(Sキング ちくま文庫)
 
かれこれ30年前に書いた本書『死の舞踏』(Dance Macabre)では、モンスターと暴力についての物語に惹かれる人は本質的にきわめて健全だ(病的な場合もあるかもしれないが)と主張した。

想像力豊かな人間は自分が脆いという事実をしっかり見据えており、物事がなんでも、いつでも、どうしようもなく悪い方向へ進むという可能性に気づいている。

<そうとも、特大の想像力を持つ人間はそれを知っている。>(『恐怖とは』――2010年版へのまえがき)

というこの本は、いまだにモダン・ホラー界に君臨し続けるキングが、40年以上も前にその時点でのホラーの代表作を論じた、話題の名著の待望の復刊である。

映画、ラジオ、テレビ、そして小説におけるホラーの代表作を、それと出会った自身の恐怖体験も交えながら、時代順に語っていくため、自伝としても楽しめるが、

・ホラー映画がビッグバジェットのものにかぎってつまらないのはなぜか?
・ホラー・ファンが期待と共に映画館に入っては不満と共に出てくる羽目になるのはなぜか?
・期待しない映画のほうがおもしろくて、戦慄と驚嘆の不意打ちを喰らわせてくれるのはなぜか?

という「変わらぬ疑問」を胸に抱き続けるキングが語ろうとしているのは、あくまで「そもそも怖いということはどういうことか?」という根源的な問いなのである。

かろうじて定義もしくは論理といえるものがあるとしたら、ホラーを成立させる感情には大きく分けて3つのレベルがあるということだろうか。

第1のレベルは<嫌悪 リヴァルジョン>。

映画『エクソシスト』で、少女リーガンが司祭の顔にゲロを吐きかけるシーンのような、生理的な不快さを催す“ウゲッとなる”レベルである。

第2のレベルは<恐怖 ホラー>。

小説『鼠』で、一読、体じゅうをネズミが這いまわり、生きながら食われる感覚を味わうような、不定形だが実体のあるものによる“ぞっとする”レベルだ。

そして、第3の最高レベルが<戦慄 テラー>。

小説『猿の手』で、ドアをノックする音が響き老女がドアに駆け寄るとき、心の目に映った忌まわしい映像があなたの脳裡を駆け巡る。ヒィーッヒッヒッヒッ・・・

もちろん、あるレベルが別のレベルより読者に与える効果が大きいからといって、そればかり贔屓にするような姿勢は避けるべきだ、といった具合に、

それぞれの具体的な作品を例に取り上げながら、「それがなぜ怖いのか」を縦横無尽に分析する解説が、700頁超に渡って繰り広げられていくだけでなく、

付録として用意された、おすすめ映画100本、取り上げた書籍100冊のリストも、守備範囲がきわめて広く目配りが効いているため、

キングの愛読者は言うに及ばず、世のホラー小説ファン、B級映画ファンの皆様も、ぜひともお手元に置いて「座右の書」とすべき名著であると言わねばなるまい。

さあ、そろそろ本当にお暇しよう。おつきあいくださってありがとう。ゆっくりお休みください。もっとも、私は腐ってもスティーヴン・キング、「よい夢を」と申し上げるわけにはいかないが・・・。

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