日曜(19日)に、プッチーニの歌劇『トゥーランドット』を鑑賞し、衝撃を受けた。

 

愛の心に打たれて・・・

 

この歌劇は、中国のトゥーランドット姫の三つの謎の物語である。

三つの謎を解けば、姫と結婚できる。解けなければ処刑される。

それまでに100人が挑んで、すべて処刑された。

西方から来た王子が、姫の姿を見て魅了され、謎に挑戦する。

この王子は、三つの謎を全部解く。しかし姫は結婚したくない。

そこで王子は、「明朝までに私の名前を知ることができなければ、私のものになれ」と逆に謎かけをする。

そこで、姫は、何としても名前を知りたい。

国民に「今夜は眠ってはならない」とお触れを出す。この部分でのアリアが、荒川静香がトリノ五輪で金メダルを取った時の曲だ。

 

家臣たちは西方から来た女奴隷を捕まえ、拷問にかけて、王子の名を白状させようとする。

この女奴隷(リュー)は、かつて、王子から優しい眼差しを向けられ、王子を愛してしまった。そのことで父国王の世話をしながら流浪の旅に出たのだった。

彼女は「私だけが王子の名前を知っている」といい、「王子が幸せになるために、姫と結婚してほしい」と、剣を胸に突き立てて、その場で自殺する。

このシーンが最大のヤマ場である。

姫は、この愛の心に打たれ、氷のような心が解けて、王子との結婚を承諾する。

 

 自分を犠牲にしても、彼の人の幸せを願う

 

ここでの、女奴隷リューの告白は「自分を犠牲にしても、彼の人の幸せを願う」というものだ。

「愛」というものは、往々にして、「相手を自分のものにしたい」というように解釈される。

「愛は限りなく奪う」とも言われる。

ところが、女奴隷は、ひたすら王子の幸せを願う。そのために犠牲になることを厭わない。

「なるほど」と思った。

 次に、「飢えた虎を救うため、自らの身を差し出した釈迦」という仏教説話を思い出した。

「本当の愛は、ひたすら相手の幸せを願うこと」

――肝に銘じたい。

   21日夜、恵比寿で開かれた「人むすびの場」で、インクルージョン・ジャパンの陶山祐司氏の講演を聞いた。

  陶山氏は、2010年に経済産業省に入り、14年に辞職してインクルージョン・ジャパンに参画し、起業支援の仕事をしている。

  講演の内容は、「コレクティブ・インパクト」。

  行政、企業、ソーシャルの各セクターが壁を越えて、社会的課題の解決に向けて協力していこうというもの。

 

各セクターの本質

 

 そこからの説明が面白かった。

 陶山氏は、行政・政治は「人数を競うシステム」という。

 多くの得票を集めるのが目的だから。

 ビジネスは「金額を競うシステム」。

 これはわかりやすい。利益のために動いているのだから。

 三番目の「ソーシャル・セクター」についての定義は示されなかった。

 ――私は、「笑顔を作るシステム」と定義したい。

 

「奪う」のか「与える」のか?

 

 話を聞きながら、感じたのは、行政・政治は民主主義、ビジネスは資本主義の原理で動いている。いずれも「人数を奪い合う」「利益を奪い合う」システム。ここに根本的な矛盾がある。

 私は最近、江戸時代をテーマにした本を集中的に読んでいるが、江戸時代の人たちは、貧しい中で「相互扶助」をしていた。つまり、貧しくても「与え合っていた」のだ。

 日本人は「和の精神」を貴ぶ。また、仏教の根本原理は「慈悲」であり、「喜捨」だ。

 明治になって、一気に欧米化が進んだ。

 それは軍事力とその背後にある科学技術を取り入れなければならなかったからだ。

 ところが、「心」までも欧米化してしまった。

「奪い合う」文化がこの国を覆ってしまったからだ。

 21世紀になった今こそ。「与え合う文化」を復活したい――そう考えた。

 

 情熱が「壁」を超える

 

 今まで、私も企業に居ながら、行政やソーシャルな人たちと様々なプロジェクトをしてきた。定年後は、ソーシャルを基盤としつつ、行政や企業と仕事をしている。

 そこで思うのは「壁」を云々するのは「ダメ人間」で、情熱のある人はやすやすと壁を越えてしまう。

 コレクティブ・インパクトは、各セクターの壁を意識するのではなく、壁を越えようとする情熱の集合体を作る・・・そういう発想が必要だと思った。

 

2017222日 第37話 おわり)

 

「感情を入れない文章」の時代

 

 19日の日曜日、わがLoco共感編集部のスタッフが、さいたま市で開かれた「市民記者養成講座」でレクチャーした。

 そこで、「文章は『冷静な主観』で書く」と話した。

受講者が驚いた。

「私たちは感情を入れないで書くようにいわれています。ところが、それでは読者からの反響がないのです」と。

 たぶん、指導した人は新聞記事を標準に、そう教えたのだろう。

 ――バカである。

 新聞記事が「中立公正」「客観的」を標準にしているのは、明治期の新聞が言論新聞で、それが乱立して整理され、現在のような大新聞の寡占になったことが背景にある。

 数百万の部数を抱える新聞なら、そういう方針は妥当だった。

 

 ネット時代は「心のバケツリレー」

 

 ネット時代の市民メディアは、たかが100人とか1000人が相手。それが数百万部の大新聞のスタイルをまねるのは、ある意味で滑稽だ。

 Facebookのエントリーを見てもわかるように、本人がそれをどう見たかがポイントなのだ。「ただ知らせる」ではなく「心を込めておススメする」でないと読者の心に響かない。

 心に響けば、読者は自分の友人たちにシェアする。Twitterならリツィートする。

 つまり、ネットでは「心のバケツリレー」が標準なのだ。

 2次的な読者は、シェアした人、リツィートした人の「心」も含めて、情報を受け取る。

 こうした根源的な変化に対応するのが『21世紀の共感文章術』なのだ。

 

「感情なし」でも「入れすぎても」いけない

 

「客観的」の反対は「主観的」。

「感情を出せ」と言われれば、「思いの丈をとうとうと述べる」ことになりがちだ。

 これは行き過ぎだ。筆者の勝手な思いをぶつけられたら、読者は引いてしまう。

 刺身に添えるワサビのように、素材をしっかり生かしたうえで、自分の意見・思いをそれとなく伝える――それが「冷静な主観」だ。

 21世紀の文章スタイルの標準はこれ。

 どんどんそのスタイルで書いていき、世間に広めたい。

 

 ちなみに、さいたま市の受講者は、「ぜひ共感文章術を本格的に学びたい」とのことだった。

 

2017221日 第36話 おわり)

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