(長谷川修一 中公新書)

「聖書考古学」とは、「聖書」と「考古学」という二つの言葉を合わせた学問分野である。・・・聖書を歴史文献と目し、考古学的発掘の成果によって聖書記述の史実性を裏づけることが、聖書考古学が世に出てきた当初の目標であった。

しかし、聖書考古学者が同時に「聖書学者」でもあった当時とは異なり、

専門の考古学者による遺跡の発掘調査が進むにつれて、聖書記述の史実性には、少なからぬ疑問が生じ始めるようになってきた。

「書かれていることすべてが本当に起こった」こととは限らないのは言うまでもないが、

「本当に起こったことのすべて」が書かれているわけでもない。

ゆえに、文献史料批判の際には、複数の異なる資料(遺物と遺構)を、できるだけ先入観にとらわれずに公平に見ることが求められる。

というこの本は、

「旧約聖書」に描かれた世界の実際の姿を、遺跡の発掘調査に基づく地道な研究から、丹念に浮かび上がらせようとした試みなのである。

たとえば・・・「アブラハムは実在したか?」

神への絶対的な信仰を示すことで、神よりパレスチナという契約の地を与えられた、イスラエル人の「民族の父」アブラハム。

聖書の記述に頼って計算してみると、アブラハムは175歳、その子イサクは180歳、孫ヤコブは147歳まで生きたことになる。

彼らはそれほどまでに長命な家系だったのだろうか。

実は日本の「古事記」においても、そこに記載されている初期の天皇たちの寿命はとても長くて、

初代・神武天皇は127歳、第10代の崇神天皇は168歳まで生きたことになる。

考古学における人骨の研究では、古代人が何歳で死んだのか、ある程度推定できるようになってきており、

古代人は概してはるかに若死にで、100歳まで生きたと推定される人骨さえ発見されていない。

では・・・「アブラハムは実在しなかったのか?」

ずっと後の時代に「父祖たちの物語」を書いた人々は、「民族の父たち」が活躍した時代を想定するに際して、

具体的に年代が示されている方が、族長たちが実在したという信憑性が増すと、

しかし、自分たちの時代にあまりに近いと、逆に真実味に欠けると考えた、のではないかというのである。

では・・・「モーセは出エジプトを果たしたのか?」

「ダビデは巨人ゴリアトを討ち取ったのか?」

聖書の多くの物語には時代錯誤や誇張などが含まれている。まったくの創作にちがいない、という物語すらある。こうした物語すべてを歴史的には価値のない嘘っぱちだ、と退けてしまえばそれまでである。だが、こうした創作的な話も実は立派な歴史史料なのだ。それは、その話がつくられた時代の人々の考え方、暮らしを豊かに教えてくれるからに他ならない。

(2013年7月)

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