(Aナフィーシー 河出文庫)
イラン・イスラーム共和国における私たちの生活に一番ぴったりくる小説を選ぶとしたら、それは『ミス・ブロウディの青春』でもなければ『一九八四年』でさえなく、むしろナボコフの『断頭台への招待』か、いや・・・
<それ以上に『ロリータ』だろう。>
1995年、ヴェールの着用を拒否するなどしてテヘランの大学を去った著者は、自らが選んだ女子学生7人を自宅に集め、英文学の読書会を始めた・・・という、
この本はイランの女性英文学者が、1979年にホメイニーが起こしたイスラーム革命以降、封建的で特に女性に抑圧的なイランで暮らした18年間の回想録なのだが、
語られた事実は、記憶に誤りがないかぎり真実だとしても、名前を改め、本人にさえわからないほど変装をほどこした、と<著者ことわりがき>にもあるように、
仲間たちの秘密を守るために最大限の努力をせねばならなかったのは、イスラーム革命後のイランが生活の隅々まで当局の監視の目が光る全体主義社会だったからだ。
特に女性には厳しく、髪と肌の露出を禁じられ、少しでも「西洋的」だと見なされれば、不道徳の罪で逮捕・監禁され、時には看守に輪姦され、そして処刑された。
そのような状況の中で開かれたこの<秘密の読書会>で取り上げられたのは、イランでは読むことを禁じられている西洋文学の古典の数々だったが、
フイッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を、不倫の物語だとする革命派の学生たちの糾弾に対し、そうではなくこれは<夢の喪失>の物語なのだと伝えたり、
ジェイムズの『デイジー・ミラー』のヒロインの、社会のしきたりに反抗しようとする姿勢の中に、自分たちが見習うべき勇気を見出して憧れたり、
オースティンが『高慢と偏見』で示した、結婚というものの核心に横たわる個人の自由の問題が、200年後の自分たちには認められてさえいないことを皮肉ったり、
<研究会のテーマは小説と現実の関係だった。>
そして、いやらしい中年男のハンバートが、どこにも行き場のない12歳の少女を死んだ恋人に仕立て上げようとし、彼女の人生をピン留めにしてしまう、
ナボコフの『ロリータ』では、この物語の悲惨な真実は少女の凌辱にあるのではなく、ある個人の人生を他者が収奪したことにあるのではと熱い議論が闘わされる。
ナボコフはハンバートを通して、他人を自分の夢や欲望の型にはめようとする者たちの正体をあばいた。ホメイニーに、イスラームの男たちに報復しているのだと。
<こんなに悲しく悲劇的な物語が――私たちを喜ばせるのはなぜかしら?>
同じことを新聞で読んでも、自分で経験しても、同じように感じるのかしら?このイラン・イスラーム共和国での私たちの生活について書いたら、読者は喜ぶかしら?
歳月と政治の暴虐に抗して、自分たち自身でさえ時に想像する勇気がなかった、<私たちの姿>をどうか想像してほしい、と著者は訴える。
テヘランで『ロリータ』を読んでいる私たちを、そして、それらすべてを奪われ、地下に追いやられた私たちを、想像してほしい、というのだった。
だからこれは、テヘランにおける『ロリータ』の物語、『ロリータ』によってテヘランがいかに別の顔を見せ、テヘランがいかにナボコフの小説の見直しを促し、あの作品をこの『ロリータ』に、私たちの『ロリータ』にしたかという物語なのである。
本日もお読みいただいた皆様どうも有り難うございました。
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イラン・イスラーム共和国における私たちの生活に一番ぴったりくる小説を選ぶとしたら、それは『ミス・ブロウディの青春』でもなければ『一九八四年』でさえなく、むしろナボコフの『断頭台への招待』か、いや・・・
<それ以上に『ロリータ』だろう。>
1995年、ヴェールの着用を拒否するなどしてテヘランの大学を去った著者は、自らが選んだ女子学生7人を自宅に集め、英文学の読書会を始めた・・・という、
この本はイランの女性英文学者が、1979年にホメイニーが起こしたイスラーム革命以降、封建的で特に女性に抑圧的なイランで暮らした18年間の回想録なのだが、
語られた事実は、記憶に誤りがないかぎり真実だとしても、名前を改め、本人にさえわからないほど変装をほどこした、と<著者ことわりがき>にもあるように、
仲間たちの秘密を守るために最大限の努力をせねばならなかったのは、イスラーム革命後のイランが生活の隅々まで当局の監視の目が光る全体主義社会だったからだ。
特に女性には厳しく、髪と肌の露出を禁じられ、少しでも「西洋的」だと見なされれば、不道徳の罪で逮捕・監禁され、時には看守に輪姦され、そして処刑された。
そのような状況の中で開かれたこの<秘密の読書会>で取り上げられたのは、イランでは読むことを禁じられている西洋文学の古典の数々だったが、
フイッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を、不倫の物語だとする革命派の学生たちの糾弾に対し、そうではなくこれは<夢の喪失>の物語なのだと伝えたり、
ジェイムズの『デイジー・ミラー』のヒロインの、社会のしきたりに反抗しようとする姿勢の中に、自分たちが見習うべき勇気を見出して憧れたり、
オースティンが『高慢と偏見』で示した、結婚というものの核心に横たわる個人の自由の問題が、200年後の自分たちには認められてさえいないことを皮肉ったり、
<研究会のテーマは小説と現実の関係だった。>
そして、いやらしい中年男のハンバートが、どこにも行き場のない12歳の少女を死んだ恋人に仕立て上げようとし、彼女の人生をピン留めにしてしまう、
ナボコフの『ロリータ』では、この物語の悲惨な真実は少女の凌辱にあるのではなく、ある個人の人生を他者が収奪したことにあるのではと熱い議論が闘わされる。
ナボコフはハンバートを通して、他人を自分の夢や欲望の型にはめようとする者たちの正体をあばいた。ホメイニーに、イスラームの男たちに報復しているのだと。
<こんなに悲しく悲劇的な物語が――私たちを喜ばせるのはなぜかしら?>
同じことを新聞で読んでも、自分で経験しても、同じように感じるのかしら?このイラン・イスラーム共和国での私たちの生活について書いたら、読者は喜ぶかしら?
歳月と政治の暴虐に抗して、自分たち自身でさえ時に想像する勇気がなかった、<私たちの姿>をどうか想像してほしい、と著者は訴える。
テヘランで『ロリータ』を読んでいる私たちを、そして、それらすべてを奪われ、地下に追いやられた私たちを、想像してほしい、というのだった。
だからこれは、テヘランにおける『ロリータ』の物語、『ロリータ』によってテヘランがいかに別の顔を見せ、テヘランがいかにナボコフの小説の見直しを促し、あの作品をこの『ロリータ』に、私たちの『ロリータ』にしたかという物語なのである。
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