(養老孟司 新潮文庫)

2011年7月、帝国最後の皇太子だったオットー・ハプスブルクが亡くなり、伝統に従って埋葬された。心臓はハンガリーに(王家の中では例外的)、残りの遺体はハプスブルク家歴代の棺を置くウィーンの皇帝廟に納められた。

<実際には700年続いたハプスブルクの王家は、特異な埋葬儀礼を守ってきた。>

ハプスブルク家の一員が亡くなると、心臓を特別に取り出して、銀の心臓容れに納め、ウィーンのアウグスティーン教会のロレット礼拝堂に納める。

肺、肝臓、胃腸など心臓以外の臓器は銅の容器に容れ、シュテファン大聖堂の地下に置き、残りの遺体は錫の棺に容れて、カプチン教会の地下にある皇帝廟に置く。

いずれも歩けば10分以内の距離にある3箇所に、遺体は別々に埋葬されることになるのである。

<だれがそれをするのか>

王家の一員が亡くなったときに、「玉体に傷をつける」ようなことができるためには、なにか理屈があり、前例があったはずだ。

それはどういうもので、いつごろ発生して、どう伝わってきたのか。

その背景には、心に対する体、<身体>というものをどう考え、評価するかという、大きな文化的背景があるに違いない。

解剖学を専攻していた現役時代から、ずっと抱き続けてきた<埋葬儀礼>への関心。

それが、母親の墓参りにも行っていない養老先生を、この中欧の赤の他人の<墓参巡礼>へと駆り立てた理由の一つだった。

<心臓信仰>

死体には二人称の死体と三人称の死体がある。(一人称の死体はない。それを見る自分がいないから。)

そして、三人称の赤の他人の死体とは違って、二人称の死は、その人だとわかる部分が残存する限り、なかなか死体にならないのだという。

王家という共同体においては、祖先を祀るという埋葬儀礼によって、構成員はいつまでも構成員のままに保たれる。

遺体はどういう形であれ、「その人がそこにいるものとして」保存されなければならなかった。

特に、身体の中心にあっていちばん重要だと思われた心臓は、身体と分けて埋葬されることが多かった。(心がそこに宿ると考えられていたか、どうかは別として。)

というのが、長年にわたる人間(生者と死者)観察を通して、思考し続けてきた養老先生ならではの、含蓄に富んだ読みなのである。

パリのモンマルトルの丘の上に立つ、サクレ・クール寺院(=「聖心」教会)の天井には、「聖なる心臓」が炎に包まれたキリスト像が描かれている。

「聖心」の女子大生なのだから、「心が聖い」に違いない・・・なんて思ったら、大間違いなのだ。

(30年前に、ウィーンで)ふと立ち寄った教会で、日曜日のミサの案内が貼ってあり、その中にハートに矢が射すようなマークがあったのだ。これはなんだ?・・・日本に戻って、聖心女子大学の校章はふたつのハートが百合の花で囲まれ、左側のハートは茨がぐるりと囲んでいて、右側のハートが剣で貫かれていることを知った。・・・それが30年間ずっと気になっていたのである。我ながらしつこい性格だと思う。よく言えば学問的。だれも言ってくれないけれどね。

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