暇人肥満児の付録炸裂袋

「ふろくぶろぅくぶくろ」は、「徒然読書日記」のご紹介を中心に、周辺の話題、新聞・雑誌の時評等、気分の趣くままにブレークします。

『村上海賊の娘』

(和田竜 新潮文庫)

装備は軽装そのものである。胴丸は付けず、防具とも言えぬ脚絆と手甲を脛と腕に巻き、刀は一本だけ小袖の帯に落とし差しにしていた。その小袖がまた異風であった。袖はなく、肩は剥き出しで、裾は太腿の付け根が露わになるほど思い切って短かった。髷も結っておらず、肩までの髪を海風に靡かせ、傲然と廻船を見下ろしていた。

「女子にござりますよ、あれは」

時は天正4(1576)年、天下統一を目論む織田信長の明け渡し要求を拒絶したことにより、兵糧の道を断たれることとなった大坂本願寺から、

海路での支援を要請された西国の雄・毛利家が、その任にあたらせようと白羽の矢を立てたのは、「村上水軍」だった。

瀬戸内の大半を勢力下におさめ、「村上海賊」の名を世に轟かせることで、来島・因島を含む三島村上の長に君臨する能島村上家の当主・村上武吉(たけよし)の、

嫡男・元吉(もとよし)は、武吉の怜悧さは受け継いだが豪胆さに欠け、次男・景親(かげちか)は穏やかさだけを引き継いだという見方がもっぱらで、

「武吉の海賊らしい剛勇と荒々しさを引き継いだは、女子じゃったということにござるわ」

村上景(きょう)、当年二十歳のこの姫に、当時としては珍しくいまだに嫁の貰い手がなかったのは、

女だてらに海賊働きに明け暮れる希代の荒者であることばかりでなく、大層な<醜女>であるとの評判からだった。

というわけで、2014年の本屋大賞に輝くこの本は、映画脚本から小説化した『のぼうの城』がデビュー作という著者の手になるものなのであれば、

CG利用が必須とはいえ、ぜひとも3Dで映像化して欲しい、迫力満点の大活劇シーンが目白押しという、一大スペクタクル・ロマンなのである。

当時の「美女」の基準から著しく逸脱した景のルックスが、織田方の加勢についた堺の衆には滅法な「別嬪」に見えるというあたりが味噌なのだが、

そんな泉州海賊を率いる真鍋家の若き当主、怪力無双の巨人・七五三兵衛(しめのひょうえ)との、息詰まる死闘という皮肉がこの長い物語を締め括ることになる。

となれば・・・、読者の誰もが、勝手に映画監督になってしまわざるを得ないのである。

「能島村上の姫じゃ、この安宅、能島村上が乗っ取った!」

村上景・・・満島ひかり (本命は杏なのだが、その身長を基準にすると他の配役が難しすぎるので)

「景の奴が海賊家に輿入れしたがっておってな。望みを叶えてやろうと思うたまでよ」

村上武吉・・・高橋克実 (笑顔のイメージから)

「わしはいまでも景姫に輿入れしてもらいたいと思うておる」

児玉就英・・・瑛太 (いささか神経質そうな雰囲気から)

「あいつ、面白(おもしゃ)い奴ちゃ。そやったら本当(ほんま)惚れてまうで」

眞鍋七五三兵衛・・・中村獅童 (ピッタシの篠原信一に演技力が期待できないので)

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『怖い絵』

(中野京子 角川文庫)

ここには、全ての虚飾をはぎとられた女性がいる、必要以上に辱めを受ける、堕ちた偶像がいる。かつて「ロココの薔薇」と讃えられた彼女の、華やかに着飾った肖像画の数々を見慣れた目には、まさに衝撃的といっていいほど残酷な絵だ。・・・女性なら誰であっても、決してこんなふうには描かれたくないと思うだろう。こんな姿を後世に残されるのは嫌だと思うだろう。
(『マリー・アントワネット最後の肖像』 ダヴィッド)


<悪意には、たとえそれが自分に向けられたものでなくとも、心を凍りつかせる力がある。>

この本はドイツ文学を専門としながら、趣味のオペラと絵画に関する造詣も深いと定評のある著者が、

16世紀から20世紀にわたる西洋名画22作品を題材に、そこに現に描かれている画題ばかりに囚われることなく、

その作品が描かれた当時の時代背景や、画家を取り巻いていた生活環境や交友関係にまで踏み込むことで、

その絵の裏に秘められているに違いない、様々な「怖い物語」を(時に妄想的になることも厭わず)解き明かしてくれる、大人気シリーズの第一作なのであれば、

『我が子を喰らうサトゥルヌス』 ゴヤ 
『ホロフェルネスの首を斬るユーディト』 ジェンティレスキ

なんて、まさに血みどろの目を覆いたくなるような惨劇も、その背景にある意味さえ理解できれば、「怖さ」はむしろ別のところにあることがわかるのだし、

『キュクプロス』 ルドン

における、おぞましい単眼の巨人の、決して報われることのない愛の姿は、むしろ「哀れ」で「可愛い」とさえ呼ぶべきものであるのに対し、

『エトワール、または舞台の踊り子』 ドガ

に描かれるプリマ・バレリーナの少女が、どんな思いを抱えながらスポットライトを浴びて踊っているのかを知れば、

カーテンの裏で待ちかまえているものの「怖さ」に気付かされることにもなるのである。

そんなわけで、

「これまで恐怖と全く無縁と思われていた作品が、思いもよらない怖さを忍ばせているという驚きと知的興奮」

を伝えたいという著者の、(ある意味お節介な)狙いは見事に的中したと言わねばならないのだが、

絵の裏側にまで突き刺さるような冷徹な観察眼と、見付けたと思ったら胸のうちまで手を突っ込んでほじくり出そうとする容赦のない好奇心を目の当たりにすると、

“そんなアナタが一番怖い!”

おべっか遣いの宮廷画家たちが営々と美化してきたアントワネット像を、たった一枚のスケッチで粉砕してやろうと意図したにもかかわらず、仕上げてみれば、外見こそ醜く老いているものの心は何ものにも屈せざる大した女性を描いてしまったことに、内心うろたえただろうか?相手を傷つけようとしたのに、自分の悪意ばかりがクローズアップされたことに驚いただろうか・・・?

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『「不思議の国のアリス」の分析哲学』

(八木沢敬 講談社)

『不思議の国のアリス』も『鏡の国のアリス』も、オックスフォード大学の論理学教師だったキャロルの話なので「理屈っぽい」。

いわば、<理屈>で話を進展させるようなものなので、言葉の意味を文字通りまともに、かつ論理的に取らないと、話についていけなくなってしまうし、

言葉じりをとらえるやり方など、徹底的に理屈っぽくあることが、逆にユーモアになるような語り口なのだから、

この物語を、キャロルが意図したふうに愉しむためには、論理学者であるキャロルの理屈に、とことんついていこうと覚悟するしかない、というのだが、

「いつか『ジャムは今日』になるはずだわ」とアリスは抗議した。
「そうではないのです」、女王様は言った、「ジャムは一日おき――今日は一日おいた日ではないでしょ」。
(『鏡の国のアリス』第9章「毛糸と水」)


今日は昨日ではないし、明日でもなく、昨日は今日だったわけではないし、明日が今日になることもない。

にもかかわらず、「昨日は、一日前は今日だった。」という文が、正しいようにも思えてしまうのはなぜなのか。

それは、単に言葉の二つの使い方(言葉を使うことと、言葉を使うことに言及すること)の混乱が起きているのにすぎないからであって、

「昨日は、一日前には今日と呼べた。」とすれば、明らかにナンセンスなことを言う羽目に陥ることはなかったのだ。

<あなたが自分を「わたし」と呼べるからといって、あなたがわたしだということにはならないのと似ている。>

「道には、だれも見えない」とアリス。
「そんな目があったらな」、王様はイライラして言った。
(『鏡の国のアリス』第7章「ライオンとユニコーン」)


“I see nobody.”というアリスの言葉(目的語の名詞を否定することで全体を否定文とする、日本語にはない英語の考え方)を、

文字通り「無の人が見える」と解釈した王様が、タワケたことを言うなと皮肉っているのである。

<「無」は、ひとやものではなく操作である、ということを肝に銘じておかなければならない。>

・・・って、「アンタの方がよっぽど理屈っぽいじゃないかぁ。」

と、思わず本を投げつけてしまいたくなるほど、まことに<いじくらしい>議論が延々と続いていくところが、暇人のしなびた脳細胞を心地よく刺激してくれる。

言葉の文字通りの意味以外の「ふくみ」や、実生活の必要にかられた「読み込み」を反射的にしてしまう大人ではなく、あくまで「子供向け」に書かれたこの本を、

子供の知的限界に縛られない、という意味で「子供向け」を取り去りながら、「空気を読まない」という意味での「子供っぽさ」は、失わずにいること。

それがこの、米国で活躍する分析哲学者が、アリスの物語を読み解くにあたって採用した、唯一の<方針>なのである。

アリスの物語を出発点にして分析哲学の話を繰り広げよう、という本書のようなアプローチは邪道なのかもしれない。もしそうならば、(子供ではないので)・・・邪道であろうとなかろうと、大人であるわたしたちは、(子供にはない)大人の成熟さをもってアリスの物語から多くの分析哲学的手法を学ぶことができる、ということを心に留めておこう。

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『科学の発見』

(Sワインバーグ 文藝春秋)

過去の方法や理論を、現代の観点から批判することに私は吝かではない。それどころか、これまで誰も指摘したことのない、科学史上のヒーローたちが犯したミスをいくつか暴くことに私は若干の喜びさえ覚えた。

<本書は不遜な歴史書だ。>

と、冒頭「はじめに」の表題に掲げてあるくらいなのだから、これが<確信犯>であることは言うまでもないのだが、

理論の美しさを優先し、正しさの実証には興味がなかった、ピタゴラスなど古代ギリシアの哲人たちは、科学者というより「詩人」だった。

自然にはまず目的があり、そのために物理法則があると考えていた、アリストテレスの「物理学」の愚かさに較べれば、

構築したモデルの予想を、観測結果となんとか一致させようと格闘した、プトレマイオスの天動説の方が、たとえ間違っていたとしても「科学的」だ。

新しい「科学的方法論」を打ち立てたとされる、ベーコンとデカルトは過大評価を受けている。ベーコンには実効性がなく、デカルトには間違いが多すぎる。

などなどの、ノーベル物理学賞受賞者の口から出たとは思えないような、容赦のない軍配さばきには、

「なぜ科学者は歴史を書くべきではないか」(ハーバード大科学史教授 S・シェイビン)といった批判が相次ぎ、

欧米では科学者、歴史学者、哲学者をも巻き込む、大論争にまで発展することになった、

これは<いわくつき>の本なのである。

しかし、新しい理論というものは、それ以前に成功していたいろいろな説を、改善して組み入れていくだけでなく、

そうすることで初めて、以前の説がうまく機能する場合は、なぜそれがうまくいくのかまで説明できることになる。

つまり、「科学」というものは、そういう意味で<累積的な営み>なのであれば、

<科学革命>はどのようにして起こり、「科学」はどのようにして現在のようなものになったのか。

という、本書のテーマ『科学の発見』を探求しようとする著者にとって、

<現代の基準で過去に裁定を下すという、現代の歴史家が最も注意深く避けてきた危険地帯に足を踏む入れる>

ことは、どうしても避けることのできない道程であったのだと言わねばなるまい。

古代や中世の科学者たちには、こうした認識は無縁だった。これらはすべて、16〜17世紀の科学革命の時代に多大の労苦の末に獲得されたものである。現代科学のようなものが最初から目標としていたわけでは、まったくなかった。

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『地図マニア  空想の旅』

(今尾恵介 集英社インターナショナル)

私は新千歳空港からの小型機で、択捉(イトゥルプ)島のまん中にある天寧(てんねい)プレヴェストニク空港に到着した。少し岬状になった平坦地で、着陸する時には単冠(ひとかっぷ)湾がきれいな弧を描いているのが見えた。空港は第三セクターの田舎の小駅を連想するささやかなもので、その玄関先には、細長い島内の端から端を結ぶバスが待っていた、一日わずか二本の便が、飛行機の時間に合わせてこの空港に立ち寄るのである。

<唐突ではあるが、日ロ間で択捉島に関する問題が解決した>

というのだから、これはもちろん、2038年夏の択捉を舞台に設定した、フィクションなのではある。

手元にあるのは、大正末期に測量刊行された五万分の一地形図の、右書きの文字を左書きに直した程度の復刻版(平成3年刊行)に、

平成2年に観測された衛星写真の情報(道路、建物、飛行場、大規模な地形・植生の変化など)を加刷して、平成4年に再発行された地形図のみ。

しかし、それを携えて、颯爽と2038年の択捉島へと向かったのが、

植生記号で土地の利用状況がわかり、かつ等高線で起伏が明らかにされることで、その土地の景色が手に取るように見えてくる、などなど、

「地形図は景色が見える地図です」と機会あるごとに触れ回っている、筋金入りの『地図マニア』なのであれば、

これは、ほとんど<見てきたような嘘>とでもいうべき、まことに魅惑的な旅の記録なのだった。

昭和10年、淀橋浄水場最寄の乗客もまばらな新宿駅を出発し、

農村風景広がる武蔵野・三鷹・八王子を抜けて、今は相模湖の湖底に沈む相州与瀬へと至る、

「中央本線425列車の旅」

明治10年、芦や蒲の穂が揺れる、埋めた外堀の名残も色濃い赤坂見附から、「赤坂アークヒルズ」(もちろん、存在しない)まで、

起伏が残してくれた、城下町特有の曲がりくねった旧道を、上り下りしながら、歴史の香りを満喫する、

「明治の赤坂 ひと目でわかる旧道」

平成9年、ナイアガラフォールズ駅から、ほとんどは南にある滝へ向かう観光客の群れを尻目に、レンタサイクルで西へ向かう。

発電に最適の滝の落差を利用するため、滝の手前でひそかに取水し、観光ポイントが終わった下流部で一気に落とす、運河を追いかけた、

「カナダ 滝へ行かないナイアガラ紀行」

過去へ未来へ、そして海外へと、時空を自在に飛び越えて、「あたかも行ってきたかのように」語られる、薀蓄溢れる妄想の旅。

いくら「ストリートビュー」をググってみたところで、これほどの醍醐味を味わうことはできはしない。

思えば18世紀ごろから、欧州を中心に地形図は世の中の発展とともに描写能力を進化させてきた。限られたスペースにさまざまな情報をわかりやすく詰め込む技術は高いレベルに達しており、自然のみならず人文的側面も含めたその土地の広義の「風景」が読めるようになっている。これを眺めないのは実にもったいないことではないか。外国でも過去でもいいから「図に描かれた土地の風景」が見える地図が、今後も健在であることを祈らずにはいられない。

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『「ろう文化」案内』

(Cパッデン Tハンフリーズ 晶文社)

<ろう者>について書く伝統的な方法は、彼らの置かれている状況――耳が聞こえないということ――に焦点をあて、そうした事実から出てくる生活上のさまざまな側面を説明するというものであった。本書の目標は、<ろう者>について新しい、これまでとは違った方法で書くことである。

<ろう者>を、耳が聞こえないことを手話を使うことで補っている、「障害をもつ可哀そうな人たちだ」として取り扱うのではなく、

彼らが生きている生活、アートや演劇、毎日のおしゃべり、共有する神話、互いに教えあっている教訓など、

耳が聞こえないという身体的条件ばかりを見ようとしてきた世間の、彼らに対する関心の持ち方のせいで、見えにくくしてきた、

<ろう者>の生活のもっと面白いさまざまな側面を、内側から描き出してみせること。

これは、<ろう>の家庭に生まれ、生まれつき耳が聞こえなかったキャロル(アメリカで最初に言語学博士号を取得したろうの女性)と、

幼児期に聴力を失い、<ろう>の大学に入るまで、他の<ろう者>に会ったことがなかったトム(比較文化と言語取得の博士号を持つ)という、

対照的な経歴を持つパートナー(夫婦ともに、カリフォルニア大在職)の手になる、「手話を (使えるようにではなく) 知る」ための教科書なのである。

「私は学校に入って初めて自分がろうであることを知ったんです」

と、<ろう>の家庭で育ったハワードが、大勢の聴者の観客の前で打ち明けたからといって、それは決して彼らが勝手に解釈しようとしたような、

自分の聴力に限界があることを6歳のときに初めて知ったんだな、なんて意味とはまったく別のことだった。

ハワードのような子どもは「ろう DEAF」という手話を「ぼくたち」という意味で使っているのだが、

学校の教師たちは、「ろう DEAF」という手話を「彼ら」という意味で使っているようだった。

ハワードは6歳のときに、初めて出合った「聴者 OTHERS」の存在を通して、「自分がろうである」ということの意味を知ったのである。

「私は6歳の時まで自分が聴者とは知りませんでした」

<ろう>の家族に末っ子として生まれたジョーは、自分が両親や兄姉たちと違っているのだとは、夢にも思っていなかった。

ジョーはもちろん音があることに気付いていたが、家族の誰もそれに反応しないのなら、それは目の前の出来事とは関係ないものにすぎなかったのだ。

今回のリオ・パラリンピックを、手話ニュースで紹介しているのを見ている時に、ふと思った。

身体障害や視覚障害、知的障害の競技はあるのに、どうして聴覚障害の種目は含まれていないのだろうか?
(デフリンピックというのが別にあるのである。)

身体障害がよく言われているように「個性」であるとするのならば、聴覚障害はむしろ「文化」である、

というところに、そのあたりの秘密が隠されているのではないかと感じた次第である。

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『本人遺産』

(南伸坊 文藝春秋)

キックのポイントは、ボールの芯を捉えることです。芯を捉えないまま、いくら強く蹴ってもボールは遠くへ飛んでいってくれません。(中略)よくある質問で「蹴るとき何を考えてるのか?」ってあるんですが、何も考えてませんね。ルーティーンをするだけ。

とおっしゃっているのは、もちろんあのお方で、その語り口はいつも通りのような気はするのだけれど、

あれ?

しばらく見かけないうちに、何だか見た目に微妙なひっかかりがあるのは、

移籍した豪州で干されているうちに、顔の緊張感が緩んでしまったとでもいうことなのだろうか?

というわけで、これはあの奇才・南伸坊お得意の、無謀な「本人模写」への挑戦の記録なのだが、

本人と見分けのつかない「清原和博」を筆頭に、「大江健三郎」、「タモリ」、「長嶋茂雄」、

そして、意外に似ている「木村拓哉」あたりまでは、余裕だったのかもしれないが、

「ベッキー」(おまけの「川谷絵音」)、「能年玲奈」、「小保方晴子」、調子に乗ってなんと「壇蜜」まで、

今回は、その無謀度の過激さに歯止めがかからなくなってしまったかのようで、

若いアスリートは正直で、嘘はつけないということなのだろう、

ボクがやっと言えるようになったのが「勝てない相手はもういない」でした。(中略)「似ない他人はいない!」って、信念じゃないですか?

と応える「錦織圭」には、

「ところで、これ、ボクの顔ですよね?全然、まるっきり似てないですね。」と、キッパリ駄目を出されてしまうし、

金メダルもらって、ちょっと油断してたのかなあ。演技終わった直後だったらゼッタイ、こういう顔してないと思います。こんな、魔物が前面に出てきますもんね。すごーい。

と反省する「羽生結弦」は、

「わっ!えええーっ!?この写真・・・ちょっ・・・ショックですね。これ、ボク、ですよね?信じらんなーい。」と、まことに正直なのだった。

そんなわけで、『本人の人々』(マガジンハウス)の破壊力に比べると、いささかその斬れ味が鈍ってきているような気がしないわけではないが、

少し「本を斜めに」してみるコツさえ掴むことができるなら、伸坊さんのこの妙技も、まだまだ充分満喫できるというもなのではある。

まったく、95歳だなんて、あたくしもこれほど長命するとは思っておりませんでしたが、それもこれも42の時に女優を辞めて、世間に顔を出さなかったこと、のためでしょうとは思います。

「いろんなことがございましたけれども、この今回の<写真移り>(笑)。これが、最強のビックリでございます。」(原節子 談)

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『幻の特装本』

(Jダニング ハヤカワ・ミステリ文庫)

五つの都市でそれぞれの捜査班が手がかりを追いはじめたが、収穫はなかった。事実をふるいにかけ、噂を追跡し、何週間かたつうちに、最初は糸口の見えていた捜査もひとつひとつ大きな壁に突き当たり、ついに身動きが取れなくなった。地理的な条件と、警察が使うそっけないテレタイプの文面にはばまれ、それぞれの事件に隠されていた共通事項は埋もれたままに終わった。

月曜日 セントルイス 奇人で知られた富豪男性が1人
水曜日 フェニックス 動機不明の無差別殺人で3人
金曜日 ボルティモア 似たような手口で男が1人
日曜日 アイダホ 夕食中の牧場主とその妻の2人
9日目 ニューオリンズ 独り住まいの老女が1人

ボルティモアの被害者の盲目の妻が唯一生き残ったことと、ニューオリンズの殺人では現場が放火されていたことが、若干の相違点だったが、

まだコンピューターが広範囲に利用される時代ではなかった当時(1970年代半ば)、

テレタイプで詳しい手配書を送ることはできたとはいえ、遠く離れた街は孤立したままだった。

もちろん、殺人事件がデータ化されて、凶器や法医学的特徴や、殺人者のプロファイル別に分類されるなんてことも、あろうはずがなかったのだから、

普通の辞書には連続殺人者(シリアル・キラー)という言葉さえ載っていなかったのである。

当時、気がついた者はいなかったが、殺人事件の起こった家にはそれぞれ古書の収集家が一人ずつ住んでいたのだ。

<そんな縁で、私は二十年以上もたってからその事件に巻き込まれた。>

というわけで、これは異色の古書店探偵が活躍する、クリフ・ジェーンウェイのシリーズ物、

『死の蔵書』、『幻の特装本』、『失われし書庫』三部作の第二作にあたる作品なのだから、

冒頭にご紹介した筋書きは、実はわずか3ページの前書きのようなもので、

600ページ近い本編のほうは、エドガー・アラン・ポー の『大鴉』の、存在するはずのない稀覯本を巡って、

繰り広げられる様々な関係者の思惑と、複雑に絡み合った人間関係の縺れを解きほぐしながら、

『幻の特装本』に秘められた、製作者の謎の真相に迫っていくことになることは、お約束どおりというものだが。

この錯綜した物語もようやく最終盤になったところで、結局あの20年前の連続殺人事件にすべての謎を解く鍵があったことに気付くことになるのは、

私たち読者だけではなく、クリフもまた同じ立場だっのである。

え?ネタバレだって?
いいじゃん、もう20年も経ってるんだから。

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『戦争の社会学』―はじめての軍事・戦争入門―

(橋爪大三郎 光文社新書)

戦争を通じて、平和を考える。戦争を理解して、平和を実現する能力を高める。戦争も軍も、社会現象である。社会現象であるからには、法則性がある。戦争の法則性を理解して、リアリズムにもとづいて平和を構想する。これが、軍事社会学(military sociology)である。

<戦後の日本は、軍のことも、戦争のことも、考えないことにした。>

しかし、「平和」とは「戦争がない」ことなのであれば、平和を求めようとするのなら、戦争について知らなくてはならない。

戦争とはどのようなことか、戦争はどのようにして起こるのか、ということがわからなくては、平和を実現することなどできはしないのだ。

日本には「軍」がないのだから、戦争のことは考えない。軍がなければ、戦争にはならない。世界中から軍隊がなくなれば、平和になるだろう――

<これは、思考停止ではないだろうか。>

というわけで、戦争の起こりや、軍の組織、武器、戦術の発達など、古代の戦争について考えるところから始まって、

西欧では騎士階級、日本では武士階級が生まれた、中世の戦争。

それ以降の戦争のあり方を大きく変えた火薬の発明と、銃と大砲への実用化。

国際法の父と呼ばれ、戦争についてもすぐれた考察を残し今日までの規範となった、グロチウスの「戦時国際法」。

近代的な戦争の標準理論であるクラウゼウィッツの「戦争論」と、海軍はアメリカのマハン、陸軍はドイツのモルトケの戦略理論。

未曾有の惨禍をもたらした、第一次と、第二次世界大戦の考察と、日本人の戦争はどこが世界と共通で、どこが日本独特なのか、日本軍の失敗の本質から学ぶ教訓。

そして最後は、これまでの軍事常識が通用しなくなった、対テロ戦争など戦争の未来の予測まで。

戦争を通してみた世界史を縦横無尽に語り尽くしてみせたこの本は、

戦争と共に歩んできたといっても過言ではないことがあからさまに示された人類の、その末裔であるわたしたちが、

それを社会のなかのノーマルな出来事として見つめ直し誰の耳にも届く普遍的な言葉で語り合うことで、

戦争を克服し、平和に生きる希望を持つための知識ともいうべき『戦争の社会学』を身につけようという提言なのである。

戦後の日本は、これを怠ってきた。だからこの本は、戦争からずっと目を背けてきた、でもそれをどこかでマズイと直感している、多くの日本人のためにまず、書かれている。そして同時に、この世界を守るための最後の手段として戦争を辞さないが、しかし戦争を防ぐためにあらゆる努力を惜しまない世界のすべての人びとのためにも、書かれている。

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『学校が教えないほんとうの政治の話』

(斎藤美奈子 ちくまプリマー新書)

選挙とは、端的にいえば「ひいきのチーム」や「ひいきの候補者」に一票を投じる行為です。「ひいきの候補者」とは、いま風にいえば「推しメン(推薦したいメンバー)」かな。しかし、あなたには「ひいきのチーム」がなく「推しメン」もいない。そんなあなたに選挙に関心をもてといっても、どだい無理な話でしょう。

<若者が選挙に行かない。>

と言って嘆く大人には、「じゃあ、あなたはなぜAKB48のシングル選抜総選挙に参加しないのか」と聞いてみればよい。

AKB48に関心がなければ、(暇人注:いい年をした大人の方が、意外にはまっていたりする場合も結構多いらしいので、ご注意ください。)

メンバーの顔が並ぶホームページを見ても、どれが誰かも区別がつかず、「何がおもしろいんだ?」と首をかしげるばかりだろう、というのである。

<なぜ、あなたには「ひいきのチーム」がないのか?>

それは、文科省が定めた「学習指導要領」において、「党派的政治教育」を行うことが禁じられてきたからだ。

小学6年生と中学3年生の社会科(公民)で、「民主主義とは何か」とか、「政党政治と選挙のしくみ」について学ぶことはあったとしても、

「ひいきのチームをもちなさい」なんて、学校の先生には口が裂けても言うことはできないことになっているのである。

<では、学校を卒業した後はどうか?>

「政治的であること」を全体に嫌うこの国においては、片方で政治に関心を持てと言っておきながら、

もう片方では政治的な意見を述べた人を社会的に抹殺する(「仕事を干される」)という隠れたオキテがある。

だから、「中立公正」をモットーとするマスメディアは言うまでもなく、学校でも、職場でも、大人たちは政治的な意見を表明しようとしないのだ。

<これでは「リアルな政治」など学べるわけがない!>

というわけでこの本は、選挙権年齢の引き下げというタイミングに合わせ、18〜25歳くらいの若い読者を想定して、

世の中にはどんな政治的ポジションがあって、自分はどこに近いのか、という自らの政治的な立ち位置を知ることで、

あなたにとっての「ホーム」はどこで、「アウェイ」はどこかという、政治参加のための自分なりの「地図」づくりのお手伝いをして差し上げましょうという本なのである。

二つの立場:体制派と反体制派
二つの階級:資本家と労働者
二つの思想:右翼と左翼
二つの主体:国家と個人
二つの陣営:保守とリベラル

<さて、あなたはどちら?>
――先にいっておきますが、政治的な立場に「中立」はありえません。

どっちでもない?あ、そうですか。そんなあなたは「ゆる体制派」「ぷち体制派」「かくれ体制派」です。どっちでもない、つまり政治に無関心で、特にこれといった意見がない人は、消極支持とみなされて自動的に「体制派」に分類されます。

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