(三浦佑之 岩波新書)
記録されているのは、土地で語られていた神話や滑稽な話や土地の謂われ、あるいは天皇たちの巡行、土地に生息する動物や生えている植物、耕作地の肥沃状態など、なんでもありの宝箱である。ところが、そうした貴重な資料でありながら、読むためのテキストも注釈書や解説書・入門書の類いもほんとうに少ない。
<古事記や日本書紀、あるいは万葉集ほど知名度は高くないが、日本列島の古代を知ることのできる貴重な書物として、わたしたちの前に風土記が遺されている。>
『漢書』以降の中国の正史は、紀・志・列伝の三部から成り、その書名は国名(王朝名)を冠して「○○書」とする紀伝体の形式が一般的だった。
わが国初の史書も、当然中国正史をお手本として、三部構成の「日本書」を目論んでいたはずだ。
しかし、養老4年(720)に成立したのは「紀」30巻と「系図」1巻のみで、
その後、ついに「志」や「列伝」が編纂されることはなかった。
つまり、その時奏上された書物に付されていた書名は「日本書―紀」だったのではないか、というのである。
「紀」とは歴代天皇の事績を編年体によって記述したもので、「列伝」は皇子や臣下らの事績と、どちらも経過した過去の時間を記述したものであるのに対し、
「志」は、王朝の治世の記録として、中央と地方という空間的な広がりのなかで把握された、国家のさまが一望のもとに収められる。
五月甲子 (制すらく)畿内と七道との諸国の郡・郷の名は、好き字を着けよ。その郡の内に生れる、銀・銅・彩色・草・木・禽・獣・魚・虫等の物は、具に色目を録し、土地の肥沃、山川原野の名号の所由、また、古老の相伝ふる旧聞異事は、史籍の載して言上せよ。(『続日本紀』)
和銅6年(713)に、時の律令政府が発したと記される、「風土記」の撰録の命令を見れば、
特産品や土地の肥沃状態など、国の経済力の掌握の意図に並んで、地名の由来や旧聞異事の収集が、律令政府にとって大きな意味を持っていたことを読み取ることができる。
いまだ危うい均衡の上に立つ豪族連合による支配体制から、中央集権的な統治機構をもった国家へと脱皮を図るために、
躍起になって唐や新羅の属国になろうとすることは避け、独自の国であろうとした、できたばかりの列島の小国にとって、
地方に関する地誌的な記録を収集することにより、支配領域を確認し掌握することは、どうしても欠かすことのできない事業であった。
「日本書ー地理誌」としての「風土記」の撰録は、史書編纂の総仕上げとして目論まれた、一大事業であったはずなのだ。
この『古事記』大家が描いて見せた壮大な枠組みを、しっかりと頭の片隅に押さえてさえおけば、
倭武(ヤマトタケル)の「天皇」としての事績を描く『常陸国風土記』、
中央政権との微妙な立場を反映する『出雲国風土記』、
など、今はわずかに現存するに過ぎない「風土記」の世界も、その成立時の時代背景のなかで、鮮やかに甦ってくることを知るのである。
「日本書」の紀としての日本書紀、「日本書」地理志になろうとしてなれなかった風土記、それらから遠く離れて存在する古事記。そのように把握することによって、遺された三つの作品を、論理の破綻なく位置づけることができるのではないか。それが、紆余曲折を経てわたしがたどりついた、ひとまずの結論です。
本日もお読みいただいた皆様どうも有り難うございました。
今後も読んであげようと思っていただけましたなら、
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記録されているのは、土地で語られていた神話や滑稽な話や土地の謂われ、あるいは天皇たちの巡行、土地に生息する動物や生えている植物、耕作地の肥沃状態など、なんでもありの宝箱である。ところが、そうした貴重な資料でありながら、読むためのテキストも注釈書や解説書・入門書の類いもほんとうに少ない。
<古事記や日本書紀、あるいは万葉集ほど知名度は高くないが、日本列島の古代を知ることのできる貴重な書物として、わたしたちの前に風土記が遺されている。>
『漢書』以降の中国の正史は、紀・志・列伝の三部から成り、その書名は国名(王朝名)を冠して「○○書」とする紀伝体の形式が一般的だった。
わが国初の史書も、当然中国正史をお手本として、三部構成の「日本書」を目論んでいたはずだ。
しかし、養老4年(720)に成立したのは「紀」30巻と「系図」1巻のみで、
その後、ついに「志」や「列伝」が編纂されることはなかった。
つまり、その時奏上された書物に付されていた書名は「日本書―紀」だったのではないか、というのである。
「紀」とは歴代天皇の事績を編年体によって記述したもので、「列伝」は皇子や臣下らの事績と、どちらも経過した過去の時間を記述したものであるのに対し、
「志」は、王朝の治世の記録として、中央と地方という空間的な広がりのなかで把握された、国家のさまが一望のもとに収められる。
五月甲子 (制すらく)畿内と七道との諸国の郡・郷の名は、好き字を着けよ。その郡の内に生れる、銀・銅・彩色・草・木・禽・獣・魚・虫等の物は、具に色目を録し、土地の肥沃、山川原野の名号の所由、また、古老の相伝ふる旧聞異事は、史籍の載して言上せよ。(『続日本紀』)
和銅6年(713)に、時の律令政府が発したと記される、「風土記」の撰録の命令を見れば、
特産品や土地の肥沃状態など、国の経済力の掌握の意図に並んで、地名の由来や旧聞異事の収集が、律令政府にとって大きな意味を持っていたことを読み取ることができる。
いまだ危うい均衡の上に立つ豪族連合による支配体制から、中央集権的な統治機構をもった国家へと脱皮を図るために、
躍起になって唐や新羅の属国になろうとすることは避け、独自の国であろうとした、できたばかりの列島の小国にとって、
地方に関する地誌的な記録を収集することにより、支配領域を確認し掌握することは、どうしても欠かすことのできない事業であった。
「日本書ー地理誌」としての「風土記」の撰録は、史書編纂の総仕上げとして目論まれた、一大事業であったはずなのだ。
この『古事記』大家が描いて見せた壮大な枠組みを、しっかりと頭の片隅に押さえてさえおけば、
倭武(ヤマトタケル)の「天皇」としての事績を描く『常陸国風土記』、
中央政権との微妙な立場を反映する『出雲国風土記』、
など、今はわずかに現存するに過ぎない「風土記」の世界も、その成立時の時代背景のなかで、鮮やかに甦ってくることを知るのである。
「日本書」の紀としての日本書紀、「日本書」地理志になろうとしてなれなかった風土記、それらから遠く離れて存在する古事記。そのように把握することによって、遺された三つの作品を、論理の破綻なく位置づけることができるのではないか。それが、紆余曲折を経てわたしがたどりついた、ひとまずの結論です。
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