(池谷裕二 朝日出版社)

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手首を動かしたくなったとき、たしかに、その意図が生まれた経緯には自由はない。動かしたくなるのは自動的だ。でも、「あえて、今回は動かさない」という拒否権は、まだ僕らには残っている。
この構図は決して「自由意志」ではないよね。自由意志と言ってはいけない。「準備」から「欲求」が生まれる過程は、オートマティックなプロセスなので、自由はない。勝手に動かしたくなってしまう。


私たちが「手首を動かす」時には、

「手を動かそう」と意図し、「あ、動いた」と知覚する、認知レベル(心)の指標と、手を動かすために「準備」し、実際に手に動けと「指令」を出す、脳活動レベル(体)の指標とがある。

普通に考えれば、「意図」→「準備」→「指令」→「知覚」となるのが当然と思うのだが、実は、「準備」→「意図」→「知覚」→「指令」の順番になっている。

というのが、

『進化しすぎた脳』 (池谷裕二 朝日出版社) でも紹介されていた、有名な実験の紛れもない結果なのである。

私が「動かそう」と思う前に、すでに私の脳は動くつもりで「準備」を始めている、というのも恐るべき話であるが、動けという「指令」が行く前に、「あ、動いた」と感じてしまうというのも、衝撃的ではある。

「君はあと0.5秒で手を動かしたくなる」

脳研究者があなたの脳活動を観察していれば、あなたが「何をしたくなるか」など、事前にお見通しだというわけなのだ。

そこに「自由意志」など存在するのだろうか?

「行動したい」という「欲求」よりも先に「行動」の「準備」は始まっていたとしても、実際に「行動する」までには、まだ「執行猶予」の時間(長ければ1秒近く)があるのだから、

そうじゃなくて、僕らに残された自由は、その意志をかき消すことだから、「自由“意志”」ではなくて、「自由“否定”」と呼ぶ。

これが、「<手を上げる>から<手が上がる>を引き算すると何が残るか」という宿題の「答え」(「自由否定」をしなかったという意志が残る)だ、

というこの本は、

いま日本で最も新鮮で刺激的な知性を発信する一人である脳科学者の池谷さんが、出身高校の後輩たちを相手に、「切れば血の吹き出る新鮮な情報」を惜しげもなく披露して、脳科学の「最前線」を語り合った授業の記録なのである。

そして、

「自分の心を考える自分がいて、でも、そんな自分を考える自分がさらにいて、それをまた考える自分がいて・・・」と、再帰(リカージョン)を続ければ、あっという間にワーキングメモリが溢れてしまうという、3日間の集中講義の体験から、

脳の作動そのものは単純なのに、そこから生まれた「私」は一見すると複雑な心を持っているように見えてしまうという、

「心」を考える心構えを、一番心が柔軟な時期に学ぶことができた高校生たちを、心の底から羨ましく感じたのだった。

こう考えるとさ、「意図」とか「意志」とか、あるいは「生命っぽさ」というのは、本当にあらかじめそこに存在しているというよりは、意外と簡素なルール、数少ないルールの連鎖で創発されているだけであって、その最終結果を、僕らが単に崇高さを感じてしまっているだけだ、という気がしてこない?

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