暇人肥満児の付録炸裂袋

「ふろくぶろぅくぶくろ」は、「徒然読書日記」のご紹介を中心に、周辺の話題、新聞・雑誌の時評等、気分の趣くままにブレークします。

『世界しあわせ紀行』

(Eワイナー ハヤカワNF文庫)

世界じゅうには、「もしも」が実現して、それが日常的光景になっている国がいくつもある。もしも税金を払わなくてもいいような裕福な国で暮らしていたら。もしも・・・そうしたら、幸せになれるだろうか。

<私が知りたいのはまさにそういうことだった。この明らかに無謀な実験の成果が本書である。>

全米公共ラジオの海外特派員である著者が、「あまり知られていない幸福な国」を探しながら、一年ぐらい旅をしてみたらどうかと考えるようになったのは、

これまでは、イラクやアフガニスタン、インドネシアなど「憂鬱で不幸な人々の物語」を取材するために、世界じゅうをあちこち歩き回る日々が続いたからだった。

というわけでこの本は、「幸せになるために欠かせないもの」を探るため世界各地を訪ね歩き、出会った人々の言葉に耳を傾け、考察を重ねた旅の記録なのである。

幸福学研究の権威として知られるフェーンホーヴェン教授の「世界幸福データベース」を参考に、訪れることにした国は全部で10か国。

「私は、人が幸せだろうがそうでなかろうが、関心がありません。幸福感に差がある限り、データを処理して研究が可能ですから」と語るフェーンホーヴェン教授が、

幸福を追求する同志だと思っていたら、実は「幸福ゲーム」の競技者ではなく、あくまで優秀な審判員に過ぎないと思い知らされたオランダを皮切りに、

他人の嫉妬を買わないためならどんな努力もいとわないと、幸福の最大の敵が「嫉妬」であるということを本能的に知っている国スイス。

すべての物事を「国民総幸福量」という観点から検討することを政策の基本理念としてはいても、それはあくまで国是であり目標なのだと大臣が答えたブータン。

「それは神の意志によるものだ」と、鼻持ちならないほど行きすぎた贅沢にとことんまでふけった場合、人の心には何が起きるのかを考えさせられた富裕国カタール。

「失敗が恥ずかしいことだとは誰も思っていなくて、むしろ名誉」と、いつでも再挑戦できるから、幸せと悲しみを同時に、同じくらい経験できる国アイスランド。

「マイペンライ(気にしない)」のタイ。「幸せなようにはふるまわない」イギリス。「いまここに」のインド。「どこか別の場所に」のアメリカ。そして・・・

「ヌー・イェステ・プロブレマ・ミャ(私の問題じゃない)」問題だらけなのに、それが誰の問題でもない国。この国では誰も問題を引き受けようとしない。

ロシア帝国崩壊後の建国が、誰もが目を背けたいと思うほどの大失敗に終わり、世界で最も幸せでない国となってしまったモルドバの、絶望の根源はお金だという。

確かに国民1人当たりの年間所得はわずか880ドルと、その経済的困難は軽視できないが、ナイジェリアやバングラデシュなど、もっと貧しくても幸せな国は多い。

彼らの不幸は、自分たちをそんな人たちとは比較せず、イタリアやドイツと比較することにある。モルドバは裕福な界隈の貧しい住民なのだった。

すべての旅を終えアメリカの自宅に落ち着いた時、著者の脳裡に浮かび上がってきたのは、癌から生還したブータン人の学者カルマ・ウラの言葉だったという。

「個人的な幸福というものは存在しない。すべての幸福は相関的なものだ」というその言葉が、額面通り本心からそう語られていたことに、ようやく気付いたのだ。

私たちの幸福は、他者(家族、友人、近所の人、職場を掃除してくれる人など)と完全かつ密接にからみ合っている。幸福というのは、名詞でも動詞でもない。それは接続詞なのである。

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『一場の夢と消え』

(松井今朝子 文藝春秋)

「浄瑠璃に筆を執るのは、歌を詠むのと同じじゃ。歌を次々と詠むように詞を綴ればよいのじゃ」と公通はあっさりいいきった。
「わたくしは歌なぞ詠みませぬが」即座に返したら相手はなおもいい募った。
「歌は詠まずとも、俳諧くらいは嗜むであろう」


<「そなたに頼みがある。麿に代わって浄瑠璃を案文してたもらぬか」>

杉森信盛が武家出身の地下人という低い身分でありながら、正親町公通のような殿上人の食客扱いとなり、この家に伝わる貴重な有職故実を整理する務めに付いたのは、

後水尾天皇の実弟・恵観禅閤の晩年のわずかな時期に雑掌として仕えた縁によるものだったが、同年輩の誼で話し相手となるような、それは実に気楽な務めだった。

そんな公通が、この秋の除目で参議に昇ることになり、これまでのような好き勝手はできなくなったからと、宮中を舞台にした物語の代筆を頼まれたのである。

<後の「近松門左衛門」が誕生した瞬間だった。>

「文字を一つ、一つ見ておると、何も思い浮かびませぬが、それを声に出せば、自ずとひと続きの詞になります。同様に一つの詞では何も絵が浮かびませぬが、続けて詠めば詞がつながって、一つの絵が浮かんで参りまする。その絵を写し取るようなつもりで語っております」

そんなふうに一語一語を大切に語ってもらえたら、作者冥利に尽きると感じ入らせてくれた、まだ脇役に過ぎなかった天王寺五郎兵衛(後の竹本義太夫)の発掘。

「藤十郎はただの役者ではございません。今までだれも観たことのないような舞台を見せてくれます。それは何か新たな芝居というより、ちっとも芝居らしくない芝居とでも申しましょうか・・・」

坂田藤十郎との初めての出会いで感じたその瑞々しさと、にもかかわらず、斬新ともいえるその芸風を、作者の自分がまだ十全に活かしきれていないもどかしさ。

やがて近松は、歌舞伎の「切り狂言」に範をとり、実際に起こった事件をモデルとした新しいタイプの「浄瑠璃」を書き上げ大ヒットさせた。『曾根崎心中』である。

浄瑠璃も、歌舞伎も、まだ「伝統芸能」とは言い難かった時代に、様々な才能が出現して覇を競い合った、革新的な季節の雰囲気を活写しながら、

その本流を駆け抜けていった、近松門左衛門の目くるめくような生き様を、鮮やかに描き出して見せた、これはこの著者ならではの「歌舞伎物」の逸品なのである。

「七五や五七の語音でまとめたらたしかに調子がよくて耳障りがなかろうし、太夫は語りやすく、また役者のセリフにしても憶えやすかろう」
「それではいけませんのか?」
「耳障りでないのは、すなわち耳にひっかからんということじゃ。歌ならそれでよろしかろうが、浄瑠璃は大切な文句を決して聞き流されぬよう、多少調子を崩しても、そこはしっかりと語らねばならぬ」


<「生身の人間が話すように書いてこそ、浄瑠璃の語りは活き活きとするのじゃ」>

亡き義太夫と自分とで、「歌」と「語り」の相克を経てようやく辿りついた「境地」を、本当に理解できる後継者の不在が、今は衰えを感じ始めた信盛の苦痛だった。

信盛はこの世に留まっても、今や夢を見るばかりの姿になり果てたのがさほど苦痛ではなかった。夢の中ではあの世とこの世の区別もないので、何も恐れずに済むのだった。
思えばこの世もすべて、だれかの夢なのかもしれない。それなら人はあの世でこそしっかりと目覚めるのだろうか。いや、自分はきっと夢を見続けるだろう。
ああ、もう一度さっきの夢の続きを見ようとして、信盛はまた目をふさいでいる。


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『DTOPIA』

(安堂ホセ 文藝春秋)

柵に仕切られた植え込みスペースに立ち並んでいるのは、植物ではなくて人間の男たちだった。センターの扉と階段に隔てられて、右サイドに5人、左サイドにも5人、10人の男が立ち並んでいる馬鹿みたいな光景から、デートピア2024、通称タヒチ編ははじまった。

<どっかの金持ちが美男美女を召集して、南の島で恋愛ゲームを開催する『DTOPIA』>

ミスユニバースをめぐって競い合うのは、白人基準で世界10都市から集められた男たち。その中に「日本人ってこんなもんでしょ」という顔の「おまえ」がいた。

舞台となったボラ・ボラ島には40台近いカメラが設置され、同時多発的に起こるドラマをすべて撮影しながら、それらを寄せ集め編集した総集編が動画配信されたが、

有料の「トラッキングシステム」に加入すれば、メイン画面の下に敷かれたタイムラインをクリックして、島を瞬間移動しながら、好きな対象を追跡できた。

だから、視聴者のほとんどは順番に観ることを放棄し、「本編」の最終エピソードを確認して、そこからカウントダウンするように各エピソードを消化していく。

最後に優勝したやつを応援していくほうが確実だから、エピソード1で「日本人すぎる」と揶揄された「おまえ」の顔にオーラが漂っていたのはそんなわけだった。

<最初からというべきか、それとも最後からというべきなのか?>

本年度「芥川賞」受賞作品。

こんなに興味津々の舞台を設定しておきながら、画面に釘付けにされてしまった私たち読者を置き去りにして、著者は突然チャンネルを切り替えてしまう。

キース、おまえに睾丸を摘出されたとき、それは思っていたより深くまで、私の体に根を張っていた。おかげでおまえにひっぱられるたび、内臓まで一緒に動かされてるようだった。

<暴力から暴を取ってくれる場所を、おまえは別の国を目指して、旅を始めた。>

『島に女は一人じゃない』と、ジェンダーバランスの是正措置を取るための“ギャル・クルーズ”15人の一人として、島に送り込まれた、物語の語り手「モモ」。

日本人の父とポリネシア系フランス人の母のミックスルーツで男の体に違和感があった彼女は、13歳のときに「おまえ(キース)」の施術を受けていた。

二人の再会から始まる「睾丸を摘出する少年」キースの青春の思い出の物語は、モモの青春時代と微妙に絡み合いながら、予想外の軌跡を描いていくことになる。

富豪のトレーダーたちを顧客とする「水晶の中の睾丸」ビジネス。
二重扉の完全密室の中で行われる「拷問と尋問」ビジネス。
わざわざ顔のエラを角ばらせ「課金した感じ」を出すためのヒアルロン酸注射施術、などなど。

<社会になじむための自分と、本来の自分を両立させるのに、なぜこれほどの苦痛に耐えなければならないのか。・・・気休めの感傷など寄せつけない、冷ややかな血の滴りを浴びるような体験だった。>(小川洋子:選評)

2019年1月、六本木ヒルズで財布を窃盗するというあまりに馬鹿げた犯行で逮捕された「おまえ」は、2024年9月末にデートピアに旅立った。

「Date6」の撮影が正式に再会しようとしていた。後半戦が始まる。結果は、先に説明した通り。どの男も負けても死なない。11人とも島から帰って、やったことの意味だけが変動し続ける。私たち視聴者によって。

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『ことばの番人』

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校正は表向き、目には見えない。通常、校正者の名前は表に出ないし、文章のどこをどう直したという痕跡は完全に消されている。・・・それゆえ校正者が居ても居なくても世の中は変わらないように思われるのだが、

<ネットの普及によって彼らの不在が露呈している。> 

読み返されずに送られてくるメールは漢字変換ミスのオンパレードで、ネット上の書き込みも事実関係を無視したひとりよがりの罵詈雑言の垂れ流しだ。

「文化」とは「文による感化」を意味するのだから、文化が衰退すれば暴力がのさばる。世の平和のためにも心がけるべきは「文の校正」なのだ。

と「文化の衰退」を憂えた著者は、実はよく知らなかった「実務としての校正作業」に取材すべく、日頃お世話になっている校正者のもとへ出向くことにしたのだった。

「面白いから読んじゃうんです。『てにをは』が乱れていても、つい読んでしまう。誤りを拾い損ねてしまうんですね。」

「面白い原稿は要注意」と語る山崎さんは、基本はあくまで照合であり、間違いは読者の不利益になるので、「面白くなくても間違いのないものを」と断言した。

「校正する時に『これがおかしい』と指摘しても、それだけではあくまで主観的な話です。そこで『この辞書にはこう書いてある』というのが根拠になるわけです。」

「どんなに当たり前の言葉でも、最初は全部辞書を引いていた」という境田さんの、本棚で埋め尽くされた自宅には、辞書だけで7000点の蔵書があった。

「英語圏などでは文字や記号が単純なので、校正といっても印刷工の副次的な作業なんです。私たちは漢字を使っているから、出てくる問題点がいっぱいある。」

「漢字があるから校正作業もあるんです」ときっぱり言い切った小駒さんは、漢字の字形や送り仮名、そして誤植の宝庫「ルビ」の問題を取り上げた。

というわけでこの本は、自ら書いた文章はまず妻に読んでもらい、次に出版社などの編集者、そして校正者と「誰かに読んでもらえばよい」共同作品なのだから、

文章は読み手頼みの他力本願で、<世の中には優れた書き手などおらず、優れた校正者がいるだけではないか>とさえ考える著者による、

SNSの普及で今や誰もが書く時代に、間違いのない文章を書くための「文章読本」のノンフィクション・バージョンであるというのだった。

さて実は、著者はこの本の出版直後に急死され、これが遺作となってしまった。これまで随分多くの本で楽しませてもらったので、あらためてご紹介させていただく。

<合掌>

『からくり民主主義』
一定の図式にあてはめてわかったつもりの世論に逆らう「ものわかりの悪い」著者の抱腹絶倒のルポである。

『トラウマの国』
思わず爆笑してしまった後に、「他人事ではない」ことに気づいて、ぞっとしてしまう自分を発見する。

『弱くても勝てます』
「ドサクサ」に紛れてコールドゲームで勝ってしまうという、開成高校野球部の「弱者の戦略」を分析する。


『やせれば美人』
全国津々浦々の<隠れ愛妻家>のお父さんたちに贈る、ぼのぼのと心に染みる<表彰状>のような本なのだ。

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『すべての見えない光』

(Aドーア ハヤカワepi文庫)

それは、夕暮れどきに、空から大量に降ってくる。風に乗って塁壁を越え、屋根の上で宙返りし、家と家が作る谷間に舞い落ちる。通り全体でビラが渦巻き、石畳の上で白く光る。

住民への緊急通知――<ただちに市街の外に退去せよ。>

1944年8月7日、独軍占領下のブルターニュ地方にある古くからの城壁に囲まれたサン・マロの市街は、米軍の爆撃によりほぼ完全に破壊される運命となった。

町の一角にある背が高く幅の狭い家の最上階で、低いテーブルにかがみ込んでいたのは、幼い頃に白内障で視力を失った16歳の少女、マリー=ロール・ルブラン。

独軍の侵攻迫るパリから、国立自然史博物館に勤める父と共に、大叔父を頼って避難してきたのだが、父は陰謀の容疑で投獄され、一人ぼっちとなっていた。

そこから通り5本分隔てた、要塞として使っていたホテルの地下で生き埋めとなり、身動きが取れなくなっていたのは、ナチスの通信兵で18歳のヴェルナー。

ドイツの孤児院で育ち、壊れたラジオを修理する技術を見出されて士官学校へと進み、レジスタンスの放送を傍受するために、フランスへと送り出されたのだった。

というわけでこの本は、第二次世界大戦に巻き込まれた少年と少女の、交わるはずのなかった二人の生と魂の揺れ動きを描いた、感動長編ではあるのだが、

あの名作短篇集『シェル・コレクター』で、孤島に暮し「貝を拾い集める」盲目の老学者の秘められた才能が、「孤独」の中で研ぎ澄まされていく様を描きだした、

「空気の匂い」まで感じさせてくれるような、切ないまでに美しい「自然描写」の力は、この作品でも存分に発揮されていると言わねばならない。

たとえば、サン・マロで初めて海に触れたマリーも貝殻集めに夢中になる。音や匂い、触覚、熱感覚などにより鮮やかにその場の情景を浮かび上がらせてくれる。

誕生日に父親が作る木製の立体パズルを、マリー=ロールはいつも解いてみせる。パズルは家の形になっていることが多く、たいていは小物が隠されている。それを開くには、頭を絞り、手順を踏まなければならない。

住んでいる地区の精巧なミニチュア模型を作り、目の見えない娘に何度も触らせて、一人で外出できるようにしてくれるような、優しい父との触れ合い、など。

目に見える光のことを、我々はなんと呼んでいるかな?色と呼んでいるね。だが、電磁波のスペクトルは、ゼロから無限まで広がっているから、数学的に言えば、光はすべて目に見えないのだよ。

孤児院の屋根裏部屋で、何とか修理できたラジオから雑音混じりに流れてきたフランス語の講義に、幼い妹とこっそり耳を澄ませていた甘酸っぱい思い出、などなど。

冒頭の<爆撃の日>へと至るまで、二人がそれぞれ別々に歩んできた、時代の荒波に翻弄される道のりが、交互に短いエピソードとして折り重ねられていきながら、

“見えない光”に導かれるように、劇的な出会いの場面へと収束していく中で、見事に回収されていったかに見えるのだが。

さて、二人の運命は、どうなってしまうのか?

あとは是非、ご自分でお確かめいただきたい。これは暇人がここ数年に出会った中でも、極上の傑作であると、強くお勧めする次第である。

1万もの「きみがいなくてさびしい」や、5万もの「愛してる」、憎しみのメール・・・が、人目につかず、迷路のようなパリの上空を行き交い、戦場や墓の上空を、・・・わたしたちが国家と呼ぶ、傷つき、つねに移ろう風景の上空を飛び交っている。

<だとすると、魂もそうした道を移動するのかもしれないと信じるのは、それほど難しいことだろうか。>

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『イマジナリー・ネガティブ』―認知科学で読み解く「こころ」の闇―

(久保<川合>南海子 集英社新書)

対象(世界)と自分の関係性において、自分がどのように対象を認識するかだけでなく、認識を自分はどのように対象へ付加していくのか?こころと世界はどのようにつながっているのか?

<このようなこころの働きにアプローチする研究の概念が「プロジェクション」です。>

人間は、自分をとりまく物理世界から情報を受け取り、それを処理して表象を作り出しているが、それは人間のこころの働きの半分にしか過ぎず、

実はもう半分では、そこで作り出した表象を物理世界に映し出し、自分で意味づけした世界の中で、様々な活動をしている。

その一連のこころの働きを「プロジェクション」と名付けたのだ。(2015年に認知科学の鈴木宏昭氏が初めて提唱した概念だという。)

「プロジェクション」と一言でいっても、それは「ソース(投射元)」と「ターゲット(投射先)」の関係から、3つの投射タイプに区別することができる。

一つ目は目の前の世界を見たままにとらえる「通常の投射」で、ソースとターゲットが一致しているという、説明するのが申し訳ないくらい当たり前のケース。

二つ目は「いま、そこにない」ことを「いま、ここにある」ものに映し出す「異投射」で、過去の事実など実在しない想像上のモノがソースに投射されるケース。

そして三つ目が「見えない」けれど「たしかにそこにある」という「虚投射」で、幻覚や幽霊など投射される先にソースが存在しないケースである。

主体内部の世界が現実の外部世界とつながることで、主体にとってさまざまな意味や価値が生まれます。それがプロジェクションによってもたらされる効果です。そうして主体にもたらされる効果には、良いものも悪いものもあります。

というわけでこの本は、前著『「推し」の科学』で、プロジェクションのポジティブな側面から、認知科学の最新の概念を紹介してくれた著者が、

今度はそのネガティブな側面から、プロジェクションがもたらす効果の様々な事例を取り上げ、<私たちが簡単に他者に操られてしまう理由>を解き明かすものだ。

悩みを抱えて苦しんでいる人の、内的世界のもやもやと解決策を目の前の壺に投射させ、「この壺が私を救ってくれる」と思いこませてしまう「霊感商法」。

複数の人間が台本に沿った役割を演じて、対象者をその舞台に引きずり込み、「子どもの危機を私が救う」という自作の物語を演じさせてしまう「オレオレ詐欺」。

自らが想定する「あるべき現実」と、目の前の現実が乖離していることへの不満から、その乖離を埋めるための便利な道具として仮設を用意する『陰謀論』。

などなど、他者によってこころを操られたり、自分を自身で無意識に縛ってしまったりすることで生じる、ネガティブな事例が取り上げられ、分析されていく。

あなたが自分のプロジェクションを自在に操作できるということは、他者からもあなたのプロジェクションが操作されうるということでもあるのです。また、あなたが意識しているプロジェクションを操作できるということは、意識できないプロジェクションは操作しにくいということでもあります。

他者にプロジェクションが操作されてしまったら、どんなことが起るのか?無意識のプロジェクションから、どんなことが生じるのか?

「いま、そこにない」ことを想像して「いま、ここにある」現実へ投射する、プロジェクションというこころの働きが、人間である私たちを深く悩ませている。

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『モモ』

(Mエンデ 岩波少年文庫)

ある日のこと、廃墟にだれかが住みついたという話が、みんなの口から口へつたわりました。それは子どもで、どうも女の子らしい、すこしばかりきみょうなかっこうをした子なので、はっきりしたことは言えない、名前はモモとかなんとかいうそうな――こういう話でした。

背が低く、やせっぽちで、古ぼけただぶだぶの男物の上着を身にまとった、浮浪児で年齢不詳のその女の子を、町の人々はみんなで面倒を見てあげることにする。

大人たちは力を合わせて、モモの住処をできるだけ住みやすい所にし、そのあと今度は子どもたちが、食べ物のお裾分けを持ってやってくるようになった。

<こうして、小さなモモと近所の人たちとの友情がはじまったのです。>

親切な人たちのところに転がりこむことができて、モモはまったく運がいい子だと誰もが思っていたが、実は町の人たちの方こそ「運がよかった」ことに気付き、

時がたつにしたがい、「この子がいつかまたどこかに行ってしまいはしないか」と心配するほど、この小さな女の子がなくてはならない存在になっていった。

モモのところには、入れ替わり立ち代わりみんなが訪ねてきた。いつでも誰かがモモのそばに座って、なにか一生懸命に話し込んでいた。

モモは「相手の話を聞く」という、<それこそほかにはれいのないすばらしい才能をもっていたのです。>

というこの本は、1974年にドイツ児童文学賞を受賞した児童文学の名作で、暇人の子どもたちも小学生の頃に読んで、感動していたような覚えがあるのだが、

今回なぜか読書会のテーマ本になり、暇人自身はまだ読んだことがなかったので、遅ればせながら読んでみることになった次第なのである。

さてそんなある日、町に時間貯蓄銀行の外交員を名乗る「灰色の男」たちがやって来て、無駄遣いしている時間を銀行に預けろと迫るようになり・・・

大人たちは必死で時間を節約し、追い立てられるようにせかせかと働き、子どもたちは「遊び方」まで教わるような暮らしを強いられるようになっていった。

誰も自分の所に来なくなった異変の中で、人間から奪った時間を糧としている「灰色の男」たちの企みを知ったモモは、不思議な亀カシオペイアに導かれて・・・

ここから始まる、「灰色の男」たちに奪われてしまった「時間」を取り戻そうというモモの大冒険の物語は、どうぞご自分で(お子様と一緒に)お読みください。

暇人は正直に言って、「時間泥棒」との闘いのくだりはあまり気持ちが乗らなかったので、ちょっと共感できた部分だけ取り上げておくことにしたい。

「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」

モモの特別好きな親友の一人、道路掃除夫のベッポは何か聞かれてもただニコニコ笑うばかりで返事もしない、「無口な」おじいさんだった。じっくり考えるからだ。

答えるまでもないと思えば黙っており、答えが必要な時には何時間でも考えてしまうのだ。でも、モモだけはいつまでも返事を待つので、彼の言うことが理解できた。

「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからんし、息もきれてない。」
ベッポはひとりうなずいて、こうむすびます。
「これがだいじなんだ。」


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『万博と殺人鬼』

(Eラーソン ハヤカワNF文庫)

19世紀末のシカゴ、工場の煙と汽車の喧騒のさなかに二人の男が住んでいた。二人ともブルーの目をしたハンサムな男で、ともにみずから選んだ職業に並はずれた腕前をもっていた。

一人は建築家のダニエル・バーナム、ワシントンのユニオン・ステーションなどアメリカの有名な建築を数多く手がけてきた、高層建築の先駆者だった。

そしてもう一人はホテル経営者のマジェット、自らのホテルを改造してH・H・ホームズの名で容赦なく多くの人々の命を奪った、連続猟奇殺人犯だった。

彼ら二人が顔を合わせたことは――少なくとも公式には――一度もなかったが、彼らの運命は一つの魅惑的なイベントによってつながっていた。

それが、南北戦争に匹敵するほどの変化をアメリカ社会にもたらしたといわれたイベント、1893年に開催を迎えようとしていたシカゴ万国博覧会である。

というこの本は、史上最大規模のイベントに沸き立つシカゴを舞台に、そんな二人の人生を巧妙に縒り合わせた、複雑なタペストリーを織り上げることで、

「底知れぬ恐怖と歴史の感動とをもたらす一種のノンフィクション・ノヴェル」(解説:巽孝之)なのであり、エドガー賞(犯罪実話部門)受賞に輝いている。

万博会場建設の準備から、ようやく迎えたオープニング、そして波乱万丈の閉幕に至るまで、様々な建築家が入り乱れる、光り輝く<ホワイトシティ>の物語と、

若い女性を次々におびき寄せ、毒牙にかける殺人鬼となっていく様が、息つかせぬほどスリリングに描かれていく、暗く怪しい<ブラックシティ>の物語と。

平行して進行していくどちらの物語も、読み応え十分なのだが、期待に反してまったく交差することはないため、別々の作品でもよかったのではと思わないでもない。

暇人は一応専門が建築なので、パリ万博のエッフェル塔にまさるものをと、衆知を集めて挑んだというシカゴ万博の大観覧車のエピソードが興味津々だった。

「シカゴ世界博覧会で大きなプロジェクトを手がけることになった。縦に回転する直径75メートルの輪っか(ホイール)を建設する予定だ」

この輪っかには36台のゴンドラがついていて、それぞれはブルマンの客車にほぼ等しい大きさで60人が乗れるようになっており、ランチカウンターもついている。

最大の関門は8本の支柱の上に巨大な回転軸を据える作業だった。付属品を含めて回転軸の重量はおよそ64トンにもなる。

<そんなに重いものをこれほどの高さまでもちあげる工事は過去一度もなかった。>・・・

さて、なぜ人は与えられたごく短い生涯をかけて不可能なことを可能にしようと挑戦し、またある人は哀しみを生み出そうとするのか。

高度資本主義市場においてプライヴァシーがいかに巧妙に搾取され商品化されてきたかを活写した『裸の消費者』でデヴューした著者が、この本で問いかけようとし、

<流血と煙と土埃のなかで語られるのは、生命のはかなさについてである。>

つまるところ、それは二つの力――善と悪、光と闇、純白の都会(ホワイトシティ)と暗黒世界(ブラックシティ)――のあいだに起こる避けがたい衝突なのだろう。

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『サンスクリット入門』―インドの思想を育んだ「完全な言語」―

(赤松明彦 中公新書)

ギリシア語を話すギリシア人やペルシア語を話すペルシア人はいても、サンスクリット語を話すサンスクリット人は今もいないし昔もいなかった。どうしてだろうか。

<「サンスクリット」が、言語に付けられた名称だからである。>

この言語が「サンスクリタ(完全なものにされた)」と呼ばれるのは、紀元前350年頃にパニーニの手になる「文法」によって、その体系が形作られたからだ。

つまり、サンスクリットという奇妙な言語は文法が先にある言語なのであり、それを学ばないと習得できないため、母語として自然に身につける人はいないのである。

さて、天平年間の8世紀前半に、仏典とともに日本に伝えられた「悉曇文字」と共に、「梵語(サンスクリット)」を本格的に身につけたのは、「空海」だった。

「空海」こそ日本史上「最高の知性」であると尊崇する暇人が、サンスクリットの世界を覗きみてみたいという思いに駆られたのには、そんな理由があった。

文字と発音(もちろん梵字は無理なので、ローマ字表記で写してある)や音声規則などの説明の後、いよいよ具体的な文例で文法事項を学んでいくことになるのだが、

aham brahmasmi. アハム ブラフマースミ
外連声をはずして単語に分けて書くと、次のようになる
aham + brahma + asmi.


「私はブラフマンです。」という1人称の例文から始まって、2人称「君はそれである。」、3人称「叡智はブラフマンである。」と、淡々と解説される中で、

「aham」という1人称の代名詞には、主格、対格、具格、与格、奪格、属格、処格、呼格の8つの格と、単数、両数、複数の3つの数の組み合わせがあり・・・

「合計24の変化形がある」という変化表が、これ以降の例文のすべてについて回ってきて、「生のサンスクリットを学んで欲しい」という本気度が伝わってくる。

もとより、軽い気持ちで齧ろうとした身としては、語形変化どころか、見慣れぬ語彙のオンパレードに、身のほど知らずの挑戦であったかと、後悔もしかけたのだが、

na ca drstad garistham pramanam asti.
そして、見られたことよりも重大な認識手段(プラマーナ)は存在しない。


「重い」の最上級 garistha- が訳では「より重い」となっているのは・・・という形容詞の比較級と最上級の解説のための例文であることは置いておいて、

なんとこれは、世親(ヴァスバンドゥ)の『倶舎論』からの引用なのであり、他にも『マハーバーラタ』や『マヌ法典』などが、原文で味わえるのが嬉しかった。

「仏」→「buddha 仏陀」、「僧」→「samgha 僧伽」など、実は日本語の中に取り入れられたサンスクリットの語彙は数多くあるわけだが、

最近では英語その他の欧米語を経由して日本語に入ってきた、「ジャングル」→「jangala 乾燥した」などのサンスクリットもあるという。

インターネットの仮想空間での自分の分身を「アバター」と言うが、これは「avatara 権現」から来ている。「アヴァターラ」は、ヴィシュヌ神がクリシュナのような人間の姿をとって地上に顕現することを言うものである。

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『楽園の犬』

(岩井圭也 角川春樹事務所)

サイパンにはあらゆる種類のスパイが跋扈している。・・・せいぜい十万人ほどの南洋群島に、なぜ、これだけスパイが溢れているかわかるか?

と顔色一つ変えずに尋ねた堂本の問いに対する、「米英と開戦すれば、海軍の前線基地になるためでしょうか」という麻田の答えは、一点だけの訂正を受けた。

「開戦は仮定の話ではない。時間の問題だ。いずれ必ず来たる開戦の瞬間に備えて、誰もが情報収集をしているのだ。開戦した時点で、大勢は決している。」

就職難の時代に東大を卒業し、女学校の英語教師となった麻田は、妻子も得て平凡だが充足した日々を送っていた。しかし、持病の喘息が悪化して失職してしまう。

そんな時、拓務省に所属する旧友から「君、南洋に行けるか」と持ちかけられた、転地療養を兼ねた南洋庁サイパン支庁への赴任話は、渡りに船だったのだが・・・

「赴任にあたっては一つ、頼まれてほしいことがある。サイパン駐在武官補の堂本少佐の手足となって情報収集に励んでほしい。ただし余人には明かさないこと。」

<つまり・・・海軍のスパイとして市民を欺け、ということか>

というこの本は、太平洋戦争勃発直前の1940年に、日本海軍のために情報を集める“犬”となる密命を受けた麻田を主人公とする<異色の>スパイ小説である。

いわゆるスパイの活動には、敵国に潜んで機密情報を盗もうとする「諜報」と、そうした諜者から機密を守る「防諜」との2種類があるわけで、

普通スパイ物と言えば前者で、敵地におけるスパイ暗躍のスリルを味わうものだが、この物語では後者で、スパイを見つける側の防諜スパイという点が異色なのだ。

米国にサイパン島内の情報を提供していたという遺書を残して自殺した、鰹漁船団の大船長・玉垣と米国とのつながりの謎を解く第1章。

米国人と島民の混血で通訳としてサイパン有数の知識人として知られる男の養女となった、サイパンの大酋長の孫娘・ローザの、スパイ疑惑を追いかける第2章。

そのローザの養父・セイルズが、唐突に海軍飛行場の傍に転居し隠棲した、その行動の意図を探るために接触を図る第3章。

そして、日米開戦の告知と同時に、突如行方をくらましてしまった堂本少佐の失踪への加担を、後任の在勤武官補から疑われる、今回書下ろしの第4章。

といった具合で、長編のスパイ物と言いつつも、ひと連なりのお話の中に、いくつもの毛色の違った謎を埋め込んで、謎解きも楽しむというミステリー仕立てなのだ。

サイパンに来てからというもの、人の死に触れることが増えた。首を吊った鰹漁師。夫婦になれず毒を呑んだ男女。皇民を自負する殺人者。

敵前逃亡の汚名を着せられた堂本は、「死んでいてほしい」という周囲の望み通り、南洋桜の下で白骨化した遺体となって発見される。

「なぜ、死んだのか。なぜ、無様でも生きていてくれなかったのか。」

腹の底でふつふつと怒りを滾らせた麻田が、自身はどんな死に様を選ぶことになったのか。それはぜひご自分で、新たに用意された「終章」で確かめていただきたい。

<死に触れるたび、どうしようもない生命の軽さが、記憶の底に降り積もった。人の命がこんなにも美辞麗句で装飾され、こんなにも粗末に扱われていることを、麻田はこれまで知らなかった。>

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暇人肥満児

どのような話題であろうとも、その分野の専門家以外の人が相手であれば、薀蓄を語りだして恐れを知らないという「筋金入りの」素人評論家。本業は「土建屋の親父」よろしくお付き合い下さい。

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