2010年06月
2010年06月29日
契約書を取り交わすとき
5人の女神があなたを救う! ゼロから会社をつくる方法
こちらの書籍が改訂されることになりました。
改訂版は8月に出版される予定。
初版発行から約1年半、改訂版を出していただけるなんて本当にうれしいです!!
というわけで、改訂作業のためにあらためて読み返しているのですが、新しい気付きがあるものですね!
何度も原稿を読んだはずなのに、自分の中にきちんと落とし込めていなかったこと、忘れていたことなどがそこここにあって、本当に勉強になるのです、、、
せっかくですから、改訂作業をしながらふと思いついたことをここにメモしておきたいと思います。
それは、私がコンサルティングをしているベンチャー企業の方々にお勧めしている
契約を結ぶ際には、契約書を声に出して読んでみましょう!
ということ。
ベンチャー企業の経営者から、いろいろなトラブルを相談されることがありますが、そのほとんどが契約や取引をしたさいの「言った言わない」「・・・と思っていたのに」というもの。
契約書は印鑑を押してしまったら、基本的には契約書の内容が優先されてしまいます。
本来は、書面上の文言より、互いの意思が尊重されるはずですが、意思や過去の言葉に記録がなければ、証明はできませんからね。
だからこそトラブルを防ぐためには、最低限、契約書にきちんと目を通すことが大切。
ただ、目を通すといっても、結局、難しいところや意味のわからないところは無意識に読み飛ばしてしまったり、うやむやにしてしまったりすることが多いのも事実。
だから契約書は音読してみるのが一番なのです。
できれば数名で読み合わせするとよいでしょう。
そうすれば、理解できないところは読みつかえたり、読めない漢字に気づいたりして、問題点を把握できることがあります。
読めない漢字の含まれている契約書にハンコを押しては絶対にいけません。意味のわからない文章が含まれている場合も同じです。
「契約書にケチをつけたら、取引してもらえないかも……」
「契約書にケチをつけるなんて、相手を信用していないみたいで……」
と不安になる経営者もいるようですが、それはあまりにも危険です。
契約を結ぶということは、これから何かの取引をし、お金の授受もあるのではないでしょうか。契約書の話ができない相手なら、もしかしてお金の話もできないのでは?
相手の方を信用することと、契約書を鵜呑みにすることとは全く違います。
ビジネスの契約書は声に出して読んでみることをお勧めいたしますよ!
世界中に素敵な日々が訪れますように。
2010年06月19日
快晴!!
梅雨入り直後の快晴となった某日、独協大学さんの経済学部総合講座にて、講演をさせていただきました。
独協大学は埼玉の草加にありますが、日比谷線直通電車も通っていて、都内からのアクセスも良好!
「遠いから1日かかるな〜」などと失礼な思い込みをしていたのですが、本当にごめんなさい!
上の写真の通り、大学の門をくぐると、大きなグラウンドがお出迎え。
広々としていて、空が高くて、気持ちいい!
校舎までの道が、延々と続いています。
今回、担当させていただいたのは、経済学部の講座で、毎回、いろいろな社会人が講演をする、というもの。
昨年お知り合いになった独協大学のA教授からのご依頼があり、私でお役に立てるのであれば、と張り切って行ってまいりいました。
講演内容は、資格と独立について。
数百名の大学生を相手に90分お話させていただくのは、ものすごくパワーが必要で、さすがに疲れました〜。
しかも、時間配分を少々ミスして、最後のまとめが駆け足になってしまったなど、反省点も多々ありました。
でも、言い訳になりますが(笑)、講演は形式的な内容よりも「心」「気持ち」が大切。
学生のみなさんに、少しでも
「そんな考え方、生き方もあるかも知れない」
と思っていただけたら嬉しいな。
コンサルティングのクライアントさんの業務や家庭もあるので、講演は頻繁にはお引受けできないのですが、こうしてお声をかけていただけるのは本当にうれしい。
A教授、本当にありがとうございました!
最後に1つお知らせです。
先日、テレビ朝日さんの『シボリタ星人』という番組の取材を受けたのですが、明日オンエア予定です。おそらく登場するものと思われます。
美人過ぎる公認会計士、ということらしいのですが、35歳になって図太さもパワーアップして「美人過ぎる」の枕言葉にもだんだん慣れてきました(笑)
(「過ぎたるは及ばざるが如し」とは本当に名言ですね!)
どんな風に映るのか定かではありませんが、よろしければご覧ください。
世界中に素敵な日々が訪れますように。
2010年06月16日
企業研修講師対談企画
先日、企業研修講師が4名集まって対談をするという企画に講師の一人として参加させていただきました。
自分の事務所でのコンサルティング業務のかたわら、10年ほど前にアンダーセンビジネススクールというところで企業研修の講師業を開始。
アンダーセンビジネススクールは名前や組織を変えつつ存続してきましたが、昨年いろいろな理由で完全消滅。
そこで働いていた研修プランナーが独立してインプレッションラーニングという研修企画会社を立ち上げたのですが、現在、その講師として名前を連ねております。
今回の対談企画は、このインプレッションラーニング主催のもの。
雑誌に掲載されるということで、どんな記事になるのか今から楽しみです。
私は企業研修講師歴10年ほどですが、ほかの3名の先生は、もっともっとベテランの方々。しかも、
近視眼的な答えやノウハウではなく、じっくりじわじわビジネスで役立つような知識や考え方や学ぶ楽しさを伝えたい
そんな共通の想いを持っていたということもあって話はいやでも盛り上がります。
教育や学びへの熱い想いや哲学について、議論をしたわけではないのだけれど、互いの意見が飛び交って、本当に楽しい時間でした。
雨風の強い日の対談&撮影だったために、真剣な顔の裏で髪の毛はボサボサになっていましたが、そんなことにも気付かないほど集中していたのでした(笑)
ところで、今回の対談場所はなんとRyoko’s Photo Studio!
以前、私が通っていたフォトスタジオにいた、同い年で同じ名前のフォトグラファーRyokoが独立して作ったフォトスタジオだったのです。
この場所を選んだのは主催者なので、これはまったくの偶然。
でも、必然というか運命を感じました!!
Ryokoの写真は、やさしくて柔らかくて、とっても素敵なんですよ。
それにしても、難しいことをたくさん考え、みなさんの発言に意識を集中し続けたので、3時間にもおよぶ対談が終わった時にはぐったり。
その後、パーソナルトレーニングでさらにしぼられて、へとへと。
その夜、よく眠れたことは言うまでもありません(笑)
世界中に素敵な日々が訪れますように。
2010年06月15日
やっぱり一番大切なのは心だと思うのだけれど。
先日テレビを見ていたら、とある小学校の
「上手な話の聞き方」
といった趣旨の授業がニュースとして取り上げられていました。
ニュースとして切り取られてしまっている情報ですので、その授業をすべて見た上での感想ではないのですが、実は少し不安を覚えました。
授業では、どうやって話を聞いたらお互いに気持ちがいいかを子どもたちも一緒に考えた末、
「頬杖をついて相手の話を聞くと態度が良くない」
といった結論が1つ出てきたようなのです。
これはこれで、確かに一つの答えだとは思います。
マナーというものは、形になって表現されなければ意味のないことも多々ありますからね。
でも、それって授業で勉強して、ややもすれば画一的な答えを導いてしまうような内容でいいのかな。
相手の話を一生懸命聞こうと思っているとき、思わず身を乗り出して、肘をついていたり、頬杖をついていることだってある。
気持ちにプラスして、形式的なマナーが伴えば、なおいっそう良いのだろうけれど、まずは心が大切なのだと思っています。
また、社会の中で人と人が接すれば、お互い嫌な思いをすることは日常茶飯事。
どんなに頭で考えて、一生懸命接したって、お互い嫌な気持ちになることもあるでしょう。
だから、事前にそういう状況が生じないように勉強すること以上に、そういうストレスに耐えられる、対処できることもとても大切なのだと思うのです。
それに「お互い嫌な思いをすることもあるけれど、それでいいじゃない?」「他人同士が一緒に生きている以上、しょうがないこともあるじゃない?」と思うのですが、それは私が安易なのかな。
マナーなんてどうでもいい、という意味ではなくて。
子どもの頃に些細なことで喧嘩してはそれを修復して……、そんなことを繰り返すから社会性が身につくのだと思うのですけれど、それは古い考え方でしょうか。
私は、小学生のころ、一定期間(どのくらいかは全く覚えておりませんが)所属していたクラブの人全員から無視されたことがあるのですが、その後、無視する側にもまわりました。
無視する側にまわるという、めちゃくちゃ卑怯な自分を経験したから、深く傷ついて、深く考えることができたような気もします。
もちろん、経験になるから悪いことをしてもいい、とは思いません。
でも、授業の中で頭で考えるのではなくて、日々友達と接して、子供なりに日々悩み、傷つき、一生懸命考えることが大切だと思います。
子供のコミュニケーション能力は、大人が考えるより、ずっとずっと高度なのだと信じています。
世界中に素敵な日々が訪れますように。
「上手な話の聞き方」
といった趣旨の授業がニュースとして取り上げられていました。
ニュースとして切り取られてしまっている情報ですので、その授業をすべて見た上での感想ではないのですが、実は少し不安を覚えました。
授業では、どうやって話を聞いたらお互いに気持ちがいいかを子どもたちも一緒に考えた末、
「頬杖をついて相手の話を聞くと態度が良くない」
といった結論が1つ出てきたようなのです。
これはこれで、確かに一つの答えだとは思います。
マナーというものは、形になって表現されなければ意味のないことも多々ありますからね。
でも、それって授業で勉強して、ややもすれば画一的な答えを導いてしまうような内容でいいのかな。
相手の話を一生懸命聞こうと思っているとき、思わず身を乗り出して、肘をついていたり、頬杖をついていることだってある。
気持ちにプラスして、形式的なマナーが伴えば、なおいっそう良いのだろうけれど、まずは心が大切なのだと思っています。
また、社会の中で人と人が接すれば、お互い嫌な思いをすることは日常茶飯事。
どんなに頭で考えて、一生懸命接したって、お互い嫌な気持ちになることもあるでしょう。
だから、事前にそういう状況が生じないように勉強すること以上に、そういうストレスに耐えられる、対処できることもとても大切なのだと思うのです。
それに「お互い嫌な思いをすることもあるけれど、それでいいじゃない?」「他人同士が一緒に生きている以上、しょうがないこともあるじゃない?」と思うのですが、それは私が安易なのかな。
マナーなんてどうでもいい、という意味ではなくて。
子どもの頃に些細なことで喧嘩してはそれを修復して……、そんなことを繰り返すから社会性が身につくのだと思うのですけれど、それは古い考え方でしょうか。
私は、小学生のころ、一定期間(どのくらいかは全く覚えておりませんが)所属していたクラブの人全員から無視されたことがあるのですが、その後、無視する側にもまわりました。
無視する側にまわるという、めちゃくちゃ卑怯な自分を経験したから、深く傷ついて、深く考えることができたような気もします。
もちろん、経験になるから悪いことをしてもいい、とは思いません。
でも、授業の中で頭で考えるのではなくて、日々友達と接して、子供なりに日々悩み、傷つき、一生懸命考えることが大切だと思います。
子供のコミュニケーション能力は、大人が考えるより、ずっとずっと高度なのだと信じています。
世界中に素敵な日々が訪れますように。
2010年06月13日
昔から・・・そして最近は特に
子供のころから、早く大人になりたいと思っていました。
自分の力でお金を稼ぎ、自分で責任をもって生きることのできる大人に。
最近はまた、特にそう感じます。
それなりに大人になったつもりだけれど、大人になればなるほど、もっと大人になりたい、年齢を重ねたいと思うのです。
20歳のときもそれなりに、30歳のときもそれなりに、自分なりに生きていたけれど、歳を重ねるたびに「あのころはまだまだ未熟だったな」と感じているから。
きっと10年後には、今の自分をまた未熟に感じることでしょう。
もし、感じなかったら情けないですしね。
知識、経験、教養、文化、人を思いやる心、本質を見抜く力。
それがじわじわと心に刻まれていくような、そんな日々を重ねていけたらいいな、と思います。
とはいっても、孔子曰く
「吾れ十有五にして学を志す。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲するところに従い、矩をこえず。」
とのことですから、人生はまだまだこれから、人生というものを本当に味わえるのはまだまだこれから、ということなのでしょうね。
世界中に素敵な日々が訪れますように。
自分の力でお金を稼ぎ、自分で責任をもって生きることのできる大人に。
最近はまた、特にそう感じます。
それなりに大人になったつもりだけれど、大人になればなるほど、もっと大人になりたい、年齢を重ねたいと思うのです。
20歳のときもそれなりに、30歳のときもそれなりに、自分なりに生きていたけれど、歳を重ねるたびに「あのころはまだまだ未熟だったな」と感じているから。
きっと10年後には、今の自分をまた未熟に感じることでしょう。
もし、感じなかったら情けないですしね。
知識、経験、教養、文化、人を思いやる心、本質を見抜く力。
それがじわじわと心に刻まれていくような、そんな日々を重ねていけたらいいな、と思います。
とはいっても、孔子曰く
「吾れ十有五にして学を志す。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲するところに従い、矩をこえず。」
とのことですから、人生はまだまだこれから、人生というものを本当に味わえるのはまだまだこれから、ということなのでしょうね。
世界中に素敵な日々が訪れますように。
2010年06月08日
勝手な願い。
突然ですが、みなさん、遺言書って書いていますか?
私は、書いて残してあります。
拙著『相続はおそろしい』にも書きましたが、遺言はどんな人にも書いておいてほしいなあ、というのが、私の勝手な願い。
相続はおそろしい (幻冬舎新書)
それは、別に、相続がおそろしいものだからではありません(笑)
おそろしくなる可能性はありますけれどね。
上記の書籍は、相続に興味のない人にも読んでいただきたくて、少々挑戦的なタイトルになっていますが、実は、相続について誰にでも最低限知っておいてほしい知っておいて損はない内容を、架空の相続ストーリーに乗せて解説しています。
おそらく相続全体で見れば、ほとんどが円満な相続なのでしょう。
でも、ひとたびこじれると、それはそれは恐ろしい争いを引き起こすのです。
そのため、相続は「争続」だ、と言われたりもします。
また、円満に終わったはずの相続が、後々の代に大きな問題になったりすることもあるんですよ。
先祖代々の土地を、兄弟で仲良く、法律の割合どおりに相続した。次の代も、仲良く相続した。
……それを繰り返したら、1つの土地を何十人もで共有する結果となった、などという具合にね。
最初のうちは「先祖代々」という価値観で、顔見知り同士で共有しているので、たいした問題にはなりませんが、それが孫子の代になったら、想像だにしない争いがおこることもあります。
事前に少し、相続や老後のことについて考え、家族で話し合っておくだけで、いろいろなトラブルを回避できるのです。
その最たるものが遺言書。
若い方にも是非、遺言を残すことを考えてほしいな、と思います。
私どものように、子どもを授かっていない夫婦は、たとえば、私が突然なくなったとき、私の財産を、夫と私の実の両親が相続することになります。
夫と私の実の両親で、私の財産をめぐる争いは起こさないにしても、夫の口から「財産は全部僕がもらいます」なんて、きっと言えないですよね(笑)
万一、私の雀の涙ほどの財産で、夫と私の両親がもめたりしたら、とても成仏できません。
でも、ここに私の遺言書があれば、気まずい話し合いを、円滑にできることでしょう。
遺言書は、亡くなることへの準備というより、安心して生きるための準備であり手段。
自分は関係ない、と思っている人にほど、残しておいてほしいな、考えてほしいな、というのが私の勝手な願いです。
世界中に素敵な日々が訪れますように。
私は、書いて残してあります。
拙著『相続はおそろしい』にも書きましたが、遺言はどんな人にも書いておいてほしいなあ、というのが、私の勝手な願い。
相続はおそろしい (幻冬舎新書)
それは、別に、相続がおそろしいものだからではありません(笑)
おそろしくなる可能性はありますけれどね。
上記の書籍は、相続に興味のない人にも読んでいただきたくて、少々挑戦的なタイトルになっていますが、実は、相続について誰にでも最低限知っておいてほしい知っておいて損はない内容を、架空の相続ストーリーに乗せて解説しています。
おそらく相続全体で見れば、ほとんどが円満な相続なのでしょう。
でも、ひとたびこじれると、それはそれは恐ろしい争いを引き起こすのです。
そのため、相続は「争続」だ、と言われたりもします。
また、円満に終わったはずの相続が、後々の代に大きな問題になったりすることもあるんですよ。
先祖代々の土地を、兄弟で仲良く、法律の割合どおりに相続した。次の代も、仲良く相続した。
……それを繰り返したら、1つの土地を何十人もで共有する結果となった、などという具合にね。
最初のうちは「先祖代々」という価値観で、顔見知り同士で共有しているので、たいした問題にはなりませんが、それが孫子の代になったら、想像だにしない争いがおこることもあります。
事前に少し、相続や老後のことについて考え、家族で話し合っておくだけで、いろいろなトラブルを回避できるのです。
その最たるものが遺言書。
若い方にも是非、遺言を残すことを考えてほしいな、と思います。
私どものように、子どもを授かっていない夫婦は、たとえば、私が突然なくなったとき、私の財産を、夫と私の実の両親が相続することになります。
夫と私の実の両親で、私の財産をめぐる争いは起こさないにしても、夫の口から「財産は全部僕がもらいます」なんて、きっと言えないですよね(笑)
万一、私の雀の涙ほどの財産で、夫と私の両親がもめたりしたら、とても成仏できません。
でも、ここに私の遺言書があれば、気まずい話し合いを、円滑にできることでしょう。
遺言書は、亡くなることへの準備というより、安心して生きるための準備であり手段。
自分は関係ない、と思っている人にほど、残しておいてほしいな、考えてほしいな、というのが私の勝手な願いです。
世界中に素敵な日々が訪れますように。
2010年06月05日
いろいろな事を漫画から教わりました。
これは、実家にある私の宝物。
漫画本棚です。
一部、漫画でないものもありますが、、、
小学生低学年のころからお年玉はほとんど漫画に消えていた私。
とにかく漫画が大好きです。
本も読みますが、漫画はそれ以上に好き!
ジャンルは問いません。
昔は漫画専門書店にも良く足を運びました。
今は、一般の書店の漫画コーナーにも、かなりマニアックな漫画までおいてありますから、専門店には行かなくなりましたが。
ところで、先日、悲しい出来事が……。
久しぶりに実家に寄ったので、前々から「もう1度読みたい」と思っていた漫画を読もうと本棚を探したのですが、見当たらないのです!!
引越しのときなどに捨ててしまったのか、どこかに潜り込んでしまったのか……
探している漫画は、浅田弘幸先生の『眠兎』という作品。ミントと読みます。眠兎という男子高校生が主人公で、コミックス2巻で完結するお話なのですが……。
高校生くらいの時のなんともいえない不安定な精神状態。それが作品全体を包んでいるのに、不器用なんだけれど優しさにもあふれていて。
この漫画を購入した当時は、私もちょうど歪んだ性格の高校生だったので(笑)、なんだかすごく、ぐっと来るものがあったのです。
そして何よりヒロインが、すごく素敵な女の子なのです。
自分を持て余して傷ついたり傷つけたりしている主人公達を、男の子みたいな外見の女子高生であるヒロインが、いつも、強い瞳で、笑顔で、見守っているのです。まっすぐに見つめるその瞳がとても印象的だったのです。
そんなヒロインみたいに、どんなことも笑顔で受け止められる人間になりたいと思ったものです。
また『眠兎』には、中原中也さんの詩がそこここにちりばめられていて、実は私、この漫画で中原中也さんという詩人の存在を知りました(笑)
そして、中原中也さんの詩集を購入したことを、今でも覚えています。
そういえば、中原中也さんに限らず、ガーシュインさんとかミュシャさんとか、漫画がきっかけで興味をもったもの、たくさんあるんですよね。
気軽に読めるからこそ、気軽に自分の世界を広げてくれるもの。これからも、いろいろな漫画を読みたいと思っています。
世界中に素敵な日々が訪れますように。