暇人肥満児の付録炸裂袋

「ふろくぶろぅくぶくろ」は、「徒然読書日記」のご紹介を中心に、周辺の話題、新聞・雑誌の時評等、気分の趣くままにブレークします。

『策謀と欲望』

(PDジェイムス ハヤカワ・ミステリ)

大きく豊かな唇、傲慢な視線、風に流れるラファエル前派風のカールした黒髪の後方には、岬が丹念に描き込まれていた。ヴィクトリア朝時代の司祭館、修道院廃墟、崩れかけたトーチカ、ねじ曲がった樹木、玩具のような白い小さな風車小屋、夕焼けを背景にくっきりと無気味に浮き上がる原子力発電所の輪郭。

そんな魅力的な風景を支配するかのように、明らかに<悪意>を込めて描かれているのは、栄転して原子力発電所を去ることになった所長の元愛人で、後釜を狙っていると噂されるヒラリーだった。

(原子力発電所というものは、必然的に魅力的な風景を背景に立地して、それを破壊してしまう運命にある、という寓意が込められているようでもある。)

最近妻を亡くした画家のブレイニ―が、4人の子供たちと住んでいたコティジを投資目的で買取り、立退きを要求してきたヒラリーに、憎しみを込めて描いたようなのである。

たった一人残った血縁者の叔母が亡くなり、この岬にある風車小屋を改造した家屋を遺産として受け継いだ、スコットランド・ヤード警視長のダルグリッシュは、

遺品整理も兼ねた二週間の休暇旅行として訪れていたノーフォーク北東海岸ラークソーケンで、そんなヒラリーの絞殺死体の第一発見者となってしまう。

上唇の下に少量の毛が押し込まれて、歯が見えているので、兎が怒って歯をむいているような顔になっていた。・・・額の中央にはLの文字。丁寧に刻みつけたのだろう、二本の線が直角にきっちり合わさっている。

それが、ノーフォークの連続絞殺魔“ホイッスラー”の<いつもの殺り方>なのであり、周囲の忠告を無視して習慣としている夜の水泳に出掛けたヒラリーは、6番目の犠牲者になったのだ。

と思われたのだが・・・ホイッスラーはその数時間前に、自らが絞殺魔であることの証拠を残して、ホテルで自殺を遂げていた。

現代本格ミステリの頂点に立つ著者による、“ダルグリッシュ警視”シリーズものの最高傑作。

(なのだそうだが、暇人はこの作品が初めてで、その字面からどうしてもダルビッシュが思い浮かんでしまって、いささか感情移入に苦労した。 閑話休題)

<誰が彼女を殺したのか?>

警察未公表のホイッスラーの<手口>を知る人間は限られ、彼らの誰もがヒラリーへの恨みを抱え、なぜか不可解なアリバイ工作を施していた。

「人間は自分の心の策謀と欲望から自由になれるものでしょうか。自分が一番聞きたいと思っていることを良心が囁くということはありませんか」

栄転の足手まといになるとヒラリーを切り捨てようとしている所長のアレックス。

自殺した同僚との同性愛の現場をヒラリーに見られてしまった上司のレシンガム。

公聴会でのヒラリーに対する暴言を名誉棄損で訴えられ窮地に陥った反原発活動家のパスコー。

などなど、様々な人物がそれぞれの思惑を胸に蠢く中で、捜査の行方は一向に捗らぬまま、思わぬ結末を迎えることになるのだが・・・

「これは犯行時にホイッスラーが死んだことを知らなかったが、犯行後まもなく知った人間の仕業だと思うんですよ」

「独創的ですね、ダルグリッシュさん」という、現地の捜査担当官リカーズの負け惜しみのような揶揄もむなしく、

それは<独創的>なのではなく、あくまで<論理的>なダルグリッシュだからこそ辿りつけた、ついに明かされることのない真実のようなのだった。

現実はここに、陽光に包まれたひとときの時間にある。・・・ここでは過去と現実が溶け合い、ちっぽけな策謀と欲望だらけの彼女の人生など、岬の長い歴史の中では取るに足らぬ一瞬に思えてくる。

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『時計の針はなぜ右回りなのか』―時計と時間の謎解き読本―

(織田一朗 草思社)

調髪してもらっているときには、立派に時計の機能をはたしているものの、終わって振り返ったとたんに、その時計は役に立たなくなってしまう。答えは、左回りにまわる掛時計だ。鏡に映ったときに正しい時間を表示するよう、文字盤が鏡像になっていて、針もふつうの時計とは逆向きにまわる。

<気のきいた床屋さんには、床屋専用の時計がある>

というわけでこの本は、長年時計会社の広報室に籍を置いている関係で、ある雑誌社から原稿を依頼され、

「会社に勤めながら"ときどき時を研究する者"」との意味で「時々研究家」を名乗ったら、誤字と判断されて「時の研究家」になってしまった、という著者が、

時と時計に関する<少々の知識>を披瀝して見せてくれた、目から鱗の薀蓄話満載の「アルアル本」なのである。

(初版1994年であるため、技術進歩の著しいデジタル・情報処理関連の記事に関しては、残念ながら物凄く時代遅れなのだが・・・)

<腕時計はなぜ左腕にするのか>

百数十点の精緻な部品で構成される精密機械であるため、衝撃の加わる可能性が比較的多い利き腕の右腕を避けて左腕にはめることを前提に設計されているのだ。

<文字盤はなぜ0から始まらないのか>

時計が考案された(紀元前3000〜4000年)のが、人類がゼロを発見する(8〜9世紀)よりも先だったからといわれている。

<ハト時計のハトはなぜカッコウではいけないのか>

昭和の初期にヨーロッパから入ってきたときにはカッコウだったにもかかわらず、ハトに替えられてしまったのは、「カッコウが悪かった」から・・・というのは、もちろん冗談である。

<カタログの時計はなぜ10時8分を指しているのか>

・長・短針の両方が上向きで表情がキリリとしまって美しく見える。
・時計のブランド名が12時の下にあり、それを隠さない。
・時・分・秒針の形がわかり、ニ針か三針かが確認できる。

など、いくつか理由があるのだが、セイコーは「10時8分42秒」、シチズンは「10時9分35秒」と各社にそれぞれの決め事があるのだそうだ。

ちなみに、デジタル時計ではなるべく多くの数字を見せるということから、セイコーでは「7月6日、月曜日、10時8分59秒」が採用されたとのことである。

う〜む、知らなんだ。

さて、では肝心の<時計の針はなぜ右回りなのか>

なんとそれは、紀元前3000〜4000年のエジプトで用いられていた、人類のつくったなかで最も古い時計の歴史に由来していたのである。

北半球にある地域では、地面に棒を立てて影の動きを追って行くと右回り、つまり時計回りに動いていく。日時計によってアナログ時計の文字盤の文字の配列のしかたが固まったために、その後に現れた時計に「時計回り」が受け継がれた。

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『家族幻想』―「ひきこもり」から問う―

(杉山春 ちくま新書)

ひきこもりは「自傷行為」だと多くの経験者が言う。そうすることでかろうじて生き延びることができる。その人なりの逃げ道だ。

<ひきこもる>人たちが、「今のままの<私>では,家の外に出て行けない」と感じてしまうのは、

時代の常識など、それぞれの家庭が引き継いできた<価値観>が、その人を縛る内面化された価値観となって、追い詰められてしまうからだ。

さらに、<いじめ>などの体験を重ねれば、自分を変形させなければ、このままでは共同体には受け入れられないと実感して育つことになるのだ。

だから、彼ら(彼女ら)は自分自身の本音を隠す。

いや、本音を隠していることにすら気がつかないまま、マイナスな自分を人に見せようとはしないのだ、というのだった。

「尊敬する親父のように、自分はなれない。親の期待に添えないことが辛い。」

と自分自身を責め続けながら、22歳から42歳までアニメの世界に逃げ込んでしまった男性がいる。

「学校に行けないのは自分の弱さのせいだと思っていました。」

引っ越しを機に受けるようになった激しいいじめにより、学校に行けなくなった男性の強迫神経症は、家の中にいると余計に悪化した。

「親には我が子の扶養義務がある。90歳になろうと、100歳になろうと。子どもに生活力がなくて、親にあれば、支援をするのは責任だと思ってきました。」

と子育ての失敗を悔やむ78歳の父親の息子は、高校卒業直前に不登校となったまま、30年間ひきこもっている。

「自分に課す規範から自由になれないことがある。その規範が与えられるのは、多くの場合家庭=イエである。」

世間を震撼させた「幼児虐待」事件に取材した『ネグレクト』によって、小学館ノンフィクション大賞を受賞したルポライターが、

その後15年以上に渉って、「社会のなかで生きにくさを抱える人たち」から、丹念に話を聞くなかで気付かされることになったのは、

家族規範が強く、「家族」の役割がとても大きな日本において、我が子に家の規範を伝えることは、親の「権利」であると思い込まされているのではないかということだった。

しかし、次世代に前の世代が与えるべきものは、まず「この社会は自分自身のための場所だ」という確信でなければならないはずだとすれば、

むしろ、親は子どもの他者となり、伴走者となるべきなのではあるまいか、というのである。

我が子に他者性を持つことこそが、現代の新しい「規範」なのではあるまいか?

自分の大切な価値観を我が子に伝えたいと思うこと、あるいは、そのことによって我が子を守りたいと思うことは、「愛情」と呼ばれる。
だが、それは本当に「愛情」なのだろうか。ひきこもりに苦しむ人たちをみていると、そんな問いが立ち上がってくる。


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『蘇我氏の古代』

(吉村武彦 岩波新書)

645年(皇極4)6月12日の「乙巳の変」(クーデター)において、蘇我馬子の孫にあたる蘇我入鹿が暗殺され、翌日にはその父、つまり馬子の長子である蝦夷も自尽した。ここに馬子―蝦夷―入鹿と続いた蘇我氏本宗(一族の嫡流の家系)は、滅亡した。

いわゆる「大化改新」である。

中大兄皇子(後の天智天皇)を中心に実行されたこの国内改革で生まれた新しい統治体制の中で、「排除すべき存在」とされてしまったことが、

8世紀に完成した『日本書紀』以来、現代までに続く「蘇我氏逆賊説」の由来と言うべきものなのだろう。

しかし、「改新で蘇我氏の一族すべてが滅亡した」わけではなく、入鹿の従兄弟にあたる蘇我倉山田石川麻呂は中大兄側に与し、

その後の政治情勢の激動の中で、結局は「蘇我」の名前を忌避して、氏名を改姓した「石川」氏として、政権の群臣として活躍していくことになるのだし、

そもそも、その行動を否定的に記述している部分が多い『日本書紀』においても、

欽明朝における蘇我稲目(馬子の父)の仏教支援や、敏達・推古朝における馬子の仏像製作・僧尼恭敬など、仏教興隆に対する蘇我本宗家の貢献は、しっかり評価されているのである。

「氏」が誕生したのは6世紀初めであるが、最初に成立したのはヤマト王権における「職掌」を氏の名とする、「名負いの氏」と呼ばれる伴造氏族であり、「連」のカバネを与えられた。

「伴」(労働力をもって王権に仕え奉る人)の集団を管理する「大伴氏」と、「物」(軍事・警察や刑罰、および神事)を貢納する「物部氏」が、その代表格ということになる。

一方、特定の地域に政治的基盤をもっていて、その地名を名のった氏族が、「臣」のカバネを与えられた蘇我・巨勢・葛城・平群などの氏族であった。

崇峻天皇暗殺という政治的事件の後、蘇我氏主導の下で選出されたのは、先の敏達天皇の皇后で、馬子の姪にあたる額田部皇女であった。

ヤマト王権初めての女帝、推古天皇の即位には、天皇の外祖父になろうとした蘇我稲目の深謀遠慮があり、これを契機に群臣のトップにのし上がった馬子の暗躍があったのだが、

そんな蘇我氏が大化改新以前は大きな政治的影響力を及ぼして活躍しながら、壬申の乱以降は見せ場を失い、今度は鎌足―不比等と続く藤原氏が活躍することになるのは、

地名を名のる氏として、制度的にではなく実質的に、外戚の立場を利用して政治力を行使してきた蘇我氏が、その専横を皇族・貴族らの反乱によって咎められたのに対し、

神祇祭祀を掌る名負いの氏であった中臣氏が、功績によって賜姓された藤原氏を名のることで、純粋な官僚氏族として振る舞うことが可能になったからではないかという。

仏教を含む文化に対し進取的な態度をとった開明的な氏族であろうとも、古い守旧的な殻を打ち破ることはできなかった。

蘇我氏には、律令制支配という貴族の再生産を確実に実現する仕組みを、構想することができなかったということなのである。

というわけでこれは、古代ヤマト王権の頃から藤原氏が台頭する奈良時代までの歴史を、蘇我氏という氏族の興亡という切り口から追ってみることで、

日本の国のかたちを整えていく上で、看過することのできない、<氏の名がものをいった時代>の様相を活写して見せた意欲作なのだった。

蘇我氏は、壬申の乱以降、蘇我氏の名で活躍することはなかった。しかし、蘇我氏の足取りを振り返ったとき、日本の古代社会が、律令制国家の成立によって「東夷の小帝国」を完成させる直前まで、蝦夷や入鹿の横暴さにもかかわらず、日本列島の文明化に果たした役割は大きいものがあった。とりわけ渡来系移住民との強いつながりと進取の気勢、それが仏教受容への姿勢に強くあらわれたと思われる。

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『カラスの教科書』

(松原始 講談社文庫)

Q カラスと目を合わせると襲われそうで怖いです!
A 大丈夫です、向こうもそう思ってますから。


電線に止まっているカラスを、えいっと思い切って見上げてみれば、

「何?何?なんかすんの?」と明らかにオドオドするはずだという。

カラスの方が人間を恐れているのだ。(ただし、繁殖期に雛をジロジロ見ていると、親が本気で怒ることがあるので要注意!)

ゴミ漁りに没頭しているカラスが、「すっげーずうずうしくてムカつく」のは、人間が近づいてもお構いなしで平然としているように見えるからだが、

それは、なんだか怖くて人間の方が避けているらしい動きを見て、

「あ、こいつは避けて通るのか、じゃあ逃げるまでもないな」と、頭のいいカラスが見切って判断しているだけなのである。

というわけで、この本は、

「何の研究をされているんですか」と聞かれて、「専門はカラスです」と答えると、「カラスって、あのカラス?」と大概の人から聞き返されるくらい、

どうやらわざわざ見るほどのものではなく、まして研究者などいるわけがないと思われている節があるカラスを、

Q 家の近所のカラスが肩に乗ってきます。
A うらやましい限りです。代わって下さい。


あれほど面白くてカワイイ鳥はいないし、こんな興味深い鳥を見ないのは人生の楽しみを半分くらい損しているからと、

断言する動物行動学者が書いた、<カラスの取り扱い説明書>なのでれば、

「カラスの苦情多いんだよな!ちょっと参考資料でも見るか」という<情報本>として手にとったとしても、一応の役には立つだろうし、

「あー、そういうのあるある」「へー、こんなのあるんだ!」と、<教科書>的に興味を充たしながら、楽しく読むこともできるのだろうけれど、

「カラスに萌えるカラス馬鹿一代」を自称する著者のことであれば、本当の狙いはどうやら別のところにあるようなのだ。

これは、なんならそのまま深みにはまって頂いても一向に構わないという、<カラスの教化書>なのである。

「カラスってなんか怖い」「カラスなんか嫌いだ!」という方。お嫌いであれば仕方がないが、時には食わず嫌いという事もあるかもしれない。ちょっとお試しになって、カラスも実はカワイイかも?と思って頂ければ、カラス好きとしてはこれほど嬉しいことはない。

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『ダーウィンの覗き穴』―性的器官はいかに進化したか―

(Mスヒルトハウゼン 早川書房)

雌の体はパートナーをじらすさまざまな手立てを隠しもっている。きわめて高度な選好装置として、交尾のたびに機敏に作動する。雄とその「求愛装置」から合図を受けると、雌は郵便物の仕分け装置のように精液を選別し、精子を拒絶または選択し、体内の弁やばねを作動させる。(『恋人をじらす50の方法』)

一般的に、卵が比較的大きくて数も少ないのに対し、精子は小さくて大量にある(集団内のすべての雌のすべての卵を受精させても余るくらいに)ため、

「相手を選ばない雄の積極性と、相手を選ぶ雌の受動性」というのが、<性淘汰説>の中心的教義となっている。

受精すべき卵をもっている限り、雌は雄にとって常に望ましい存在であり、雌にとっての雄の魅力を高める要素が、すべて性淘汰を受けることになるのだ。

ダーウィンは「雄が雌を追いかける」という傾向を自明のこととして受け止め、そこには2通りのパターンがあることに気付いていた。

・ほかの雄を邪魔すること と、
・雌に求愛すること のいずれかである。

両側についたシャベルで、自分より前に交尾した別の雄の精液すべてを雌の生殖器からかき出してから、自分の精液を注入する、ハグロトンボのペニス。

筒状の内側に洗濯板のような仕掛けがあり、雌の陰部が差し込まれると振動して音を奏でる、バイブレーター付きのガガンボのペニス。

卓越した鳴き声や、ピンクの羽毛の房など、雌の好みに対応せんとした雄たちの涙ぐましい努力の結果と同様に、いや、あるいはそれ以上に、

とげ、フランジ、隆起、こぶなど、精子注入器として妥当な機能を果たすためには、およそ必要とは思われないあらゆるものが、

雌の選択により突き動かされた、雄の交尾器の驚くべき華麗な進化の結果として、図版入りで紹介されていく。

なんたって、どのような手練手管を無理強いされることになろうとも、一度ペニスの挿入さえ許してもらえたならば、

「やっぱりこの雄に私の卵を受精させるのはいや」と思ったところで、もう手遅れなのだから・・・

ちょっと、待った!

たとえ雌が雄と交尾したからといって、それを子孫を残したいという雄の欲望に、雌が屈したという意味に捉えるべきではない。

<雌は受動的な精子受け入れ装置ではない。>

交尾相手にドライ交尾を強要したあげくに、相手が絶頂に達するまえに逃げ出すことができるだけでなく、

注入された精子を排出したり、体内のバルブやロックを使って望ましくない精子を卵に近づけないようにしたりもできる。

受け取った精子を一時保管所にしまっておいて、それを使うかどうかはあとで決めることもできる。セクシーな雄の精子は分けてとっとく、フンバエもいる。

え?ハエでなくてよかった?

ヒトの雌だって、パートナーの射精中か射精後にオルガスムを迎えなかった場合には、精子の逆流が著しく多くなるそうだから、ご用心、ご用心。

セックスに対する関心は、人間の心の奥深くに根ざしている。この関心を満たせる(その一方で、同時に満たされる)ならば、生殖器研究者が世間から真剣に受け止めてもらうのも難しくはないはずだ。・・・生殖器は私たちの好奇心を激しく刺激する一方で、男女の両方において支配力と脆弱性が宿る場所でもある。節度と猥褻さが絶妙のブレンドで配合されることによって、私たちがある意味で最も近縁の種と共有する人間行動の進化した側面が生じたのかもしれない。

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『下り坂をそろそろと下る』

(平田オリザ 講談社現代新書)

私たちはおそらく、いま、先を急ぐのではなく、ここに踏みとどまって、三つの種類の寂しさを、がっきと受け止め、受け入れなければならないのだと私は思っています。

・日本は、もはや工業立国ではないということ。

(第二次産業に従事する人々が第三次産業に転換していくことは、他人には理解できないほどの大きな痛みを伴うのだ。)

・長い後退戦を戦っていかなければならないのだということ。

(その痛みに耐えきれず、金融操作・投機という麻薬に手を出し、バブルの崩壊に至るという過ちを、もう繰り返してはならない。)

・もはやアジア唯一の先進国ではないということ。

(無意識の優越意識を解消すると共に、寂しさに耐えられず嫌韓・嫌中を繰り返す人々を包摂していかねばならない。)

このようなことを、頭の片隅に置きながら、

明治近代の成立と、戦後復興・高度経済成長という二つの大きな坂を、二つながらに見事に登り切った私たち日本人が、

では、その急坂を、どうやってそろりそろりと下っていけばいいのかを、ゆっくりと考えてみたい、ということなのだが、

日本は、司馬遼太郎が『坂の上の雲』で描いたような、日露戦争開戦当時の「小さな国」では、もはやないということは、

もちろん一個の文明を生み出せるほどの「大国」でもないのだが、ロシアを敵に回して必死の闘いを行い、それで世界から同情と称賛を得られるほどの「小国」でもないのだから、

自分勝手に坂を転げ落ちることさえも許されない立場にあるということに注意しながら、そろりそろりと、この長い坂を下っていかねばならないことになる。

「下り坂をそろそろと下る」のも、なかなかに大変なことなのだというのである。

では、どうすればよいのか?・・・たとえば、

日本中の観光学者たちが口を揃えて、「少子化だからスキー人口が減った」と言う。しかし、劇作家はそうは考えない。

「スキー人口が減ったから少子化になったのだ」

スキーはひとつの喩えに過ぎない。街中に、映画館もジャズ喫茶もライブハウスも古本屋もなくし、

のっぺりとしたつまらない街、男女の出会いのない街を創っておいて、行政が慣れない婚活パーティーなどをやっていることが、本末転倒だというのである。

そんなわけでこの本は、

劇作家である著者が関わってきた、様々な地方都市における画期的な「文化行政」の企みに、これからの日本の「あるべき姿」を探った、

文化版『里山資本主義』の宣言なのだった。

これからの日本と日本社会は、下り坂を、心を引き締めながら下りていかなければならない。そのときに必要なのは、人をぐいぐいとひっぱっていくリーダーシップだけではなく、「けが人はいないか」「逃げ遅れたものはいないか」あるいは「忘れ物はないか」と見て回ってくれる、そのようなリーダーも求められるのではあるまいか。滑りやすい下り坂を下りて行くのに絶対的な安心はない。オロオロと、不安の時を共に過ごしてくれるリーダーシップが必要なのではないか。

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『ミシマの警告』―保守を偽装するB層の害毒―

(適菜収 講談社+α新書)

1970年、三島は自衛隊市ヶ谷駐屯地でクーデターを促し、割腹自殺しています。
その後、多くの三島論が書かれましたが、三島が理解されたかといえば疑わしい。それどころか、「エキセントリックな右翼」「偏狭な復古主義者」「時代錯誤のロマンチスト」といった歪んだ評価が蔓延している。
しかし・・・


「戦争中からずっと、戦争に便乗するインテリというツァイトゲノッセ(同時代者)、戦後は戦後派というツァイトゲノッセがきらいで、それでニーチェがその後も好きになったわけですね。」(『ニーチェと現代』)

と、時代のいかがわしさに吐き気を覚えていたに違いない、そんなミシマが残した膨大な量の評論を読めば、

近代大衆社会がどのような形で暴走し、どのような形で行き詰まるのか、その兆候をすばやく察知し、正しく警告を発し続けていたことがわかる。

「人間理性に懐疑的であるのが保守」であると大胆に定義してみせる、このニーチェ専攻の哲学者に言わせれば、

・保守は、非合理的に見える伝統や慣習を理性により裁断することを警戒する。
・保守は、近代イデオロギーの暴走を抑える緩衝材として、中間共同体を重視する漸進主義になる。
・保守は、左翼のように平等や人権を普遍的価値とは捉えない。

つまり・・・

<三島が理解されなかったのは、彼が「真っ当な保守」だったからです。>

というのが、この著者が本当に言わんとしていたことのようなのではあるのだが、そこはそれ、

<B層>=「マスコミ報道に流されやすい『比較的』IQ(知能指数)が低い人たち」
(小泉・郵政選挙の際、広告代理店によりワンフレーズ・ポリティクスのターゲットとして設定された層)
を切り口に社会現象を読み解くシリーズを書き続けてきた著者なのであれば、

皇室を侮辱し続けてきた男(石原慎太郎)が「真正保守」を名乗る集団のトップに君臨したり、
国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去ったというグローバリスト(安倍晋三)が「保守派」に支持されたり、
日本の伝統文化を深く憎むテロリスト(橋下徹)が「構造改革の旗手」として大衆社会に持て囃されたりと、

近代において発生した大衆、その中でも特に知的レベルの低い人たちが、圧倒的な権力になってしまった、

これは<B層>に支配されてしまった今の日本に突きつけられた、レッドカードのような本なのだった。

でも、これって結局、暇人を含めた<B層>の人たちが、喜んで読みそうな本だよね?

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『事件!』―哲学とは何か―

(Sジジェク 河出ブックス)

事件とは何よりも、原因を超えているように見える結果のことである。そして原因と結果を分離する落差によって、事件の空間が開かれる。このような大雑把な定義を下しただけで、すでにわれわれは哲学の核心に到達してしまった。

<すべての物は因果関係で結ばれているのか?>

<存在するすべてのものは充分な理由に基づいていなければならないのか?>

たとえば・・・、

暇人があなたに何か無礼なことを言って傷つけてしまったことに気付き、心から謝罪したとしたなら、きっとあなたは、

「ありがとう。でも僕は怒っていない。君が本気でないことはわかっていたから、謝る必要なんかないよ。」

と答えてくれるに違いない(だよね?)が、「謝る必要なんかない」という言葉は、暇人が謝罪した後ではじめて出てくる言葉なのだから、

謝罪は不要だという結果を生むためには、謝罪するというプロセスを踏むことが必要だったということになる。

もちろん過去の事物/現実を変えることはできない。変えることができるのは過去のヴァーチャルな次元である。まったくもって<新しいもの>が出現するとき、この<新しいもの>はそれ自身の可能性、それ自身の原因/諸条件を遡及的に創造する。(@アンリ・ベルクソン)

あなたは特定の理由(彼女の唇、あの微笑など)で恋に落ちるのではない。すでに恋しているから、彼女の唇があなたを惹きつけるのだ。

結果が遡及的にその原因あるいは理由を決定するという循環構造。――恋愛もまた<事件>的なのである。

では、<事件(充分な理由にもとづいていない出来事)>とは何か。

というわけでこの本は、現代思想界のスーパースターとの呼び名も高いジジェクが、

「すべての安定した図式を覆すような新しい何かが突然に出現すること」=<事件 Evennt>に対し、

物質的事件と非物質的事件、芸術的事件、科学的事件、政治的事件、個人的事件などに分類するといった、事件の根本的特徴を無視した安易なアプローチではなく、

事件の概念をひとつひとつ検討しながら、それらすべてに共通する行き詰まりを明らかにすることで、

<事件>の「具体的普遍性(@ヘーゲル)」に事件的な方法でアプローチしようとした<哲学>の冒険なのであるが、

そこはそれ、あの『ラカンはこう読め!』のジジェクが書いた文章なのであれば、個々の議論は冒頭に示したように、理路明晰で、おまけにとってもわかりやすい(映画や俳句まで!)のだが、

では全体の見取り図はということになると、まるで地下鉄の路線図のようにこんがらがって、なんとなくすっきりしない気分もいつものことなのではある。

まずは地下鉄に乗り込もう。これから次々に通過する駅は、それぞれが事件の異なる定義をあらわしている。最初の駅は、現実がわれわれの前にあらわれるときのフレームの変化あるいは崩壊、次の駅は宗教的「堕落」。その後は、対称性の破れ、仏教の悟り・・・(中略)
きっとトラブル続きの、だが興奮にみちた旅になるだろう。道すがら、いろいろなことを説明することになるので、前口上はこれくらいにして、いざ出発!


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『死んでいない者』

(滝口悠生 文藝春秋)

人は誰でも死ぬのだから自分もいつかは死ぬし、次の葬式はあの人か、それともこちらのこの人かと、まさか口にはしないけれども、そう考えることをとめられない。むしろそうやってお互いにお互いの死をゆるやかに思い合っている連帯感が、今日この時の空気をわずかばかり穏やかなものにして、みんなちょっと気持ちが明るくなっているようにも思えるのだ。

「よしなさいよ、縁起でもない。」

通夜の会場となったのは、故人の家から歩いて十分ほどのところにある、地区の集会場だった。

そこに集まったのは故人の五人の子供たち。

おしゃべり好きの喪主・春寿と、重なった寿司桶の数を数えている吉美、

まだ実家にいる弟の保雄に数珠を持ってくるよう頼んでいる多恵と、その電話を受けている保雄、元旦生まれで引っ込み思案の末子・一日出。

そして、その家族である配偶者や十人の孫たちとひ孫たち、それにもはや誰が誰だかよくわからない故人の親戚たちだった。

本年度「芥川賞」受賞作品。

それはもちろん、すでに<死んで―いない者>である故人を悼み、思い出話にふけるために設営された厳粛な儀式の場ではあるわけなのだが、

そこでの話題はもっぱら、まだ<死んでいない―者>たちが、あれはどこの誰で、今は何をしているのだったかという、お互いの今の境遇を確認しあう場となりがちなのも世の常なのである。

こういった冠婚葬祭の集まりだとか、なにか電話で連絡を取り合う際などに、誰かと誰かの間に小声で、手短に、寛の話題が出る。寛という名前は出さなくとも、自然と前屈みになり、眉間にしわが寄り、口元に手を当て小声になるその所作だけで、寛の話だな、とわかり、聞く側も同じ姿勢と顔つきになる。

暴力的で、アル中で、賭け事好きで、借金を繰り返し、離婚して二人の子供を残したまま、5年前に蒸発してしまった春寿の長男・寛。

刑務所にいる。ホームレスになっている。病気して入院している。一度再婚したがすでに離婚している。沖縄にいる。・・・

と、それぞれに聞き知った情報を出し合い、どれが正確な最新情報なのだろうかと互いに詮索しあいながらも、

結局、寛のその後はよくわからない、というところにとどまったままに終わることになるのだが、

もともと、寛の家族は親戚との交流も乏しかったから、いとこ連中などは、寛のことなどほとんど知らないのであれば、

<どこかであの厄介者を今確かに厄介がってやるのだ、という活力を、わずかに心中に感じてもいる。>

明日の葬儀が終わってしまえば、それぞれの家族はまたそれぞれの日常に戻っていくのだから、

今宵一夜限りの、親類縁者の集まりの場で交わされる非日常のそんな会話は、<死んでいない―者>たちにとって、おそらくその場限りのものであるに違いない。

そして、<死んで―いない者>がそのあたりに身を潜めて、それに聞き耳を立てているのだとしたら、

それこそが、<通夜>のもつ意義というものでは、あるのかもしれない。

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