2017年02月

 現代社会において、「家」ないし「家族」というものは厄介なものである。

 

 「格差」の継承

 

 広井良典の『ポスト資本主義』(岩波新書)の中に格差問題を論じた部分に、以下の記述がある。

 

 現実の社会においては、個人は“裸の個人”として均等に世の中に生まれ出るのではなく、家族あるいは家系というものが存在し、そうしたいわば世代間の継承性の中においてこそ個人は存在する。

 こうした世代を通じた継承性の部分に何らかの形で “社会的な介入”を行わなければ、あるいは「相続」という私的な営みに関して何らかの再分配ないし社会化を行わなければ、前の世代の個人に生じた「格差」はそのまま次の世代に継承されていくことになる。

 

 広井は「社会を構成する基本的な“単位(ユニット)”を「個人」と見るか「家族(ないし家系)」と見るか」という形でしめくくっている。

 

 「家の圧力」「国家の圧力」

 

 狩猟時代とか、大昔は、個人は家族によって保護されていた。

 それが徐々に社会的関係性が深まり、現代のように、人々が国民経済に組み込まれて生活し、年金や医療も個人単位で実施されると、「家」の役割は衰退してくる。

 ところが、財産について「家」を単位とすると、生まれ家の格差(スタートライン格差)が生まれ、そもそも不平等があることになっている。

 結局のところ、私たちは「家族の一員」なのか「国家の一員」なのかという矛盾を抱えている。

 例えば、私生児に対し、日本は社会的サポートが弱いが、フランスはそこがしっかりしている。

 

 家族の崩壊が進むのか?

 

 近年、離婚が増えている。

 私の教え子の中に、父も母も離婚して再婚した結果、「天涯孤独の身」になった青年がいる。

 かつて、家は土地などの資産や家業を持ち、「家を守る」ことが生計を立てるし重要事項だった。そういう裏打ちが結婚制度にはあった。

 しかし、現代の結婚には、「子供への責任」ぐらいしか裏打ちがない。依るべきものがないのだ。

 自由闊達な社会を維持していこうとするとき、「家」「家族」をどう位置付けるか――難しい局面に差し掛かっていると思う。

 特に離婚して、「独居老人」になっている身としても。

 

2017226日 第41話 おわり)

「我が国は、今後どっちの方向に進むべきか」を数年前からずっと考えている。

 広井良典著『ポスト資本主義』(岩波新書)を読んだのもその一環。

 

 欧州追従から米国追従へ

 

 今の日本は、あらゆる面で、「米国追従病」に陥っている。

 明治維新以来、日本は世界の一等国になろうとして、欧米から文物、制度などをバキュームカーのように吸い取ってきた。

 明治はまだ欧州志向が強かったと思う。伊藤博文がドイツで法制度を学び、夏目漱石は英国で文学を学んだ。

 ところが、太平洋戦争で米国に負け、米国は強烈に米国文化を日本に注入した。3S(スピード、スリル、セックス)がその代表だ。

 以来、あらゆることで米国を手本にしてきた。

 

 米国に学んだ負の部分

 

 その結果、我が国はとても歪んだ国になった。

 例えば、「所得格差」は、米国、英国、スペイン、ポルトガルに続き第5位。フランス、ドイツ、オランダ、スウェーデンよりずっと高い。

 所得格差の原因ともなるGDPに占める公的教育支出の割合は、3.6%で、OECD加盟国中の最下位だ。一位のデンマークは7.5%もある。

 純粋資本主義の競争社会である米国を真似た結果、社会の亀裂が大きくなっていると言えよう。

 日本が米国にほぼ唯一勝っているのは、健康保険だ。

 米国は「世界最高の医学」を目指し、莫大なお金を医学研究に投入している。しかし、日本は国民皆保険の道を選び、投入費用を少なくしながら平均寿命で大きく勝っている。

 

 今こそ、目標を変えるべき

 

 少子高齢化が進む中、日本が目指すのは米国型ではないはずだ。アベノミクスも「成長市場主義」に毒されている。

 成長しなくても安定した生活が営める――そのモデルは北欧型の福祉国家だということは、20世紀末から言われてきた。

 老人福祉よりの、若年層、特に教育の支援はとても大事だ。

 広井良典の本は「ポスト資本主義」がどのようなものかについては、しっかりと書かれていないが、米国追従に対しては、しっかりと「ノー」を突き付けている。

 

2017225日 第40話 おわり)

今回から、時々、我が家の特選レシピを公開。1回目は、白ワイン仕立てのビーフシチュー。
赤ワインを使うよりさっぱりした味に仕上がります。

◆ビーフシチュー

 

<材料・4人分>

牛肉 500g

タマネギ 1

ブラウンマッシュルーム 8

じゃがいも 大2

にんじん 11/3

白ワイン カップ2

固形スープの素 1

ドミグラスソース カップ1/4

トマトピューレ カップ1/3

セロリの葉 1本分

ローリエ2

塩、胡椒、バター、小麦粉

 

<作り方>

1.   牛肉に塩・こしょう各少々をまぶして下味をつける。タマネギは芯をつけたままくし形に8等分に切る。マッシュルームは根元を切り落とす。じゃがいもは皮をむき、半分に切ってから切り口の角を削って(面取り)水に放す。にんじんは1本を縦に3等分に切り、それぞれ4等分して、じゃがいもと同様に角を削る。

2.   鍋にバター大さじ3を入れて弱火で熱し、牛肉を加えて強火にし、全体にこんがりと焼き色をつける。

3.   タマネギを加えて炒め、小麦粉大さじ1を加えてさらに炒める。

4.   白ワインを加えて強火で煮立て、水カップ11/2と固形スープの素を加える(水が一度に入らない場合は、途中で足していく)

5.   もう一度煮立ったら、にんじん1/3本とセロリの葉、ローリエをたこ糸などで縛って加える。セロリの葉は飾り用に刻んで少々とっておく。

6.   中火で約1時間30分、時々アクを掬いながら煮込む。

7.   じゃがいもは耐熱容器に入れ、ラップをして電子レンジ(600W)に約1分かける。フライパンにバター大さじ1を弱火で熱し、じゃがいも、にんじん、マッシュルームを加えて中火で炒め、バターがなじんだら、⑥の鍋に加えて20分間煮る。

8.   ドミグラスソース、トマトピューレと塩・こしょう各少々を加えてさらに10分間煮る。器に盛り、セロリの葉をあしらう。

 
(注:煮込みにはシャトルシェフを使うとよい。火を使わずにできるので安全)

 

 

 

 

  日曜(19日)に、プッチーニの歌劇『トゥーランドット』を鑑賞し、衝撃を受けた。

 

愛の心に打たれて・・・

 

この歌劇は、中国のトゥーランドット姫の三つの謎の物語である。

三つの謎を解けば、姫と結婚できる。解けなければ処刑される。

それまでに100人が挑んで、すべて処刑された。

西方から来た王子が、姫の姿を見て魅了され、謎に挑戦する。

この王子は、三つの謎を全部解く。しかし姫は結婚したくない。

そこで王子は、「明朝までに私の名前を知ることができなければ、私のものになれ」と逆に謎かけをする。

そこで、姫は、何としても名前を知りたい。

国民に「今夜は眠ってはならない」とお触れを出す。この部分でのアリアが、荒川静香がトリノ五輪で金メダルを取った時の曲だ。

 

家臣たちは西方から来た女奴隷を捕まえ、拷問にかけて、王子の名を白状させようとする。

この女奴隷(リュー)は、かつて、王子から優しい眼差しを向けられ、王子を愛してしまった。そのことで父国王の世話をしながら流浪の旅に出たのだった。

彼女は「私だけが王子の名前を知っている」といい、「王子が幸せになるために、姫と結婚してほしい」と、剣を胸に突き立てて、その場で自殺する。

このシーンが最大のヤマ場である。

姫は、この愛の心に打たれ、氷のような心が解けて、王子との結婚を承諾する。

 

 自分を犠牲にしても、彼の人の幸せを願う

 

ここでの、女奴隷リューの告白は「自分を犠牲にしても、彼の人の幸せを願う」というものだ。

「愛」というものは、往々にして、「相手を自分のものにしたい」というように解釈される。

「愛は限りなく奪う」とも言われる。

ところが、女奴隷は、ひたすら王子の幸せを願う。そのために犠牲になることを厭わない。

「なるほど」と思った。

 次に、「飢えた虎を救うため、自らの身を差し出した釈迦」という仏教説話を思い出した。

「本当の愛は、ひたすら相手の幸せを願うこと」

――肝に銘じたい。

   21日夜、恵比寿で開かれた「人むすびの場」で、インクルージョン・ジャパンの陶山祐司氏の講演を聞いた。

  陶山氏は、2010年に経済産業省に入り、14年に辞職してインクルージョン・ジャパンに参画し、起業支援の仕事をしている。

  講演の内容は、「コレクティブ・インパクト」。

  行政、企業、ソーシャルの各セクターが壁を越えて、社会的課題の解決に向けて協力していこうというもの。

 

各セクターの本質

 

 そこからの説明が面白かった。

 陶山氏は、行政・政治は「人数を競うシステム」という。

 多くの得票を集めるのが目的だから。

 ビジネスは「金額を競うシステム」。

 これはわかりやすい。利益のために動いているのだから。

 三番目の「ソーシャル・セクター」についての定義は示されなかった。

 ――私は、「笑顔を作るシステム」と定義したい。

 

「奪う」のか「与える」のか?

 

 話を聞きながら、感じたのは、行政・政治は民主主義、ビジネスは資本主義の原理で動いている。いずれも「人数を奪い合う」「利益を奪い合う」システム。ここに根本的な矛盾がある。

 私は最近、江戸時代をテーマにした本を集中的に読んでいるが、江戸時代の人たちは、貧しい中で「相互扶助」をしていた。つまり、貧しくても「与え合っていた」のだ。

 日本人は「和の精神」を貴ぶ。また、仏教の根本原理は「慈悲」であり、「喜捨」だ。

 明治になって、一気に欧米化が進んだ。

 それは軍事力とその背後にある科学技術を取り入れなければならなかったからだ。

 ところが、「心」までも欧米化してしまった。

「奪い合う」文化がこの国を覆ってしまったからだ。

 21世紀になった今こそ。「与え合う文化」を復活したい――そう考えた。

 

 情熱が「壁」を超える

 

 今まで、私も企業に居ながら、行政やソーシャルな人たちと様々なプロジェクトをしてきた。定年後は、ソーシャルを基盤としつつ、行政や企業と仕事をしている。

 そこで思うのは「壁」を云々するのは「ダメ人間」で、情熱のある人はやすやすと壁を越えてしまう。

 コレクティブ・インパクトは、各セクターの壁を意識するのではなく、壁を越えようとする情熱の集合体を作る・・・そういう発想が必要だと思った。

 

2017222日 第37話 おわり)

 

↑このページのトップヘ