(Pルメートル 文春文庫)

男は立ち去った。
もうなんの音もしない。
ロープで吊り下げられた木箱はまだ少し揺れていた。冷たい風が吹き込んできて、凍えたアレックスの体を包むように渦を巻いた。
アレックスは一人になった。裸で、閉じ込められて。
そこでようやくわかった。
これは箱じゃない。
檻だ。


「おまえがくたばるのを見たいからだ」

お一人様でのちょっぴり贅沢な夕食を済ませた帰り道、いきなり見知らぬ男に襲われ、いまは閉鎖された廃工場へと拉致・監禁されてしまったアレックスは、

人間一人が辛うじて入れるだけの大きさの木箱に、素っ裸で押し込められ、空中に吊り上げられて放置され、次第に衰弱し、自らの死が近づきつつあることを覚る。

<死にたくない。今はまだ死ぬわけにはいかない。>

誘拐事件はやらないとカミーユは何度も言ってきた。自分にはもう無理だと思うものが二、三あり、その筆頭が誘拐事件だと。なぜなら、妻のイレーヌを誘拐され、殺されたからだ。イレーヌは八ヶ月の身重で誘拐された。そしてカミーユが自ら捜査し、ようやく見つけたときには惨殺されていた。

「事件の被害者は死んでいなければならない。」

妻の事件により被った痛手をどうにか乗り越え、ようやく一年後、現場に復帰して以降、自らに課してきたその<掟>を破るように仕向けられ、

かつての仲間たちと再会して、捜査の指揮をとることになった、パリ警視庁犯罪捜査部の敏腕警部カミーユ・ヴェールヴェンが、

まことに乏しい限られた情報の中から、捜査の網を絞り込み、事件の真相を地道に追いかけていく中で、次第に浮かび上がらせていくことになったのは、

この異常な拉致・監禁事件を起こした犯人は誰か、ということではなくて、(なにしろ、誘拐犯の素性はこの小説の主な登場人物の中に、すでに明かされているくらいなのだ。)

辛うじて窮地を逃れ、死の檻から見事に脱出しながら、警察に掛け込むでもなく姿を消してしまった、

<その女>とはいったい何者だったのか、ということだった。

というわけで、この驚天動地の物語は、実際にはここからスタートすることになるのだが・・・

「これ以降の展開は、誰にも話さないでください。」ということで、黙するに如かずなのである。

「まあ、真実、真実と言ったところで・・・これが真実だとかそうでないとか、いったい誰が明言できるものやら!われわれにとって大事なのは、警部、真実ではなく正義ですよ。そうでしょう?」
カミーユは微笑み、うなずいた。


(2015年7月)

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