(若桑みどり 集英社)

大航海時代のヒーロー、一攫千金を夢見て祖国ポルトガルを捨て、仲介貿易で巨利をむさぼった野心満々の若者が、祖国から遠い島国日本で、その全財産を投げうち、貧者の救済に献身して日本に骨を埋めてしまった。

自分で貿易船を乗り回し、27歳でもう巨万の富を蓄えていたこの人物、船長ルイス・デ・アルメイダが長崎に上陸したのは1552年のことだった。

それは、天文18年(1549)にザビエルが鹿児島に着いてからわずかに3年後のことで、天正少年使節が長崎を出帆する30年も前のことなのである。

『クアトロ・ラガッツィ』(天正少年使節)が主人公であるはずのこの物語を始めるために、これほどまでに長い助走(前8章の内の3章)を必要としたのは、

世界帝国がはりめぐらせたグローバルな経済網と、そのエージェントである冒険家たちとともに、アジアに大量に押し寄せたキリスト教の宣教師たちが、

「いったいなにを考えていたのか」がわからなければ、われわれの「天正少年使節」が、なぜ戦国末期にヨーロッパに送られることになったかもわからないからだ。

というこの本は、『イメージを読む』など図像解釈学を専門とする西洋美術史学者が、自らの学問のルーツに迫ろうとした畢生の大作なのである。

イエズス会の布教状況を定期的に視察して歩く巡察師として1579年に来日したヴァリニャーノが、4人の少年を連れて日本を発つのは1582年(天正10)。
 
伊東マンショ(11歳)大友宗麟の血縁
千々岩ミゲル(13歳)有馬晴信の従弟
原マルティーノ(14歳)セミナリオ1期生の秀才
中浦ジュリアン(11歳)セミナリオ1期生で幼児洗礼

すでに成長した木に接ぎ木をした成人改宗者ではなく、キリスト教が日本という大地に蒔かれて、はじめてそこで採れた「初穂」として彼ら4人は選ばれたのだが、

この少年たちをポルトガルとローマに送るのは、王と教皇に日本への援助を求めると同時に、キリスト教の栄光と偉大を日本人たちに知らしめるのがその狙いだった。

一方で、交易の巨大な利益をもたらす外国船を誘致しようとしていた戦国大名たちは、次第に死後の救済を約束するキリスト教に惹かれ、積極的に派遣に応じた。

この時ほど日本が世界的であったことは明治以前にはなく、日本はまさに「キリスト教の世紀」を迎えていた。そのシンボルとして<少年使節>は送られたのである。

しかし、彼らが彼の地で見聞きし持ち帰ったはずの西洋の社会、法と正義、民主の歴史が、戦国末期の日本社会に生きた成果をもたらすことはなかった。

少年たちが帰ってきた8年後の日本では、出航直後に斃れた信長の後を襲った秀吉が、宣教師追放令を出していたのである。

少年たちが見たもの、聞いたもの、望んだものを押し殺し、彼らの目を暗黒の目隠しで閉ざしてしまったのは、当時の日本だったのだ。

これは400年以上も前に、信仰のみを頼りに見も知らぬ地ヨーロッパへ飛び立った少年たちの、身の震えと息遣いに寄り添うような迫真のルポなのである。

私が書いたのは権力やその興亡の歴史ではない。私が書いたのは歴史を動かしてゆく巨大な力と、これに巻き込まれたり、これと戦ったりした個人である。このなかには信長も、秀吉も、フェリペ2世もトスカーナ大公も、グレゴリオ13世もシスト5世も登場するが、みな4人の少年と同じ人間として登場する。彼らが人間としてすがたを見せてくるまで執拗に記録を読んだのである。

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