(遅塚忠躬 岩波ジュニア新書)
フランス革命は、その結果において、ブルジョワだけの利害に適合した社会、つまり、資本主義の発展に適合した社会をもたらしたのです。そのような意味で、フランス革命の基本的性格はブルジョワ革命なのだ、と言ってよいのです。
ただ、そうは言っても、フランス革命は一直線にブルジョワ革命への道を歩んだわけではなく、そのジグザクな進路において、
ルイ16世を筆頭に多数の人々を断頭台に送り込む「恐怖政治」のような徹底的革命路線をも経験することになるのは、いったいなぜなのか。
「フランス革命は、貴族・ブルジョワ・民衆・農民の担う四つの革命の複合体である」
というのが、いまや世界の学説の定説になっている歴史家ルフェーブルの「複合革命説」であるが、
1787年、王権に対する反抗運動を担った貴族たちは、89年以降は、多数の反革命派の保守的貴族と、少数ではあるが有力な自由主義貴族に分裂することになる。
一方、旧体制の徹底的打破を求める民衆と農民たちは、同時に、ブルジョワとの格差を生む資本主義の発展には反対するという立場で一致していた。
その中間に位置することになるブルジョワたちは、
妥協的な改革で革命を終わらせようと考える自由主義貴族たちと同盟する道を選ぶか、
大衆と同盟して、徹底的革命の道を選ぶかという、まことに難しい選択を迫られることになったのである。
89年の大衆の蜂起に対し深刻な危機感を抱いたブルジョワは、当初は大衆と手を切って、妥協的改革路線を取ったのだが、
オーストリアやプロイセンなどの外国勢力と手を結んだ保守的貴族の反革命運動に、後退を余儀なくされることになる。
そこで、実質的に対抗できる力をもたないブルジョワは、大衆と手を結び、徹底的改革路線へと大転換を図ることになった。
92年8月10日、ブルジョワと手を結んだ大衆の蜂起により、王制は倒れフランスは共和国となる。
しかし、資本主義反対運動と表裏一体となった大衆運動の、反資本主義的な要求に譲歩できなかったブルジョワのこの路線も長続きすることはなかった。
1799年11月9日(ブリュメール18日)。
フランス革命はその遺産をナポレオンに引き渡すことになる。
つまり、一旦は「劇薬を飲んだ」ことが、
結局、フランス革命に独特の性格を与え、革命の偉大と悲惨の両面をもたらすことになった、というのである
フランス革命の最大の課題は、ブルジョワと大衆の対立をなんとかカッコの中にくくって、貴族←→(ブルジョワ←→大衆)というかたちをつくることでした。しかし、資本主義にふさわしい社会をつくろうとするブルジョワと、その資本主義をおしとどめようとしている大衆との間の、利害の対立をどう調整したらよいのでしょうか。この、フランス革命の最大の課題をどう解決するか。それをめぐって、革命期に、さまざまな党派が深刻な対立を展開し、ついには諸党派間の殺し合いにまでいたります。その深刻な対立が、劇薬フランス革命の偉大と悲惨の両面を生んだのです。
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フランス革命は、その結果において、ブルジョワだけの利害に適合した社会、つまり、資本主義の発展に適合した社会をもたらしたのです。そのような意味で、フランス革命の基本的性格はブルジョワ革命なのだ、と言ってよいのです。
ただ、そうは言っても、フランス革命は一直線にブルジョワ革命への道を歩んだわけではなく、そのジグザクな進路において、
ルイ16世を筆頭に多数の人々を断頭台に送り込む「恐怖政治」のような徹底的革命路線をも経験することになるのは、いったいなぜなのか。
「フランス革命は、貴族・ブルジョワ・民衆・農民の担う四つの革命の複合体である」
というのが、いまや世界の学説の定説になっている歴史家ルフェーブルの「複合革命説」であるが、
1787年、王権に対する反抗運動を担った貴族たちは、89年以降は、多数の反革命派の保守的貴族と、少数ではあるが有力な自由主義貴族に分裂することになる。
一方、旧体制の徹底的打破を求める民衆と農民たちは、同時に、ブルジョワとの格差を生む資本主義の発展には反対するという立場で一致していた。
その中間に位置することになるブルジョワたちは、
妥協的な改革で革命を終わらせようと考える自由主義貴族たちと同盟する道を選ぶか、
大衆と同盟して、徹底的革命の道を選ぶかという、まことに難しい選択を迫られることになったのである。
89年の大衆の蜂起に対し深刻な危機感を抱いたブルジョワは、当初は大衆と手を切って、妥協的改革路線を取ったのだが、
オーストリアやプロイセンなどの外国勢力と手を結んだ保守的貴族の反革命運動に、後退を余儀なくされることになる。
そこで、実質的に対抗できる力をもたないブルジョワは、大衆と手を結び、徹底的改革路線へと大転換を図ることになった。
92年8月10日、ブルジョワと手を結んだ大衆の蜂起により、王制は倒れフランスは共和国となる。
しかし、資本主義反対運動と表裏一体となった大衆運動の、反資本主義的な要求に譲歩できなかったブルジョワのこの路線も長続きすることはなかった。
1799年11月9日(ブリュメール18日)。
フランス革命はその遺産をナポレオンに引き渡すことになる。
つまり、一旦は「劇薬を飲んだ」ことが、
結局、フランス革命に独特の性格を与え、革命の偉大と悲惨の両面をもたらすことになった、というのである
フランス革命の最大の課題は、ブルジョワと大衆の対立をなんとかカッコの中にくくって、貴族←→(ブルジョワ←→大衆)というかたちをつくることでした。しかし、資本主義にふさわしい社会をつくろうとするブルジョワと、その資本主義をおしとどめようとしている大衆との間の、利害の対立をどう調整したらよいのでしょうか。この、フランス革命の最大の課題をどう解決するか。それをめぐって、革命期に、さまざまな党派が深刻な対立を展開し、ついには諸党派間の殺し合いにまでいたります。その深刻な対立が、劇薬フランス革命の偉大と悲惨の両面を生んだのです。
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