(朝比奈秋 文藝春秋)
「伯父さんってさ、お父さん孕んでる時、辛かったんかな。それか、産み終わって空っぽになってからの方が辛かったんかな」
伯父の「胎児内胎児」として12か月もの間、伯父の体内に居座って酸素と栄養を得ていた父は、その間は紛れもなく伯父の内蔵の一つだったに違いない。
離れ離れになって50年以上たってもその臓腑的な関係は続き、透明な一方通行の通路は今も繋がっていて、父は伯父に病気や怪我を押しつけているようだった。
だから、「あのね。今さっき電話があって。勝彦伯父さん亡くなったって」という母からの電話に、全身ががくがくと痙攣するほどの衝撃を受けたのは、
<自分たちのように>深くで繋がっていると思っていた二人なら、いつか同時に死ぬと思い込んでいたからだ。二人が同時に死ななかったことに衝撃を受けたのだ。
この物語の主人公、杏と瞬の双子の姉妹は、伯父と父以上に全てがくっついて生まれ落ちて、そして今もくっついている「結合双生児」だった。
<もしも自分たちの片っぽが死んだら、もう一方はどうなるのだろう?>
本年度「芥川賞」受賞作品。
顔面も、違う半顔が真っ二つになって少しずれてくっついている。結合双生児といっても、頭も胸も腹もすべてがくっついて生まれたから、はたから見れば一人に見える。
初対面の人は私たちの顔を見ても、面長の左顔と丸い右顔がずれてくっついたものだなんて思わず、特異な顔貌をした「障がい者」なんだろうと思ってしまうし、
親ですら一言も話すことができなかった「わたし」の存在に気がつかず、「私」が「わたし」を見つけだしてくれたのは、ようやく5歳になってからだったのだ。
とここまで書くと、何やら物凄く複雑な展開を想像してしまいそうだが、物語自体は伯父の死から四十九日までのごくありふれた日常が描かれていくにすぎない。
ただ、そこには「私(杏)」と「わたし(瞬)」という二人で一人の「私たち」がいて、別人格としての意識が交互に交錯し、読む者の脳内までかき回してくるのだ。
自分だけの体、自分だけの思考、自分だけの記憶、自分だけの感情、なんてものは実のところ誰にも存在しない。いろんなものを共有しあっていて、独占できるものなどひとつもない。他の人たちと違うのは、私と瞬はあまりに直接的、という点だけだった。
四十九日の法要で、いとこから直近の数カ月で伯父の腎臓がかなり悪くなっていたこと、父から片方の腎臓を移植してもらう時期を相談していたことを聞かされる。
高校の校外実習で見た、白と黒の勾玉が追いかけっこしたような配置になっている「陰陽図」。黒いオオサンショウウオが一匹、白いオオサンショウウオが一匹。
「白の頭部の中心には黒い点が、黒の頭部の中心には白の点があるでしょう。陽中陰、陰中陽とそれぞれ呼ばれていて、陽きわまれば陰となり・・・」
もし腎移植が実現していたら、それなりの陰陽図が完成していたと気付いた瞬は、父が亡くなったら伯父の骨と父の骨を混ぜて、墓場で完成させてあげようと決心し、
自分たちが死んだ時に一人の死亡として扱われても大した問題ではなさそうに思えてくるのだった。元々一つの骨だから、熱海の沖に広く散骨されるのもいいかもと。
杏は子供らによって自分たちが納骨されることを想像している。骨壺はやはり一つで、・・・墓に蓋をすると、中は完全な暗闇になる。そこからまた何十年も何百年も一緒に過ごす。・・・そんな想像に朝の空気がことさら鮮やかに匂ってきて、わたしもまた安らいでくる。
本日もお読みいただいた皆様どうも有り難うございました。
今後も読んであげようと思っていただけましたなら、
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「伯父さんってさ、お父さん孕んでる時、辛かったんかな。それか、産み終わって空っぽになってからの方が辛かったんかな」
伯父の「胎児内胎児」として12か月もの間、伯父の体内に居座って酸素と栄養を得ていた父は、その間は紛れもなく伯父の内蔵の一つだったに違いない。
離れ離れになって50年以上たってもその臓腑的な関係は続き、透明な一方通行の通路は今も繋がっていて、父は伯父に病気や怪我を押しつけているようだった。
だから、「あのね。今さっき電話があって。勝彦伯父さん亡くなったって」という母からの電話に、全身ががくがくと痙攣するほどの衝撃を受けたのは、
<自分たちのように>深くで繋がっていると思っていた二人なら、いつか同時に死ぬと思い込んでいたからだ。二人が同時に死ななかったことに衝撃を受けたのだ。
この物語の主人公、杏と瞬の双子の姉妹は、伯父と父以上に全てがくっついて生まれ落ちて、そして今もくっついている「結合双生児」だった。
<もしも自分たちの片っぽが死んだら、もう一方はどうなるのだろう?>
本年度「芥川賞」受賞作品。
顔面も、違う半顔が真っ二つになって少しずれてくっついている。結合双生児といっても、頭も胸も腹もすべてがくっついて生まれたから、はたから見れば一人に見える。
初対面の人は私たちの顔を見ても、面長の左顔と丸い右顔がずれてくっついたものだなんて思わず、特異な顔貌をした「障がい者」なんだろうと思ってしまうし、
親ですら一言も話すことができなかった「わたし」の存在に気がつかず、「私」が「わたし」を見つけだしてくれたのは、ようやく5歳になってからだったのだ。
とここまで書くと、何やら物凄く複雑な展開を想像してしまいそうだが、物語自体は伯父の死から四十九日までのごくありふれた日常が描かれていくにすぎない。
ただ、そこには「私(杏)」と「わたし(瞬)」という二人で一人の「私たち」がいて、別人格としての意識が交互に交錯し、読む者の脳内までかき回してくるのだ。
自分だけの体、自分だけの思考、自分だけの記憶、自分だけの感情、なんてものは実のところ誰にも存在しない。いろんなものを共有しあっていて、独占できるものなどひとつもない。他の人たちと違うのは、私と瞬はあまりに直接的、という点だけだった。
四十九日の法要で、いとこから直近の数カ月で伯父の腎臓がかなり悪くなっていたこと、父から片方の腎臓を移植してもらう時期を相談していたことを聞かされる。
高校の校外実習で見た、白と黒の勾玉が追いかけっこしたような配置になっている「陰陽図」。黒いオオサンショウウオが一匹、白いオオサンショウウオが一匹。
「白の頭部の中心には黒い点が、黒の頭部の中心には白の点があるでしょう。陽中陰、陰中陽とそれぞれ呼ばれていて、陽きわまれば陰となり・・・」
もし腎移植が実現していたら、それなりの陰陽図が完成していたと気付いた瞬は、父が亡くなったら伯父の骨と父の骨を混ぜて、墓場で完成させてあげようと決心し、
自分たちが死んだ時に一人の死亡として扱われても大した問題ではなさそうに思えてくるのだった。元々一つの骨だから、熱海の沖に広く散骨されるのもいいかもと。
杏は子供らによって自分たちが納骨されることを想像している。骨壺はやはり一つで、・・・墓に蓋をすると、中は完全な暗闇になる。そこからまた何十年も何百年も一緒に過ごす。・・・そんな想像に朝の空気がことさら鮮やかに匂ってきて、わたしもまた安らいでくる。
本日もお読みいただいた皆様どうも有り難うございました。
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