ただいまアスペルガー

戦え、ただし無理しないで。 そんな風に生まれ変わったブログです。

夢ってなーに。

お久しぶりです。
とは言っても、もう、アスペルガーのことについて、正直書く自信がないので、完全に雑談になってしまいますが。

最近、最初にブログを始めた時を思い出します。
その時は、ASでもそうじゃなくても、人と向き合うのが苦手な人が、どうそのスキルを得ていくか、それをみんなで学べる場が作りたいな、というのが私の夢でした。

私自身、どうしても恥ずかしがりで、楽しい話ができないことがコンプレックスでした。なので、同じ悩みを持つ人と、一緒に高めあえる場が欲しかったのです。


ただ、今の私にその夢はありません。
なぜなら、人とつきあうのは、結局スキルじゃなかったからです。

確かに、うなづき方、あいづち、いろんな要素をいいものにすれば、相手の反応は変わります。相手が心を開いて、いろんなことを話してくれることもあります。

で、それを私は、ちゃんと聞いていたの?
聞けなかったんです。自分の振る舞いばかり意識して、肝心の相手に興味を持てなくなっていったんです。

それに、「場」に合わせることを目指すこと自体が、時代遅れだったのかなと。
「場」や「組織」ではなくて、「個人」同士が興味関心を共有しあっていく流れに、完全に乗り遅れました。自分の好きなものも忘れ、相手に合わせるだけのフワフワと漂う霧と、だれが繋がろうっていうんでしょうか。


大学に入って、もとの内気な自分を変えたくて、おっかなびっくり、時に危ないこともしました。
終わりが近づいて思うのは、本当に自分のしたいことを、もっとすればよかったなってことです。

内気でいいから、恥ずかしがりやのままでいいから、大事な人を大切にして、もっと好きなことを勉強すればよかった。ゼミもサークルもこれでよかったと思う。ただ、自分のキャラを変えただけで、成長できると思ったら思い上がりもはなはだしかった。
結局、情熱がなければ、意味がない。って言うとブラック企業の求人みたいですが(笑)。情熱という言葉しか思いつかないのが腹立たしいくらいで。日本語って前向きなニュアンスが少ないですよね。
とにかく、したくもないコミュニケーションをするスキルを得ても、幸せになんて、なれないです。
環境が合わないなら出てもいいし、環境をあえて好きになってみるのもいい。ただ、どっちでも、「生きること」を目標にしないほうがいいと思うんです。最近。
「生きること」って、もしかしたら手段でしかないのかもしれないから。
あと40年も働かなきゃいけないじゃない、40年しか働けないって。
思えたら素敵。思えない時期があっても長くてもそれは問題ないと思うから、「こう思える人にならないとだめだ」ってもう自分を責めるのもやめたいと思います。

若者の草食化っていうけれど、自分でリスクを背負うことの価値をその上の年代が示せないのだから、当たり前だと思う。
でも、リスクを取って何かに一生懸命やってる同じ若者に、置いていかれてしまうのもまた事実。

興味を趣味から学問に変えていくこと、今からでも遅くはないと思うし、その時間を作れることもこれからきっと役立つのだろうけど。興味を幅広く持ちたいとも思う。

ただ、何を目指したいのか、どんな幸せがほしいのか、今はまだ見失ったままなので、考えないといけないのですよね。


とりあえず明日もバイトに行きます。日々是勉強。
そんな感じです。真面目しか取り得ないですから(笑)。

私は、ばかです。

お久しぶりです。
いきなり欝っぽくてごめんなさい。今日はちょっと、皆を元気にするネタは書けないです。

就職活動自体は終わりました。とある役所で働くことになりました。
応援してくださった皆様、本当にありがとうございました。自信を失った時、いつも励みにしていました。
ただ、それと時を同じくして、大切な人を失いました。
私がばかだった。もっと大事にすればよかった。今はそう思う毎日を過ごしています。

どこかASやACを言い訳に使っている部分がありました。
そうして相手の話を聞かなくなっていた。一番やってはいけないことばかりしてしまって、詫びることすらしていなかった。
心を閉ざしているくせに甘えていました。

確かに人より疲れやすかったり、コミュニケーションが下手ではあったけれど、それを言い訳にしては何よりいけなかったんです。
あと、私は自分で思っていたより、普通の人間だったのかもしれません。
大学5年かかって、ようやく気が付いたことです。

もしチャンスがあったなら、絶対に絶対に今度こそ大事にする。
まず自分がさぼっていたことをしないといけませんね。
素敵な人に、なりたいと思います。

まさかのアダルトチルドレン?

機能不全家族。

私がこのワードに出会ったのは、実家の本棚を何気なく眺めていた時で、当時まだ小学生だったと思います。

私の母は大学で心理学を専攻していたそうで、それに関連する様々な本が実家にはあり、私も何気なくそれに触れて育ちました。今でこそ花形学科である心理学科ですが、当時はあまりそうではなかったようです。一般心理はともかく、特に病理心理についての話題がタブーであり気軽に話してはいけない、とは大学生になってようやく知ったことです。どうやら恥らしいんですよ。話すのも話されるのも。私は正直誰が病んでても当たり前で、それを理由に交友関係を切ることはしないと決めているのですが、世の中あまりそうでもないようです。

さて、最近思うのですが、IQが100以上で自分の問題に向き合っているアスペルガー(AS)の人間と、アダルトチルドレン(AC)との判別ってつくのでしょうか。
というか、正直、自信を持ってASだと言えなくなってきたんです。最近。

確かに医師の診断は1件だけですが貰いましたし、親の証言を信ずれば確かにそうかもしれません。しかし、コミュニケーションにおけるルールを作り、工夫を重ねていること、最初は評判がよかったものの、それ自体が「自信がなくて媚びていて気持ち悪い」というお叱りをいただくようになってきたのです。
また、「別に感情が読めていないわけではない。卑屈に考えているのが全部の行動に悪影響を与えているだけ」とも。信頼のおける人間に自分の過去について話してみて、「そんなことを言われて育つなんておかしい」「かわいそう」と強く言われたこともそのひとつ。幼いころから考えていた通り、生まれて一番最初に出会う人との問題だったのかも。これがもしただの自罰感情による認識だったとしたら。それはなんて失礼なんだ。

もし、ASではないのにこうしてつらつら書き連ねるならそれは他のASの方に失礼だと思うのと同時に、私自身も前に進めなくなるかもしれない。また、どちらにも所属するのであれば、それはそれで一例として役立つかもしれない。そう考えたので、とりあえず考えたことを書いてみます。


両者に共通するのは外面的コミュニケーションの問題で、決定的に異なるのはその原因が先天的か後天的かということです。
ACでは自己否定感も問題としてクローズアップされています。しかしこれは、ASの場合でもコミュニケーションの問題から、二次障害として自己否定感を得てしまうので、結果として実は似てしまいます。

ACの定義ですが、メディアにより「子供じみたふるまいをする大人」というねじ曲がったイメージが先行しているようです。
今手元に本がないので代わりにウィキペディアから引用してみると、もともとは「Adult Children of Alcoholics」という語であり、意訳すれば(現在)成人だがアルコール依存症の親のもとで育った人々、という意味です。彼らに特徴的な行動・思考・認知のパターンがアルコール依存の場合だけに限定されないことがわかり、「Adult Children of Dysfunctional Family(子供の成育に悪影響を与える親のもとで育ち、成長してもなお精神的影響を受けつづける人々)」と定義が広がった、これが現在のACの定義です。
また、メディアの作ったイメージからの脱却のために、現在では専門家の方は「アダルトサバイバー」という言葉を代わりに使うようになっているそうです。


ACの問題が起きる最大の原因は「条件付き愛情」しか与えられないことです。無償の愛はありません。子供に対し親が「自分の気に入るようふるまう」ことを求め、そうでなければ愛さないぞと、駆け引きを演じてしまう。また、親自身がそのような愛情しか知らないため、子供にも同じことを全く無自覚なまま要求する、負の連鎖が起きるとも言われている。

ACの特徴的な心理パターンの中から、いくつかを抜き出してみます。

* 自分を情け容赦なく批判する。自己処罰癖、自罰傾向がある。
* 他人と親密な(心の通った)関係が持てない。
* 環境の変化に過剰反応する。
* 自分は他人とは違っていると感じている。
* 衝動的で、ひとつのことに閉じこもる。
* 衝動的であるためトラブルが多い。
* 離人感、自分が自分でなくなるような感覚。
* 身体性が希薄。
* 甘えと愛情、依存としがみつきの区別がつかない。
* 喜怒哀楽の表現が不得手で感情の波が激しい。
* 孤独感、自己疎外感が強い。

これ、どこかで見たことのある特徴ではないでしょうか。
更に習慣化された思考についても見てみましょう。

* 見捨てられ不安 - 良い子の自分でいないと、好きな人から嫌われてしまい、愛してもらえないと思い込む。
* 親密感と距離感の問題 - 他者との関係が、くっつき過ぎか離れ過ぎかのどちらかになってしまい、適度な距離感が実感できず、維持出来ない。
* 白黒思考 - オール・オア・ナッシング(All or Nothing)で、自分の中にいつも二者択一の選択肢しかない。灰色(中間)の選択肢もあると考えられない。
*完璧主義(Perfectionism)- 白黒思考と似た考え方で、「全ての準備」 や「成功への約束」が整わないと、何もしない完璧主義者になりやすい。過剰に自責的な一方で無責任とも言える。
* 自己主張の問題 - 嫌なことを「イヤ」と相手に言えなかったり、正当な欲求や要求を「自分のわがまま」だと思い込んでしまい、言葉にして伝えることが出来ない。
* 自分の感覚や感情への不確実感 - 「好きだ」「嫌だ」と感じた自分の感覚や怒りなどの自分の感情に、「そう感じた通りで正しい」という実感が持ちにくい。


私は改めてこれを読んで、「近さ」を感じました。
「身体性の欠如」や「人との距離感の問題」、「極端な思考」。ASについての本を初めて手にとって、「そうそうそうなんだよ!」と思ったあのワードが、こんなところにもあっただなんて。
ACの場合、それは健常者だから、ASとは違う。そう思ってもみたのです。が、ACも後天的に不可逆的に思考が歪められてコミュニケーションに問題が出る。不可逆的ならそれはもう、一つの後天的障害と言えるかもしれない。

もちろんこれらが全く別々の事例でしかないということはないでしょう。非自覚AS親が、子育てに思い悩み暴発することもありうる。自分の秩序の世界を壊されることに恐怖し、子供という無秩序な生き物を無理やり大人しくして、自分の身を守ろうとしてしまうという結果にその場合なるでしょう。
同様に、ただでさえ自己肯定感を持てず不安なAC親のもとにコミュニケーション不全を抱える子供が生まれたとすると、親の「わが子からの愛情(表現)により自分の存在の正当化ができる」という期待は粉々に砕け散るわけです。

AS群とAC群が一緒のグループなのか違うグループなのかは、調査でもしてみない限りはっきりはしません。そしておそらくそれはできないでしょう。
自分がASなのにACだと思っている人も、ACなのにASだと思っている人も、実は当たり前にその辺に居たりするのかもしれません。
場合によっては、健常児でありながら、AC親がコントロール下におきたいがために、問題行動の原因を子供の先天的問題にしておく可能性だってある。


弁別する必要はないのかもしれない。
でも、誰もが何かの問題の当事者であると考えるならば、その問題を解決して少しでも前に進みたいと思うのも、また当然で。
もしこれで本当に私がASでないとしたら、本当にごめんなさい。
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