暇人肥満児の付録炸裂袋

「ふろくぶろぅくぶくろ」は、「徒然読書日記」のご紹介を中心に、周辺の話題、新聞・雑誌の時評等、気分の趣くままにブレークします。

『昭和芸人 七人の最期』

(笹山敬輔 文春文庫)

お笑い芸人は、他の芸能に比べて、晩年を穏やかに生きることが難しい。歌手は、ヒット曲が出なくなっても、歌が下手になったとは言われない。また、俳優は、主役を演じることがなくなっても、脇役として渋い演技を見せる道がある。彼らは、昔より人気を失っているかもしれないが、歌唱力や演技力への評価は保たれたままだ。だから、プライドを保ちながら、晩年の仕事をこなしていくことが可能となる。だが・・・

<笑わせることができなくなった芸人には、逃げ道がない>

人並み外れた身軽さと敏捷さを前提に、最新流行のジャズ・ソングを取り入れた「新しい喜劇」を創出し、全身を駆使して「スピード」の時代を体現してみせた、

榎本健一(エノケン)の躓きは、脱疽が悪化して片足を失うことに始まるのだが、

それはむしろ、自らが時代遅れになってしまったことを自覚する機会を奪うものでもあった。

「声帯模写」という革新的な芸を引っ提げて、30歳過ぎての遅咲きのデビューで、下積みを経験することなくブレイクを果たした、

(まるでタモリのような)古川ロッパの人気が、頂点から一気に落下していったのは、

ストリップの隆盛に押されたように見えて、実は本場アメリカの映画公開が解禁されたことによるものだった。

「ボケ」のエンタツ38歳、「ツッコミ」のアチャコ37歳、スーツを着たサラリーマンが、混んだ電車の中でする立ち話みたいなもので、爆笑を誘った。

近代漫才の歴史を創った天才漫才コンビ、横山エンタツと花菱アチャコが、コンビを組んで活動していた期間はわずかに4年4ヶ月でしかなかった。

明らかに主導的立場にありながら、一方的にコンビを解消した横山エンタツは、

自らの才能を開花させていったアチャコとは対照的に、その後の40年を「あいつはトクしよった」という劣等感のうちに生きることになった。

バイオリン片手の「のんき節」での人気を背に、「タレント議員」の第一号となり、落選と同時に芸人としての生命も失った、石田一松。

戦時下の浅草で「喜劇王」の名をほしいままにしながら、浅草以外の場所ではついに輝けず、戦後は衰退に向かう浅草にさえ見離されてしまった、清水金一(シミキン)。

そのスタート時から娯楽番組を放送してきた、日本のテレビの中で最初に活躍した芸人であったがために、エノケン、ロッパと並び称されながら、語られることの少ない「喜劇王」となってしまった、柳家金語楼。

派手な眼鏡にタキシード、ソロバンを弾きながら、怪しげな「トニングリッシュ」を連呼する、戦後敗者として対峙することになった日系二世への、日本国民の複雑な感情を戯画化してみせた、トニー谷。

華やかな絶頂期に登りつめた後、次第に人気が凋落していった七人のお笑い芸人たちの、晩年の物語。

もちろん、その後の生き方は様々だが、ハッピーリタイアできた芸人は、一人もいなかった。

喜劇人は同情されたらおしまいだって話があったけど、その通りだと思います。それだけに、いつまでやったらいいかが難しいんですよ。(中略)私の理想はフェードアウト。引退します、なんて発表しない。『最近出ないね、あの人』『ああ、なんか辞めたみたいだよ』っていうのが一番いいね。(伊東四朗・特別インタビュー)

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『奇妙な菌類』―ミクロ世界の生存戦略―

(白水貴 NHK出版新書)

「バイキン」は漢字で「黴菌」と書く。「黴」はカビ、「菌」はキノコのことで、ともに立派な菌類である。そういう意味では間違っていないのだが、一般に「バイキン」は細菌やウイルスも含めた有害な微生物全般を指す言葉として使われているように思う。
これら感染症や食中毒などを引き起こす微生物の悪印象が、おそらく菌類に対するマイナスイメージにもつながっているのではないだろうか。菌類が湿ってじめじめとした場所を好むことも、そうした連想を強化しているのかもしれない。


<菌類は多くの人々に誤解されている>

人びとはその魅力に気付いていないだけで、じつはとても面白い生物であるにもかかわらず、

「バイキン」と呼ばれ蔑まれている菌類を、常々不憫に思ってきたという気鋭の菌類研究者が、

ならば、<スター性のある菌類>を紹介することで、世間一般に抱かれているマイナスイメージを払拭してみせようではないか、

というこの本は、

目に見えない微生物のことなど、本当はどうでもいいんですけど?と思っている(であろう)、多くの人びとには、甚だお節介なことながら、

無類の「菌類好き」にとっては、堪えられない話題と写真満載の、驚異のミクロ世界へのご招待なのである。

問題は、そんな「物好き」が、日本にどのくらい生息しているのか、ということになるわけだが・・・

宿主である草本植物に寄生し、本来の花とは似ても似つかない「疑似花」を咲かせて、誤認して訪花してきた昆虫に花粉の代わりに付着して授受精してしまう、

植物病原菌として知られる「さび菌」、プクシニア・モノイカ。

一本一本は細くとも、束になることで強靭な繊維状構造を形成した菌糸束を土中に伸ばし、樹木の根から根へと感染を広げ、ついに世界最大の生物(面積は東京ドームの200倍)となってしまった、

推定年齢8000歳以上の巨大な「キノコ」、オニナラタケ。

寄生したアリをまるでゾンビのように操り、自らの生長に適した場所まで導いて死を迎えさせ、死体内部を菌糸で満たし、やがてアリの頭のつけ根からキノコの柄を伸ばし始める、

小さな「乗っ取り屋」の昆虫寄生菌、オフィオコルディセプス・ユニラテラリス。

体長1ミリほどのセンチュウが近くにいることを感知すると、獲物がかかると絞まるリング型の罠を仕掛けて、身動きが取れなくなったセンチュウの体内に菌糸を侵入させる、

土壌中に生息する「狩人」のような子嚢菌、オルビリア類。

ちっぽけな菌類たちは、動物や植物、他の微生物との様々な相互関係の中で、懸命にその生をつないできた。

その巧みな生存戦略が、多種多様な色や形や匂いや、その生き様の中に、鮮やかに読み取れるのだとしたら、

あなただって、「物好き」の仲間入りをしてみたいとは思わないだろうか?

意外に思われるかも知れないが、菌類は植物よりも、ずっと我々人類を含む動物に近い生き物だということが近年わかってきた。菌類は植物と違って、自力で養分をつくりだすことができない。我々と同様、栄養を他の生物に頼って生きている儚い生き物なのだ。

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『謎の毒親』

(姫野カオルコ 新潮社)

拝啓、『城北新報』「打ち明けてみませんか」御担当者様。
「打ち明けてみませんか」欄に出すにはそぐわないかもしれませんが、ままよとPCの電源を入れました。
悩みというよりは、謎です。
両親と私の三人で暮らした家で、へんな出来事にたびたび遭遇しました。
ずっと謎で、今でも謎です。ただし、どれも瑣末なことです。ちっぽけ過ぎて、どれからどうお話しすればよいのかわかりません。・・・


<実は私には子供のころからずっと、どなたかに解いてほしい謎があるのです>

しかし、誰かに打ち明けようにも、内容が家庭での出来事であるため、両親を実際に知る人に話すには憚りがあり、

ならば、面識の全くない相手に訊くのが適切かと思えば、こんどはどう説明すればよいのかわからないまま、

結局、長患いの末に父親、母親の順に他界していった二十余年のあいだは、過去をふりかえることを自らに禁じ、病人への対処だけを考えるようにしてきたのだった。

そんな「ヒカルちゃん」が、壁新聞のようなタウンペーパーの悩み相談のコーナーに、この謎を投書してみようと思い立ったのは、

母親の一周忌のあった週末に、大学生の頃に下宿していた家の近くの文容堂書店を、懐かしさのあまりたまたま訪れたからだった。

もちろん、『城北新報』などもう遠の昔に無くなってしまっていたのだから、それは「回答」など期待しない、あくまで一方通行のものとなるはずだったのだが・・・

小学校最後の運動会の100m走で、初めて一等賞をとったと誇らしげに報告した娘に、

「よほど足の遅い者たちと走ったに違いない。くだらない」と見下げたように低い笑いを吐きつけた父。

「うるさい、あなたの走ったことなどにかまっていられるか」と、大っ嫌いな料理に没頭するあまり、怒鳴り散らした母。

<私の両親は「厳しい」でしょうか?・・・私が自分の家を語るときに、多くの人が、躓かずに諒解する、ひとことの形容をお教えください。>という問いに、

「何でもぜんぶ、悪いほうへ悪いほうへ持って行くことだけに労力を使ってしまう親」とか・・・「鬼を入れて福を締め出す親」とか・・・という答え。

つまりこれは、一見は問題のない立派な親なのに、子供には毒作用になる言動をしてしまう親と、

そんな「毒親」から吹き掛けられた毒を、今さらながらの親身な回答に支えられながら、少しずつ癒されていくことになる私の、

耳を疑うような数々のエピソードが、どうやら「実話」に基づいているらしいということのようなのである。

「おまえの頭からはしびとの臭いがする」と、そばを通るたびに、鼻をつまむ父。

「あんた、これ、乳ガンよ。小児乳がんだわ」と、乳房を触って、眉根を寄せる母。

え、そんな親など、この世にいるはずがない?

いや、私には、<自分も「毒親」であった>という確信がある。

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『漢字と日本語』

(高島俊男 講談社現代新書)

ふつうの人は、「雨って何?」と言われたら「そりゃあ、雨は雨だよ」と言うでしょうね。それで正解である。「ほら、時々あるだろ?空の上から水が落ちてくること」なんて言わないと思う。第一「雨って何?」と言う人がいない。

「言われてみれば国語辞典っていうのは奇妙なものだな」

と、『辞書の仕事』(増井元 岩波新書)を読んで、日本語を日本語で説明することの奇妙さに、今さらながら気付かされたからとはいえ、

いろいろな辞書を、片っぱしから引いてみないと気が済まないところが、高島さんの高島さんたる由縁なのである。

『広辞苑』では、
「雨」は「大気中の水蒸気が高所で凝結し、水滴となって地上に落ちるもの。」

『言海』(日本最初の国語辞典)では、
「雨」は「雲ノ、冷エテ水トナリテ、滴リ降ルモノ。」

英語の辞書では、
「rain」は「water that falls in small drops from clouds in tha sky.」

中国語の辞書では、
「雨」は「從雲層中降向地面的水。」

と、どれも「雨(rain)」を知らない人が「おおこれでわかったぞ」と膝を叩くとは思えないものばかりだというのだ。

この説明を聞いてわかるような人なら、その前に「雨(rain)」を知っているはずだ。

いっそ、『説文字解』(後漢時代の漢字辞書)のほうが、
「雨」は「水從雲下也。」と、簡潔的確でとてもいい。

ふつうの人がふつうに使っていることばを、その語を用いないで、その言語で説明するのはむずかしい。しかも誰の役に立つのかわからない。何語であれ事情は同じである。

という「やさしいことばはむずかしい」など、講談社のPR誌『本』に連載された「漢字雑談」が36話。

それほど大したお話ではないけれど、何となく聞いて得したような気にさせてくれるのも、いつもの高島さんのお約束なのである。

わたしは文を書いている時、一般のかたが聞いたらあきれるだろうような些細なことで迷い、悩む。ことがらはいろいろである。
今回は何度も出てくる「はじまる」をどう書くかでさんざん迷い、書きなおしたり消したりまた書きなおしたりをくりかえした。
わたしは、漢字一字を訓よみして用いる日本語の動詞は、活用語尾を送ることにしている。(以下略)
(なが〜い『あとがき』より)


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『雇用身分社会』

(森岡孝二 岩波新書) 

日本では、ここ30年ほど、経済界も政府も「雇用形態の多様化」を進めてきた。(中略)そして、あたかも企業内の雇用の階層構造を社会全体に押し広げたかのように、働く人々が総合職正社員、一般職正社員、限定正社員、嘱託社員、契約社員、パート・アルバイト、派遣労働者のいずれかの身分に引き裂かれた。

<『雇用身分社会』が出現したのである。>

「社員食堂利用不可」などと明らさまな差別を受けながら、こんな差別は許せないという意識と、待遇に差別があっても仕方がないという意識が混在しているのではないかと思われるほど、

辛い立場に置かれている「派遣労働者」

昇給も賞与もなく、雇用調整の容易な低賃金労働者であるにもかかわらず、基幹労働力として以前にもましてハードワークを強いられるようになり、

過労とストレスで退職に追い込まれる「パートタイム労働者」

「代わりはいくらでもいる」とパワハラ、長時間労働、残業代未払いなどの、労働基準法無視の過重労働を押し付けられた若者たちが、

次々と使い潰されてしまう「ブラックバイト」

ここにあるのは単なる雇用・就業形態の違いではない。それぞれの雇用・就業形態のあいだには雇用の安定性の有無、給与所得の大小、労働条件の優劣、法的保護の強弱、社会的地位(ないし評価)の高低、などにおいて身分的差別とも言える深刻な格差が存在する。

そして、「雇用改革」を成長戦略の重要な柱に位置付け、労働者保護の立場をまるで放棄したかのような政府の手により、「改正」された労働法の下で、

パートや派遣による代替えの風圧を浴びることになった「正社員」たちは、

時間に縛られて「奴隷」的に働くか、酷使されたあげくに追い出されて労働市場を漂流するか、の選択を迫られることになってしまった。

<こんな働き方であっていいのだろうか?>

ここ30年の現代日本の労働社会の深部の変化を、経済的、政治的、歴史的に概観し直してみることで、

多様な雇用身分に引き裂かれてしまった『雇用身分社会』の現況を明らかにしてみせた著者は、

・労働者派遣制度を抜本的に見直す
・非正規労働者の比率を引き下げる
・雇用・労働の規制緩和と決別する
・最低賃金を引き上げる
・8時間労働制を確立する
・性別賃金格差を解消する

という極めて真っ当な考え方こそが、「まともな働き方(decent work)」へと抜け出すための鍵になるというのだった。

問題は労働時間だけではない。派遣労働者が酷い扱いを受けているのも、雇用の場で根深い男女差別が残っているのも、パートタイム労働者の時給が著しく低いのも、日本の労働社会が雇用身分社会になったのも、日本が「世界で一番企業が活躍しやすい国」であり続けた結果である。

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『植物は〈知性〉をもっている』

―20の感覚で思考する生命システム―
(Sマンクーゾ Aヴィオラ NHK出版) 

生物学では、ほかのどの生物種よりも広い生活圏を獲得している種を「支配的」とみなす。生活圏をめぐる戦いに勝った種こそが、ほかの種よりも優れた環境適応能力をもち、生存競争のなかですべての生物がぶつかる問題をうまく解決する優れた能力をもっているとされるのだ。

地球上の多細胞生物の総重量のうち、人類とすべての動物を合わせてもわずか0.3%にすぎず、99.7%は、じつは植物が占めている。

<植物は、私たちが考えているよりも、はるかに優れた知性をもった生物だ>

そんな植物を、動物に比べて<より低い階段>に置くという私たちの偏見は、私たちが無意識のうちに貼り付けてしまった、2つのレッテルに基づいているのだ。

<動かない>

植物は、動物とは異なる方法で栄養を摂取し、繁殖し、世界に広がっていけるよう進化した。

外敵からの攻撃に対処するため、独立して生存できる部品が集まってできるモジュール構造の体を作り上げた。

<感覚をもたない>

モジュール構造には、個体の生存に必要不可欠といったような、心臓、肺、胃などの個々の器官は存在しない。

それでも、ちゃんと見て、味わって、聞いて、コミュニケーションを行ない、おまけに動くことさえできる。

植物は人間よりもずっと敏感で、人間と非常によく似た視覚、嗅覚、味覚、聴覚、触覚はもちろん、さらに15の<感覚>(重力、磁場など)をもっているのだ。

というわけでこの本は、植物学の世界的第一人者が、私たちの全く知らないところで営まれている、植物の驚異の活動を紹介したものなのだが、

植物たちが独自に築き上げた社会の仕組みを知りさえすれば、植物にも動物と同じように、いやそれ以上に優れた知性があるのだということに、いやでも気付くだろうということなのである。

え? <脳がないなら、知性はないのでは> だって?

<知性>とは「問題を解決する能力」であるとするならば、知性をもっている生物ともっていない生物とのあいだに境界線を引くことなどできない。

AI(人工知能)が、囲碁の世界チャンピオンに勝利する時代に、動物は知的だがほかの生物はそうではないと主張することはあまり意味がない。

「知性は人間にしかない」と言うのなら、植物には「知性」以外の適切な名前がつけられなければならない、ほかの「能力」があるのだ。

ひとつだけ、否定しようのない事実がある。

私たち人間は、植物なしではたちまち絶滅してしまうだろうが、私たちなどいなくたって、植物はなんの問題もなく生きていくことができるのだ。

「植物状態だって?いったいだれに向かっていってるんだ?」

生命の尊厳という人類史に残る偉大な概念を植物にあてはめるのは、むずかしいことのように思えるかもしれない。(中略)けれども、植物が活動的で、環境への適応力をもち、主観的知覚の能力をそなえ、何よりも人間にまったく依存しない独自の生き方をしているのなら、尊厳という概念を植物に与えてもなんの問題もない。それどころか、その資格は充分すぎるほどある。

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『ユダの山羊』

(RBパーカー ハヤカワ・ミステリ文庫)

「どの程度、できるのだ、スペンサー?」
「あなたがなにをやらせるつもりか、によります」
「いわれたことをやるのが、どの程度にできるのだ?」
「中程度ですね。警察勤めが長続きしなかった理由の一つです」
「困難な状況になった場合、頑張り通すことは、どの程度できるのだ」
「十まで測れる秤で、十まで」


一年前、ロンドンのレストランで発生した爆弾テロに巻き込まれ、妻子を失い自らは下半身不随となった、ボストン在住の大富豪、ディクソンからの依頼は、

彼には顔を記憶することしかできなかった、9人のテロリスト(男8人と女1人の若者たち)を捜し出し、捕まえてほしいというものだった。

報酬は、生死に関わらず一人につき2500ドル。
<全員で2万5千。それに、必要経費>

スペンサーがやろうとした<いつもと同じやり方>は、とにかく出かけて行って、かぎまわって、なにかが動き出すか、なにが起きるか、を見てみること。

そのために彼が実際にやった最初の作戦は、<多額の賞金つきの広告>を新聞に出すことだった。

そうすることで、あるいは連中が自分に連絡してくるかもしれない。ひょっとしたら、殺そうとしてくるかもしれないが・・・

なんらかの方法で、なんとしても、相手と接触するきっかけを必要としていたのである。

そして・・・

宿泊するホテルのロビィで<その女>の尾行に気付いた、その日の夜に、待ち伏せしていたテロリストの襲撃を受け、

逆に二人組の殺害には成功しながら、尻(スペンサーの主張では上腿部)を撃たれてしまうことになる、

スペンサーにとって、胸は心持ち大きすぎるが、太ももは一級品の、かなりきれいな<その女>。(すみません。本当はもっといろいろ形容してありますが・・・)

キャシイ(いくつかある偽名のうちの一つ)こそが、この<危険な追跡ゲーム>における『ユダの山羊』だった。

というわけで、ロバート・B・パーカーのスペンサーシリーズ第5話は、

最終的には20数話となる超人気シリーズの中でも、屈指のアクション編として、評価は高いらしいのだが、

奥付けを見るとなんと昭和62年の発行で、こんな本を何で今さら、ということになれば、

イギリスのユーロ脱退と、バングラデシュの爆弾テロに導かれて、本棚の肥やしに思わず手が伸びた、

なんてことではもちろん、ありません。偶然です、偶然。

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『ほんとうの法華経』

(橋爪大三郎 植木雅俊 ちくま新書)

橋爪 法華経は、「最高の経典」と言われます。これはなぜでしょう?
植木 それは、法華経が、人間は誰でも差別なく、一人残らず、成仏できると説いているからです。この教えを、「一仏乗」と言います。「乗」は、人びとを目的地に連れていく乗り物を意味しています。


最澄の天台宗では、釈尊が35歳で覚りを開いてから80歳で亡くなるまでを、5つの時期に区分し、

法華経はその最後の、いちばん大事な時期に説かれた、とっておきの大切な教えなのだとする。

日蓮の日蓮宗は言うまでもなく、法然の浄土宗も、親鸞の浄土真宗も、そんな天台宗から別れたものであるのだし、

禅宗の道元にしたって、どうやら晩年には、法華経に心服していたらしいと聞けば、

日本の仏教の大半が、法華経を最高の経典と考えていることは、否定しようのない事実のようなのである。

しかし、そんな法華経の真髄があまり理解されることもなく、一般信徒は「ナムミョーホーレンゲキョー」と、有り難いお題目を「唱えてさえおればよい」とされてきたのは、

日本に伝わった法華経が、5世紀に鳩摩羅什(くまらじゅう)がサンスクリット語から訳した漢文を読み下したものだったからではないか。

200年近く前、奇跡的に発見された法華経のサンスクリット原本を、鳩摩羅什の漢訳といちいち突合するという、8年にも及ぶ徹底的な読解作業を続け、

ついに2008年に、とてもわかりやすい現代語への翻訳を成し遂げた、仏教思想研究家の植木博士に、

「仏教について知識のない人を代表して質問します」と、わかっている人(橋爪)がわかっていないふりをして、全編にわたって鋭く斬り込んで見せる。

サンスクリット語と漢訳を対照することで、法華経は、そのほんとうの姿を現した。漢訳だけでは解決のつかなかった問題が、明らかになった。その見違えるような世界を、読者は目撃することになるだろう。

たとえば、これまではあまり重視されてこなかったという、『常不軽菩薩品』(第二十)の章。

<不軽菩薩>は自らは聖典を学ぶこともなく、ただ会う人ごとに「私は、あなたがたを軽んじません。」とだけ言い続けたことで、

修行を続ければ如来になれるなどと勝手な予言をすることは「私たちを軽んじることになるのだ。」と人びとを怒らせることになるのだが、

臨終間際になって、天から誰も語っていない法華経の声が聞こえてきて、新たな寿命を得、学びもしなかった法華経の教えを説き始める。

<常不軽>(常に軽んじない)は、鳩摩羅什が採用した漢訳だが、サンスクリットの原文は、否定と肯定、受動と能動が複合された単語となっているので、

<常に軽んじない>(のに、常に軽んじていると思われ、その結果、常に軽んじられることになるが、最終的には常に軽んじられないものとなる)と訳すのが正しく、

この菩薩の人生のストーリーをそのまま表現した、絶妙で天才的なネーミングになっていると植木は言うのだが、

読んでもいない法華経が、臨終間際に天から聞こえてくるのは、誰にも理解されることなく一生を終えようとした不軽菩薩の生き方こそが、法華経の教えに適っていたからで、

この法華経による法華経の<自己否定>の構造の中に、釈尊の考えにとても近い何かがあるのではないかと、橋爪は評価する。

というわけで、これは帯にもある通り、「ブッダ本来の教え」を正確に読み解くための、全く新しい、最高の仏教入門書なのである。

法華経がわかれば、仏教がわかる。法華経を理解することで、釈尊の教えの本質をつかむことができる。

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『家康、江戸を建てる』

(門井慶喜 祥伝社)

「やはり関東の中心といえば小田原じゃな。城の大きさ、街の大きさ、京への近さ、あらゆる点から見てそこしかあるまい。あるいは鎌倉も悪うないかの。いまでこそ無城の地ながら、むかしは幕府の根拠地じゃった。源氏の裔を称する徳川家には打ってつけの地かもしれぬ。城などは築けばよい」

天正18年(1590)夏、小田原征伐の功に報いると称して、北条家の旧領である関八州(相模、武蔵、上野、下野、上総、下総、安房、常陸)を与える見返りに、

現在の所領である、駿河、遠江、三河、甲斐、信濃を差し出させ、その強大な力を弱めようと掛かった深謀遠慮が、

徳川家臣一統の猛反対を押し切ってまで、いともあっさりと引き受けられてしまったことに上機嫌だった秀吉は、

「どこの城へ入るのか」という、他意もない問いかけに対する家康の答えに、その真意を測りかね、あっけに取られることになった。

「武州千代田の地の、江戸城へ居住おうかと・・・」

東と南は海で、沿岸のところどころに藁葺きの民家がかたまっている、寂れた漁師町である。

西は茫々たる萱原で、多少ひらけている北も、みどり色にもりあがった台地にそって7、80軒の農家がぽつぽつ並んでいるにすぎない。

北から何本もの川が流れ込み、雨が降ればほとんど水浸しとなってしまう、低湿地に建つ当時の江戸城は、まるで荒れ寺のような、ただの田舎陣屋だったのだ。

「ここを、わしは大坂にしたい」

と、家康は、途方もないことを言った。家臣たちは、泣き笑いのような顔になった。無限の富があつまり、数十万の市民があつまり、その当然の結果としてあらゆる最新技術や文物があつまった豊臣政権の事実上の首都。世界に冠たる国際都市。そんな大坂をめざすなど、じゃこが鯨をめざすよりも、(あり得ない)

「川そのものを、まげまする。江戸へ流れこむ前に」

江戸城の普請など後回しと、江戸そのものの地ならしを急がせた家康の意を受けて、

湿地対策のためには、利根川の流れを変える必要があると、誰よりも雄大な構想を描き、

親子三代に渡る大工事を、艱難辛苦の上、ついに成し遂げてみせた伊奈忠次。

「銭というのは、商品のほかにもうひとつ、交換し得るものがあるのです」

秀吉の下、天正大判の権利を一手に牛耳っていた後藤家から、その類稀なる鋳造技術を見込んだ家康に引き抜かれ、

その交換価値に着目して、やがては新貨幣・小判により結果として宗家を打ち倒すことになった橋本庄三郎。

さらには、「飲み水を引き」(大久保藤五郎)、「石垣を積み」(石切りの吾平)、「天守を起こす」(大工頭の中井正清)。

これは彼ら5人の曲者たちに、思う存分に力を発揮する場を与えておきながら、舞台の袖から絶妙に手綱を捌いて描き出してみせた、

稀代のプロデューサー家康による、江戸創生という夢のような「街づくり」の物語の顛末なのである。

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『翻訳問答』―英語と日本語行ったり来たり―

(片岡義男 鴻巣友季子 左右社)

It is a truth universally acknowledged, that a single man in possession of a good fortune, must be in want of a wife.
(『PRIDE AND PREJUDICE』 Jane Austen )


<金運に恵まれた独身の男は奥さんを欲しがるはずだとは、世のなかの誰もが認めるところだ。>
(『思い上がって決めつけて』 片岡義男 )

<世間一般にきまりきったことで、男は独り身で財産があるとなれば、さあ、あとは妻を娶らなくては、という話になる。>
(『結婚狂想曲』 鴻巣友季子 )

・二人があげた課題小説の中から編集部が次回の課題と締切を提示する。
・二人には訳す範囲のコピーしか与えられない。
・対談当日まで既訳を参照してはならない。
・おたがいの訳文は対談当日まで見ることは出来ない。

と、チャンドラー、サリンジャー、カポーティ、ポーなどの、すでに定評のある翻訳も出ている<名作>をあえて俎上に乗せて、

簡単なルール設定の下に始められた、この『翻訳問答』という、ある意味で無謀な翻訳家同士の真剣勝負に挑むことになったのは、

「翻訳家は名前が出れば出るほど自分を消せなくなっていくジレンマを抱えています。それでも、もっとも有名な翻訳者ですら、<自分を消したい><透明になりたい>と言うのですね。それならば、たとえば<村上春樹>という名前を変えて翻訳を出してはどうでしょう(笑)。」

と、「透明な翻訳」が読みやすい翻訳であるということの意味を、もう何十年も考え続けているという鴻巣友季子に、

「翻訳の原文忠実度を測る基準として、原文が透けて見えることが求められたのですね。それがいわゆる<翻訳調>という文章の書きかたですか。これから読者に求められるのは、まるで原文で読んでいるような気分にさせてくれる翻訳でしょう。」

と面白がってみせた片岡義男は、自らの小説の文体が<翻訳文体>と評されるのは、小説のために使う自分の日本語を発見しなければならないという努力の結果なのだという。

そんなわけで、冒頭1回戦の課題に選ばれたオースティンの課題のタイトルにしてからがすでに、

『高慢と偏見』が一般的だけれど、少しいま風に『結婚狂想曲』と遊んでみました、という鴻巣に対し、

PR―の頭韻を旧来通り意識して、脚韻に踏ませながら『思い上がって決めつけて』と、画期的にまとめてみせた片岡の、丁々発止は初っ端から炸裂することになるのだが、

『翻訳問答』が、落語の「蒟蒻問答」を意識したものであることは言うまでもないのであれば、これはむしろ、

清冽な早朝の空気を切り裂くかのように交わされていく禅問答を聞くような、鮮やかな読み心地満載の逸品であるというべきなのかもしれない。

1801 -- I have just returned from a visit to my landlord -- the solitary neighbour that I shall be troubled with.
(『WUTHERING HEIGHTS』 Emily Bronte )


<1801年――家主を訪ねて私はいま帰ったばかりだ。この家主は私がこれからかかわり合うただひとりの隣人となる人だ。>
(『嵐が丘』 片岡義男)

<1801年――いましがた、大家に挨拶をして戻ったところだ。今後めんどうなつきあいがあるとすれば、このお方ぐらいだろう。>
(『嵐が丘』 鴻巣友季子 )

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