暇人肥満児の付録炸裂袋

「ふろくぶろぅくぶくろ」は、「徒然読書日記」のご紹介を中心に、周辺の話題、新聞・雑誌の時評等、気分の趣くままにブレークします。

『ハンチバック』

(市川沙央 文藝春秋)
  
私は29年前から涅槃に生きている。成長期に育ちきれない筋肉が心肺機能において正常値の酸素飽和度を維持しなくなり、地元中学の教室の窓際で朦朧と意識を失った時からずっと。

<歩道に靴底を引き摺って歩くことをしなくなって、もうすぐ30年になる。>

湾曲したS字の背骨が右肺を押し潰す「先天性ミオパチー」という難病を抱える40代の釈華は、<普通に子どもを宿して中絶がしてみたい>という夢を持っていた。

自分の曲がった身体の中で胎児は上手く育たないだろうし、出産にも耐えられないだろうが、生殖機能に問題はないのだから、たぶん妊娠と中絶までならば・・・

私は(正しい設計図を内蔵していた)あの子たちの背中に追い付きたかった。産むことは出来ずとも、堕ろすところまでは追い付きたかった。

本年度「芥川賞」受賞作品。

自身が障害者である著者の受賞写真を目にしたが、まだ未読であるという方が、冒頭のような紹介から想像するであろう筋書きを、この小説は軽く凌駕してくれる。

どうも、ライターのミキオです。今回は、ハプニングバーの超有名店「×××××」に潜入取材してまいりました。ではさっそくレッツゴー。

とアカウント名 Buddha で男性風俗レポーターとしてコタツ記事を、Shaka では女性向けの官能ライトノベルをテキストアプリに打込むバイトをしているのだが、

(高齢処女重度障碍者の書いた意味のないひらがなが画面の向こうの読者の「蜜壺」をひくつかせて小銭が回るエコシステム。)

そんな「いかがわしい」記事で稼いだ収入は全額、居場所のない少女を保護する子どもシェルターやフードバンクやあしなが育英会に寄付しているのは、

彼女が毎日を過ごすグループホームの土地建物は彼女が所有しており、他にも多くの家賃収入があって、親から相続した億単位の現金資産もあったからだ。

(親が頑張って残した財産は、係累なく死ねば国庫行きとなる。生産性のない障害者が気に入らない人々もそれを知れば留飲を下げてくれるのではないか?)

そんなある日、いつも不愛想な若い男のヘルパーが、彼女が「紗花」の名で下品な妄言を吐き出しているアカウントを、随分前から読んでいたことに気付かされる。

(せむし<ハンチバック>の怪物の呟きが真っ直ぐな背骨を持つ人々の呟きよりねじくれないでいられるわけもないのに。)

「そんなに妊娠したいんですか。ああ、中絶だっけ」
「田中さんだってあるでしょう。どうしても欲しいものとか、したいこととかは」

それなら「1億ほしい」という、165センチの自分より背の低い田中に、「1億5500」で妊娠させてくれるよう依頼する。

「田中さんの身長分です。1センチ100万。あなたの健常な身体に価値を付けます」

というわけで、この先どうなったかという物語の筋は筋として、重度の障害を抱えて生きる著者の稀有な心象の吐露が痛烈である。これは究極の「悪態」小説なのだ。

私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、――5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。

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『11文字の檻』

(青崎有吾 創元推理文庫)

文字だ。ガラス以外の3方向の壁面――清潔感のある白い壁を、数えきれないほどの文字が埋め尽くしている。・・・字の癖や大小のばらけ方からうかがうに、ひとりで書いたものではなかった。何百人もの人間が何年もの間に書き溜めた累積の成果を、縋田は目の当たりにしていた。

公序良俗に反するという理由で、<東土政府>から第二種敵性思想の保持者と認定された、官能小説作家の縋田が収監された更生施設には、奇妙な定めがあった。

時計のある壁面が《解答欄》で、それ以外は《メモ欄》とされた壁と床を、何百人もの収容者たちが1カ月ごとに二人部屋を移動しながら、文字で埋め尽くしていく。

《解答欄》に正しいパスワードを記入すれば出所が認められる。<政府に恒久的な利益をもたらす11文字の日本語>を、必ず1日1個書かねばならないというのだ。

という書下ろし新作『11文字の檻』を締めとして、各誌に収録された本格ミステリ、SF、人気コミックへのトリビュートなどの短篇8編が勢揃いするこの本は、

その論理的な謎解きの展開から「平成のエラリー・クイーン」と呼び名も高い(本人は面白くないようだが)著者のデビュー10周年記念作品集なのである。

JR福知山線脱線事故を題材に、たまたま現場に居合わせた報道カメラマンが、そこで出会った少年が抱える事情を推察する『加速してゆく』。

すべてがガラスでできている見取り図付きの屋敷で起きた密室殺人の謎を、薄気味良悪という名前の破天荒な探偵が鮮やかに解き明かす『噤ヶ森の硝子屋敷』。

いずれも本格ミステリとして、謎解きのロジック捌きに定評ある冴えを見せてくれる。特に後者のほうの、密室トリックは常識の盲点をついて秀逸である。

禿頭の探偵・水雲雲水(もずくうんすい)が、咽頭癌で声帯を失いパソコンでしか会話できない私の嘘をわずか3ページで見破ってしまう『your name』。

何かを始めたその日から、やめる日のことを考えている。「飽きる」ことへの誘惑から、結婚して1年の妻を殺した私の完全犯罪が崩れる顛末を描く『飽くまで』。

どちらも掌編でありながら、犯人である私を主人公にして、論理的な筋書きにメリハリが効いており、最後のどんでん返しも鮮やかだ。

『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』のトリビュート作品(小説による二次創作)だという『前髪は空を向いている』。

CDジャケットなどのイラストレーター(表紙カバー担当)の作風に合わせ、巨大ロボの清掃バイトをする女の子の話を書いた『クレープまでは終わらせない』。

こちらは、暇人にはまるで想像もできない、今どきの少女たちの異質な世界が描かれているわけだが、会話の流れのテンポのよさがその雰囲気を感じさせてくれる。

「この競技にダブルスがあるなら恋澤姉妹がチャンピオンだ」という最強の殺人姉妹を、師匠を殺されたヒロインが追いかけるロードノベル『恋澤姉妹』。

これは、息をも吐かせぬアクション&ノワールの典型にみせながら、実は「百合小説」アンソロジーに収録されたガールズラブに捧げる逸品なのである。

しかし何と言っても『11文字の檻』である。

濁音、拗音まで含め、ひらがな80字。カタカナも80字。常用漢字だけで2136字。シンプルに考えても軽く100億を超える組み合わせの中から、

縋田が様々な試行錯誤を繰り返した末に辿り着いた結論の、そのロジックの見事さを、どうぞ心ゆくまでご堪能いただきたい。

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『言語の本質』―ことばはどう生まれ、進化したか―

(今井むつみ 秋田喜美 中公新書)

(実物を見たことも食べたこともない果物の)「○○」という名前を教えられ、写真を見せられる。すると、その果物の外見はわかり、名前を覚えることができる。「甘酸っぱくておいしい」のような説明が書いてあれば、それも覚えることができる。しかし・・・

<○○のビジュアルイメージを「甘酸っぱくておいしい」という記述とともに記憶したら、○○を知ったことになるだろうか?>

ことばの意味を本当に理解するためには、まるごとの対象について身体的な経験を持たなければならないと、認知科学者スティーブン・ハルナッドは提唱した。

記号を別の記号で表現する(「記号から記号へのメリーゴーランド」)だけでは、いつまで経ってもことばの対象についての理解は得られないというのだ。

この「記号接地問題」は、もともとはAIの問題として考えられたものだったのだが、では・・・ヒトはことばを覚えるのに、身体経験を必要とするのだろうか?

この本は、認知科学者と言語学者がタッグを組んで、子どもの言語習得への考察を切り口に、言語と身体の関わりから『言語の本質』に挑もうとした意欲作なのだ。

<この挑戦の鍵となるのは「オノマトペ」である。>

「オノマトペ」とは、「もぐもぐ」や「ふわふわ」など物事との間の部分的な類似性を頼りに、その感覚イメージを「写し取る」アイコン性を発揮することばである。

たとえば、「サラサラ」よりも「ザラザラ」は荒くて不快な手触りを表すなど、日本語は特に整然とした音象徴の体系を持ち、形式と意味の類似性が認められる。

子どもは「オノマトペ」が大好きだが、それは感覚的でわかりやすいからだけではなく、オノマトペ一つで場面全体を換喩的に表現できるからだ。

「しーん もこ もこもこ にょき もこもこもこ にょきにょき・・・」(谷川俊太郎『もこもこもこ』)

絵本を読んでもらいながら、子どもはそこで多用されるオノマトペによって、単語の意味だけでなく文法的な意味を考える練習もしているのである。

しかし、ここまでの話は子どもの言語習得の最初の入り口にすぎない。ここから子どもは、大人の言語の高い壁をよじ登らなければならない。

オノマトペに潜むアイコン性を検知する知覚能力だけでは、恣意的で抽象的な記号体系としての、言語の巨大な語彙システムに行き着くことは不可能なのだから、

<その道のりを進むには、子どもたちはオノマトペから離れなければならないのだ。>

言語の体系の習得に辿り着くためには、今ある知識がどんどん新しい知識を生み、知識の体系が自己生成的に成長していくサイクルを想定する必要がある。

この「ブートストラッピング・サイクル」と名付けられたシステムを駆動する立役者が、仮説形成により新たな知識を創造するアブダクション推論である。

そして、このブートストラッピング・サイクルが起動されるためには、最初の大事な記号は身体に接地していなければいけないことを忘れてはならないという。

記号接地問題を通して、人間と動物とで推論能力にどのような違いがあるかを考えることは、なぜヒトだけが言語を持つのかという問いへの重要な示唆となるのだ。

人間は、アブダクションという、非論理的で誤りを犯すリスクがある推論をことばの意味の学習を始めるずっと以前からしている。それによって人間は子どもの頃から、そして成人になっても論理的な過ちを犯すことをし続ける。しかし、この推論こそが言語の習得を可能にし、科学の発展を可能にしたのである。

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『SF超入門』―「これから何が起こるのか」を知るための教養―

(冬木糸一 ダイヤモンド社)

この本は、すべての人のためのSF入門書である。・・・なぜSF読者だけでなく「すべての人」のための入門書が必要なのか。それはいま、フィクション、つまり空想。絵空事の世界で起こっていた出来事が、われわれ一人ひとりの人生にも及んでいるからである。

「すでに現実はSF化した」――これは、周りの世界を見ると明らかだ。

というこの本は、ITエンジニアという多忙な日々を送る傍らで、SF書評ブログ「基本読書」を主宰して大勢のファンから絶大なる信頼を得ている書評家が、

「現実との関係からSFを語る」という切り口で重要なキーワードを取り上げ、それぞれの作品がどのようにそれを描き出してきたかを紹介したものだ。

科学読み物として最先端の17のキーワードごとに、小説として時代を超えて読まれるべきベストとして、古典から現代まで網羅的に選出されたのは56作品。

そのそれぞれについて、「どんな作品か」、「どこがスゴいのか」が、キーワードに沿って的確に料理され、味わったことのない未来への食欲をかき立ててくれる。

まだ満腹にならないという人には、フィクションだけでなく、ノンフィクションまで視野を広げた「つながるリスト」というデザートまで用意されているのだ。

そんなわけで是非お手元に置いて、著者が描いた「SF沼の地図」にハマっていただきたいと思う。以下ご参考までに、暇人の現状のハマり具合をご披露しておく。

1<仮想世界・メタバース>
2<人工知能・ロボット>
『息吹』(Tチャン 早川書房)
3<不死・医療>
『紙の動物園』(Kリュウ ハヤカワ文庫)
4<生物工学>
『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ 早川書房)
5<宇宙開発>
6<軌道エレベーター>
7<地震・火山噴火>
8<感染症>
9<気候変動>
『絶滅できない動物たち』(MRオコナー ダイヤモンド社)
10<戦争>
『ブラックライダー』(東山彰良 新潮文庫)『スローターハウス5』(KヴォネガットJr ハヤカワ文庫)『あなたの人生の物語』(Tチャン ハヤカワ文庫)
11<宇宙災害>
12<管理社会・未来の政治>
13<ジェンダー>
14<マインド・アップロード>
『脳の意識 機械の意識』(渡辺正峰 中公新書)
15<時間>
『犬は勘定に入れません』(Cウィリス 早川書房)
16<ファーストコンタクト>
『三体』(劉慈欣 早川書房)
17<地球外生命・宇宙生物学>

一点注意しておきたいのは、SFは未来予測をする道具「ではない」ということだ。・・・むしろSFの一番の魅力は、「フィクション」の部分にある。「こういう未来にいたら、自分だったら、どうする?/どう考えるだろう?」という想像力を、物語の力によって手に入れることができるのだ。

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『小説で読みとく古代史』―神武東遷、大悪の王、最後の女帝まで―

(周防柳 NHK出版新書)

古い時代ほど史料が乏しいので、そのぶん迷うことも多くなります。物証がないなら「仮説」で補うしかありません。その仮説を極限までふくらませ、模糊たる靄の底に沈んでいる風景をリアルに現出させたもの――が、「小説」です。

というわけでこの本は、正統派の大河小説や文芸色の濃い作品から、SF、ミステリー、漫画まで、歴史の問題を強く意識している中編以上ならOKという姿勢で、

2,3世紀の邪馬台国のころから、8世紀の平城京のころまでをテーマにした古代史小説を選び、そこに描かれている「仮説」に学んでみようという試みなのである。

「小説から歴史を探る?それでは方向が逆ではないか?」という問いに、「空想妄想から浮かび上がってくる真実のようなものもきっとあるはず」と答えているのは、

著者自身が『蘇我の娘の古事記』など、日本史に題材をとる作家だからだ。小説は恰好の思考実験の場であり、よきシミュレーション装置だと考えているのだという。

たとえば、1章<邪馬台国は二つあったか>では、『魏志倭人伝』に書かれた倭国の記述から、その位置に「畿内説」と「九州説」の論争があることが詳述された後、

「九州説」からは、北部九州の正統派の女王として君臨した卑弥呼に、通訳として仕えた「あずみの一族」を主人公として描いた、帚木蓬生の『日御子』と、

父は北方の騎馬民族で、母は魏の曹操の娘という尖った設定で、非定住性の遊牧民の女王として卑弥呼を造形した、豊田有恒の『倭の女王・卑弥呼』が、

「畿内説」では、何とあの浅見光彦が邪馬台国の候補地である纒向遺跡で起きた殺人事件の解決に奔走する、内田康夫の『箸墓幻想』が取り上げられたりしている。

これ以外にも、黒岩重吾や高木彬光の「九州説」、さらには鯨統一郎による仰天の「岩手・八幡平説」を紹介した後、自身の考えを披露している。

邪馬台国がどこにあったのかは、じつはすでに判明しているのかもしれません。しかし、現代日本のトップシークレットとしてかたく秘されている、とか。・・・小説としては、このあたりが開拓領域かもしれません。

と概ねこんな感じのノリで、<神武東遷>、<応神天皇と河内王朝>、<継体天皇と蘇我氏>、<天智と天武>、<不比等と女帝たち>の時代の謎が語られていく。

最終章<カリスマ持統の狙いは何か>では、夫・天武を継いだ持統から、元明、元正、孝謙、称徳と8代中5代(4人)が占める「女帝の世紀」が取り上げられる。

亡き夫が実現し得なかった「大宝律令」を完成するため、勢力を盛り返した豪族たちに、巌のような精神力で立ち向かう持統女帝を描いたのは、澤田瞳子の『日輪の賦』。

念願通り孫の文武に譲位した持統女帝が葬ったのは、息子・草壁のライバル大津皇子だけではなかったという、持統の闇を暴いたのは、坂東眞砂子の『朱鳥の陵』。

澤田は折り目正しい歴史小説で女帝の「光」を、坂東はホラー風味の変化球で「影」を描きながら、どちらの人物像にも説得力があるところがおもしろいのだという。

この百年は天武天皇の系統が守られた世紀でした。壬申の乱によって天智天皇の血筋が排除されたのち、兄弟間相続は否定され、持統天皇が中心となって片意地のような直系継承が完遂されていきました。(中略)
しかし、私はその外にももう少し、別の力学が働いていたのではないかと想像するのです。そこに見え隠れしているのは、爪を隠して雌伏していた天智天皇の後裔たちの存在です。


このあたりのことについては、馳星周の『比ぶ者なき』が、藤原不比等の野望も絡め描かれていて、とても分かりやすいのではないかと思う。

また、これは小説ではないが、梅澤恵美子の『天皇家はなぜ続いたのか』も、参考になるかもしれない。

小林惠子の『白虎と青龍』は、参考にはならないだろうが、ぶっ飛んでいて面白い。

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『新版 映画は死んだ』―世界のすべての眺めを夢見て―

(内田樹 松下正己 いなほ書房)

「光は、夜を背後から討つだろう」
画面外からの声が語りかける。映写機の作動する音。海辺の部屋。緩慢に開いていこうとするフレンチ・ウインドウ。窓の外いっぱいに朝焼けの空が広がる。


映像とモノローグと様々な引用によるテクストと音楽の驚異的なコラージュによって、映画そのものを語ろうとした『右側に気を付けろ』などのゴダール作品が、

実は、ヴィデオで観てもあまりにも単調で面白くないのは、彼が希有の「映画」作家であるからだと、映画は常に映画館の暗闇を必要としていることを論じながら、

映画館が衰退し、家庭用ヴィデオデッキによる映画「視聴」が日常のこととなった今こそ、映画館の意味について考えておく必要があるという「映画館」論。

われわれが自明のものとして無視しながらも、実は映画受容体験の基礎を支えていると思われる、映画館という概念とその具体的な構造は、映画の短い歴史の中で、どのように形成され確立していったのだろうか。

といった感じで、さらには映画の感情論、映画の身体論を加えるという、精密な構成で<映画の終焉>を論証しようとする松下正己の「映画論」と、

1979年から1992年にかけて製作され、大きな商業的成功を収めた『エイリアン』シリーズ三連作の中心にあるのは、「体内の蛇」という説話的原型である。

体内に「蛇」の「卵」が入り込み、膨らませた宿主の腹を食い破って寄生主を死に至らしめるというプロセスは、「妊娠と出産」のメタファーであり、

父権制社会の手厚い保護のもとで特権を恣にしているエイリアンに、「自立する女性」が立ち向かい勝利するという、フェミニズムの興隆期に相応しい物語だった。

しかしそれは同時に、フェミニズムの「検閲」によって抑圧された「欲望」のプロテウス的変身の歴程でもあったと説き起こされる「フェミニズム」論。

このような映画のあり方はたしかに「正しく」はない。私たちはそれに同意する。けれども映画は「正しい」思想よりもしばしば「広く」「深い」。私たちはこの「映画の狡知」を愛する。おそらく、そこに「世界の基底」に通じる隘路を見出すからである。

といった感じで、『サイコ』や『ニキータ』から『昭和残侠伝』まで、鮮やかに切り刻む手際の良さで読者を楽しませることを禁欲的に追及する内田樹の「映画論」と。

<松下の論文を続けてふたつ読むといささか厭世的になるし、私の論文を続けてふたつ読むと自堕落な気分になってしまう。>(@内田樹のまえがき)からと、

交互に並べられたそれぞれ4編ずつの論文で、内田は「映画批評」の不可能を論じ、松下は「映画の自死」を予告しているようなのである。

批評が「例外的に知的な少数者のためのもの」という看板を掲げている限り、批評はクライアントに窮しない。「社会に対して冷たいまなざしを向ける」ポーズを忘れなければ、批評は必ずや「ハイ・カルチャー」になる。「好戦的・参加型批評」の実践者たちは、この凡庸で悲痛な事実に対してあまりにも鈍感であるように私には思われる。

<「恥の感覚」「疚しさ」があるいは批評にとっては思いのほか重要なことなのかもしれない。>(内田樹)

もはや映画は光り輝く唯一無比の存在ではなくなってしまった。世紀を超えて映画も映画館の形式も存続してはいくだろうけれども、人々が暗闇の中で自己を投射し、映画内世界と融即を図り、世界を創造し続けてきた映画という概念は、確実に終わりのときを迎えているのだ。

<二十世紀の終焉と共に、映画は死のうとしている。映画万歳。>(松下正己)

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『月と六ペンス』

(Sモーム 新潮文庫)
 
「女ってのは精神が貧困だ。愛、何かというと、愛だ。男が去る理由は心変わりしかない、と決めつける。きみは、わたしを女のためにこんなことをするような馬鹿だと思っているのか?」
「じゃあ、どうして奥さまを捨てたんです?」


「絵を描くためだ」

ロンドンの株式仲買人としてそれなりの成功を収めていた、17年も連れ添ってきた夫人によれば「すごく退屈な男」だ、というストリックランドは、

40歳を迎えて、突然、仕事も家庭もなげうって、パリへと出奔してしまう。夫人も含め周囲の者はみな「女を連れてパリへ駆け落ちした」と勘ぐるのだったが、

懇願されてパリに赴くことになった駆け出し作家の「わたし」は、聞いていたのとは大違いの場末のみすぼらしいホテルに独りで暮らすストリックランドと再会する。

「かりにあなたにまったく才能がないとして、それでもすべてを捨てる価値があるんですか?ほかの仕事なら、多少出来が悪くてもかまわないでしょう。ほどほどにやっていれば、十分楽しく暮らしていけます。だけど、芸術家という職業はちがう」

「きみは大ばか者だな」

「描かなくてはいけない」と言っているのだとストリックランドは答えた。川に落ちれば泳ぎのうまい下手は関係ない。描かずにはいられないのだと・・・

というわけで、言うまでもなくこの本は、20世紀前半の英国を代表する大作家モームの、空前の大ベストセラーの新訳だが、実は暇人は初めて読んだのである。

物語はこの後、作画に没頭するばかりで生活に困窮し、病に倒れたストリックランドの、その「天才」をただ一人見抜いていた凡庸な画家ストルーヴェに救われ、

にもかかわらず、彼の溺愛する妻ブランチを寝取ったかと思えば、すぐに飽きて捨て去り自殺に追い込む、という悲惨な結末を残して、ふたたび姿を消す。

「人生には意味などないんだ。ブランチが自殺したのはおれが捨てたからじゃない。ただ愚かで不安定な女だったからだ。だが、あいつの話はもうたくさんだ。まったくどうでもいい女なんだから。」

それから15年。偶然タヒチを訪れたわたしは、各地を転々とした末にこの島に辿り着いたストリックランドが、この島で描いた絵によって名声を得ていたことを知る。

島の娘アタと結ばれた彼は、描きたいという情熱に取り憑かれたように創作に没頭し、やがてハンセン病という業病に侵されて、9年前に亡くなっていた。

寝床に人間の姿をとどめていない哀れな物体がある悪臭に満ちた部屋。往診に訪れた医師がそこで見たものは、言葉に表せないほどの迫力がある神秘的な絵だった。

彼がこの島にきて多少なりとも優しくなったとは思えないし、利己的でなくなったとも、残忍でなくなったとも思えない。まわりの人間が好意的だったのだ。・・・ストリックランドは、この地で、祖国の人間には期待も望みもしなかったものを手に入れた――つまり、理解を。

と、あらすじを紹介しているだけで、自分がストーリーの展開に一気に引きずり込まれてしまい、思わずもう一回読んでみようかと思ったくらい面白い本なのだが、

暇人が一番気に入っているのは、登場する人物の「一筋縄ではいかなさ」が、絶妙なやり取りのテンポの中にくっきり浮かび上がってくるシーンである。たとえば、

「あなたがそんなに感傷的な人間だったなんて、がっかりです。人の同情心に訴えるような子どもじみたまねはしてほしくなかった」
「あんたが金を出していたら軽蔑してたよ」
「出さなくて正解でした」

いかがですか?

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『尾形光琳』―江戸の天才絵師―

(飛鳥井頼道 ウェッジ)

社の沢の杜若は今が見頃で、妍を競うように咲き乱れている。この杜若を前に舞台がしつらえられ、毛氈が敷かれている。そこには衣冠束帯に身を包んだ御公家集が、雛人形のように座り、背後に家宰や用人が控えている。こちらは麻裃の正装だ。

<この日、大田の社では御公家衆の歌会が開かれていた。>

元禄4年(1691)4月15日。京都の呉服商雁金屋・尾形宋謙の次男として生まれた市之丞は34歳を迎え、浩臨と改名してこの歌会にお伴として参加していた。

というわけでこの本は、寛文3年(1663)に6歳で初めて東福門院(雁金屋の最上のお得意様)にお目にかかった日から、

享保元年(1716)徳川家継が没した年に59歳であの世に旅立つまでの尾形光琳の行跡を、史実としての年譜の中の「ある日」のスケッチとして辿った記録である。

とはいえ、副題にある「天才絵師」としての尾形光琳の創作風景の描写はほとんどなく、女癖の悪さと金勘定の不器用さばかりが目立つような気がするのは、

夫光琳は、東福門院様に初めてお目にかかった日のことを、その女院の袂から漂っていた伽羅の香りと、御殿の階の前に咲き初めていた紅白の梅の姿とともに、よく覚えていると申しておりました。

という妻・多代女からの聞書によって、このお話が描かれていくというスタイルを取っているからだ。(光琳は創作の現場を妻には見せなかったのだろう。)

私たち読者が実際に目にすることができるのは、本文から随分離れた位置に挿入された有名な「紅白梅図屏風」(MOA美術館蔵)のカラー図版のみだが、

出来上がった作品を目にし、世間の評判を耳にして、ようやく光琳という男がいったいどれほどの「天才」であるのかに気付くのは、妻も同じ立場なのである。

兄・藤三郎、弟・権平(尾形乾山)との兄弟間の確執、家業の没落、それでも「物数寄」を押し通し、人を人とも思わぬ驕奢を誇る光琳への毀誉褒貶の連続の日々。

正徳6年(1716)、病の床に臥すようになった光琳は、「をなごのことでは何度も泣かした。済まんと思てる」と初めて多代にわびる。

「多代は菫草やな思てたんや。梅のように気品があるわけでもない。杜若のように艶麗なわけでもない。水仙のような清楚さも、菊のような豪華さも似つかわしうない。野辺にひっそり咲く小さな花や。小さいけど可憐な花や。愛らしゅうていとしい花や」

「あんた、無理してそんなお世辞言わんでもええんよ」と言いながらも、光琳の手を強く握りしめていた多代だったが・・・

ちょっと待って、そんなんで騙されていいのか?

「菫草」の挿絵は描かれてさえいないのに、たとえば冒頭のエピソードには、あの有名な『燕子花図屏風』(根津美術館蔵)がしっかり添えられているのだ。

夫光琳は、大田の沢で杜若の群青の花が咲く度に、さよ(幼馴染の初恋の女性)のことを思い出すんやと、よく申しておりました。

と、自分でもそんなことはわかっていたはずなのに、「あんたの子ども、産めへなんだこと、お詫びせなあかんのはうちや」とまで口走ってしまうなんて・・・

というわけで、こんなふうに尾形光琳が遺した作品から、ここまでの物語を紡ぎ出してしまったのだとしたら、この著者の妄想力には脱帽と思った次第なのである。

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『地図と拳』

(小川哲 集英社)

「君の報告書には、未知の土地を夢想する人類の歴史が書かれていた。満洲は未知の土地だ。君はそこに理想の国家を書きこむ。僕はその実現に向けて、必要な資源や人材を用意する」「なんの話をしているのだ」「国家の話だよ」と細川が言った。

<これから満洲に、国家を作るのだ。>

東京帝大で気象学を研究していた須野は、満鉄の歴史地理調査部から「黄海にあるとされる青龍島という小さな島が実在するか、調査してほしい」と依頼を受ける。

存在しない島が存在しないことを証明する、というこの難題に寝食を忘れ没頭してきた須野の元に、ある日満鉄の細川と名乗る男が現われ、暫く付き合った末に、

「満鉄に来ないか」と誘われる。「君は仕事の過程で満洲の地図を調べることになるだろう。つまり君は、仕事の知識を青龍島の報告書に活かすことができる」と。

第168回「直木賞」受賞作品。

全20章(1899〜1955年)600ページ超に渡って繰り広げられるこの重厚な物語の中では、冒頭の須野の辿った人生などあくまで1つのケースに過ぎない。

ロシア軍の狙いを探るという参謀本部の特命を帯びた軍人の通訳としてハルビンに渡りながら、奉天の東に石炭資源があるという情報を得た、インテリ学生の細川。

満洲地方の測量計画に随員として参加し、黄ロシア構想によるロシア人入植のため、満洲各地に教会を建てるという使命を与えられた、ロシア人宣教師クラスニコフ。

叔父に騙され一攫千金を夢見て、東北にあるらしいという「理想郷」へと逃避し、結局裏切られた末、厳しい自己鍛錬を耐え抜いて支配者の座に登り詰めた楊日綱。

などなど、数奇な生い立ちを抱える様々な人物がそれぞれの思惑を胸に次々と登場し、自らの理想を実現せんと格闘する中で、複雑に絡み合っていくことになる。

彼らを誘い込む物語の舞台となるのは、千里眼を持つと豪語する「李大綱(リーダーガン)」が支配してきた、奉天の東にある村「李家鎮(リージャジェン)」。

義和団とロシア軍に蹂躙された李家鎮を李大綱から奪い取った楊日綱は「孫悟空(ソンウーコン)」と名乗り、町を東北随一の炭坑都市「仙桃城」へと発展させる。

支那と日本の資本が投下され、荒野だった場所に隙間なく建物が建つようになった仙桃城だったが、やがて日中戦争の影は深まり関東軍が侵出してくる。

そして「満洲国」が建国され、孫悟空が経営する仙桃城の大型建築「千里眼ビルディング」に、「戦争構造学研究所」が設立される。それは満鉄を辞めた細川が、

国家間の戦争とその結果を物理学のように予測するために設置され、若手官僚などエリート達の「仮想内閣」によるシミュレーションを行うための組織だった。

細川は言う。国家とはすなわち「地図」であり、地図がある限り「拳」はなくならないと。戦争構造学とは地図と拳の両面から、日本の未来を考える学問なのだと。

1955年春。10年ぶりに仙桃城を訪れた須野の息子・明男はコンペ優勝者として自らが携わった「李家鎮公園」広場の跡地に立ち、目を瞑ったまま振り返る。

日本軍が撤退してからすぐ、ソ連軍がやってきて仙桃城は廃墟となった。目を開くと、ありえたかもしれない現在が、変えようのない現実の中に吸いこまれていく。

ここまできて、初めて私たちは気付くことになる。この長大な物語の主人公は、他でもない、満洲の名もない小さな町だったのだということに。

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『神と科学は共存できるか?』

(SJグールド 日経BP社)

私が本書でとりあつかう問題とは、「科学」と「宗教」とのあいだにあるとされている対立である。この論争は、人々の心と社会的な実践のうちにのみ存在するのであって、科学と宗教というたがいにまったく異なり同等に大切な主題の論理や適切な有効性のなかに存在するものではない。

「NOMA原理」(Non-Overlappinng Magisteria)
―非重複教導権(マジステリウム)の原理―

<敬意をもった非干渉――ふたつの、それぞれ人間の存在の中心的な側面を担う別個の主体のあいだの、密度の濃い対話を伴う非干渉――という中心原理>

科学のマジステリウムが事実と理論に基づく経験的な領域であるのに対し、宗教のマジステリウムは究極的な意味と道徳的な価値の上に広がっている。

科学と宗教が平和的に共存し、私たちの現実の生活と倫理的な生活を、ともに手をたずさえて豊かにしてくれる、という前提から出発することは尊重すべきだが、

協力して活動するのだから方法論と主題も共通するはずと推論し、なんらかの壮大な知性の枠組みが、科学と宗教をひとつにするだろうと思い込むことは誤りだ。

<それはお互いの領域侵犯なのだ。>

私には、科学と宗教が、どのような共通の説明や解析の枠組みにおいてであれ、どうすれば統一されたり統合されたりするのか理解できないが、しかし同時に、なぜこのふたつのいとなみが対立しなければならないのかも理解できない。

というこの本は、進化論の専門家の間では主流派となった「適応主義」に対し、「断続平衡説」を武器に孤独な闘いを挑み続けながら(参照:『理不尽な進化』)、

優れた科学解説書の書き手として愛読者も多かった古生物学者のグールドが、「科学と宗教の関係」という究極のテーマについて最後に書き遺した一冊なのである。

グールドがそれまでの著作とは異質なテーマの本を最後に書くことになったのには、進化を否定する「創造主義」の隆盛というアメリカ独特の背景があったという。

「聖書は文字どおり真実である」と信じる「原理主義」運動の活動家たちは、神が無からすべての種を個別に創造されたと主張し、進化を教えることに反対する。

グールドにはまた、「創造主義運動」に抗して戦い続けた闘士としての顔があり、この本はそんな活動の中で深められていった思索の集大成でもあったのだ。

とはいえ、「科学者が宗教家に遠慮する必要などどこにあるのか」と「神の存在」を一刀両断する、論敵にして盟友の『悪魔に仕える牧師』ドーキンスに比べれば、

宗教が科学の領域に介入することを厳しく弾劾することは同様でも、科学も倫理や道徳など宗教の領域に不用意に踏み込むべきでないと、執拗に主張している。

科学も宗教もそれぞれに独立で重複するところのない「教導権」なのだから、敵対したり論争したりするのは無駄であり、互いの「教導権」を尊重すべきという。

NOMAは科学と宗教のそれぞれの立場を大切にする――それぞれが人間に貢献をもたらす「ちとせの岩:原題Rocks of Ages」だというのだが・・・

「科学と宗教とのあいだの偽りの対立」への解答としては、ドーキンスよりグールドのほうが、よほど頑なで容赦のないもののような気がするのは暇人だけだろうか。

古いきまり文句を引用すれば、科学は「岩の年齢 Age of Rocks」を知り、宗教は「ちとせの岩 Rock of Ages」を知るのである。あるいは、科学は天がどのように運行しているかを研究し、宗教はどのようにして天に行くかを研究するといってもいい。

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暇人肥満児

どのような話題であろうとも、その分野の専門家以外の人が相手であれば、薀蓄を語りだして恐れを知らないという「筋金入りの」素人評論家。本業は「土建屋の親父」よろしくお付き合い下さい。

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