(カズオ・イシグロ 早川書房)

「・・・この歌の歌詞がどうであれ、踊っているときのわたしの頭には、自分勝手な解釈がありましたから。ある女の人がいて、赤ちゃんを産めない体だと言われていました。でも、奇蹟が起こって、赤ちゃんを授かります。それで、その人は嬉しくて、赤ちゃんをしっかり抱き締めます。でも、恐れもあります。何かが起こって、この赤ちゃんから引き離されるのではないか。それで、ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで・・・と歌うのです。」

誰もいない「寮」の部屋で、枕(赤ちゃんに見立てた)を胸に抱きながら、
「オー、ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで・・・」というテープのリフレーンに合わせ、
目を閉じてスローダンスを踊っていた、11歳のキャシー・H。

31歳になった彼女は、いまやベテランの優秀な「介護人」として、「提供者」となった、かつての「寮仲間」達の世話をする日々を送っていた。

彼女の「思い出語り」という趣向で、淡々とした語り口の中で、丹念に描かれていく「青春の日々のスケッチ」

それは「どこにでもありそう」な青春の一場面であるように見えて、実際には「どこにもありえない」、一種異様な世界の実像を少しずつ露わにしながら、

逃れることのできない「運命」に弄ばれていく、彼らの「仮想の人生」に、わたしたちの「リアルな人生」を凌駕する、「真実味(リアリティ)」という凄みを与えている。

「踊るキャシー」を見て涙していた「マダム」との再会。
それは、寮生の時には「近寄ることもできぬ大人」として類推するしかなかった、その「涙の理由」を知るための「冒険」でもあった。

「・・・あの日、あなたが踊っているのを見たとき、わたしには別のものが見えたのですよ。新しい世界が足早にやってくる。科学が発達して、効率もいい。古い病気に新しい治療法が見つかる。すばらしい。でも、無慈悲で、残酷な世界でもある。そこにこの少女がいた。目を固く閉じて、胸に古い世界をしっかり抱きかかえている。心の中では消えつつある世界だとわかっているのに、それを抱き締めて、離さないで、離さないでと懇願している。わたしはそれを見たのです。」

これ以上、ここに詳しく書くことはできない。(一風変わった「SF」といってもいい作品なので、ネタバレになってしまうのである。)

この素晴らしい小説を、自分で味わうという楽しみを奪ってしまう権利はわたしにはない。

ぜひともお読み下さい。私にとって、本年度最高の「収穫」であったと断言しておきます。