(赤坂真理 講談社現代新書)

日本語とは、日本とは、なんだろう、と思った最初は、15歳だった。そのころ私はアメリカの東海岸の果てに一人でいて、ホストファミリーの家から高校に通っていた。ある上級生の少年が、私にこう訊いた。

「どう書くの/君の名前を/チャイニーズ・キャラクターで?」

日本人である自分の名前と「中国人の性格」の間に何の関係があるのか、と一瞬むっとした次の瞬間、記憶と認識が噛合い、静かに雷に撃たれたような思いを覚える。

<チャイニーズ・キャラクターって、『漢字』のことか!>

明々白々に、書いてあるのだ。漢民族の「漢」と!そして、日本で男のことを「漢」とも言う。そうか、そのときどきのドミナントな文明を「男」と見立て、自らを「女」の地位にしてやってきた文明なのだ、日本は!

「それが昔は中国で、今は米国だ」という父祖たちが抱えてきた鬱屈を体で理解できたことが、30数年後の彼女に『東京プリズン』を書かせることになる。

なんとか「男」になろうとした明治国家の焦りと、昭和20年の敗戦という大きすぎる挫折という、自分の世代で母国にいたならば味わうはずのなかった感情。

<それを思ったとき、なぜだか強烈な「恥」を感じた。>

というこの本は、赤坂真理が東日本大震災の少し後に書き始めた『まったく新しい物語のために』というメールマガジンが元になっている。

巨大津波と原発事故によって、「戦後」や経済成長という物語が終わってしまったのなら、どんなヴィジョンが次にありうるのだろうか、という問題意識からだった。

しかし、結果としてそういう「新しい物語」はなかなか紡ぐことができず、むしろ逆に、日本社会は「古い物語」にしがみつこうとしてきたことに気付くことになる。

<消えた空き地とガキ大将>
――高度経済成長期とは、人が私有を追求するために共有空間をなくしていった過程であった。

<安保闘争とは何だったのか>
――政治の季節の後には大掛かりでキャッチ―な経済政策が打ち出され、その都度、国民は経済の方を選んだ。

<オウムはなぜ語りにくいか>
――「神を創ってそのもとにまとまり、聖戦を戦い、そして負けた」敗戦後の日本の姿、そのものではないか。

<憲法を考える補助線>
――戦争は破壊と喪失以外に何ももたらさないが、ごくまれに奇跡のようなこんな概念を世に出すことがある。

歴史に詳しいわけではないごく普通の日本人が、自国の近現代史を知ろうとすれば、教えられなかった事実を知る過程で習った、なけなしの前提さえ危ういこともある。

<そのときは、習ったことより原典を信じることにした。少なからぬ「原典」が、英語だったりした。>

これは、一つの問いの書である。問い自体、新しく立てなければいけないのではと、思った一人の普通の日本人の、その過程の記録である。

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