(斎藤環 文藝春秋)
精神医学の側からみるとき、「キャッチャー」はほとんど古典的なテキストというべき位置にある。そう、第一章(境界例のドライブ−−柳美里)でも述べた「境界性人格障害」について。(第七章「ライ麦畑」の去勢のために−−村上春樹)
というこの本は、「ひきこもり」を専門とする精神科臨床医・斎藤環が、その資格は持たないことを十分に自覚した上で挑んだ「文芸批評」の試みのようである。
著者が専門とするのは、天才や偉人の創造性を、精神医学というレンズを通して解析し、あわよくば診断もつけてしまおうという「病跡学」なのだが、
ある種の創造性が、何らかの関係性のもとで賦活されるさいに、作者が健常者であるか否かにかかわらず、作品が自動的に一種の病理性をはらんでしまう場合があり、
それを仮に「病因論的ドライブ」と命名し、その所在を探し続けることは、批評というより病態生理の解明であり、作品に生じた転移の解釈となるというのだった。
たとえば、斎藤がかねてから「解離」現象を頻繁にモチーフとして取り上げることに注目してきたという村上は、なぜサリンジャーを翻訳しなければならなかったのか。
もしや、「キャッチャー」の過剰な同一化の流れに亀裂を挿入し、ある種の超越論的な余白を確保することで、サリンジャーの影響力を解毒する目的だったのでは?
<それはサリンジャーの去勢に他ならないのかもしれないが、小説の暴力に自覚的な作家の振る舞いとしては、十分すぎるほどに倫理的なものではなくて何だろうか。>
このうえなく閉じた、静かな世界を愛好していると一般に思われている小川の嗜好をみあやまるべきではない。彼女には、こうした「封印と増殖」をテーマとする作品がいくつもある。(第十四章増殖する欠損ーー小川洋子)
到達不可能であるがゆえに活性化される「欲望」に対して、欲動がその周囲を巡回している享楽そのものの具現化「サントーム」は、ラカンの重要なキーワードだが、
「馴染み」と「反復」こそが本質であるファンタジー世界に、小川作品がついに収まることがないのは、「不気味なもの」が侵入するサントーム性が原因だという。
80分しか記憶を保持できない老数学者の、体中に覚書のメモを貼り付けた異様な風体は、サントームとして増殖を続ける欠損によってもたらされている。
<記憶が切断されるからこそ、博士の数学への欲望は、素朴な愛の形式として反復持続されるのだ。>
大江はかつて受けた屈辱的なエピソードを、創造の一つの源とするかのようだ。事実彼は、その種のエピソードを、必ずしも怨念や被害関係念慮には結びつかない形で紹介することが多い。(第十八章「私小説」と神経症−−大江健三郎)
大江の後期の文体が「語る主体」から「語られる主体」へと変質し、「語られてしまったことを翻訳しつつ語る主体」となったのには障害児の息子の存在があるが、
つねに虚構の中に、実体験や実在の人物を取り込みながらも、作品として出力されたものはおよそ「私小説」には見えないという意味で、大江は特権的な作家なのだ。
<病跡学的に考えるなら、大江健三郎は、まぎれもなく神経症圏内の作家である。そして神経症者であるということは、システムとしての循環的な生ではなく、ある種の体験に固着し、ある種の行為の反復の中に置かれた生であることを意味している。>
といった具合に、総勢23名の作家が俎上に乗せられて、精神分析の概念で切り刻まれていくのだが、残念ながら暇人では太刀打ちできないような作家も多かった。
とはいえ、この「病跡学とメディア論」の中間に属するような、専門領域の境界線上で奮った大鉈の切っ先が、結局は自分自身に向かったようなのが面白かった。
私自身は典型的とも言える分裂気質者である。情緒的な冷たさと孤独癖があり、体験の処理に際しては過去参照型よりは未来予測型で、微妙な変化や雰囲気に過敏、このため常に一定のアンバランスな緊張のもとで生きている。
本日もお読みいただいた皆様どうも有り難うございました。
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精神医学の側からみるとき、「キャッチャー」はほとんど古典的なテキストというべき位置にある。そう、第一章(境界例のドライブ−−柳美里)でも述べた「境界性人格障害」について。(第七章「ライ麦畑」の去勢のために−−村上春樹)
というこの本は、「ひきこもり」を専門とする精神科臨床医・斎藤環が、その資格は持たないことを十分に自覚した上で挑んだ「文芸批評」の試みのようである。
著者が専門とするのは、天才や偉人の創造性を、精神医学というレンズを通して解析し、あわよくば診断もつけてしまおうという「病跡学」なのだが、
ある種の創造性が、何らかの関係性のもとで賦活されるさいに、作者が健常者であるか否かにかかわらず、作品が自動的に一種の病理性をはらんでしまう場合があり、
それを仮に「病因論的ドライブ」と命名し、その所在を探し続けることは、批評というより病態生理の解明であり、作品に生じた転移の解釈となるというのだった。
たとえば、斎藤がかねてから「解離」現象を頻繁にモチーフとして取り上げることに注目してきたという村上は、なぜサリンジャーを翻訳しなければならなかったのか。
もしや、「キャッチャー」の過剰な同一化の流れに亀裂を挿入し、ある種の超越論的な余白を確保することで、サリンジャーの影響力を解毒する目的だったのでは?
<それはサリンジャーの去勢に他ならないのかもしれないが、小説の暴力に自覚的な作家の振る舞いとしては、十分すぎるほどに倫理的なものではなくて何だろうか。>
このうえなく閉じた、静かな世界を愛好していると一般に思われている小川の嗜好をみあやまるべきではない。彼女には、こうした「封印と増殖」をテーマとする作品がいくつもある。(第十四章増殖する欠損ーー小川洋子)
到達不可能であるがゆえに活性化される「欲望」に対して、欲動がその周囲を巡回している享楽そのものの具現化「サントーム」は、ラカンの重要なキーワードだが、
「馴染み」と「反復」こそが本質であるファンタジー世界に、小川作品がついに収まることがないのは、「不気味なもの」が侵入するサントーム性が原因だという。
80分しか記憶を保持できない老数学者の、体中に覚書のメモを貼り付けた異様な風体は、サントームとして増殖を続ける欠損によってもたらされている。
<記憶が切断されるからこそ、博士の数学への欲望は、素朴な愛の形式として反復持続されるのだ。>
大江はかつて受けた屈辱的なエピソードを、創造の一つの源とするかのようだ。事実彼は、その種のエピソードを、必ずしも怨念や被害関係念慮には結びつかない形で紹介することが多い。(第十八章「私小説」と神経症−−大江健三郎)
大江の後期の文体が「語る主体」から「語られる主体」へと変質し、「語られてしまったことを翻訳しつつ語る主体」となったのには障害児の息子の存在があるが、
つねに虚構の中に、実体験や実在の人物を取り込みながらも、作品として出力されたものはおよそ「私小説」には見えないという意味で、大江は特権的な作家なのだ。
<病跡学的に考えるなら、大江健三郎は、まぎれもなく神経症圏内の作家である。そして神経症者であるということは、システムとしての循環的な生ではなく、ある種の体験に固着し、ある種の行為の反復の中に置かれた生であることを意味している。>
といった具合に、総勢23名の作家が俎上に乗せられて、精神分析の概念で切り刻まれていくのだが、残念ながら暇人では太刀打ちできないような作家も多かった。
とはいえ、この「病跡学とメディア論」の中間に属するような、専門領域の境界線上で奮った大鉈の切っ先が、結局は自分自身に向かったようなのが面白かった。
私自身は典型的とも言える分裂気質者である。情緒的な冷たさと孤独癖があり、体験の処理に際しては過去参照型よりは未来予測型で、微妙な変化や雰囲気に過敏、このため常に一定のアンバランスな緊張のもとで生きている。
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