暇人肥満児の付録炸裂袋

「ふろくぶろぅくぶくろ」は、「徒然読書日記」のご紹介を中心に、周辺の話題、新聞・雑誌の時評等、気分の趣くままにブレークします。

『カラダの知恵』―細胞たちのコミュニケーション―

(三村芳和 中公新書)

カラダの細胞は人の数よりも5千倍も多い(37兆個)。細胞が人でいう「単一民族」であるかというとそうではない。生まれも機能も異なる。2百種類以上の細胞の集団だ。であるのに、内外の刺激にてんでバラバラに反応することもなく、だいたいは一貫している。(中略)
カラダは横のつながりばかりか、時間と空間との縦の流れにおいても統一した自己を維持しようとする。身体的には昨日のわたしと今日のわたしはちがうのに、どうしてカラダは心も含めて統一性を保っていけるのだろう。


<それはカラダのなかに細胞どうしの「コトバ」があるからだ。>

たとえば、ケガによって血が出たとすると・・・、

・すぐに白血球が集まってきて、傷口に「炎症」を起こし、
・サイトカインという「警報分子」を放出して、傷の延焼を防ぐ。
・血液を固まらせる「止血」という手品を華麗にあやつったあと、
・微生物を食べて、無限な数の「抗体」をつくるという魔術まで展開する。

「コトバ」(情報分子)を分泌できる浮遊細胞を、血管やリンパ管という道路を使ってつねに循環させ、カラダの異変をすぐに察知する。

それは、微生物の侵入と感染のひろがりを防ぎ、傷ついた組織を修復するために整備された、まことに見事なシステムなのである。

<印をつける>、<宛名をふる>、<道標をおく>、<パターンを知る>、<符丁や暗号をつかう>、そして、

<何度も念を押す>(まことに頼もしいことに、わたしたちのカラダはあの手この手でコトバをあやつり、いくえにも安全策を講じているのだ。)

などなど・・・、

「コトバ」と、それを使いこなす文法としての「カラダ」のしくみには、人社会のさまざまなシステムを彷彿とさせる「知恵」が溢れているのである。

「外科侵襲学(ゲカシンシュウガク)」

筆者が専門とするこの難しそうな学問は、人が手術を受けたとき、あるいはケガをしたときにカラダのなかでおきる反応を科学的に観察することで、

発明とか創造とかとは違い、すでにカラダに隠された、ケガに対する反応形式を探り当てようとする学問なのであり、

ケガや感染症を乗り切るための、アッと驚くようなとても人智のおよばないカラクリが潜んでいることを発見したりできるのは、

<35億年間にわたり生物が体験と学習とを延々とくりかえしてきた賜物だ>

というのだった。

だからなのか、どんな生命体も行き着くところ、おなじようなシステムをもつようになるというのは?そして人社会に大いに参考となるシステムが埋もれている、そんな気がしていた。

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『櫛挽道守(くしひきちもり)』

(木内昇 集英社文庫)

板ノ間の壁には幾多の櫛が貼り付けられている。いずれも、吾助が若い頃に挽き損じたものだという。二度と同じしくじりをせぬよう、戒めのため目につくところに飾ってあるのだと父は言うが、その仕損じの箇所を見つけられるようになるまでに、登瀬は櫛に興味を抱いた七つのときから数えて六年かかった。それほどわずかな差違だった。

――父(とつ)さまは拍子で挽いとるだんね。

飾り櫛や解かし櫛とは異なり、髪や地肌の汚れを梳るのに用いられるため、たった一寸の幅におよそ三十本もの歯を細かく挽かねばならない。

幕末の木曽山中、中山道は薮原宿の名産であるこの「お六櫛」を、朝から晩までかかってようやく四十枚ほど仕上げても、米一、二升と幾ばくかの銭を得るにすぎないが、

「神業だんね。うちの親父なぞ、当て交いなしでは次の歯を挽けんずら」

と、身に覚えた勘だけで均等に挽くことができるという、誰もが舌を巻くほどの技を持つ父・吾助が、娘・登瀬の誇りであり、憧れであった。

「われが櫛さ一徹(いちこつ)なのはわがる。だども調子に乗ってはなんね。おなごが櫛挽になれるわけではないだが、盤の前で胡坐かいて・・・そんねなこど、娘がするものではねんだ。他のおなごと同じように(いつとろー)に生きねばよ」

と、嫁して子をなし、家を守ることが女の定めであり、それこそが幸せであると、頑なに諭し続ける母。

「おらの居るとこはきっと、他所とまるで違うだが。他所はもっとみな楽しぐて、好き勝手して、しんどいことはないね。旅にも出れば、芝居にも行ぐ。うちは世の中から閉ざされとるだが。ほいて二束三文の櫛作ってよ、さって一生を終えるずら」

と、突如母親の束縛から逃れるかのように、家を捨ててしまった妹。

そんな時代と周囲の雰囲気の中で、大得意先である櫛問屋から持ち込まれてきた、願ってもない縁談を父が断ってくれた時、

「父さまみでぇに、櫛を挽けるようになりたい」

と、涙と鼻水をだらしなく流しながら、到底十八の娘盛りとは言い難い醜態を演じてしまった登瀬にとって、

それは今まで封印してきた思いを解き放ったことで、身体が軽く、温かくなるような瞬間ではあったのだが、

それはまた、村の者らから「娘より櫛さ大事にしとる家」だと烙印を押され、敬遠されてしまうという「茨の道」を選んでしまったことにもなったのだった・・・

「家族の絆」とは、「家を守る」とは、「家業を繋ぐ」とは、そもそもどういうことなのだろうか?

そういう<お年頃>でもある暇人にとっては、いささか胸に迫るもののある、これは感動作なのだった。

「おらの技はもう登瀬の内にあるで、すべて、登瀬の内にある。だで、登瀬が誰かにそれを授ければ、この技は必ず続いていくだに。おらはなんも案じとらん」

不意に父が言った言葉を噛み砕くより先に、登瀬の身がわななきはじめる。息がうまくできず、頭の中はどんどん白くなっていく。・・・
「いや。おらの技、いうことでもねぇな」
再び家族の目が吾助に集まる。
「先代、先々代からずっと受け継いできたものだげ。おらのこの身が生きとる間、ただ借りとる技だ。んだで、おらの技ということではねぇんだ」


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『熊と踊れ』

(Aルースルンド Sトゥンベリ ハヤカワ・ミステリ文庫)

このときのことを、のちに彼女は思い出せなくなる。自分がほんとうに振り向いたのかどうか。子どもたちに、どうして黙って立ってるの、と尋ねる時間があったのかどうか。それとも、あの静寂は自分の想像でしかないのだろうか。いずれにせよ、あとから思い出せたのは、息子たちの父親の巻き毛が以前より伸びていたこと、彼の息から赤ワインのにおいがしなかったこと。それだけだ。

<それと――彼に殴られたこと。とはいえ、その殴り方は、以前とは違っていた。>

DVから逃れて暮らしていた妻のもとへ、突然戻ってきた夫は<おれを感じ取れ>とでもいうかのように、無言で激しい暴行を加え始める。

幼いときから、そんな光景を見て育ってきた3人の息子たちは、支配的で凶暴な父親を畏怖しながら、いつしか強く拒絶するようになっていた。

やがて父親と決別し、一家を束ねる立場となった長男のレオは、二人の弟(頑ななフェリックスと、まだ幼さの残るヴィンセント)の面倒をみながら、カリスマ的なリーダーへと成長する。

そして、そんな彼らが企んだのが、史上例のない<連続銀行強盗>を、兄弟の力を合わせて決行することだった。

用意周到に練り上げられた計画を、測ったように正確に実行に移しながら、次々と狙いを定めた獲物に襲いかかっていく覆面の“軍人ギャング”たち。

容赦のない銃撃により、被害者も、目撃者も、駆けつけた警官さえも、恐怖で身動きできなくさせてしまう、その<暴力>の扱い方こそは、

彼ら兄弟が少年時代に、あれほど恐れ、憎んでいた、あの父親から教わった<やり方>そのものだったのである・・・

<これはな・・・熊のダンスだ、レオ。いちばんでかい熊を狙って、そいつの鼻面を殴ってやれば、ほかの連中はみんな逃げ出す。・・・そいつのまわりでステップを踏んで、パンチを命中させる。たいしたパンチに見えなくても、何度もやられれば相手は疲れてくる。・・・おまえは熊にだって勝てる!>

というわけでこの本は、1990年代初頭に、スェーデンを恐怖に陥れた正体不明の強盗団“軍人ギャング”の事件をベースにしてはいるのだが、

「われわれが現実をバラバラにして、フィクションとして築き直したにもかかわらず、猛反対も大騒ぎもせずにいてくれた、3人の兄弟たち。」

に謝辞が贈られているのだから、これはあくまでもフィクション仕立てという趣向なのではある。

とはいうものの、謝辞を贈っている著者の1人が、計画を事前に知っていながら加わらなかった、4人兄弟の次男だというのだから、大部分は本当の話なのだが・・・) *ネタバレにつき、文字を白くしておきます。

そして、連続する容赦のない暴力の発動に、個人的な憤りを燃やしながら立ち向かっていく市警のヨン警部(こちらは創作)との、息詰まるような対決シーンなど、

<北欧ミステリ>としての面目躍如ともいうべき、読み応え十分の傑作であることは、もちろん否定はしないが、

「家族という固い絆を守り抜くためには、どんなことだってやらねばならないし、何をやっても切れはしない」と、愚かにも信じているらしい父親と、

「ドアを開けたのは自分だ」と言い張ることで、父親が母親を殴り殺そうとしたのは、自分のせいだと思いこもうとしてきた切ない息子たちと、

これはむしろ、そんないささか不器用な<家族>に捧げられた物語のようなのである。

ドアは開いていた!――おまえたちはだれもドアを開けていない。わかったか?レオ> *ネタバレにつき、文字を白くしておきます。

家の中はしんと静まり返っていた。穏やかさのようなものがあった。いま初めて、そのことに気づいた。階段に向かって歩いていたとき。父がいま言ったことの意味がわかったとき。

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『万葉集から古代を読みとく』

(上野誠 ちくま新書)

歌集が編纂されるには、歌を支える流通チェーンのようなものがなければならない。歌を作る人、歌う人、伝える人、記す人、評価する人、そういう人びとがいて、はじめて歌集ができるのである。

歌を残すということは、その歌によって過去の記憶を辿ろうとすることなのだから、この感動を未来に伝えようとする意志が存在しなくてはならないが、

たとえそこに、歌を残そうとする強い意志があったとしても、歌を支える多くの人びとの知恵と情熱が一つにならなくては、歌集というものは誕生しない。

復元すれば二尺になる縦長の木簡に、原則一字一音の字音表記で、歌が一行書きされている。

そんな特徴を持つ「歌木簡」なるものが、近年発掘調査が進む遺跡から、次々に出土するようになったという。

横幅いっぱいに大きく、なるべくはっきりと書かれているのは、少し離れた位置からでも、字が読めるようにという工夫なのではないか。

それは、歌詞カードとして使用することを念頭に、一字一字間違いなく読めるようにという、歌唱する人への読み手の思いやりだったのだろうか。

それとも、唱歌される歌を知らない聴衆も参集することへの配慮として、宴の場に後で飾られたものだったか。

歌が文字と出逢い、文字で歌を残す意志があり、歌を支える流通チェーンのごときものがある。そういった環境が整わなければ、歌集は生まれなかった。

日本語を記すための日本語固有の文字がまだなかった8世紀の日本において、文はどのように綴られていたのか。

1.中国文を中国文として読み書きし、その意味を日本語に置き換える。
2.中国文の語順を入れ替え、助詞、助動詞を補ったりして書く。(訓読)
3.漢字の意味を捨て去り、音のみを借りて、日本語を発音したままに書く。(音仮名利用)

「金山舌日下鳴鳥音谷聞何嘆」(巻10の2239)
(秋山のしたひが下に鳴く鳥の声だに聞かば何か嘆かむ)

「由布気尓毛許余比登乃良路和賀西奈波阿是曾母許与比与斯呂伎麻左奴」(巻14の3469)
(夕占にも今宵と告らろ我が背なは何故そも今宵よしろ来まさぬ)

『万葉集』にも、まるで漢文のように書き下し文にしなくては読めないものと、一字一音で誤読されないように書く歌とが混在している。

それは、どうやったら漢字で日本語を書くことができるのか、という悪戦苦闘の歴史であり、漢字文化圏の辺境ならではの混乱でもあった。

しかし、漢字文化圏の辺境で生まれたものであるからこそ、この『万葉集』という独自の「知」のあり方が生まれてきたのではいか。

<『万葉集』を紐解いて、耳を傾けると、そこから声が聞こえてくる。>

これは万葉文化論の第一人者が、「歌を集めて歌集を作る」ことの意味を、知識ではなく歌の細部にこだわることで提示してみせた、「奇異な入門書」なのである。

それは「言葉の文化財」と言い換えてもよいだろう。
・語れば、その瞬間から消え去る
・記せば、その瞬間から古くなってゆく
つまり、私たちは、文字との出逢いを通じて、過去に生きた人びととの対話が可能になったのである。・・・そういう社会的存在であった過去の歌を、一つの文化財と見ることによって、芸術研究が見落としていたものを洗い出してみたい、と私は考えた。


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『発達障害』

(岩波明 文春新書)

津崎 「にんにくすりおろし、ひとかけって、チューブでいうと何cmですか」
みくり 「適当でいいですよ〜」
(みくりの答えに満足しない津崎は、すぐにスマホで「ひとかけ」について調べる)
津崎 「メーカーの見解ではにんにくの場合ひとかけ約5gで小さじ1杯、しょうがの場合ひとかけ約15gで大さじ1杯だそうです」


高学歴で仕事の評価は高いにもかかわらず、取っつきにくく対人関係が苦手で、36歳になる今まで女性と交際したことはまったくないという男が、

ヒロインである森山みくり(新垣結衣)と契約結婚をして同居を始めるという設定で、「恋ダンス」と共に大ヒットとなったドラマ『逃げ恥』の主人公・津崎平匡(星野源)は、

<アスペルガー症候群の疑いが濃厚である。>

あなたは「空気が読めない」、「人の気持ちがわからない」、ひょっとしたら「アスペ」ではないか、と周囲の人から指摘されて、発達障害の専門外来を受診する人が増えているのだという。

フィクションの世界では、「少し変わったところがあるが、特定の分野においては驚異的な能力を発揮する天才タイプ」と不必要に美化されている場合もあり、

「ずっとどこかおかしいと思っていたが、これは発達障害のせいに違いない」と、周りの人も(ときには本人さえも)納得して安心できる、という面があるのかもしれない。

しかし、相手から発達障害を疑われて病院にやってきた、「人の気持ちがわからない」夫や、「片付けられない」妻にしたって、それは単なる「生まれつきの性格」だったということもある。

ご参考までに : 『人格障害の時代』(岡田尊司 平凡社新書)

<アスペルガー症候群>という診断を得るためには、「人づきあいが苦手」なだけでなく、冒頭で紹介した津崎のように、「ささいなことに対するこだわりが強い」必要があるのだ。

「自閉症スペクトラム障害 ASD」
(対人関係の障害とともに、強いこだわりの症状を示す)
「注意欠如多動性障害 ADHD」
(落ち着きのなさと、注意・集中力の障害を示す)

このASDとADHDという2種類の発達障害が、成人期における発達障害の大部分を占めているのだが、両者はまったくの別物ではなく、複雑に関連しているという。

たとえば、発達障害の当事者は「何度も同じようなミスを繰り返す」ことが多く、これはADHDの不注意症状の典型でもあるのだが、

ASDにおいては、周囲が必要と思っていても、自分がその行動についての重要性を感じていなければ、何度注意されても同じミスを繰り返してしまうことになる・・・などなど。

というわけでこの本は、「大人の発達障害」について多くの著作を持つ専門家による、まだまだ認識不足の多い臨床の現場からの報告書なのであり、

豊富な事例の紹介により、大きな誤解がひそんでいる私たちの「発達障害のイメージ」を、少しでも本当の姿に近づけてみせようとした労作なのである。

対人関係の障害という所見のみで発達障害という診断をすることは明らかに行き過ぎであり、「変わり者」や「風変わりな行動をとる人」を即「発達障害」と決めつける風潮には注意する必要がある。・・・
(逆に)うつ病や統合失調症、あるいはパーソナリティ障害と“診断”され、発達障害を見過ごされているケースが多々ある。医療者側も当事者も、長期にわたり治療を行っているにもかかわらず、症状が慢性化してなかなか改善が見られない場合、一度は発達障害の可能性を検討すべきである。


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『「ひとり」の哲学』

(山折哲雄 新潮選書)

人はひとりでこの世に生れ、ひとりで死んでいく。それが、先祖が今日まで守り抜いてきた死生観の根元的な作法だったということだ。・・・
しかしながらその「ひとり」で生き、そして死んでいく「こころ」の居場所が今やいたるところで揺らぎはじめている。


深刻化する少子高齢社会と、人口減少時代の到来。
経済の衰退、国の弱体化、地方自治体の崩壊。

いよいよ、ひとりで立ち、ひとりで歩く、そういう時代が足元までやってきているのだ、とはしかし、誰も言わない、誰も考えようとさえしない。

孤立することがまるで不幸であるかのような物言いが目立ち、たとえば「孤独死」といった言葉で、社会の暗部が解説できるとでも言わんばかりなのだ。

<「ひとり」であることがあまりにも悪者にされてはいないか。>

かつて日本には、「ひとり」の存在を核とする人間観の誕生を準備し、その世界観の転換をうながした、「軸の時代」とも呼ばれるべき時代があった。

それに先立つ平安時代の長い王朝貴族政権が崩壊し、混沌の動乱の中で武家政権が誕生した、13世紀の鎌倉時代。

それは終末の危機意識といってもいい<末法思想>が吹き荒れる中、死に差し向けられた人間の意識が急激な深まりを見せていく時代だった。

おのれの心を集中し、「一心に阿弥陀如来の名を唱えよ」という言明に行きついた「法然」。

法然の言葉を「信心すなわち一心なり」と言い替え、超越の価値に信心を振り向けた「親鸞」。

堕落した比叡山を見限り、中国の師・如浄のもとで身と心が一つに融解する「無」の状態を自覚した「道元」。

「南無妙法蓮華経」の題目を唱え、心に念ずることで、国家の安泰を実現しようとした「日蓮」。

そして、はじめから裸身のままの「ひとり」で、生まれながらの一所不住に生きた「一遍」。

最澄が比叡山を開山してから400年。それだけの時間を要して、ようやく生み出されたこの一握りの聖たち。

<かれらは山を降りて、いったい何をみつけたのか。>

「ひとり」の哲学のルーツともいえる、13世紀のこの5人は、どのように生き、どのように語り、死んでいったのか。

彼らの足跡をまさに駆け足で追いかけてみることにした、この老宗教学者が、その「ひとり」の原風景の先に辿りつくことになったのは、

「個」の自立と「個性」の尊重という掛け声のもとに広まっていくイデオロギーの中で、「ひとり」の哲学が喪失していく危機と、

右を見ても左を見ても自己愛の「個」が蔓延し、孤独な「個」の暴走する姿が巷に溢れるようになっていた、我が国の憂うべき現状だった。

<今日こうして、この国の人々の「個」もまたほとんど窒息寸前の状態にあるのではないか。>

そんな窒息しそうな「個」の壁を突き破って、もっと広々とした「ひとり」の空間に飛びだしてこないか、そんな思いをこめて、私はこの文章を書いてきたのである。

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『江戸かな入門』―春画で学ぶ―

(車浮代 吉田豊 幻冬舎)

男女(なんにょ)とも十三四才(さい)より十六七才のころハ天然(てんねん)の人情にて春心発動(いろけづく)のきざしありといへども玉門(ぼぼ)の中へ亀頭(まら)のあたまばかり押(おし)こめバ互(たがひ)に精気(き)をやりぬきさしするのいとまなく美快(びくわい)をきハむること能(あた)ハず・・・
(『新玉門(あらばち)の娘(むすめ)』)


なんて文章の、中身の方に興味があったわけでは決してなく(まあ、全然なかったわけでもないが・・・)

あくまでも「くずし字」がスラスラ読めたら楽しいだろうな、という向学心からこの本を手に取ったのだから、誤解のなきようにお願いしたいのだが、

今や我が国で「くずし字」を読める人はごくわずかで、江戸時代に書かれた膨大な書物の実に99%が未解読のまま捨て置かれている、などと聞けば、

「くずし字」の識字率を上げることは、歴史的新発見にもつながるかもしれない、大きな意義を持っているのだからと、免罪符を得たような気にもなるのである。

そんなわけでこの本が、「くずし字」を読めるようになりたいのなら「春画」から入るのが一番だ、とお勧めしているのは、

・図案がヒントになる
・ほとんどがワンシチュエーションで単文である
・性に関する記述が興味を引く上に、おおよその想像がつく
・踊り字(繰り返し記号)が多い

などの理由から、春画の「詞書き」は他の書物に比べて読みやすいからだ、というのである。

それになんと言っても、必要に迫られれば(なんの必要かは知らないが)、どんな困難だって乗り越えられないはずはないのだ。

というわけで、古文書研究家の吉田先生が、この8文字さえ読めれば「くずし字」の7割は読めると指南する、魔法の呪文。

「は・た・か・に・わ・け・す・れ」(裸には毛擦れ)

を左手に持って(本の栞になっているのだ)、サービス精神満々のカラー図版に溢れた本書を読破してみれば、アラ不思議。

いつの間にやら、何となく「くずし字」が読めるようになっている自分に気付く、という寸法なのである(これホントです。)

とはいうものの、せっかく用意されている精妙な絵の方だって、嫌でも(嫌じゃなければ言うまでもなく)少しぐらいは目に入ってはくるわけで、

「春画に描かれている人々は、なぜ着衣のままなのか?」
・性器を誇張するための無理な体位を誤魔化すため
・登場人物の身分を詳らかにするため(裸では区別できない)

なんて、これまで考えもしていなかったような知識まで得ることができて、これはもう手放すことのできない一冊なのではある。

殿 さてさて開の中も見あきるほど見たが時々に少しツツかハるよふニミゆるどふじゃよいかよいか入ぬうちから出すハ出すハ
女 其やうな事あそばさずとはやくおいれあそバせいっそじれっとふぞんじます・・・
(『絵本開中鏡』歌川豊國)


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『映画と本の意外な関係!』

(町山智浩 インターナショナル新書)

映画で画面に映る本には何らかの意味があるはずです。監督にインスピレーションを与えた本だったり、物語の謎を解く鍵が隠されていたり・・・。その本を知っている人にしか伝わらない、本の虫だけに向けられたウィンクのようなものだと思います。

セックスとバイオレンスに満ちた映画『渇き。』(中島哲也監督)の中で、失踪した娘の本棚に並んでいた、『ずっとお城で暮らしてる』(Sジャクスン)。

大ヒットした低予算ホラー映画『イット・フォローズ』(DRミッチェル監督)で、ヒロインの友人のメガネ少女がいつも読んでいる『白痴』(ドストエフスキー)。

映画自体が本棚の移動ショットで始まる『インターステラー』(Cノーラン監督)では、巨人ボルヘスが想像した「バベルの図書館」が、5次元世界に展開されていく。

などなど、原作小説はもちろん、思わぬ関連性を持つ本や、劇中で流れていた楽曲の歌詞までに及ぶ蘊蓄が、微に入り細を穿って解き明かされていくのだが、

「あのね、女はみんなイクふりができるのよ」
サリーはそう言うと、食べていたサンドイッチを置いて、突然、悶え、あえぎだす。店中の客が注視する。
「そうよ、そこよ、ああ、イク!イクわ!」
偽の絶頂に達したサリーは何事もなかったようにサンドイッチをパクつく。それを見ていた60歳代の女性客がサリーを指さしてウェイトレスに注文する。


"I`ll have what she`s having."
(『恋人たちの予感』 Rライナー監督)

メグ・ライアンが映画史に残る名シーンを演じたこの店は、ニューヨークに実在する「カッツ・デリカテッセン」で、4半世紀以上経った今も、世界中から訪れたファンはこう言って注文する。

「サリーと同じものを」

なんて、印象的な台詞を表題にした小粋な映画評論が、22本も立て続けに、惜しげもなく繰り広げられていくのは、

この本が元々は、季刊『kotoba』に連載中のコラム「映画の台詞」から集められたものであるからだ。

映画そのものよりも、映画について調べる方がもっと好きだ、と吐露するアメリカ在住の映画評論家が、

ひとつの台詞やなにげない描写の背景にあるものの正体を探り当て、

そこから、思わぬ人物や作品や歴史的事実を浮かび上がらせて、まったく別の世界につなげてみせようとする。

映画『キャバレー』(Bフォッシー監督)の原作は、『さらばベルリン』(Cイシャーウッド)で、ゲイの英国人作家は自分自身のドイツでの生活を回顧したもの。

彼と愛し合うアメリカ人歌手も実在の女性ジーンがモデルで、この二人の関係をニューヨークに置き換えて書いた小説が『ティファニーで朝食を』。

作家のTカポーティはやはりゲイで、映画化でGペパードが演じた役は、原作ではゲイとして描かれていた・・・

う〜む、これはいまどき流行りの「考古学的」発掘作業というよりも、どちらかといえば「芋づる式」の芋掘り作業のような試みというべきなのだろうか?

映画は何の予備知識もなく観ても楽しいものですが、観終わった後、心に引っかかったことを調べるとさらに楽しさが広がります。本書に収めた『グランド・ブダペスト・ホテル』や『ベルリン・天使の詩』、『ソフィーの選択』などは、その発想の原点にある、ツヴァイク、ベンヤミン、ディキンソンの作品と人生を知ってから観ると、まったく違う映画に変わります。

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『縄文とケルト』 ―辺境の比較考古学―

(松木武彦 ちくま新書)

たとえば、日本古代の都城である平城京や平安京が中国・唐の長安城によく似ているのは、形やデザインがそこから伝わってきたからである。だが、イギリスと日本の先史時代に、そのような直接の文化伝播はない。

<形やデザインが驚くほどよく似た遺跡が、はるかに隔たった両地域にあるのは、なぜなのか?>

そんな遺跡を残した社会の姿を、隔たった地域どうしで比べてみて、両者の共通点と相違点をあぶり出し、相互の歴史的特性を明らかにしようとする営み。

「比較考古学」。

この本は、モノの分析をとおしてヒトの心の現象と進化を解明せんとする「進化考古学」の第一人者が、新たな武器を手に辺境の遺跡を巡り歩き、

ユーラシア大陸の東西両端で相似の位置を占める二地域の歴史の歩みがみせた共通性、「ケルト」と「縄文」の正体に挑んだ意欲作なのである。

<歴史上の同じ環境において同じ必要性にかられたとき、技術段階も同じならばよく似た遺跡が残されるのだろうか。>

約1万年前、氷期が終わって温暖化した中緯度地帯の平原や森林では、豊かになった資源に頼って、人びとは多人数で定住するようになった。

約5千年前、太陽活動の変化による冷涼化の危機に直面した大陸中央部の平原では、農耕を強化するために王や都市を核とする「文明」の社会ができた。

しかし、そこから離れた辺境の島々では、集団のきずなを強化し、資源をもたらす太陽や季節の順調なめぐりに精神的な働きかけを行う「非文明」の社会が発展する。

「非文明」の社会とは、定住して大きな社会を作り始めたヒトが、初めて発展させた第一次の高度な知の体系の上に構築されたシステムであり、

「アナロジー」の網をつむぎ合わせることで、万象のしくみを説明しようという、ホモ・サピエンスが長い進化の結果として普遍的に共有する心の働きなのである。

たとえば「ストーン・サークル」は、日本列島やブリテン島だけではなく、この段階に属するすべての社会で認められる、「ヒトの集いの象徴」なのだ。

「文明」とは、見かけや外面をそぎ落とし、原理と構造をえぐり出すことを旨とする、人類第二次の知識体系であり、

実利的な合理性が極めて強いため、その威力は絶大である半面、万物を統制して収奪する志向も強く、不平等や階層化を導く結果となった。

「ケルト」とは、大陸の中央部から西方へと進んだこの動きを、一つの人間集団の移動拡散というドラマになぞらえて、後世の人びとがロマン豊かに叙述したものだ。

いっぽう、東方に向かった同様の動きは、弥生時代に稲作をもたらした「渡来人」、古墳時代に先進的技術をもってやってきた「帰化人」として描かれることになった。

ともあれ、西と東のケルトは、ともにその最終の到達地であるブリテン島と日本列島とにそれぞれ歴史的な影響を及ぼし、環濠集落のような戦いと守りの記念物や、不平等や抑圧を正当化する働きをもった王や王族の豪華な墓をそこに作り出した。紀元前3千年を過ぎたころから紀元前後くらいまでの動きである。

両地域がその後の歴史でたどることになった歩みの違いは、大陸との間を隔てる海が広かったか、狭かったかの違いであり、

東西ケルトの動きの最終的帰結ともいえる大陸の古代帝国、漢とローマが両国に関った程度と方向性の違いによるのだろう。

というのが、この日本考古学者が導き出した、今のところのストーリーなのだった。

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『偽装死で別の人生を生きる』

(Eグリーンウッド 文藝春秋)

2013年7月7日の午後、昼食を終えて仕事に戻ろうとした街路清掃人が、マニラ・パサイ市のロハス大通りと解放通りの交差点で自動車事故を目撃した。・・・運転者らは近くのサン・ファン・デ・ディオス総合病院へ救急搬送された。モンテロを運転していたのは、エリザベス・L・グリーンウッドというアメリカの白人女性だった。

<搬送先で、彼女の死亡が確認された。>

公立小学校の教師だった彼女は、先の見通しのない人生から脱出するため、退職して大学院へ進学する道を選び直したのだが、

それは逆に、自分を経済的に破滅させてしまう道でもあった。(誰のせいでもない、すべては自分のせいなのだが・・・)

<総額で6桁の学資ローン>、いや一生分の利息を足せば50万ドル近くにもなる、重荷を背負ってしまったことに気付いたのである。

安いベトナム料理店で、教師時代の同僚相手に、債務者監獄行きか、はたまた逃亡生活かと、愚痴る彼女の耳元で、その同僚が何気なくつぶやいた。

「死んだことにする、という手もあるよね?」

そんなわけでこの本は、<自分の死を偽装する>などということが本当に可能か、ということを実証せんと企てた体当たりレポートなのである。

別の人に生まれ変わりたいという願望に応えるため、顧客の情報を隠蔽、攪乱し、その人生を消し去ってしまう<失踪請負人>。

死亡偽装はほとんどが保険金詐欺を動機とするため、保険会社からの依頼を受けて全世界を飛び回り、ほぼすべての嘘を暴いてきたという<偽装摘発請負人>。

カヌーでイングランドの北海岸に漕ぎ出して溺死の偽装に成功し、5年もの間のほとんどを自宅の2階で暮らしながら、同居する息子にも気付かれなかった<カヌーマン>。

マイケル・ジャクソンは生きていると、彼が仕掛けた史上最大の悪ふざけ、偽装死のたくさんの証拠を示してみせる<ビリーバー>。

様々な<関係者たち>への入念な取材を続けるうちに、死亡事故を偽装するベスト(?)な方法を見出した彼女は、フィリピンへと向かうことになる。

「つまり、フィリピンは死ぬのにもってこいの場所ってことね!」

こうして、まんまと自分の<死亡証明書>を手に入れることに成功した彼女は、しかし、それを提出することまではしなかった。

(本名で、こうして顛末本まで出版しているのだから、そんなことは言うまでもないことなのだが・・・)

つまりこの本には、死亡偽装の興味深いノウハウやエピソードが満載ではあるのだが、

死亡偽装に伴う感情的・精神的代償まで勘定に入れると、どうやら、あまりお勧めとは言えないようなのである。

死亡偽装するなら、戻ってきてはいけない。妻に会いに戻ってはいけない。恋人に会いに戻ってはいけない。子どもに会いに戻ってはいけない。・・・保険金の支払いを狙っているなら、欲張ってはいけない。保険金は控えめな額にすること。・・・死亡偽装に成功したら、変装して別人になりすますこと。ただし、ファーストネームは本名と同じにすること。自分の名前をネット検索しないこと。足がつく元だ。死亡偽装後は、車の運転をしないほうが身のためだ。車は捨ててしまおう。・・・

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