現代社会において、「家」ないし「家族」というものは厄介なものである。

 

 「格差」の継承

 

 広井良典の『ポスト資本主義』(岩波新書)の中に格差問題を論じた部分に、以下の記述がある。

 

 現実の社会においては、個人は“裸の個人”として均等に世の中に生まれ出るのではなく、家族あるいは家系というものが存在し、そうしたいわば世代間の継承性の中においてこそ個人は存在する。

 こうした世代を通じた継承性の部分に何らかの形で “社会的な介入”を行わなければ、あるいは「相続」という私的な営みに関して何らかの再分配ないし社会化を行わなければ、前の世代の個人に生じた「格差」はそのまま次の世代に継承されていくことになる。

 

 広井は「社会を構成する基本的な“単位(ユニット)”を「個人」と見るか「家族(ないし家系)」と見るか」という形でしめくくっている。

 

 「家の圧力」「国家の圧力」

 

 狩猟時代とか、大昔は、個人は家族によって保護されていた。

 それが徐々に社会的関係性が深まり、現代のように、人々が国民経済に組み込まれて生活し、年金や医療も個人単位で実施されると、「家」の役割は衰退してくる。

 ところが、財産について「家」を単位とすると、生まれ家の格差(スタートライン格差)が生まれ、そもそも不平等があることになっている。

 結局のところ、私たちは「家族の一員」なのか「国家の一員」なのかという矛盾を抱えている。

 例えば、私生児に対し、日本は社会的サポートが弱いが、フランスはそこがしっかりしている。

 

 家族の崩壊が進むのか?

 

 近年、離婚が増えている。

 私の教え子の中に、父も母も離婚して再婚した結果、「天涯孤独の身」になった青年がいる。

 かつて、家は土地などの資産や家業を持ち、「家を守る」ことが生計を立てるし重要事項だった。そういう裏打ちが結婚制度にはあった。

 しかし、現代の結婚には、「子供への責任」ぐらいしか裏打ちがない。依るべきものがないのだ。

 自由闊達な社会を維持していこうとするとき、「家」「家族」をどう位置付けるか――難しい局面に差し掛かっていると思う。

 特に離婚して、「独居老人」になっている身としても。

 

2017226日 第41話 おわり)