(平川克美 筑摩書房)

わたしは現在を大きな時代の転換期であると捉えるべきだと思っている。ただし、アメリカに始まった金融崩壊がその原因であるというようには考えるべきではないと思っている。金融崩壊は、いくつかある移行期的な混乱のなかの一つの兆候を示しているに過ぎないと考えているからである。現在わたしたちが抱えている問題、つまり環境破壊、格差拡大、人口減少、長期的デフレーション、言葉遣いや価値観の変化などもまた、移行期的な混乱のそれぞれの局面であり、混乱の原因ではなく結果なのである。

多くの評論家や政治家が「これは百年に一度の危機である」と右往左往しておきながら、いざそれに立ち向かうに、このわずか十数年間に慣れ親しんできた「右肩上がりの経済」を前提とした言葉遣い以外のなすすべを持たないということ。

たとえば、「株主利益」「レバレッジ」「時価総額」「経済成長戦略」「少子化対策」「高齢化対策」・・・

つまりこの「言葉遣い」こそが「百年に一度の問題」の一つの結果であり、これらの言葉遣いの中に、「百年に一度」の混乱の因子が含まれていると考えるべきではないかというのである。

歴史的な「現在」に対する自分自身の立ち位置を確認するために、戦後の日本社会の変遷を「経済成長率」の推移で指標化し、

「60年安保と高度経済成長の時代」(1956〜73)
「一億総中流幻想の時代」(1974〜90)
「グローバリズムの跋扈」(1991〜2008)

成長率9%の「義」の時代から、3%の「消費の時代」を経て、1%の「金銭一元的な価値観」にたどり着くまで、

日本人の労働に対する意識がどのように変遷していったかを跡付けてみせた著者は、

今私たちがまさに立ち会っている、人口が減少し、高齢化が劇的に進行し、生産活動が停滞し、社会的流動性が失われてゆく「現在」とは、

日本における歴史上始まって以来の総人口減少という事態は、なにか直接的な原因があってそうなったというよりは、それまでの日本人の歴史(民主化の進展)そのものが、まったく新しいフェーズに入ったと考える方が自然なことに思える。

これまで日本を支えてきたシステムが崩れつつあり、新たなシステムに移行する過程で、さまざまな混乱が生じている「移行期的混乱」とも呼ぶべき、歴史的事実なのではないかというのである。

では、私たちはどうすればよいのか?

著者が指し示す未来に向けてのビジョンとは、いったいどのようなものなのか?

わたしたちに判っているのは、文脈的移行期においては、どう考えればよいのかという手近な回答には意味がなく、なぜわたしたちはこんなふうに考えるのかと考え、どう考えてはいけないかという原理的な問い返しをすること以外に、わたしたちの立ち位置を確認することができないということである。

と「受け取り方」によっては、はなはだ無責任な突き放し方をされたように感じるかもしれないが、

「(自分の父親のような)下層中流の日本人が戦後の混乱期をくぐりぬけ、高度経済成長、相対安定期を経て、気がつけば、戸建の家とわずかな現金を残していた」ことに、新鮮な驚きを感じながら、

「自分も含めてこの世代の人間たちが、齢80を越したときにはどれだけの恒産が残っているのだろうか」と、成長の夢を見続けることの虚しさを語る姿に、

いささか胸を突かれながら、この人の見据えている未来を信じてみても悪くはないような気がしたのだった。

経団連をはじめとする財界が「政府に成長戦略がないのが問題」といい、自民党が「民主党には成長戦略がない」といい、民主党が「わが党の成長戦略」というように口を揃えるが、成長戦略がないことが日本の喫緊の課題かどうかを吟味する発言はない。
「日本には成長戦略がないのが問題」ということに対して、わたしはこう言いたいと思う。
問題なのは、成長戦略がないことではない、成長しなくてもやっていけるための戦略がないことが問題なのだと。


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