―オタクから見た日本社会―
(東浩紀 講談社現代新書)

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近代は大きな物語で支配された時代だった。それに対してポストモダンでは、大きな物語があちこちで機能不全を起こし、社会全体のまとまりが急速に弱体化する。日本ではその弱体化は、高度経済成長と「政治の季節」が終わり、石油ショックと連合赤軍事件を経た七十年代に加速した。オタクたちが出現したのは、まさにその時期である。

その社会の成員をひとつにまとめあげるための単一の大きな社会的規範、「理念」や「イデオロギー」といった「大きな物語」が有効であった時代を「理想の時代」と呼ぶことにすれば、戦後日本の「理想の時代」は70年に幕を閉じ、

その後の時代は、社会的な現実が与えてくれる価値規範よりは、虚構が与えてくれる価値規範を「あえて」重視し、フェイクとしての「大きな物語」の「断片」としての「小さなドラマ」を「見せかけ」に消費するという「虚構の時代」に突入することになる。

その「虚構の時代」が終焉した95年を象徴する、もっとも華々しい例が、サブカルチャーの想像力で教義を固め、最終的にテロまで行き着いてしまったオウム真理教の存在だった。

そして、

近代の人々は、小さな物語から大きな物語に遡行していた。近代からポストモダンへの移行期の人々は、その両者を繋げるためのスノビズムを必要とした。しかしポストモダンの人々は、小さな物語と大きな非物語という二つの水準を、とくに繋げることなく、ただバラバラに共存させていくのだ。

作品の表層(ドラマ)という「小さな物語」においては、「萌え要素」の組み合わせのみで、「深い」「泣ける」と堪能しながら、

作品の深層(システム)は「大きな非物語」という「データベース」に還元した上で、自分だけのシミュラークル(ありえた別の物語)を構築することを欲望する。

この「解離的」なあり方のどこにも、他者が介在する余地などありはしない。

人間が動物と異なり、自己意識をもち、社会関係を作ることができるのは、まさにこのような(他者の欲望を欲望するという)間主体的な欲望があるからにほかならない。動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする

爛熟し情報化した日本の消費社会を、オタク文化を通して見る限り、(戦後のアメリカ型消費社会の拡大という潮流に50年遅れて、)

日本は「動物の時代」に入ったと言わざるを得ないのだろう。

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