(Sジジェク 紀伊国屋書店)
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強迫的に映画を録画しまくるビデオ・マニア(私もそのひとりだ)ならほとんど誰もが知っているはずだ――ビデオデッキを買うと、テレビしかなかった古きよき時代よりも観る映画の本数が減るということを。われわれは忙しくてテレビなど観ている暇がないので、夜の貴重な時間を無駄にしないために、ビデオに録画しておく。後で観るためだ(実際にはほとんど観る時間はない)。実際には映画を観なくとも、大好きな映画が自分のビデオ・ライブラリに入っていると考えるだけで、深い満足感が得られ、時には深くリラックスし、無為(far niente)という極上の時を過ごすことができる。
「まるでビデオデッキが私のために、私の代わりに、映画を観てくれているかのようだ」
最近私は、新刊本の購入を控えるようになった。厳しい経済情勢のなかで自由に使えるお金が激減してしまったということもあるが、
人生80年を全うできたとしても、残りはあと25年、たとえ今の読書ペースを維持できたとしても、これから読破できる本はわずかに2500冊。
これまでに「後で読むから」ととりあえず購入し、本棚に並べておくだけで安心していた本のすべてを、残された時間の中では到底読みきれないということに、今さらながら突然気付いたのである。
<相互受動性 interpassivity>(対象そのものが私から私自身の受動性を奪い取り、その結果、対象そのものが私の代わりに、楽しむという義務を肩代わりしてくれる)の居心地のよさを維持するために、<現実界 real>的なことが起きるのを阻止するために、狂ったように能動的になり<偽りの行動 false activity>に走る。
ラカンに言わせれば、「これこそが強迫神経症者の典型的な戦略である」ということになるのだろうか。
というわけで、
この本は、現代思想界の奇才・ジジェクによる "How to read Lacan" なのではあるが、しかしこれは、<想像界・象徴界・現実界><対象a>や<大文字の他者>など、ラカンが駆使した難解な精神分析用語の解説をしてあげようという本ではまったくない。
そういう本がお望みだという方には、『生き延びるためのラカン』(斎藤環 バジリコ)の方がお勧めである。
「最良のラカン読解法とは、ラカンの読書法をみずから実践すること、すなわちラカンとともに他者のテクストを読むことではなかろうか。」
というジジェクは、この本で今日の政治、社会現象、文化、芸術などなどを、ラカン的に読もうとしているわけで、これが知的好奇心を刺激するとても面白い読み物となっている。
ラカンになって『カサブランカ』を観れば、「あの3.5秒の間」に「二人はそれをしたのか、しなかったのか。」という、誰もが抱くに違いない疑問など、簡単に氷解してしまうというわけなのだ。
そして、確かに「ラカンはワカラン」と両手を挙げて降参する以外ないほどに、その理論は難解なのではあるが、難解は難解のままに置いておいたとしても、
いざ「道具」として使ってみれば、ラカンという「ハサミ」の切れ味は怖ろしく鋭いことを思い知ることになるのだった。
閉ざされた集団の全員が、ある醜悪な事実を知っている(しかも「全員が知っている」ということを全員が知っている)。にもかかわらず、誰かがその事実を不注意に口にすると、全員が動揺してしまう。なぜか。口にされたのは誰にとっても耳新しい事実ではないにもかかわらず、どうして誰もが当惑するのだろうか。それは知らないふりをする(知らないかのようにふるまう)ことができなくなったから。いいかえれば、いまや<大文字の他者>がそれを知っているからだ。
本日もお読みいただいた皆様どうも有り難うございました。
今後も読んであげようと思っていただけましたなら、
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「まるでビデオデッキが私のために、私の代わりに、映画を観てくれているかのようだ」
最近私は、新刊本の購入を控えるようになった。厳しい経済情勢のなかで自由に使えるお金が激減してしまったということもあるが、
人生80年を全うできたとしても、残りはあと25年、たとえ今の読書ペースを維持できたとしても、これから読破できる本はわずかに2500冊。
これまでに「後で読むから」ととりあえず購入し、本棚に並べておくだけで安心していた本のすべてを、残された時間の中では到底読みきれないということに、今さらながら突然気付いたのである。
<相互受動性 interpassivity>(対象そのものが私から私自身の受動性を奪い取り、その結果、対象そのものが私の代わりに、楽しむという義務を肩代わりしてくれる)の居心地のよさを維持するために、<現実界 real>的なことが起きるのを阻止するために、狂ったように能動的になり<偽りの行動 false activity>に走る。
ラカンに言わせれば、「これこそが強迫神経症者の典型的な戦略である」ということになるのだろうか。
というわけで、
この本は、現代思想界の奇才・ジジェクによる "How to read Lacan" なのではあるが、しかしこれは、<想像界・象徴界・現実界><対象a>や<大文字の他者>など、ラカンが駆使した難解な精神分析用語の解説をしてあげようという本ではまったくない。
そういう本がお望みだという方には、『生き延びるためのラカン』(斎藤環 バジリコ)の方がお勧めである。
「最良のラカン読解法とは、ラカンの読書法をみずから実践すること、すなわちラカンとともに他者のテクストを読むことではなかろうか。」
というジジェクは、この本で今日の政治、社会現象、文化、芸術などなどを、ラカン的に読もうとしているわけで、これが知的好奇心を刺激するとても面白い読み物となっている。
ラカンになって『カサブランカ』を観れば、「あの3.5秒の間」に「二人はそれをしたのか、しなかったのか。」という、誰もが抱くに違いない疑問など、簡単に氷解してしまうというわけなのだ。
そして、確かに「ラカンはワカラン」と両手を挙げて降参する以外ないほどに、その理論は難解なのではあるが、難解は難解のままに置いておいたとしても、
いざ「道具」として使ってみれば、ラカンという「ハサミ」の切れ味は怖ろしく鋭いことを思い知ることになるのだった。
閉ざされた集団の全員が、ある醜悪な事実を知っている(しかも「全員が知っている」ということを全員が知っている)。にもかかわらず、誰かがその事実を不注意に口にすると、全員が動揺してしまう。なぜか。口にされたのは誰にとっても耳新しい事実ではないにもかかわらず、どうして誰もが当惑するのだろうか。それは知らないふりをする(知らないかのようにふるまう)ことができなくなったから。いいかえれば、いまや<大文字の他者>がそれを知っているからだ。
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幼きものに 二 田中冬二
幼い孫の靴下に穴があいている
―おじいちゃん
読みもしない本なんか買わずに
―お酒もあんまり飲まないで
靴下を買っておやりなさい
私が私に言う