(桃崎有一郎 文藝春秋)

これまでの議論は、<『魏志』倭人伝には必ず、史実と合う一つの正しい解釈があるはずだ>という楽観的な大前提の上になされてきた。

だが、古代中国の史書の地理情報は、作者が信じた教条主義的な儒教の世界観に基づくもので、それを現実の情報として読めるという発想がそもそも誤りなのだから、

<いわゆる邪馬台国論争(邪馬台国はどこにあったのか、という議論)は、詰んでいる。>

というこの論説は、古代・中世の礼制と法制・政治の関係史という専門の立場から、新たに掘り起こした確かな史料に基づきながら、

『平安京はいらなかった』など、まことにユニークな仮説を次々と提示してみせてきた著者が、「大論争」に終止符を打ってみせようとした「画期的新説」である。

『魏志』倭人伝の解釈で争う限り解決の見込みがないなら、決め手は『魏志』倭人伝を離れて見つけるしかあるまいと、外から眺めていた「門外漢」の著者だったが、

古代中国の《礼》という文化が、日本列島の文化にいつ、どこを通って、どのように影響を与えてきたのかを追跡する、自分の研究を進める中で、たまたま偶然に、

『魏志』倭人伝の行程記事に微塵も依存せずに、邪馬台国論争を解決へ導ける文献資料を、見つけてしまったということらしいのである。

<まず見つかるまいと思っていた鍵が、もしかしたら私の手元にある。>

「邪馬台国論争を解決から遠ざけてきた最大の誤り」は、「邪馬台国」を「ヤマタイ国」と読んできたことで、正しくは「ヤマト国」と読むべきとする著者は、

統一王朝の国号として中国が与えた「倭」という漢字を、<母語による外国語の訓読>という荒業によって、「ヤマト」と読むことになった経緯を丹念に推理していく。

かなり狭い地域の地名であった「ヤマト」は、なぜ統一王朝全体を指す「倭」と結びついたのか。(その確実な用例は8世紀前半の『日本書紀』まで下るのだ。)

そこには、統一王朝としての「国」が、諸侯に与えられた領土としての「国」を内部に抱え込むという、中国の歴代王朝と倭にしかない二重構造が関係している。

統一王朝を樹立する直前に領していた諸侯国の国名を、統一王朝の国号にする、という根強く一貫した慣習が、古代中国にはあったというのである。

<諸侯国「A国」から生まれた統一王朝の国号は「大A」になる>という不文律の存在。

これこそが、「ヤマト」がなぜ「大倭(=大和)」と書かれたのかという疑問に答えられる、現状で唯一の説明である、というのがこの著者の主張なのだ。

著者は一応、邪馬台=纏向地域と結論しているが、これは<奈良地方に「ヤマト」という地名があったから、そこが「邪馬台」だ>などという主張ではない。

<奈良地方の「ヤマト」を「倭」と書くこと>と、<「倭」という統一王朝全体を「ヤマト」と読むこと>の二つが、中国的な構図でしか説明できず、

その構図に合致する諸侯国の地が、3世紀には「邪馬台」しか候補がなく、8世紀前後には確実に纏向地域の「倭」であることから、イコールと推断したというのだ。

私は論争の門外漢だが、門外漢でなければ気づかないだろう材料を自分だけで抱え込んでおくことが歴史学者として正しい姿勢と思えず、立場を顧みずに披露してみた。

いつもながらの、「桃崎節」の炸裂である。

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