(福岡伸一 講談社現代新書)
シュレーディンガーは『生命とは何か』の中できわめて重要な二つの問いを立てていた。ひとつ目は、遺伝子の本体はおそらく非周期性結晶ではないか、と予言したことである。ふたつ目は、いささか奇妙に聞こえる問いかけだった。それは「なぜ原子はそんなに小さいのか?」というものだった。
「物理法則」というものは、多数の原子の運動に関する「統計的な記述」であって、それはあくまで原子全体の「平均的なふるまい」を近似的に述べたものにすぎない。
その「統計学」によれば、平均から離れて、例外的なふるまいをする粒子の頻度は、「平方根の法則」と呼ばれるものに従うことが知られている。
ここに100個の原子からなる生命体がいたとすると、その10%の10個(ルート100)程度の粒子は、その生命体の活動から外れて、勝手なふるまいをすることを覚悟しなくてはならない。
これが100万個の原子からなる生命体ということになれば、そのルートは1000個、つまり「誤差率」は0.1%と劇的に改善されることになる。
生命現象に必要な秩序の精度を上げるためにこそ、「原子はそんなに小さい」、つまり「生物はこんなに大きい」必要があるのだ。
「生命とは何か? それは自己複製を行うシステムである。」という二十世紀の生命科学が到達した答え、「DNAの二重ラセン」の分子生物学的な生物観から出発し、
そんな「プラモデルのようなアナロジーでは説明不可能な重要な特性」=「何か別のダイナミズム」を追い求めた著者が、様々な遍歴と試行錯誤の上に、
「生物と無生物とを識別できるもの」として提示して見せたのは、「動的平衡」における「かたちの相補性」という概念だった。
シェーンハイマーが提唱した「動的平衡」の概念とは、
肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支が合わなくなる。
「もう牛を食べても安心か」(福岡伸一 文春新書)
というものであり、
それを可能にしているのが、ジグゾーパズルになぞらえられるような「かたちの相補性」だというのである。
生命とは動的平衡にある流れである。生命を構成するタンパク質は作られる際から壊される。それは生命がその秩序を維持するための唯一の方法であった。しかし、なぜ生命は絶え間なく壊され続けながらも、もとの平衡を維持することができるのだろうか。その答えはタンパク質のかたちが体現している相補性にある。生命は、その内部に張り巡らされたかたちの相補性によって支えられており、その相補性によって、絶え間のない流れの中で、動的な平衡状態を保ちえているのである。
これほど知的にエキサイティングな読書を体験できたことは、今年最大の収穫であった。絶対にお奨めの1冊である。
本日もお読みいただいた皆様どうも有り難うございました。
今後も読んであげようと思っていただけましたなら、
どうぞ応援のクリックを、お願いいたします。
↓ ↓ ↓
シュレーディンガーは『生命とは何か』の中できわめて重要な二つの問いを立てていた。ひとつ目は、遺伝子の本体はおそらく非周期性結晶ではないか、と予言したことである。ふたつ目は、いささか奇妙に聞こえる問いかけだった。それは「なぜ原子はそんなに小さいのか?」というものだった。
「物理法則」というものは、多数の原子の運動に関する「統計的な記述」であって、それはあくまで原子全体の「平均的なふるまい」を近似的に述べたものにすぎない。
その「統計学」によれば、平均から離れて、例外的なふるまいをする粒子の頻度は、「平方根の法則」と呼ばれるものに従うことが知られている。
ここに100個の原子からなる生命体がいたとすると、その10%の10個(ルート100)程度の粒子は、その生命体の活動から外れて、勝手なふるまいをすることを覚悟しなくてはならない。
これが100万個の原子からなる生命体ということになれば、そのルートは1000個、つまり「誤差率」は0.1%と劇的に改善されることになる。
生命現象に必要な秩序の精度を上げるためにこそ、「原子はそんなに小さい」、つまり「生物はこんなに大きい」必要があるのだ。
「生命とは何か? それは自己複製を行うシステムである。」という二十世紀の生命科学が到達した答え、「DNAの二重ラセン」の分子生物学的な生物観から出発し、
そんな「プラモデルのようなアナロジーでは説明不可能な重要な特性」=「何か別のダイナミズム」を追い求めた著者が、様々な遍歴と試行錯誤の上に、
「生物と無生物とを識別できるもの」として提示して見せたのは、「動的平衡」における「かたちの相補性」という概念だった。
シェーンハイマーが提唱した「動的平衡」の概念とは、
肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支が合わなくなる。
「もう牛を食べても安心か」(福岡伸一 文春新書)
というものであり、
それを可能にしているのが、ジグゾーパズルになぞらえられるような「かたちの相補性」だというのである。
生命とは動的平衡にある流れである。生命を構成するタンパク質は作られる際から壊される。それは生命がその秩序を維持するための唯一の方法であった。しかし、なぜ生命は絶え間なく壊され続けながらも、もとの平衡を維持することができるのだろうか。その答えはタンパク質のかたちが体現している相補性にある。生命は、その内部に張り巡らされたかたちの相補性によって支えられており、その相補性によって、絶え間のない流れの中で、動的な平衡状態を保ちえているのである。
これほど知的にエキサイティングな読書を体験できたことは、今年最大の収穫であった。絶対にお奨めの1冊である。
本日もお読みいただいた皆様どうも有り難うございました。
今後も読んであげようと思っていただけましたなら、
どうぞ応援のクリックを、お願いいたします。
↓ ↓ ↓