(伊藤亜紗 光文社新書)
私たちはついつい目でとらえた世界がすべてだと思い込んでしまいます。本当は、耳でとらえた世界や、手でとらえた世界もあっていいはずです。物理的には同じ物や空間でも、目でアプローチするのと、目以外の手段でアプローチするのでは、全く異なる相貌が表れてきます。けれども私たちの多くは、目に頼るあまり、そうした「世界の別の顔」を見逃がしています。
そんな「世界の別の顔」を感知できるスペシャリストともいうべき視覚障害者やその関係者6名との、
インタビューと称した何気ないおしゃべりの中から、晴眼者である著者がとらえた、これは「見えない人」の世界の見方に関する、興味津津のレポートなのである。
たとえば・・・
<視覚を遮れば見えない人の体を体験できる、というのは大きな誤解である。>
見える人が目をつぶるのは、単なる視覚「情報」の遮断であって、引き算である。
見えない人の耳の働かせ方、足腰の能力、言葉の定義など、見える人とはちょっとずつ違う視覚抜きのバランスで世界を感じてみるということ。
異なるバランスで感じると、世界は全く違って見えてくる。つまり同じ世界でも見え方、すなわち「意味」が違ってくるのである。
<見えない人はある意味で脳の中に余裕がある。>
目がとらえる情報の多くは、本当は自分にはあまり関係のない=「意味」を持たない、純粋な「情報」であふれてしまっている。
見えない人はこうした「情報」の洪水とは無縁であり、脳の中に余裕があるので、限られた情報を結びつけて「意味」を生み出しているのである。
<3次元を2次元化することは、視覚の大きな特徴のひとつである。>
「八の字の末広がり」という富士山の書割のように、視覚は「奥行きのあるもの」を「平面イメージ」に変換してしまう。
しかし、見えない人は「視点」というものを持たないので、空間を空間として3次元のままとらえている。
つまり、見える人には必ず「死角」があることになる。(視覚がないから死角がない?)
<見える人は「推理しながら見る」ことに慣れていない>
見えない人の美術鑑賞は、見える人の言葉を聞きながら、作品をイメージする、という手に入る限られた情報から事件の全貌を推理する探偵のような仕事になる。
見える人は視覚が全体像を与えてくれることに慣れてしまっているので、言葉の意味は分かっても、それをつなげることができず、全体としてどんな印象になるのかを想像することができない。
などなど、まさに<見えない>ことは欠落ではなく、脳の内部に新しい扉が開かれること。(@福岡伸一)なのだった。
見えない体にフォーカスするからといって、必ずしもそこから得られるものが限定的だというわけではありません。障害者とは、健常者が使っているものを使わず、健常者が使っていないものを使っている人です。障害者の体を知ることで、これまでの身体論よりもむしろ広い、体の潜在的な可能性までとらえることができるのではないかと考えています。
(2015年4月)
本日もお読みいただいた皆様どうも有り難うございました。
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私たちはついつい目でとらえた世界がすべてだと思い込んでしまいます。本当は、耳でとらえた世界や、手でとらえた世界もあっていいはずです。物理的には同じ物や空間でも、目でアプローチするのと、目以外の手段でアプローチするのでは、全く異なる相貌が表れてきます。けれども私たちの多くは、目に頼るあまり、そうした「世界の別の顔」を見逃がしています。
そんな「世界の別の顔」を感知できるスペシャリストともいうべき視覚障害者やその関係者6名との、
インタビューと称した何気ないおしゃべりの中から、晴眼者である著者がとらえた、これは「見えない人」の世界の見方に関する、興味津津のレポートなのである。
たとえば・・・
<視覚を遮れば見えない人の体を体験できる、というのは大きな誤解である。>
見える人が目をつぶるのは、単なる視覚「情報」の遮断であって、引き算である。
見えない人の耳の働かせ方、足腰の能力、言葉の定義など、見える人とはちょっとずつ違う視覚抜きのバランスで世界を感じてみるということ。
異なるバランスで感じると、世界は全く違って見えてくる。つまり同じ世界でも見え方、すなわち「意味」が違ってくるのである。
<見えない人はある意味で脳の中に余裕がある。>
目がとらえる情報の多くは、本当は自分にはあまり関係のない=「意味」を持たない、純粋な「情報」であふれてしまっている。
見えない人はこうした「情報」の洪水とは無縁であり、脳の中に余裕があるので、限られた情報を結びつけて「意味」を生み出しているのである。
<3次元を2次元化することは、視覚の大きな特徴のひとつである。>
「八の字の末広がり」という富士山の書割のように、視覚は「奥行きのあるもの」を「平面イメージ」に変換してしまう。
しかし、見えない人は「視点」というものを持たないので、空間を空間として3次元のままとらえている。
つまり、見える人には必ず「死角」があることになる。(視覚がないから死角がない?)
<見える人は「推理しながら見る」ことに慣れていない>
見えない人の美術鑑賞は、見える人の言葉を聞きながら、作品をイメージする、という手に入る限られた情報から事件の全貌を推理する探偵のような仕事になる。
見える人は視覚が全体像を与えてくれることに慣れてしまっているので、言葉の意味は分かっても、それをつなげることができず、全体としてどんな印象になるのかを想像することができない。
などなど、まさに<見えない>ことは欠落ではなく、脳の内部に新しい扉が開かれること。(@福岡伸一)なのだった。
見えない体にフォーカスするからといって、必ずしもそこから得られるものが限定的だというわけではありません。障害者とは、健常者が使っているものを使わず、健常者が使っていないものを使っている人です。障害者の体を知ることで、これまでの身体論よりもむしろ広い、体の潜在的な可能性までとらえることができるのではないかと考えています。
(2015年4月)
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