(石光真人編著 中公新書)

柴五郎翁の遺文に初めて接したとき、おそらく誰もが受ける強いショックを、私も同じように強く受けて呆然とした。呆然としたというより、襟を正したというほうが適切かもしれない。

<いったい、歴史というものは誰が演じ、誰が作ったものであろうか>

柴五郎は安政6年(1859)、会津若松藩280石取りの御物頭(隊長)で、裃着用を許された上級藩士という家柄の5男として生まれたが、

薩長藩閥政府より朝敵の汚名を着せられた会津戦争において、祖母、母、姉妹を失い、自らは俘虜として江戸に護送された後、下北半島の火山灰地に移封された。

「ああ思わざりき、祖母、母、姉妹、これが今生の別れなりと知りて余を送りしとは。この日までひそかに相語らいて、男子は一人なりと生きながらえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪ぐべきなりとし、戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入とともに自害して辱めを受けざることを約しありしなり。わずか7歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時を待ちおりしとは、いかに余が幼かりしとはいえ不敏にして知らず。まことに慚愧にたえず、思いおこして苦しきことかぎりなし。」

父と開墾を始めた斗南の原野の3、4坪の草葺の掘立小屋に、建具はあっても畳はなく、板敷きに蓆を敷き、骨ばかりの障子には米俵を藁縄で縛り付けたが、

陸奥湾から吹きつける北風は部屋を吹き貫け、消炭を燃やす炉辺にあっても氷点下15度という極寒の中、衣服は凍死をまぬかれる程度のもので、米俵に潜って寝た。

海岸に流れ着く昆布、若布を集めて干し、棒で叩いて木屑のように細かくし、これを粥に炊いた通称「オシメ」で、かろうじて飢餓をしのぐ極貧の生活。

奪い合うように手に入れた犬の死体を、塩で煮て食べる毎日が続けば、吐き気を催しながらも眼をつむって一気に飲み下す。これは副食ではなく、主食なのである。

「この境遇が、お家復興を許された寛大なる恩典なりや、生き残れる藩士たち一同、江戸の収容所にありしとき、会津に対する変らざる聖慮の賜物なりと、泣いて悦びしは、このことなりしか。何たることぞ。はばからず申せば、この様はお家復興にあらず、恩典にもあらず、まこと流罪にほかならず。」

一藩をあげての流罪にも等しい、史上まれにみる過酷な処罰事件が、今日まで1世紀の間、具体的に伝えられず秘められていたこと自体に、私どもは深刻な驚きと不安を感じ、歴史というものに対する疑惑、歴史を左右する闇の力に恐怖を感ずるのである。

その後、藩政府の選抜により学問修業のため青森県庁の給仕として派遣された柴五郎は、大参事・野田豁通の知遇を得たことから命運をつかみ取り、

脱走、下僕、流浪の艱難辛苦を乗り越えた末に軍に入り、藩閥の外にありながら陸軍大将にまで上り詰め、軍界における中国問題の権威となったという、

まさに立志伝中の人物(北京駐在武官時代の、特に「義和団事件」における総指揮官としての活躍は、列国の称賛を受けたらしい。)なのだが、

「死ぬな、死んではならぬぞ、堪えてあらば、いつかは春も来たるものぞ。堪えぬけ、生きてあれよ、薩長の下郎どもに、一矢を報いるまでは」

と、父に厳しく叱責され、嘔吐を催しつつ犬肉の塩煮を飲み込んだ、会津の国辱の怨念がそれを根底で支え続けてくれたことも、間違いではないようなのだ。

会津精神の化身ともいうべき、生粋の明治人の面目躍如である。

(明治10年)2月18日、鹿児島地方不穏の形勢いよいよ逼迫の風説しきりにして、近衛歩兵一連隊は京都に派遣され、その他、陸海軍将校、内務官吏にして関西に急行するものはなはだ多し。
20日、余の日記に次のごとくしるしたるをみる。
「真偽未だ確かならざれども、芋(薩摩)征伐仰せ出されたりと聞く、めでたし、めでたし」


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