(千葉雅也 文藝春秋)
この本は「センスが良くなる本」です。・・・皆さんが期待されている意味で「センスが良くなる」かどうかは、わかりません。ただ、ものを見るときの「ある感覚」が伝わってほしいと希望しています。
<本書の狙いは、芸術と生活をつなげる感覚を伝えることです。>
この本はカントに擬えれば、思考についての『勉強の哲学』、倫理についての『現代思想入門』に続く、美的判断についての入門書的著作の第三段なのだという。
<センスとは「直観的にわかる」ことである。>
という定義から入って、センスの良し悪しとはどういうことかを、いろいろな角度から段階的に、あくまでも<仮に>定義していきながら、最終的には、
センスの良し悪しの「向こう側」にまで、つまり、センスなどもはやどうでもよくなる、「アンチセンス」をどう考えるかというところにまで向かっていくこと。
僕の『勉強の哲学』と『現代思想入門』の言い方を使うなら、センスとは何かを「仮固定」した上で、その「脱構築」へ向かうことになります。
<ものごとをリズムとして捉えること、それがセンスである。>
センスとは物事の直観的な把握であり、綜合的なものなのだから、ものごとを意味や目的でまとめようとせず、ただそれをいろんな要素のデコボコとして楽しむことだ。
デコボコを捉えるとき、センスには二つの側面がある。欠如を埋めてはまた欠如しという「ビート」と、もっと複雑にいろんな側面が絡み合った「うねり」である。
<センスとは、意味を捉えるときにそれを「距離のデコボコ=リズム」として捉え、そこにやはり、うねりとビートを感じ取ることである。>
(このあたりの議論は、以前ご紹介した『翻訳夜話』で村上春樹が述べていた、文章を書くときにプライオリティのトップにくるものの話に近いかもしれない。)
<リズムの経験とは、「反復の予測と、予測誤差という差異」のパターン認識である。>
リズムには、反復からのズレ=差異があるからこそ面白い。ものごとには予測誤差が起きることもあり、予測が外れてもなんとかなることがほとんどだというのだ。
細かい刻みで予測の当たり外れに一喜一憂するのでなく、退いた視点から世界を眺めているスタンス、これが人間において顕著な「意識」であり、「メタ認知」なのだ。
<予測誤差がほどほどの範囲に収まっていると美的になる。それに対し、予測誤差が大きく、どうなるかわからないという偶然性が強まっていくと崇高的になる。>
反復と差異のバランスが崩れ、予測誤差が崇高的に大きくなる。そのような「崩れ」に芸術的自由を見るのが、センスの良さのもうひとつの定義だという。
偶然性にどう向き合うかが人によって異なることがリズムの多様性となり、それが個性的なセンスとして表現される、というのだった。
反復と差異のバランスという意味でのセンスの良さがある一方で、何かにこだわって繰り返してしまう反復になにか重いものを見出す人もいる。
あるどうしようもなさの反復には、その根底に偶然性が響いているが、それはセンスの良さを台無しにすることもあるので、「アンチセンス」と呼ぶことにする。
<センスは、アンチセンスという陰影を帯びてこそ、真にセンスとなるのではないか。>
本日もお読みいただいた皆様どうも有り難うございました。
今後も読んであげようと思っていただけましたなら、
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この本は「センスが良くなる本」です。・・・皆さんが期待されている意味で「センスが良くなる」かどうかは、わかりません。ただ、ものを見るときの「ある感覚」が伝わってほしいと希望しています。
<本書の狙いは、芸術と生活をつなげる感覚を伝えることです。>
この本はカントに擬えれば、思考についての『勉強の哲学』、倫理についての『現代思想入門』に続く、美的判断についての入門書的著作の第三段なのだという。
<センスとは「直観的にわかる」ことである。>
という定義から入って、センスの良し悪しとはどういうことかを、いろいろな角度から段階的に、あくまでも<仮に>定義していきながら、最終的には、
センスの良し悪しの「向こう側」にまで、つまり、センスなどもはやどうでもよくなる、「アンチセンス」をどう考えるかというところにまで向かっていくこと。
僕の『勉強の哲学』と『現代思想入門』の言い方を使うなら、センスとは何かを「仮固定」した上で、その「脱構築」へ向かうことになります。
<ものごとをリズムとして捉えること、それがセンスである。>
センスとは物事の直観的な把握であり、綜合的なものなのだから、ものごとを意味や目的でまとめようとせず、ただそれをいろんな要素のデコボコとして楽しむことだ。
デコボコを捉えるとき、センスには二つの側面がある。欠如を埋めてはまた欠如しという「ビート」と、もっと複雑にいろんな側面が絡み合った「うねり」である。
<センスとは、意味を捉えるときにそれを「距離のデコボコ=リズム」として捉え、そこにやはり、うねりとビートを感じ取ることである。>
(このあたりの議論は、以前ご紹介した『翻訳夜話』で村上春樹が述べていた、文章を書くときにプライオリティのトップにくるものの話に近いかもしれない。)
<リズムの経験とは、「反復の予測と、予測誤差という差異」のパターン認識である。>
リズムには、反復からのズレ=差異があるからこそ面白い。ものごとには予測誤差が起きることもあり、予測が外れてもなんとかなることがほとんどだというのだ。
細かい刻みで予測の当たり外れに一喜一憂するのでなく、退いた視点から世界を眺めているスタンス、これが人間において顕著な「意識」であり、「メタ認知」なのだ。
<予測誤差がほどほどの範囲に収まっていると美的になる。それに対し、予測誤差が大きく、どうなるかわからないという偶然性が強まっていくと崇高的になる。>
反復と差異のバランスが崩れ、予測誤差が崇高的に大きくなる。そのような「崩れ」に芸術的自由を見るのが、センスの良さのもうひとつの定義だという。
偶然性にどう向き合うかが人によって異なることがリズムの多様性となり、それが個性的なセンスとして表現される、というのだった。
反復と差異のバランスという意味でのセンスの良さがある一方で、何かにこだわって繰り返してしまう反復になにか重いものを見出す人もいる。
あるどうしようもなさの反復には、その根底に偶然性が響いているが、それはセンスの良さを台無しにすることもあるので、「アンチセンス」と呼ぶことにする。
<センスは、アンチセンスという陰影を帯びてこそ、真にセンスとなるのではないか。>
本日もお読みいただいた皆様どうも有り難うございました。
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