(Eウィリアムズ 河出書房新社)
「まちがいがあるのだ。辞書に」デイヴィッドのやわらかな声がじりじりと涙声に変わっていくように思え、わたしはじっと上司を見つめた。すると、デイヴィッドは弁解がましい口調になって言い直した。
「まちがいとは少しちがうな。あるべくしてあるのだが、あってはならない語のことだ。」
1930年に全9巻の初版を出しながら未だに未完成で、むしろそれゆえに愛されている『スワンズビー新百科辞書』の電子版を刊行することを目論んでいる、
4代目当主で編集長のデイヴィッド・スワンズビーにとって、この辞書に紛れ込んだ「フェイク語」の多さがもう一つの悩みの種だった。
――cassiculation(名)透き通った見えないクモの巣に突っこんでしまったときの感覚――
わかる、とわたしは思った。使い方が想像できる。不正の匂いを嗅ぎつけようとするかのように、紙を顔に近づけた。
「これがそのフェイク語なんですか?マウントウィーゼルとかいう?」
デイヴィッドから、総がかりで書庫をチェックし、編集プロセスをすり抜けたフェイク語と同じ筆跡の項目カードをすべて探し出すよう命じられたマロリーは、
この会社でインターンを始めてから3年で、同一人物から毎日かかってくる「建物を爆破する」という脅迫電話に出るのが仕事という、たった1人の社員だった。
<マウントウィーゼル>――著作権を守るために、辞書や百科事典に載せる偽の項目。『新コロンビア百科事典』に掲載された有名なフェイク項目に由来する。
しかし、それならば一つの版に一つでいいはずのそんなくだらない言葉が、この辞書には多すぎた。いったい誰が、何のためにこれらの言葉を潜り込ませたのか?
――winceworthliness(名)意味のない道楽の価値――
ウィンスワースは、机の上のすでに完成した項目カードの束にブルーのカードをすべりこませた。口がからからに乾いている。人知れぬ反逆、犠牲者のいない嘘。
「自分の考えの痕跡が自分の死後も生き残るというのは、まんざらでもない。永遠に生きることになるとも言える。」
時は遡って19世紀。100人を超える辞書編纂者たちが日々机に向かって作業を続けているスワンズビー会館で、同僚たちに埋もれその存在を忘れられてしまう、
辞書の「S」の項目を担当しながら、舌足らずな喋り方の矯正のため「話し方レッスン」に通わされているという冴えない男のウィンスワースは、唐突に恋に落ちる。
――love(動)粉砂糖と、癒し効果のある紅茶の葉、もしくは、当たり障りのない小さな嘘を共有することで、虚空を満たすこと
というわけでこの本は、19世紀と21世紀にそれぞれ、勢いは随分衰えたとはいえ同じスワンズビー社で辞書編纂に携わることになった二人が交互に描かれ、
片や多すぎるフェイク語の数々に、時には感心させられながらも、溜め息を吐きながら取り除く作業にいそしむマロリーの怒涛の日々と、
ままならぬ恋の顛末に心惑わせながら、ますますその時の気持ちにぴったりくる言葉を、せっせと生み出し続けていくウィンスワースの日々が、綴られていくのだ。
百科辞書の編纂をしているという彼らの誇りを思う。できるだけ多くの語や事実を集めて上着の中やポケットに詰めこんでいるのだ。彼らの野望を、すべてをきちんと整理したいという渇望を思う。そう、きちんと。
本日もお読みいただいた皆様どうも有り難うございました。
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「まちがいがあるのだ。辞書に」デイヴィッドのやわらかな声がじりじりと涙声に変わっていくように思え、わたしはじっと上司を見つめた。すると、デイヴィッドは弁解がましい口調になって言い直した。
「まちがいとは少しちがうな。あるべくしてあるのだが、あってはならない語のことだ。」
1930年に全9巻の初版を出しながら未だに未完成で、むしろそれゆえに愛されている『スワンズビー新百科辞書』の電子版を刊行することを目論んでいる、
4代目当主で編集長のデイヴィッド・スワンズビーにとって、この辞書に紛れ込んだ「フェイク語」の多さがもう一つの悩みの種だった。
――cassiculation(名)透き通った見えないクモの巣に突っこんでしまったときの感覚――
わかる、とわたしは思った。使い方が想像できる。不正の匂いを嗅ぎつけようとするかのように、紙を顔に近づけた。
「これがそのフェイク語なんですか?マウントウィーゼルとかいう?」
デイヴィッドから、総がかりで書庫をチェックし、編集プロセスをすり抜けたフェイク語と同じ筆跡の項目カードをすべて探し出すよう命じられたマロリーは、
この会社でインターンを始めてから3年で、同一人物から毎日かかってくる「建物を爆破する」という脅迫電話に出るのが仕事という、たった1人の社員だった。
<マウントウィーゼル>――著作権を守るために、辞書や百科事典に載せる偽の項目。『新コロンビア百科事典』に掲載された有名なフェイク項目に由来する。
しかし、それならば一つの版に一つでいいはずのそんなくだらない言葉が、この辞書には多すぎた。いったい誰が、何のためにこれらの言葉を潜り込ませたのか?
――winceworthliness(名)意味のない道楽の価値――
ウィンスワースは、机の上のすでに完成した項目カードの束にブルーのカードをすべりこませた。口がからからに乾いている。人知れぬ反逆、犠牲者のいない嘘。
「自分の考えの痕跡が自分の死後も生き残るというのは、まんざらでもない。永遠に生きることになるとも言える。」
時は遡って19世紀。100人を超える辞書編纂者たちが日々机に向かって作業を続けているスワンズビー会館で、同僚たちに埋もれその存在を忘れられてしまう、
辞書の「S」の項目を担当しながら、舌足らずな喋り方の矯正のため「話し方レッスン」に通わされているという冴えない男のウィンスワースは、唐突に恋に落ちる。
――love(動)粉砂糖と、癒し効果のある紅茶の葉、もしくは、当たり障りのない小さな嘘を共有することで、虚空を満たすこと
というわけでこの本は、19世紀と21世紀にそれぞれ、勢いは随分衰えたとはいえ同じスワンズビー社で辞書編纂に携わることになった二人が交互に描かれ、
片や多すぎるフェイク語の数々に、時には感心させられながらも、溜め息を吐きながら取り除く作業にいそしむマロリーの怒涛の日々と、
ままならぬ恋の顛末に心惑わせながら、ますますその時の気持ちにぴったりくる言葉を、せっせと生み出し続けていくウィンスワースの日々が、綴られていくのだ。
百科辞書の編纂をしているという彼らの誇りを思う。できるだけ多くの語や事実を集めて上着の中やポケットに詰めこんでいるのだ。彼らの野望を、すべてをきちんと整理したいという渇望を思う。そう、きちんと。
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