徳之島大親に任命された。
この後、琉球王国よって奄美群島の地元領主階級は「大親」と呼称される。

1447年(文安4年)に尚思達王が奄美大島を従わせた。

1450年(宝徳2年)から1462年(寛正3年)まで、喜界島を攻略するためほぼ毎年攻撃を仕掛けていた(『李朝実録』)。

1466年(文正元年)に尚徳王が自ら3000の兵を率いて喜界島を制圧、琉球王国はようやく奄美群島全域を支配下に置いた。
しかし当時の国情を無視した膨張政策によって琉球王国は人心を失い、尚徳が早世したのち首里では群臣のクーデターにより尚円王が擁立されると、事実上は王位を簒奪される形で第一尚氏から第二尚氏へと王統が交代する。

1537年(天文6年)、尚清王が奄美大島の領主の一人与湾大親に反抗の気配ありとの報告を受けこれを討つが、領主間の確執による讒言であると後に判明したため、その子孫を採り立てている。
この当時、奄美大島の領主層は貿易の自主性と領地支配の独自性を維持し、琉球王国の一元支配に反抗的であった。
湯湾大親は第一尚氏の一門とも言われ、他の領主にとっては煙たい存在であった。最も対立していた我耶大親は、日本本土からの移住者と考えられている。


1571年(元亀2年)、尚元王は領主層の一掃を目的として奄美大島に三回目の侵攻を行い、地元領主層を廃している。与湾大親の子孫は戦いに王家側として武勲を挙げ、首里に移ってからの後に馬氏を称し、琉球王国五大姓の一つと讃えられ繁栄した。
琉球王国の支配体制は、全域支配の成った1466年(文正元年)に泊地頭が置き、群島各地に年貢の納付を改めて命じた。
そのための蔵を天久寺(那覇市)に設け大島御蔵と呼んだ。また首里在勤として「奥渡より上の捌理」と言う役職も置かれた。

三回目の奄美大島侵攻の翌年、1572年(元亀3年)には蘇憲宜を大島奉行に任じ、動揺した奄美大島の統治に努めさせている。

16世紀後半、本格的な琉球王国の地方行政制度が敷かれ、間切の名称が文書に見え始める。
間切ごとに「首里大屋子」が置かれ、その下に集落名を冠した大屋子を、さらに与人・目差・掟・里主などを置いた。
祭政一致政策(琉球神道)の一環として「ノロ」も置かれた。役人やノロの所領はそれまでの世襲を廃止して、一定期間ごとに転出するよう制度が改められ、在地住民との関係の切り離しと中央政府が一元的に人事を掌握するキャリア制度化が行われている。

現在ノロ制度は、与湾大親の根拠地であった奄美大島西部に多く残っている。

琉球王国が奄美群島を制圧できた要因として、室町幕府の全国支配体制の弱体化が挙げれる。


日本本土は群雄割拠と戦乱の時代に向かっており、京や関東はおろか九州からも遠く離れた辺境の奄美群島への関心は徐々に失われていった。
その隙を狙い、琉球王国は勢力の拡大に成功したのである。


例外的に、琉球王国や奄美大島の「隣国」にあたる薩摩と大隅の守護を務める島津氏だけが、交易などを通じて奄美群島への関心を持ち続けた。

しかし時は戦国時代であり、島津氏も一族内や近隣領主との抗争に明け暮れ、兵を送るなど不可能だった。


16世紀半ば、それでも島津氏は交易の利益独占のため本土から琉球へ渡る船を統制しようとし、嘉吉付庸説や為朝始祖説を持出し琉球を従わせようとした。

1587年(天正15年)、豊臣秀吉に降った島津氏は領地争いの終了で軍事的経済的余裕が生まれ、琉球に課された琉球軍役を肩代りすることも理由として、琉球王国に圧力を更に強めていった。




琉球王国の統治時代を「那覇世(なはんゆ)」とも呼ぶ。





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沖縄県外の石材初投入 那覇空港第2滑走路埋め立て

沖縄タイムス

沖縄県外の石材初投入 那覇空港第2滑走路埋め立て
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=161236
2016年3月31日 15:15
  那覇空港第2滑走路の建設に伴う埋め立てで、沖縄総合事務局は30日午前10時30分すぎ、鹿児島県奄美大島から石材を搬入し、工事区域の海中に投入した。
北側の護岸造成に使う。特定外来生物の混入を防止する昨年11月の土砂搬入規制条例施行から、初の県外埋め立て資材搬入となった。

» 奄美の那覇空港新滑走路埋め立て採石地で特定外来種「ハイイロゴケグモ」確認

 第2滑走路は2019年度末の供用開始を目指している。
埋め立て地を囲むように造成する護岸の全長約8・5キロのうち、既に契約を終えたのは約95%に当たる約8・1キロ。
このうち約7・1キロ分は海面より上の高さまで完成している。

 石材搬入元周辺では、県が現地調査でハイイロゴケグモなどの特定外来生物を確認しており、総事局に慎重な混入防止対策を要望。総事局は対策強化の方針を示している。

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北緯三十度分断 奄美・軍政下を生きて

この記事の中で、この問文が心に刻まれる。


今、奄美で生き、奄美に関わる人々が未来へ向かうためには、
原点を知ることが何より大事と考えている。
「当時を知る人に話を聞き直すには、今が最後かもしれない」。
そんな思いが、これからの原動力になる。



http://mainichi.jp/articles/20160219/ddl/k46/040/226000c
北緯三十度分断
奄美・軍政下を生きて/3 石神京子さん 復帰願う女性たち

毎日新聞2
016年2月19日 地方版

 1946年2月から7年10カ月に及ぶ奄美群島の米軍政下時代、困難な生活を支えた女性たちも日本復帰を願って活動した。奄美大島で婦人会の一員として取り組んだ石神京子さん(77)は2005年、日本復帰50年(03年)と戦後60年を記念した冊子「奄美女性たちの戦後史」で、そんな当時の動きを声としてまとめた。そして軍政下に入って70年の今年、再び「女性の声を残そう」と誓う。

 自身も、戦中と軍政下、復帰後の奄美をその目で見てきた。

 出身は大和村。戦中の45年2月ごろ、日本軍の輸送船が米軍機に追われて近くの海に逃げてきた。約100人の乗組員のうち、7人が負傷して、村に運ばれてきた。うめき声を6歳だった石神さんも聞いた。地域の婦人会が世話したが、やがて亡くなった。18、19歳の若い兵隊たち。「『天皇陛下万歳』ではなくて『お母さん』といって亡くなった」と世話した女性たちは悲しんだ。

 終戦間際、兵舎となっていた学校の校舎はB29爆撃機に爆弾を投下され、無くなった。戦争が終わって学校が再開しても、学年が下の方になると、授業の場所は神社の階段や木陰。上の方の学年は、かやぶき屋根の掘っ立て小屋が校舎だった。

 大和村の助役だった父は、終戦後すぐに辞職した。自給自足しないと生きていけないからだった。米軍政下に入った46年は毎日の食事が芋やソテツがゆ。栄養状態は極めて厳しく、周辺では伝染病も流行し、ひと晩のうちに一家全滅も珍しくなかった。

 石神さんは、山で食べられる植物を探す方法や、毒があるソテツを水に長時間さらして食べられるようにする処理の仕方を今も覚えている。現在は国の特別天然記念物のアマミノクロウサギを、毛を燃やすために五右衛門風呂の火に放り込んだ父の姿も鮮明だ。

    ◇

 日本に復帰しないといけない。それが、人々の共通した願いだった。孤児(奄美)による「お母さん(日本)、助けて」。そんな叫びが復帰運動。「母」である婦人会の女性たちも立ち上がった。当時の役員たちが53年6月にはルーズベルト元米大統領夫人と福岡県で面会、日本復帰を懇願し、暖かい対応を受けたことが今に伝わっている。

    ◇

 石神さんは、そんな自分たちの母親世代の活動が風化してしまうことを懸念する。今、奄美で生き、奄美に関わる人々が未来へ向かうためには、原点を知ることが何より大事と考えている。「当時を知る人に話を聞き直すには、今が最後かもしれない」。そんな思いが、これからの原動力になる。
【津島史人】




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関西奄美会

関西奄美会、もすぐ百周年!
それぐらいになるか…
私の祖母は明治28年生まれやし(・・)
戦前に一度、大阪へ移民してるし…
その頃ぐらいからやもんね


関西奄美会ホームページ
http://kansaiamamikai-h26-h27.com/index.html 

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関西奄美会 facebook 
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私のルーツ 戦前 戦中 戦後
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関西安陵会

【奄美大島】
私の母の兄は、大島高校の卒業生。
同窓会 役員名簿に、名前も載ってる♪
役員してたことに驚いたけどね(*^-^*)

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「奄美大島の海と山」がダブル汚染。基地建設の土砂採取で

「奄美大島の海と山」がダブル汚染。基地建設の土砂採取で
http://nikkan-spa.jp/890377 
2015.08.09
 景観・歴史・文化・環境・生態系などの破壊に目をつぶり、ひっそりと進行している開発計画は数多い。それは本当に必要な事業なのか? 地元住民はどれだけ情報を与えられているのか? 全国各地で進められている、“あまり知られていない”開発計画の現状をリポートした!!


◆基地建設のための土砂採取で周辺の海が“死の海”に
~奄美大島(鹿児島県)海と山のダブル汚染~


 沖縄県名護市辺野古で起こっている米軍基地建設問題では、同県・大浦湾などの環境問題が取りざたされている。その陰で、基地建設のために山を削られ、海が荒らされている地域があることはあまり知られていない。

 基地建設のためには、大量の埋め立て土砂が必要となる。その土砂は沖縄だけでなく、奄美列島、佐多岬(鹿児島県)、五島(長崎県)、天草(熊本県)、門司(福岡県)、山口、小豆島(香川県)などから運ばれる。その合計は2000万立方メートル(東京ドーム17杯分)以上にも及ぶ。なかでも奄美大島にはその4分の1が割り当てられ、合計3か所から土砂が運ばれる予定だ。

 これらの土砂の多くは「岩ズリ」と呼ばれ、普段であれば産廃扱いになるような、扱いに困るものだ。それがカネになるのだから採掘業者にとってはオイシイ話。それも、普段の年間操業量の数倍が採掘されるのだから“特需”といってもいい。業者はウハウハなのだが、その裏では深刻な環境破壊が懸念されている。

 これらの土砂採取場は主に海に面していたり、人里離れたところにあったりして、普段は人の目が届かない。知らない間に山がひとつふたつとなくなり、景色が一変してしまうというわけだ。奄美大島を現地調査した向井宏氏(北海道大学名誉教授)はこう証言する。

「すでに山から持ってきた土砂が積み上げられているところもありました。いつでも辺野古に積み出せるようにしているのでしょう」

◆生態系豊かな海が赤土流入で「ヘドロ」化

 さらには、生活にも影響が出ているところもある。

「奄美の一部集落では採石場から崩れ落ちた土砂で生活道路が埋まり孤立するなど、生活に支障をきたし、非常時には命にも関わります。粉塵や騒音などの日常的被害のみならず、採石場に亀裂が入って住民が避難する騒ぎも起きました。これ以上の採石は住民の危険をさらに増すことになるでしょう」(環瀬戸内海会議・阿部悦子代表)

 破壊されるのは山だけではない。海の環境にも重大な影響を及ぼす。山から大量に土砂を採取する過程で海まで土砂が流れ、生態系が破壊されつくしているというのだ。海中を調べた向井氏はその様子をこう語った。

「まさに“死の海”でした。生命力の強い種のサンゴだけはかろうじて生き残っていましたが、それ以外の生き物は全く見当たらず、ヘドロで埋め尽くされていました」


 付近は日本でも有数のマングローブ林とサンゴ礁が広がる、生態系豊かな海だ。本格的な土砂採掘が始まれば、周辺環境のさらなる悪化は避けられない。阿部氏は「子供たちが普段遊んでいる海も赤土が流れ込んでヘドロ化が進んでいます。このままでは安心して遊ぶ場所もなくなってしまう」と憤りを隠さない。

 基地建設で壊される環境は沖縄以外にも及んでいるのだ。

― こっそり進む[ニッポンの風景]破壊計画 ―
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採掘場から採取される量は膨大で、山の景観や環境、生態系にも大きな影響を与える
(撮影/向井宏)

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奄美大島周辺のヘドロだらけの海中で、懸命に生きるサンゴ
(撮影/向井宏)


 

私にとっての奄美…

私の母は昭和12年生まれ。
奄美の南部、カケロマの秋徳小中学校の卒業生。
 
私が先日、奄美へ行った時
奄美市から瀬戸内町までの道もトンネルが沢山できていて、
車での移動もスムーズになっていた^^
ただ、本当にトンネルだけを見てきた感じになってしまった^^;
奄美大島は、殆どが山といっても過言ではない。


次、奄美へ帰ってきた時は
国道58号線をひたすら走るのではなく、
山を案内してくれるという…
カケロマにも渡り、カケロマも案内するからと、
私より3つ上のハトコが言ってくれた。
このハトコのお兄ちゃんは、小学生までは大阪に住んでいた

*画像は、奄美瀬戸内町
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けーし風 第41号(2003年12月)


第一次琉大事件で処分された学生4人のうち、
2人は奄美出身、大島高校の卒業生。

戦後の奄美は、どうだったのか。
そのことも記しておきたいと思い、
『奄美』というカテゴリーも設定することにしました。

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けーし風 第41号(2003年12月)
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【特集】復帰から50年の奄美 それぞれの場所から
>> 特集にあたって(鳥山淳) <<
〈座談会〉開発の政治と復帰運動(前利潔、平井一臣、桑原季雄、杉原洋)
50年 矢の如し(中村喬次)
機織り工場の風景(本山謙二)
迎えられた者・追われた者(押サブロー)
〈座談会〉大島の“シマンチュ”が語る復帰と現在(薗博明、新元博文、藤井勇夫、新里清孝、森本眞一郎、義富弘)
奄美がブルースで沖縄がラテン(古勝早人)
在沖奄美人たちはいま 「非琉球人」の烙印を押されて(浦島悦子)
〈インタビュー〉沖永良部から沖縄へ 大江健喜さんに聞く(聞き手・前利潔、鳥山淳)


 


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BOOKS Mangroove
「琉大事件とは何だったのか」






終わっていない過去


沖縄は

1950年に起こった朝鮮戦争で、

最前線基地になった。


トルーマン米国大統領が

朝鮮戦争の始まった直後、

記者会見で

「原爆使用もありうる」と

発言し、

広大な米軍基地を

抱える沖縄の人達は、

核戦争に巻き込まれる

危険性を身近に…


朝鮮戦争、今も休戦中





1953年(昭和28年)、

当時米軍の支配下にあった沖縄で

学生の「原爆展」開催を理由に

4人を退学処分にするなど 

若者たちの平和への叫びを

封じようとしたのが琉大事件



朝鮮戦争下で原爆展

『琉大事件とは何だったのか』

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HP「琉大事件を考える(仮称)」
https://himawari0007.amebaownd.com/ 
 




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ひまわりの散歩道~沖縄&奄美
https://ameblo.jp/himawarimusume007
 

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