(林望 講談社+α文庫)

一、この口伝に、花を知ること、まず仮令、花の咲くを見て、よろづに花と譬へはじめし理をわきまふべし。

(「花」というのは何であるかを知ること。たとえば花の咲くのを見て、万事を花に喩えたその根本の道理を弁えたらよい。)

「花」というものは、必ず散り失せるからこそ、また咲くころに「珍しい」と愛でることができるのだから、

「能」も一つのところに停滞安住しないで、次々と新しい芸態に移っていくことが、まずは「花」なのだと知るべきだ。

先人からの芸の風姿を継承しつつ、心から心へと言葉を超越して「花」を大切に伝授していくこと。

それが、650年も続くことになった『能』という仕掛け をほとんど一代で確立してしまった、

不世出の天才・世阿弥が、この『風姿花伝』という奥義書を著すにあたって、題名に込められていた意図だった。

時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり。ただ人ごとに、この時分の花に迷ひて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すは、このころのことなり。

(一時かりそめの花をほんとうの花だと思い込んでしまう心が、真実の花に遠ざかる心である。)

ながい修業の期間を過ぎてぱっと花開く時が来ると、慢心の虫に取りつかれやすい。(このころを「初心」という。)

修練というものはすればするほど、また一層おのれの欠点未熟に思いが至り、そこでさらに一段の修練を積むのである。

「初心忘るべからず」とは、この一生の芸能の分れ道をいう、戒めの言葉なのだ。

<人の好みもとりどりなれば、いづれの風体をも残しては叶ふまじきなり。>
(いつ使うかは考えずに、いつでもすぐに取り出して使えるよう、抜け落ちなく技を用意しておく心がけ)

<物まねに、似せぬ位あるべし。ただその時の物まねの人体ばかりをこそたしなむべけれ。>
(その写実の対象の心的内面にまで立ち入ると、あえてそれらしく真似ない物まねとなる)

などなど、世阿弥が「花」という言葉に象徴させたかった、芸能のもっとも大切な勘所の、曰く言い難いところが、惜しげもなく披露されているのは、

これが、一代に一人と限定して相伝すべきと口伝された、一子相伝の秘事なればこそ、なのであるが、

「才能は必ずしも遺伝しない」と醒めた感性の持ち主であった世阿弥は、血縁ではなく才覚知性人格にすぐれた者が、芸(と家)を継げばよいと考えていたらしい。

どちらにしても、そのような人物でなければ、『風姿花伝』がすらすら読めるはずはないのである。

さるほどにわが家の秘事とて、人に知らせぬをもて、生涯の主になる花とす。「秘すれば花、秘せぬは花なるべからず」。

(「知っていること」を知られてもいけない。「秘めておくからこそ、それが花になる。あからさまにしてしまったら、もはや花ではない」のである。)

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