(小林惠子 文藝春秋)

現代の日本古代史学の趨勢は、神代から応神の頃までの『書紀』の記述は、歴史学の史料として認めないのに、欽明朝あたりからは逆に、『書紀』に書かれたもの以外は史実と認めないのです。これは明らかに矛盾しています。『書紀』は一貫して、天武の息子舎人親王を中心にして編纂された現代に伝わる日本最初の正史です。前半に虚偽の記述があるとするなら、後半部の継體朝以後も、諸般の事情によって、必ずしも史実を記しているとは限らないのではないでしょうか。

「一体、いかなる理由によって、『書紀』は天武の年齢を記さなかったのか。」

中大兄(天智)の弟とされている大海人(天武)の正確な年齢を知ることが、『書紀』が隠蔽した史実への突破口になった。

編纂者である舎人親王が父親・天武の年齢を知らないはずはないのだから、あえてその年齢を明記しないのには、そこに何らかの理由があるに違いないというのである。

孫引きをしないという基本姿勢から、様々な資料の原本に当たってこの著者が導き出した答えは、天智が47歳で没した天智10年(671)において、天武の年齢は50歳。

つまり、天武は兄の天智より3歳の年長だったことになる、という驚くべき結論だった。

天智と天武の兄弟の母親は舒明の妻・斉明であるが、斉明が舒明と結ばれる前に生まれたのが天武であり、庶子であったがために天智の弟とされたのではないか。

斉明の前夫で、天武の父親ではないかと推定される高向王とは、用明の孫ということになっているが、それはどうやら表向きの話で、

実際には推古の晩年に唐国の要請を受けて倭国への政治介入を目的に帰朝した高向玄理の変名なのであろう。

とすれば、天皇家の血縁でもないのに、『書紀』に突然登場してきた時点で、すでに天智の弟と記された天武は、外国で相当に名を挙げて倭国に来た人ということになる。

そうなのだ・・・

天武が高句麗の莫離支(マリキ=宰相)・盖蘇文であるという「史実」をふまえることによってのみ、663年の唐国との、白村江における戦いから、672年の“壬申の乱”までを明確に把握することができるのである。

って、オイオイ、天武は高句麗人だっていうのか?

なんてふやけた突っ込みに、「推理小説を一冊も読んだことのない私に推理小説が書けるわけがありません。」と、平然と嘯くこの著者がたじろぐ心配などありはしない。

なにしろ、天智も百済武王(=舒明)の息子の翹岐なのだと想定するこの人の手にかかれば、

あの聖徳太子(=タリシヒコ)ですらが、突厥可汗の達頭で、金髪碧眼だったかもしれないということになるのだから・・・。

お断りしておくが、この本は決して「トンデモ本」の類と比されるような本ではない、

倭国という小さな島国の中の、ある血族におけるみみっちい血統継承の争いなどではなく、

遠くペルシアの果てまでもを視野に入れた、東アジア全体の勢力圏の問題として捉え直してこそ、

この「攻防の世紀」のドラマの真実が、生き生きと蘇ってくるということなのである。

倭国にいる百済亡命王子の翹岐、つまり中大兄にとっては、白村江における百済・倭国連合の敗戦は決定的だった。しかし、盖蘇文にとっては、必ずしもそうとは言えなかった。何故なら、彼は新羅の文武王・金庚信と秘かに連合しており、唐国・新羅連合の勝利が盖蘇文にとってマイナスとばかり言えないからである。つまり百済が敗退して消滅することは倭国の中大兄の勢力を減じることにしかならないのである。

(2013年12月)

本日もお読みいただいた皆様どうも有り難うございました。
今後も読んであげようと思っていただけましたなら、
どうぞ応援のクリックを、お願いいたします。
↓ ↓ ↓

人気ブログランキング