(Sベケット 白水uブックス)

エストラゴン どうにもならん。
ヴラジーミル いや、そうかもしれん。


夕暮れの田舎道の道端に坐って、片方の靴を脱ごうと格闘しているエストラゴンの元へ、ヴラジーミルが出てくるところからこの舞台劇は始まるのだが、

ヴラジーミルが相槌を打ったのは、「そんな考えに取りつかれちゃならんと思ってわたしは、長いこと自分に言いきかせてきた」という自身の考えに対してであって、

彼がエストラゴンの存在にようやく気付くのはその直後なのだし、エストラゴンが諦めの言葉を発したのも、どうやら脱げない靴への苛立ちだけではなさそうなのだ。

高橋康也の「乱反射的な読み」による訳注によれば、「どうにもならん」という仏語は「演ずべきことは何もない」という<演劇の死>の宣告にも読めるという。

もちろんこれは、現代演劇の最高傑作として名高い、ノーベル文学賞作家ベケットによる<不条理劇>なのだから、この程度のことでめげていては先に進めないのだ。

エストラゴン もう来てもいいはずだからな。
ヴラジーミル しかし、確かに来ると言ったわけじゃない。
エストラゴン じゃあ、来なかったら?
ヴラジーミル あした、もう一度来てみるさ。
エストラゴン それから、あさってもな。
ヴラジーミル そりゃあ・・・そうさ。
エストラゴン その調子でずっと。


約束した一本の木(喬木だったか、灌木だったか。)の前で、土曜(って言ったと思う。ところで、きょうは土曜かね?)に来るはずのゴドーが現れるのを待ちながら、

二人の<暇つぶし>にも似た意味のない会話がひたすら続いていくだけで、ゴドーはいっこうに現れないし、目新しい事態は何もおこりそうもないと思った、その時、

ポッツォ (舞台袖で)もっと速く!(鞭の音。ポッツォ、現われる。二人は舞台を横切って行く。ラッキーは、ヴラジーミルとエストラゴンの前を通りすぎて、舞台袖へはいる。だが、ポッツォは、二人を見つけると、立ち止まる。綱がピンと張る。それをポッツォは荒々しく引く)

召使のラッキーが、首にかけた綱で暴君ポッツォを導いて登場し、いよいよ何かが始まるのかと期待を持たせるが、もっと不毛な会話が続いていくばかりなのである。

二人はいったい何を待っていたのか?ゴドーとはいったい誰なのか?これまで、そこには観る人ごとの議論があり、無数の解釈が生まれてきた、それはそれとして。

「来る見込みのない人」を「待っているふり」をしながら「時間をつぶす」ことの、「暇と退屈」が含み持つ一抹の不安感と否定しようのない至福の快感。

ヴラジーミル おかげで時間がたった。
エストラゴン そうでなくったってたつさ、時間は。
ヴラジーミル ああ、だが、もっとゆっくりな。


それが、この「舞台劇」の最大の魅力の一つなのかもしれない。

エストラゴン 今度は何をするかな?
ヴラジーミル わからない。
エストラゴン もう行こう。
ヴラジーミル だめだよ。
エストラゴン なぜさ?
ヴラジーミル ゴドーを待つんだ。
エストラゴン ああ、そうか。


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