(沢木耕太郎 文藝春秋)
その言葉によって喚起されるイメージは、最初、象がアドバルーンのように空に浮かんでいるというものだった。ディズニー映画のダンボのように大きな耳を使って飛びまわる、とまではいかないにしても、風船のように体を膨らませた象が空中をふわふわ漂っている、といった姿が想像されたのだ。
「たとえば、象が空を飛んでいるといっても、ひとは信じてくれないだろう。しかし、四千二百五十七頭の象が空を飛んでいるといえば、信じてもらえるかもしれない」
それが、
<一見幻想的な出来事をきわめて克明に描写して、出来事に独自な現実性を与えるあなたの手法は誰から学んだものなのか>
というインタビューアーの問いかけに対する、ガルシア・マルケスの答えである。
<文学にも応用できるジャーナリズム的からくり>というものが、そこにはあるというのだった。
『路上の視野』(1972〜1982)に続く、次の10年の沢木耕太郎の全エッセイを集めたのがこの本なのだが、
旅紀行、スポーツ観戦、インタビュー、映画批評、書評など、様々にその形式は変わったとしても、
決して変わることのないノンフィクションライターとしての沢木の姿勢が、そこには貫かれている。
あるいは、私たちが日常的に行っている「ノンフィクションを書く」という行為も、本来は極めて古臭くフィクショナルなものとして印象されるストーリーを、いくつかの固有名詞、いくつかの数値で、危うくリアリティーを繋ぎ留めつつ述べていこうとする、虚実の上の綱渡りのような行為なのかもしれないという気がしてきた。
ノンフィクションを書くという行為は、「滑る際に事実という旗門を必ず通過していかなくてはならない」という点において、
「とりあえず最高のスピードで滑り降りればいい」ダウンヒル(滑降)ではなく、スラローム(回転)競技に似ている、
と考える沢木にとって、
『路上の視野』が、どのようなフォームで旗門を通過するかに腐心した10年であったとすれば、
『象が空を』の10年は、旗門からの逸脱という危険性をはらみつつ、さまざまなコースの取り方を試みながら滑り続けてきたのだという。
つまり、この出色のノンフィクションライターは、
『象が空を』飛んでいる姿を、ジャーナリスティックに描くことを目指そうとしているのではなく、
『象が空を』ふと思い出したかのように見上げている、その<象>たらんと、日々格闘を続けているようなのである。
私は、文章の中の生き生きとした「私」の獲得に全力を注いだあげく、やがてその「私」に中毒するようになり、今度はいかにこの「私」から脱していくかに腐心せざるを得なくなった。
本日もお読みいただいた皆様どうも有り難うございました。
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その言葉によって喚起されるイメージは、最初、象がアドバルーンのように空に浮かんでいるというものだった。ディズニー映画のダンボのように大きな耳を使って飛びまわる、とまではいかないにしても、風船のように体を膨らませた象が空中をふわふわ漂っている、といった姿が想像されたのだ。
「たとえば、象が空を飛んでいるといっても、ひとは信じてくれないだろう。しかし、四千二百五十七頭の象が空を飛んでいるといえば、信じてもらえるかもしれない」
それが、
<一見幻想的な出来事をきわめて克明に描写して、出来事に独自な現実性を与えるあなたの手法は誰から学んだものなのか>
というインタビューアーの問いかけに対する、ガルシア・マルケスの答えである。
<文学にも応用できるジャーナリズム的からくり>というものが、そこにはあるというのだった。
『路上の視野』(1972〜1982)に続く、次の10年の沢木耕太郎の全エッセイを集めたのがこの本なのだが、
旅紀行、スポーツ観戦、インタビュー、映画批評、書評など、様々にその形式は変わったとしても、
決して変わることのないノンフィクションライターとしての沢木の姿勢が、そこには貫かれている。
あるいは、私たちが日常的に行っている「ノンフィクションを書く」という行為も、本来は極めて古臭くフィクショナルなものとして印象されるストーリーを、いくつかの固有名詞、いくつかの数値で、危うくリアリティーを繋ぎ留めつつ述べていこうとする、虚実の上の綱渡りのような行為なのかもしれないという気がしてきた。
ノンフィクションを書くという行為は、「滑る際に事実という旗門を必ず通過していかなくてはならない」という点において、
「とりあえず最高のスピードで滑り降りればいい」ダウンヒル(滑降)ではなく、スラローム(回転)競技に似ている、
と考える沢木にとって、
『路上の視野』が、どのようなフォームで旗門を通過するかに腐心した10年であったとすれば、
『象が空を』の10年は、旗門からの逸脱という危険性をはらみつつ、さまざまなコースの取り方を試みながら滑り続けてきたのだという。
つまり、この出色のノンフィクションライターは、
『象が空を』飛んでいる姿を、ジャーナリスティックに描くことを目指そうとしているのではなく、
『象が空を』ふと思い出したかのように見上げている、その<象>たらんと、日々格闘を続けているようなのである。
私は、文章の中の生き生きとした「私」の獲得に全力を注いだあげく、やがてその「私」に中毒するようになり、今度はいかにこの「私」から脱していくかに腐心せざるを得なくなった。
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