―生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂―
(落合陽一 PLANETS)

今、僕の信頼は、静止軌道上の衛星から送られてくる情報とデータベースに託されている。この<計数的な自然>への信頼は無意識的だが、深く、そして疑いようがない。それは、肉眼では歩くことさえおぼつかない乳白色の霧の中、よどみなく車が走行している事実によって裏打ちされている。主観的な映像が意味をなさず、己の存在を客観的にしか把握できない暗黒と白色光の中に、僕の意識は浮遊している。

と、おもむろに深い霧に覆われた暗闇の中、曲がりくねった山道を疾走するドライブシーンから、この長い論述が始まっているからといって、

「最近のナビはどんどん性能上がってるね。」「自動運転ももうすぐ目の前だよ。」なんて低次元な話をするのか、などと誤解してはいけない。(するわけないか。)

<デジタルネイチャー>

生物が生み出した量子化という叡智を計算機的テクノロジーによって再構築することで、現存する自然を更新し、実装すること。

それは、「近代的人間存在」を脱構築した上で、計算機と非計算機に不可分な環境を構成し、計数的な自然を構築することができれば、

言語と現象、アナログとデジタル、主観と客観、風景と景観の二項対立を円環的に超越して、「近代」の呪縛を乗り越えることができる思想だというのである。

<現代は、人間が機械のように振る舞い、機械が人間のような挙動をする時代だ。>

<人間>と<機械>の区別が融解し、何が<実質・バーチャル>で何が<物質・マテリアル>なのかという解像度を超越して、その区別に意味のなくなった世界。

そこでは、時間と空間の概念理解がコンピューターの中でのデータのやり取りとして抽象化され、あらゆる物理現象の最適化のための計算は分散化し自動化できる。

<デジタルネイチャー>とは、知能化した超自然とも言うべきものなのだ。

西洋哲学が生んだ<個人>と<社会>、人為と自然、テクノロジーと意味論がもたらしたナイーブな結論を超克し、管理社会と自由意志のジレンマを、レイヤー化した社会の多様性や、非中央集権型のブロックチェーンによって克服せよ。

コンピューター用語や高等数学は言うまでもなく、ルソー、ベンサム、ヴィトゲンシュタインらの西洋哲学から、荘子、華厳経、芭蕉の東洋思想まで、

縦横無尽(支離滅裂?)に疾走する論旨を追いかけるかのように、300ページ足らずの本文の脇に付記された200余りの詳細な傍注を読ませることは、

少しでも自分が到達した高みの眺望を垣間見せてあげようというご親切なのだろうが、その博覧強記ぶりに凡夫は茫然自失となり、置いてけぼりを喰らうことになる。

自然の中に、侘び寂を、文化をコンテクストの中で常に自分という計算機資源のルーツを見つめながら、「アート」を作り出していくことが我々にとっての今後の多動の象徴になるだろう。

というわけで、本書で論じられてきた理論的内容の実践として展開してきたものと美的感覚の接続を議論した成果として、終章に呈示された<アート>なのだが・・・

「これ」(確かに世界的評価も高く、物凄いものなのかもしれないが)を創るために、ここまで壮大な理論構築が必要だったのかと、些か拍子抜けしてしまったのだ。

あれだけ学んだ結果が「これ」だけかと思ってしまったのは、暇人の僻み根性なのだろうか?(まあ、そうなんだろうね。)

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