(橋爪大三郎 大澤真幸 講談社現代新書)

日本は、キリスト教ときわめて異なる文化的伝統の中にある。つまり、日本は、キリスト教についてほとんど理解しないままに、近代化してきた。それでも、近代社会というものが順調に展開していれば、実践的な問題は小さい。しかし、現代、われわれの社会、われわれの地球は、非常に大きな困難にぶつかっており、その困難を乗り越えるために近代というものを全体として相対化しなければならない状況にある。それは、結局は西洋というものを相対化しなければならない事態ということである。

そのためには「どうしたって近代社会の元の元にあるキリスト教を理解しておかねばならない。」という趣旨で、

気鋭の社会学者・大澤真幸が挑発的な質問者となって、「ときに冒涜ともとられかねない問い」をあえて発し、

最も信頼できる比較宗教社会学者の橋爪大三郎が、そもそも「キリスト教というものが何であるか」を答えるという、

これは、実に刺激的な対談なのである。

大澤「ユダヤ教とキリスト教はどう違うか。違いのポイントはどこにあるのでしょう?」

橋爪「ほとんど同じ、です。たったひとつだけ違う点があるとすると、イエス・キリストがいるかどうか、そこだけが違う、と考えてください。」

という問答から始まる第1部は、キリスト教の背景にあるユダヤ教との関係から、啓示宗教としての一神教の基本的な考え方に迫る。

キリスト教のきわめて独創的な側面である「イエス・キリスト」とはなんであるかを考える第2部では、

大澤「イエスは、一方では、自分が殺されることに対して、それを悲しみ、避けたいという気持ちも持っている。しかし他方で、旧約聖書のなかで預言されていることとの関係もあって、自分が処刑されて死なない限りは、事が終わらないこともわかっていたでしょう。ですから、事を成就させるために、弟子たちに暗示をかけて、裏切りへと導いているのではないか。」

橋爪「ユダの裏切りがプロットのために絶対必要なのは、大澤さんの指摘どおりなんだけど、そうすると、福音書で最も大事な役割を果たし、神の計画を完成させているのは、ユダなんです。」

だとか、

大澤「人間には少なくともわからない理由によって、神に愛されたり愛されなかったりする。その究極の姿が『ヨブ記』の主題でもあるわけですけどね。それでもなおかつ、神をどうやって維持していくかというのが、一神教のひとつの重要な課題になる。」

橋爪「そう、その状況で神のことが信じられないようなら、一神教なんて成り立たないんだ。」

なんて、

きっぱり言い切られてみて初めて、先日読んだばかりの『新約聖書』の「福音書」の意味が、ようやく腑に落ちたりもするのだった。

とはいうものの、この本の最大の読ませどころは「キリスト教がその後の歴史・文明にどのようなインパクトを残してきたか」を考える第3部にあるのだから、

キリスト教に対するいささか刺激的な解説は、あくまでそのための「ダシ」にすぎないのではある。

大澤「自然科学を生み出した科学革命は、実は時期的に宗教改革の時期とだいたい重なっています。そのうえ、科学革命の担い手となった学者は、決して信仰心が浅いわけではない。いまはしばしば科学者が宗教批判を熱心にやりますが、科学革命の担い手は、むしろ熱心なキリスト教徒、しかもたいていプロテスタントでした。」

橋爪「自然科学がなぜ、キリスト教、とくにプロテスタントのあいだから出てきたか。それはすでにのべたように、まず、人間の理性に対する信頼が育まれたから。そして、もうひとつ大事なことは、世界を神が創造したと固く信じたから。この二つが、自然科学の車の両輪になります。」

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