(養老孟司 茂木健一郎 角川Oneテーマ21)

人間と情報の一番大きな違いは何か。情報は、はなから止まっているけれども人間は動いているという点です。人間はいつでも動いていて、二度と同じ状態がとれない。そういうものが人間です。

<人が生きているというのはそういうことなんです。>

にもかかわらず、「人間は変わらないけれど、情報は毎日変わる」と思い込んでいる。そういう逆なところから話をするから、分からなくなるのだという。

我々が扱っている相手は二つあり、一つはひたすら変わっていくものとしてのシステム、もう一つは停止したものとしての情報。そして「言葉」は情報に属している。

学者が論文を書くということは、生きたシステムとしての生き物を、言葉の羅列としての情報として、止めてしまうということだ。止めないと論文にならないからだ。

「スルメを見てイカがわかるか」(あんた、人間加工して、人間のこと研究してるって言ってるけど、それはスルメからイカを考えてるんじゃないの。)

とは、長年解剖学を専門としてきた養老孟司が言われ続けてきたことらしいが、情報しか相手にできないという意味では、それは科学全般の宿命ではないのか。

というのは、養老孟司が書いた長〜い第1章「人間にとって、言葉とはなにか」からのほんの一部のご紹介であり、第2章から第4章までは養老と茂木の対談となる。

つまり、この本の中味は「キャッチ―」な題名とはかなりかけ離れ、四方八方の話題にまで及んでいくことになる。別にそれはそれでいいのだけれど・・・

どんな本を読むか、意識的に選択することはできる。しかし、その本を読んだ時に、そこからなにを受け取るか、読後どんな感想を持つか、本を読んで一年後に、何を覚えているかといったことは、意識でコントロールできることではない。

脳の中で起こることのほとんどが、意識でコントロールできないのだとすれば、脳を育むことは手入れすること、「たがやす」ことに似ていることになるのではないか。

記憶にはエピソード記憶と意味記憶があり、個々のエピソードの記憶が次第に意味の記憶に編集されていく過程は、人間の意識によってコントロールされることはない。

脳の中で常に密やかに進行している、この無意識の編集過程こそが、人間の脳の行う学習のもっとも重要な部分だというのである。

言葉を発するという行為も一つの運動であるから、多くの場合、私たちは自分が発する言葉を意識的には把握していないのではないかという。

<言葉を磨くためには、意識を通して、無意識にこそ働きかけねばならないのである。>

というのは、茂木健一郎が書いた短〜い第5章「心をたがやす方法」で、支離滅裂になりかけた養老との議論を、無理やりまとめにいった趣がある。

意識ではコントロールできない、無意識のうちに起こる脳内プロセスこそが重要であるという命題は、なにも言葉に限ったことでなく、人生の様々なことに該当する。

<私たちにできることは、大切な自分の無意識を手入れしてあげることだけである。>

ともすれば、意識的にコントロールできると思いがちの多くのことが、実は長い人生の経験の中で無意識のうちに蓄積、編集された、脳の神経細胞の結びつきのパターン記憶に支えられて生み出されているのである。

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