暇人肥満児の付録炸裂袋

「ふろくぶろぅくぶくろ」は、「徒然読書日記」のご紹介を中心に、周辺の話題、新聞・雑誌の時評等、気分の趣くままにブレークします。

『フランス革命』―歴史における劇薬―

(遅塚忠躬 岩波ジュニア新書)

フランス革命は、その結果において、ブルジョワだけの利害に適合した社会、つまり、資本主義の発展に適合した社会をもたらしたのです。そのような意味で、フランス革命の基本的性格はブルジョワ革命なのだ、と言ってよいのです。

ただ、そうは言っても、フランス革命は一直線にブルジョワ革命への道を歩んだわけではなく、そのジグザクな進路において、

ルイ16世を筆頭に多数の人々を断頭台に送り込む「恐怖政治」のような徹底的革命路線をも経験することになるのは、いったいなぜなのか。

「フランス革命は、貴族・ブルジョワ・民衆・農民の担う四つの革命の複合体である」

というのが、いまや世界の学説の定説になっている歴史家ルフェーブルの「複合革命説」であるが、

1787年、王権に対する反抗運動を担った貴族たちは、89年以降は、多数の反革命派の保守的貴族と、少数ではあるが有力な自由主義貴族に分裂することになる。

一方、旧体制の徹底的打破を求める民衆と農民たちは、同時に、ブルジョワとの格差を生む資本主義の発展には反対するという立場で一致していた。

その中間に位置することになるブルジョワたちは、

妥協的な改革で革命を終わらせようと考える自由主義貴族たちと同盟する道を選ぶか、

大衆と同盟して、徹底的革命の道を選ぶかという、まことに難しい選択を迫られることになったのである。

89年の大衆の蜂起に対し深刻な危機感を抱いたブルジョワは、当初は大衆と手を切って、妥協的改革路線を取ったのだが、

オーストリアやプロイセンなどの外国勢力と手を結んだ保守的貴族の反革命運動に、後退を余儀なくされることになる。

そこで、実質的に対抗できる力をもたないブルジョワは、大衆と手を結び、徹底的改革路線へと大転換を図ることになった。

92年8月10日、ブルジョワと手を結んだ大衆の蜂起により、王制は倒れフランスは共和国となる。

しかし、資本主義反対運動と表裏一体となった大衆運動の、反資本主義的な要求に譲歩できなかったブルジョワのこの路線も長続きすることはなかった。

1799年11月9日(ブリュメール18日)。

フランス革命はその遺産をナポレオンに引き渡すことになる。

つまり、一旦は「劇薬を飲んだ」ことが、

結局、フランス革命に独特の性格を与え、革命の偉大と悲惨の両面をもたらすことになった、というのである

フランス革命の最大の課題は、ブルジョワと大衆の対立をなんとかカッコの中にくくって、貴族←→(ブルジョワ←→大衆)というかたちをつくることでした。しかし、資本主義にふさわしい社会をつくろうとするブルジョワと、その資本主義をおしとどめようとしている大衆との間の、利害の対立をどう調整したらよいのでしょうか。この、フランス革命の最大の課題をどう解決するか。それをめぐって、革命期に、さまざまな党派が深刻な対立を展開し、ついには諸党派間の殺し合いにまでいたります。その深刻な対立が、劇薬フランス革命の偉大と悲惨の両面を生んだのです。

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『絶望名人 カフカの人生論』

(Fカフカ 頭木弘樹・編訳 飛鳥新社)

将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
将来にむかってつまずくこと、これはできます。
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。
―フェリーツェへの手紙―


―何事にも成功せず、失敗から何も学ばず、つねに失敗し続けた。
―結婚したいと強く願いながら、生涯、独身だった。
―身体が虚弱で、胃が弱く、不眠症だった。
―家族と仲が悪く、とくに父親のせいで、自分が歪んでしまったと感じていた。

生きている間、作家としては認められることなく、普通のサラリーマンとして、生活のためにイヤイヤ働き続け、

長編小説に取り組めば、すべて途中で行き詰まり、未完のまま、死ぬまでついに満足できる作品を書くことができず、

自分の作品はすべて焼却するようにという遺言を、ただ一人の親友、マックス・ブロートに託して、40歳で結核で死亡した。

「彼は、もはや断じて追い越すことのできないものを書いた。・・・この世紀の数少ない偉大な、完成した作品を彼は書いたのである」(ノーベル文学賞作家エリアス・カネッティ)

『変身』『城』『審判』などの珠玉の作品を残した、20世紀最大の作家、フランツ・カフカが、

「父が・・・」「仕事が・・・」「胃が・・・」「睡眠が・・・」といった、おそろしくネガティブな日常の愚痴を、大量の日記やノートとして残していた。

誰よりも落ち込み、誰よりも弱音をはき、誰よりも前に進もうとしない、カフカは「絶望の名人」なのだというのである。

しかし・・・ちょっと待てよ。

冒頭の文面が、実は恋人に宛てて書いたラブレターの一節で、結局、フェリーツェはカフカのプロポーズを受け入れて、二人は婚約することになったのだと聞けば、

これはもう、

「僕には君を幸せにする自信はないけれど、君と結婚すれば、僕が幸せになる自信はある」という、まるで根拠のない「自信」だけで、

ミチコたんのハートを射止めて見せた、ハマちゃん@「釣りバカ日誌」と、双璧の快挙と言わねばならず、

むしろ、

あらかじめ自分で自分にわざとハンデを与えておくことで、失敗したときに自尊心が傷つかずにすむ、

というあたりが、私のような自意識過剰人間にはよく理解できる、カフカお奨めの「幸せの処方箋」なのである。

幸福になるための、完璧な方法がひとつだけある。
それは、
自己のなかにある確固たるものを信じ、
しかもそれを磨くための努力をしないことである。
―罪、苦悩、希望、真実の道についての考察―


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『イメージを読む』―美術史入門―

(若桑みどり ちくま学芸文庫)

目に見えるものとして示されている色や形や大きさやひろがりや組み合わせを研究して、それが表現し、伝えている意味を探り、人類の文化の歴史のなかに位置づけ、自分たちの文化にとって意味あるものとして価値づけるのです。そのことによって原始の時代から人類が創造してきた芸術のもつ意味と価値が、人類の歴史や現在、未来のなかでしっかりと位置づけられるわけです。

目に見えない感情や思想やメッセージを、目に見えるかたちのイメージによって表現する、

非言語的な「表現」の行為である「美術」を解釈するためには、

しかし、言語記録を解釈するのとは違った特別な方法が必要になる。

では、どうやってそのようなイメージを解釈すればよいのだろうか?

それぞれの民族や文化の長い底深い伝統に支えられて、ある時代に共通することになったヴィジュアルな特徴(スタイル)を分類し、分類された視覚形式に照らし合わせて個々の作品を位置づける、「様式論」。

なぜある時代にその様式が支配的だったのか。芸術作品が創造された理由や意味を探り、その作品がどういう意味をもって伝承されたかをたどり、人類の総合的な歴史の中に芸術の歴史を関連づける、「図像解釈学」(イコノロジー)。

たとえば、描かれている男や女の姿を、それぞれマリアや聖人や聖職者などと特定し、その画面が聖書やその他の経典や書物や説教のどの部分を描いたのかを特定する。表現されている個々の図像の主題と意味を解明するのが、「図像学」(イコノグラフィー)。

これら三つの方法論を総合的に使用して、著名な美術作品を解釈してみせることで、美術史の知識のない人に、「芸術というものがいかに社会的に意味をもつものであるか」、そのおもしろさを理解してもらいたい。

これは美術史を専門とする著者が、北海道大学教養学部の、つまりは美術史を専門としない学生を相手に行った、五日間のまことに刺激的な集中講義「美術史入門」の記録なのである。

取り上げられた作品は、

≪システィーナ礼拝堂の天井画≫

ミケランジェロが法皇庁の命により礼拝堂に描いたノアの大洪水の構図には、

物質的な快楽や豪奢をむさぼる当時の法皇アレクサンドル六世やローマ教会の堕落に対する神の刑罰としてイタリアは滅亡するだろう、とするサボナローラの危険な予言のイメージが隠されていた。

≪モナ・リザ≫

レオナルド・ダ・ヴィンチは、科学も政治も道徳も、戦争や金儲けさえもが神の名において行なわれていたこの時代において、心の底では神をもはや信じていなかったひとりの個人だった。

四元素の必然の運命によって地球は動き、そして絶え間なく老いていき、やがて終末を迎える。あなたがたは何も知らないのだ、とこの女の人は神秘的な笑顔でほくそ笑んでいるのである。

などなど・・・う〜む、なるほど。

ちょっと、そこのアナタ。これでは、『ダ・ヴィンチ・コード』なんか読んで興奮している場合ではありませんぞ。

おしまいに、こういう話に対して必ず出される反論についていっておきます。
それは、「画家はそんなにむずかしいことを考えて描いたのじゃない。かりにそうだったとしても、絵を理解するのには、ただきれいだ、好きだだけでたくさんだ」といういい方です。これに対しては、私はこう答えなければなりません。少なくとも、ある時期までは、画家は思想を伝えるためにのみ描いていたのです。宗教的か、道徳的か、哲学的か、それはものによってことなりますが、
ある時代までは、絵画は、重要な意味のメディアだったのです。


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『象が空を』

(沢木耕太郎 文藝春秋)

その言葉によって喚起されるイメージは、最初、象がアドバルーンのように空に浮かんでいるというものだった。ディズニー映画のダンボのように大きな耳を使って飛びまわる、とまではいかないにしても、風船のように体を膨らませた象が空中をふわふわ漂っている、といった姿が想像されたのだ。

「たとえば、象が空を飛んでいるといっても、ひとは信じてくれないだろう。しかし、四千二百五十七頭の象が空を飛んでいるといえば、信じてもらえるかもしれない」

それが、

<一見幻想的な出来事をきわめて克明に描写して、出来事に独自な現実性を与えるあなたの手法は誰から学んだものなのか>

というインタビューアーの問いかけに対する、ガルシア・マルケスの答えである。

<文学にも応用できるジャーナリズム的からくり>というものが、そこにはあるというのだった。

『路上の視野』(1972〜1982)に続く、次の10年の沢木耕太郎の全エッセイを集めたのがこの本なのだが、

旅紀行、スポーツ観戦、インタビュー、映画批評、書評など、様々にその形式は変わったとしても、

決して変わることのないノンフィクションライターとしての沢木の姿勢が、そこには貫かれている。

あるいは、私たちが日常的に行っている「ノンフィクションを書く」という行為も、本来は極めて古臭くフィクショナルなものとして印象されるストーリーを、いくつかの固有名詞、いくつかの数値で、危うくリアリティーを繋ぎ留めつつ述べていこうとする、虚実の上の綱渡りのような行為なのかもしれないという気がしてきた。

ノンフィクションを書くという行為は、「滑る際に事実という旗門を必ず通過していかなくてはならない」という点において、

「とりあえず最高のスピードで滑り降りればいい」ダウンヒル(滑降)ではなく、スラローム(回転)競技に似ている、

と考える沢木にとって、

『路上の視野』が、どのようなフォームで旗門を通過するかに腐心した10年であったとすれば、

『象が空を』の10年は、旗門からの逸脱という危険性をはらみつつ、さまざまなコースの取り方を試みながら滑り続けてきたのだという。

つまり、この出色のノンフィクションライターは、

『象が空を』飛んでいる姿を、ジャーナリスティックに描くことを目指そうとしているのではなく、

『象が空を』ふと思い出したかのように見上げている、その<象>たらんと、日々格闘を続けているようなのである。

私は、文章の中の生き生きとした「私」の獲得に全力を注いだあげく、やがてその「私」に中毒するようになり、今度はいかにこの「私」から脱していくかに腐心せざるを得なくなった。

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「国土交通大臣賞」を受賞しました!

当社(金沢市の小さな建設業者です)がお手伝いをさせていただいた、

「森山の家」(IZW邸改修工事)が、

第28回「住まいのリフォームコンクール」において、

栄えある「国土交通大臣賞」を受賞いたしました。

・「住まいのリフォームコンクール」の概要は

 こちら をご覧下さい。

・受賞作品等の詳しい内容は

 こちら をご覧下さい。

・「森山の家」(IZW邸改修工事)の工事記録は、

 こちら をご覧下さい。

暇人もそれなりに本業の仕事はしておりますので、どうぞこちらの方でもよろしくご声援のほどお願い申し上げます。

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『吉原御免状』

(隆慶一郎 新潮文庫)
 
一、前々より制禁のごとく、江戸中端々に至る迄、遊女之類隠置べからず。若違犯之輩あらば、其所之名主五人組地主迄、可為曲事者也
一、医院之外、何者によらず乗物無用たるべし
附 鑓長刀門内え堅停止たるべき者也


<どうして先生は、こんな猥雑な町へ行けと、遺言を残されたのか>

江戸・新吉原の見返り柳の前に、どっしりした石垣を築き、屋根つきで立てられている高札を読みながら、松永誠一郎は、戸惑いを覚えざるを得なかった。

時は明暦3年(1657年)。

剣豪・宮本武蔵に拾われ、肥後の山中で鍛え上げられた、捨て子の誠一郎には、「26歳になったら江戸に向かい、庄司甚右衛門を尋ねよ。」という遺言が残されていた。

庄司甚右衛門とは、江戸開府とともに遊郭の吉原を自力で開いた男であったが、訪ね当てた西田屋で誠一郎を出迎えたのは、2代目主人の庄司甚之丞だった。

すべての事情を知るはずの庄司甚右衛門は、すでに死んでいたのである。

「吉原以外の場所に遊女を隠し置いた場合は、罰を加える」という「特権」の保護を与え、

「医者以外は、たとえ大名であろうとも、大門の内へは槍も駕籠も許されない」という平等な「自由街」の存在を許した、

徳川家康の「神君御免状」は、なぜ甚右衛門だけに許されたのか。

その甚右衛門に会うことを勧められた誠一郎は、自らも知らないどんな秘密を抱えているのか。

裏柳生の総力を挙げてまで、御免状を取り戻そうとする幕府の狙いは何なのか。

町奉行の手も届かない完全な自治組織、人工の街・吉原の入り組んだ街区の中で、ちゃっかり花魁たちとの華麗な逢瀬を重ねながらも、

なぞの老人・幻斎の水先案内により、誠一郎がやがて知ることになったのは、

「無縁」や「公界(くがい)」の世界を舞台に繰り広げられる、「傀儡子(くぐつ)一族」や「道々の輩(ともがら)」の、

つまりは、虐げられた者たちが跳梁跋扈する、痛切なる歴史の記憶だったのである。

「主さんに・・・惚れんした」
勝山の声が甦ってくる。『みせすががき』の音が、荒寥たる辛さと悲しさを帯びてきこえた。
(俺は、今日まで、何をして来たのか)
誠一郎の頬が濡れている。丁度四月前、初めてこの坂に立ち、初めてこの音を聞いて、自分が今と同じように泣いたことを、誠一郎ははっきりと思い出していた。


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『世界史の誕生』―モンゴルの発展と伝統―

(岡田英弘 ちくま文庫)

歴史は、強力な武器である。歴史が強力な武器だからこそ、歴史のある文明に対抗する歴史のない文明は、なんとか自分なりの歴史を発明して、この強力な武器を獲得しようとするのである。そういう理由で、歴史という文化は、その発祥の地の地中海文明と中国文明から、ほかの元来歴史のなかった文明にコピーされて、次から次へと「伝染」していったのである。

ほとんど全世界を支配する強大なペルシアに対して、統一国家ですらない弱小のギリシア人たちは、いかにして奇跡の勝利を収めることができたのかという物語、

ペルシア戦争の由来を描いたヘーロドトスの『ヒストリアイ』に端を発する、アジアとヨーロッパの対立という歴史の主題に、

『ヨハネの黙示録』に代表される、世界は善の原理と悪の原理の戦場であるというまことに無邪気な「二元論」を振り回すキリスト教の歴史観が、絶妙に重ねあわされた、

「対決」の歴史文化を持つのは「地中海文明」である。

実際には秦の始皇帝から始まったはずの、全「天下」を統治する皇帝という地位は、歴史の最初から別の名前ではあるが存在していたということを主張せんがために、

人間界の歴史の冒頭に、神話の世界に属する「五帝本紀」を置く、司馬遷の『史記』によってその礎を築かれた、皇帝権力の起源を「天命」で保証する、「正史」というスタイルを営々と継承し続ける、

「正統」の歴史文化を持つのは「中国文明」である。

そして、「歴史」という文化を他からの影響によらずに独自に生み出した文明は、驚くべきことに、この2つ以外にはないというのだった。

ところが、ここで大きな問題は、地中海文明の歴史文化と中国文明の歴史文化とが、全く性質が違って、混ぜても混ざらない、水と油のようなものであることである。そのために、地中海型の歴史(西洋史)と、中国型の歴史(東洋史)とを取り合わせて見ても、単一の世界史を作ることは不可能になる。

中国文化に養われて成長してきた日本人にとって、歴史とはどの政権が「正統」であるかを問題とする中国型の「万国史」なのであり、

東西それぞれ縦の脈絡がついていたものを、「時代区分」で輪切りにし、一つおきに積み重ねたのでは、いくら「東西交渉史」など工夫してみたところで、まるきり話の筋が通らない。

しかも、東洋史と西洋史を合体した「世界史」には、なぜか「国史」に由来する日本史が含まれないため、まるで日本の歴史は世界史に何の影響も与えないものであるかのごとくではないか。

というのが、私たちが学校で学んだ「世界史」という教科の哀しい現実だというのは、誰もが経験していることだろう。

「必要なのは、筋道の通った世界史を新たに創り出すことである。」

そのためにはまず、歴史が最初から普遍的な性質のものではなく、東洋史を産み出した中国世界と、西洋史を産み出した地中海世界において、それぞれの地域に特有な文化であることを、はっきり認識しなければならない。この認識さえ受け入れれば、中央ユーラシアの草原から東と西へ押し出して来る力が、中国世界と地中海世界をともに創り出し、変形した結果、現在の世界が我々の見るような形を取るに至ったのであると考えて、この考えの筋道に沿って、単一の世界史を記述することも可能になる。

それが、13世紀に建国されたモンゴル帝国である。

モンゴル帝国は、東と西を結ぶ「草原の道」を支配することによって、ユーラシア大陸に住むすべての人々を一つに結びつけると同時に、

ユーラシア大陸の大部分を統一したことによって、それまでに存在したあらゆる政権が一度ご破算になり、あらためて新しい国々が分かれた。

中国も、ロシアも、インドも、トルコも・・・、

実は、現代のアジアと東ヨーロッパの諸国は、み〜んなモンゴルから生まれてきたのである。

1206年の春、ケンティ山脈のなかの、オノン河の源に近い草原に、多数の遊牧部落・氏族の代表者が集まって大会議を開き、テムジンを自分たちの共通の最高指導者に選挙し、「チンギス・ハーン」の称号を奉ったのである。これがモンゴル帝国の建国であり、また、世界史の誕生の瞬間でもあった。

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『グレート・ギャツビー』

(Sフィッツジェラルド 中央公論新社)

僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。
「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」


60歳になったら翻訳を始めようと心に決め、それまではしっかりと神棚に載っけて、ときどきちらちらと視線を送りつつ、人生を過ごしてきた、

それほどまでに、自分にとってはきわめて重要な意味を持つ作品だと考えていた村上春樹が、

「僕ももうそろそろギャツビーを手がけられるくらいの段階に来たんじゃないかな」という手応えのようなものに支えられて、満を持して挑んだという、

これは1925年に刊行されたフィッツジェラルドの哀しくも美しい名品の新訳なのである。

声をかけてみようかと思った。ミス・ベイカーが夕食の席で彼の話を持ち出していたし、それが自己紹介のきっかけになるだろう。でも結局声はかけなかった。というのは、彼がそのときにとった突然の動作によって、この人物は一人でいることに満ち足りているのだと察せられたからだ。

高級住宅地イースト・エッグの対岸、ウェスト・エッグの岸辺に立って、イースト・エッグの桟橋の先端につけられた緑の灯火に向けて両手を差し出し、身体を震わせていたのは、

5年前に身分の違いから仲を引き裂かれたデイジーを「愛する資格」を得るために、涙ぐましい努力を重ねて成り上がってみせたギャツビーだった。

すでに人妻となっていたデイジーの邸宅の対岸に豪邸を構え、毎夜大盤振る舞いのパーティーを繰り広げることで、ようやく二人は再会を果たすことになるのだが、

ギャツビーが愛していたのは、デイジーそのものではなく、その「社会的地位」という記号にすぎず、

つまり、自分はそんな彼女を愛するために努力を重ねることに、生きることの意味を見出しているにすぎないのではないか、という疑念が芽生えるようになった時、

物語が哀しい結末を迎えざるをえないことは、ギャツビーにもわかっていたに違いない。

これは、そんなギャツビーが両手を空に向けて差し延べている束の間に見た、ひと夏の淡い夢のような物語なのである。

そこに座って、知られざる旧き世界について思いを馳せながら、デイジーの桟橋の先端に緑色の灯火を見つけたときのギャツビーの驚きを、僕は想像した。彼は長い道のりをたどって、この青々とした芝生にようやくたどり着いたのだ。夢はすぐ手の届くところまで近づいているように見えたし、それをつかみ損ねるかもしれないなんて、思いも寄らなかったはずだ。その夢がもう彼の背後に、あの都市の枠外に広がる茫漠たる人知れぬ場所に――共和国の平野が夜の帷の下でどこまでも黒々と連なり行くあたりへと――移ろい去ってしまったことが、ギャツビーにはわからなかったのだ。

「でもまだ大丈夫。オールド・スポート」

明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。・・・そうすればある晴れた朝に――

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『仕事のなかの曖昧な不安』―揺れる若年の現在―

(玄田有史 中公文庫)

「日本では貧富の格差が拡大しつつある」、「中流階級が崩壊し、富める人々とそうでない人々の二極化が進んでいる」といわれる。マスコミや雑誌も、格差について、多くの特集を組んでいる。・・・
このような格差拡大のイメージにもかかわらず、研究者のあいだでは、格差の拡大は生じていないと指摘する声が多い。たしかに統計データをよくみると、所得格差が広がりつつあるという証拠は必ずしもみられない。しかしその一方で、格差拡大に対して社会全体の意識としての「曖昧な不安」はたしかに広がりつつある。


「自分の働く機会である雇用の将来についても漠然とした不安を感じている人は多い。」

そんな複雑な社会経済の問題を、「わかりやすい」主張で一刀両断に解説するのではなく、

雇用や教育といった生活に密接な問題は、自分の個人的な経験だけで何となく語れてしまうところに、怖さがあるのだから、

むしろ、データにもとづく客観的な事実のみから、「曖昧な不安」の本質に迫ることを目指そうとした、というこの本は、

2002年度の「サントリー学芸賞」、「日経・経済図書文化賞」をW受賞した、いまや伝説の名著なのである。

犯罪増加などの社会不安をもたらすとして、欧米では重大な問題と捉えられている「若年の失業者」の問題が、日本ではさほど深刻に考えられてこなかったのは、

1.少子高齢社会の進展によって、若年は慢性的に労働力不足の状態にある。

2.若年の失業は主として働くのがイヤで辞めた自発的な失業であり、働きたくても働けない中高年の非自発的失業とは性格を異にする。

からだというのだが、本当にそうなのだろうか。

多くの企業は「リストラ」という言葉を背後にちらつかせながら雇用調整を進めている。だが実際には、企業内部の人員整理の難しさを反映し、ほとんどの場合、調整は新規採用の抑制を中心に行われている。

「いつまでたっても後輩の社員が入社してこない」
「業務の末端としての仕事がどんどん増え続ける」
「何時になっても仕事が終わらない」
「より高い技能や知識の獲得によるステップアップが期待できない」

仔細にデータを見れば見るほど、むしろ中高年が既に得ている雇用機会を死守しようとする代償として、若年の就業機会が奪われている事実が見えてくる。

つまり若者たちは、「やりがいを感じられる仕事」、「誇りや満足を感じることができる仕事」に出会えるチャンスを奪われ、「ある日、会社を辞める」ことを決意するのである。

仕事に貴賎はない。しかし、仕事にはあきらかに異なる二種類のものがある。一つは、仕事をする過程で学習や訓練の機会が豊富であり、働くことで人々が能力や所得を向上させていくことができる仕事である。もう一つは、仕事のなかでみずから多くを学ぶ機会が乏しいため、その職務自体からは能力向上や働く意味を見出せない仕事である。

若者たちの「働く意欲」が低下したのではなく、こだわりがもてる、自分の未来や成長を感じられる、自分に誇りをもてる仕事に出会える機会が、一握りの人々に限定される傾向が強まっている。

決して「所得格差」が広まっているのではない。「仕事格差」が広まっていることこそが、日本人が抱える「仕事のなかの曖昧な不安」の正体なのだというのだった。

働くなかでの、所得格差に対する不安や、いいようのないストレス。自発か、非自発か、曖昧ななかでの雇用不安。リストラ、フリーター、パラサイト・シングル。仕事をとりまく不安をぼんやり感じながら、議論はそれをすりぬけ、本質的ではない問題ばかりがならべられる。
「いかに働くべきか?」。「仕事ができる人とは?」といったたぐいの本が続々と登場している。その主張は明快であるものの、よく読むとその意味も不正確なまま、成果主義やコンピテンシーという言葉がならんでいる。不明確な言葉や表現が、かえって不安をかきたててはいないだろうか。


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『悪魔を思い出す娘たち』―よみがえる性的虐待の「記憶」―

(Lライト 柏書房)

この辛い体験についてのわたしの感情はとても奇妙なものです。ときには元気になり、ときには落ちこみ、また、まったく混乱してしまって、よその州へ引っ越して新しい友人とともに一からやりなおせればと、そうすれば、誰もわたしの過去を知る必要がないのにと思うときもあります。夜は怖くて、たいがいひどい目にあいます。眠らずに、パパが来るのを待っています。ぞっとします。将来セックスを楽しむことなんてできないでしょう。とても痛くて、自分が汚らわしく感じられます。

「いや、まず第一に娘たちはわたしを知っている。こんなことで嘘をつくわけがない」。

ワシントンの美しき州都オリンピアの保安官事務所に勤めていた43歳のポール・イングラムは、

敬虔な原理主義教派のプロテスタントで、多くの住民から敬意を集める、いたって礼儀正しき警官だったのだが、

ある日突然、実の娘二人からの「幼いころから長きにわたって、性的虐待を受けていた」という告発により、職場の同僚たちから尋問を受ける。

「自分がそんなことをするとは思えない」が、「娘がやったと言っているのならやったかもしれない」。

やがてポールは、全く身に覚えのなかったはずの「虐待の記憶」を、詳細に「思い出す」ことになるのだった。

長い時間をかけて尋問が終了したとき、ポール・イングラムは、エリカが五歳のときから、娘たちの双方と幾度も性交を行なったことを自白していた。さらに、次女ジェリーが十五歳のときに、彼女を妊娠させてしまい、近くの町シェルトンに堕胎のために連れていったことも認めた。

「おそらく娘のショーツかパジャマのズボンを脱がせたんだろう」、「静かにしろ、このことは誰にもいうな、もししゃべったら殺すと脅したんだろうな」。

これらの供述は娘たちの告発と大筋で一致していたのだが、しかしそれはご覧の通り「おそらく・・・だろう」の連続で、

まるで、第三者の犯行を外部から眺めてでもいるかのように、加害者としての悔恨の念をまったくを欠いたものだったのである。

「幼児虐待」は、このところ頻発するようになったわが日本においても、もちろん大きな問題を孕んでいる事件なのではあるが、

キリスト教原理主義が大きな力をもつ米国においては、それはまた別の様相を呈する事件として、問題を浮かび上がらせてくることになる。

「子供のころ、性的虐待をうけたのね」とフランコはいった。エリカは黙って泣くだけで、答えることができなかった。フランコには聖なるお告げがさらに下り、それは「父親がやった、何年も続いている」という内容だった。これを彼女が声に出していうと、エリカはヒステリックに泣きだした。フランコは、主よ、彼女を癒したまえと祈った。

ポールの二人の娘たちが長い間の「抑圧」から解放され、自分たちの幼児虐待を受けた「記憶」を甦えらせることになったのは、

キリスト教原理主義派の「生命の水」教会における「心から心へ」という十代の娘たちのための修養会でのことであり、

そこには、神から病気治癒能力や霊的透視能力を賦与されたと信じているカーラ・フランコという女性がやってきて、ありがたい「お告げ」を告げるという異様な雰囲気の中での出来事だったのである。

というわけで、この娘たちによる矛盾だらけの、首尾一貫しない「証言」以外、物的証拠は全く存在しなかったにもかかわらず

結局、最後には取り消されることになった「自白」のみが決め手となって、ポール・イングラムは懲役二十年の実刑判決を受け、現在も服役中とのことなのだが、

獄中で穏やかに語られた、彼の現在の心境なるものを耳にすれば、世の父親たるもの、たとえ「お告げ」などなくったって、同じ陥穽に陥る危険は意外に身近にあるのかもしれない。

「自分がよい父親でなかったのはわかっている。子供たちと一緒にいてやれなかったし、会話も十分にしてやれなかった。もちろん、性的に虐待したことなどいちどもない。でも、感情面で虐待したんだ。認めたくないけれど、やはり認めないわけにはいかない。子供というのはとても繊細な生き物だ。・・・とにかく、子供たちには父親からの愛情が足りなかったのさ」。

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