辺境としての介護

介護とソーシャルワーク研究所の東野のブログです。ケアのメインカルチャーの探求は上記サイトにゆずり、ここではケアの下位文化(サブカルチャー)を探っていきます。介護は社会の辺境で在り続けるのか?
福祉・介護 ブログランキングへ

介護家族むけに介護福祉士、社会福祉士、ケアマネージャーの資格をもつ現場のプロが、介護に役立つ情報・福祉用具などもちょくちょくご紹介します。

2011年07月

Yさんのこと その2

Yさんは本人もよく理解しないまま(そう、本人の意思とは無関係に)、老人保健施設へ入所した。

何度も書いているように、当時僕が勤めていたところはショートステイだったから、何らかの理由で長期利用している人もいつかは別の場所へ移ろっていく。

今までも僕の大好きだったお年寄りが何人も去って行った。彼らを受け入れる次の居場所へ。
是非はともあれ、我われの施設が行き場所のない老人の一時的な生活場所という役割を期待され、それを我われは果たしてきた。僕はそう考えていた。それは間違いではない。

でも僕には見えていない部分があった。Yさんがそのことを教えてくれた。

Yさんは在宅サービスであるショートステイを利用していた。在宅サービスを使っている以上、担当のケアマネージャーは1ヶ月に一度は利用者宅を訪問し、サービスの状況や本人の生活状況を把握する義務がある(Yさんの場合は家にはいないので施設に訪問すべきだった)。

介護保険法にそう決められていて、それを行っていなければケアマネージャーが所属している事業所の報酬が減らされることになる。

でも僕が知る限りにおいて、Yさんの担当ケアマネは一度たりともYさんのところに顔を見せたことはなかった。

それにも関らず、サービス担当者会議(これについては後述)が知らない間に行われ、その会議で家族に入所施設への申し込みを誰か(おそらくケアマネ)が勧めた。それはそれで当たり前の話だ。家に戻れるあてがないのならば、施設入所(居)という選択しかない。

保険者(行政)からの圧力もケアマネにはあったのだろうと思う。前にも書いたように、ショートステイは原則的に介護保険の認定有効期間の半分以上を超えて利用してはいけないことになっている。

だから長期の利用になってきたところで、そろそろ入所施設に・・・、という話の流れは理解できなくはない。

だが、なぜその老健(※)なのか、というのが僕たちが抱いた疑問だった。Yさんは1年以上にわたって僕たちの施設に入っていた。その間、このケアマネはいったい何をしていたのか、と僕は思った。Yさんの状態をきちんと把握して、Yさんにあった施設を探していたのだろうか?あるいは家族にそうするよう促していなかったのか。

担当者会議が開かれるまで、家族はとくに入所先を探してはいなかった、とあとで聞いた。家族にしてみれば「在宅サービス」のショートステイだろうが長期入所していれば「入所サービス」の施設と同じだと思っている。家族の介護保険サービスに関する理解度はけっして高くない。

僕の目から見れば、これ以上ショート施設にいれなくなると脅されてあわてて申し込みを行い、申し込み先にたまたま部屋の空きがあったから入所させた、という図式だった。
どちらかと言えばよくある話だ。

                            ☆

Yさんが老人保健施設に入所して3週間くらいたったあと、僕は面会に行った。

エレベーターを3階で降り、フロアに集められた老人の中から僕はYさんを探した。7割くらいの老人が施設のレンタル服を着ていた。男性は淡いブルー。女性は淡いピンクだ。

僕は一通り眺めまわした後で、集団から少し外れたところに、車椅子に乗せられたYさんの姿を見つけた。
僕が近づくと、Yさんは淡い笑顔を作ってくれた。だが話す声はか細く、目の奥の光も弱っているように僕には感じられた。

僕たちのところにいたYさんにはYさんという人間がもつオーラが体の表面に漂っていた。でもこの老健にいるYさんは周りにいる入居者と見分けがつかない。お仕着せのレンタル服を着せられているから?まだ友達がいなくてさみしそうにしているから?

ここではレクリエーションをしているのだろうか、と僕は心配になった。そもそもレクリエーションをしていない施設はたくさんある。たとえ行っていたとしても、利用者の個性を引き出すレクができている施設はさらに少ないと僕は思っている。

その老健がどんなケアをしているか知らない僕には、判断を留保するしかなかった。

Yさんが本当はおとなしいだけのばあちゃんじゃないということを、あの老健の職員は知っただろうか?


                            ☆
  

一度、Yさんが自宅に1泊か2泊だけ帰ったことがあった。施設に戻る日、僕がYさんを家まで迎えに行った。僕は杖をついて歩くYさんの横につき、車まで誘導した。

家に帰ってどうだった?と僕は聞いた。

「とくに何もありゃしないよ」Yさんはそう言っただけだった。

車に乗る手前で、Yさんは立ち止った。彼女は後ろを振り返り、曲がった背中を伸ばし、なにかまぶしいものでも見上げるときのように目を細め、自分の家を見上げた。僕は自分の手を彼女の背中にそっと添えながら、間近で彼女の顔をみた。

そこには悲しみでもない、怒りでもない、リリシズムとでも呼ぶしかない表情が浮かんでいた。

僕は少し待ち、そして彼女を促し車に乗せた。そして僕たちは何十年もの間生活してきた彼女のアジールをあとにした。

あのときYさんが何を考え、どんな思いを持っていたのか、当時も分からなかったし、今でも同じように分からない。

僕には分かるわけもないのだ。





※介護老人保健施設
「介護保険法に基づく介護保険施設の一つ。病状が安定している要介護者を対象に、入所者の能力に応じた自立と自宅での生活復帰を目指し、当人の意思を尊重しながら日常生活の世話や看護・医療・リハビリテーションなどのサービスを提供する施設」

デジタル大辞泉から引用。制度上の解釈では在宅復帰を目指す前提の施設。現実的に解釈すると、病院と老人ホームの悪いところを持ってきて足した施設ということになる。もちろんちゃんとしたところはあるが、「在宅復帰」施設という役割を100パーセント果たしているところは皆無だろう。
いつか見た統計によると、在宅復帰しているのはほんの数パーセント。現実的には特養への入所待機施設の役割を果たしている。
僕たちのショートステイが持っていた役割と何が違うのか?
続きを読む

埼玉時代 Yさんのこと

Yさんというおばあちゃんがいた。普段はおとなしい性格だが、ベンチサッカーをすると闘争本能に火がついて人間が変わるおばあちゃんである。

Yさんは古い利用者で、さらに連続入所期間NO1の人だった。正確な期間はもう覚えていないが、僕たちのショートステイに1年以上はいたはずだ。その間に家に帰ったのはたったの1度だけだった。
もはやショートステイでもなんでもない。施設入所と同じである。

この職場に勤めるまで僕は知らなかった。介護できる家族がいない、でも施設の空きがないから施設入所もできない。有料老人ホームに入れるほどのお金もない。そういう人たちはどこで暮らしているのか?

重度な医療ニーズが必要であったり、要介護度が高い人たちには介護療養型病床(※)がある。でもそこまで医療ニーズや介護度が高くない人たちは、ショートステイ施設に「入所」するのだ。一部の関係者はこれを「ロングショート」とか言うわけのわからない言葉で表現したりする。

単純にロングステイと言えばいいのに、と僕なんかは思うのだが。

でも、介護保健サービスに「ショートステイ」はあっても「ロングステイ」という概念はない。制度のレベルで見れば、Yさんのような「ショートステイ」の利用の仕方ははっきりいって違法だった。

介護保険では「ショートステイ」を利用できる期間には制限が設けられている。介護認定有効期間の半分以上を使うことはできないと決まっているのだ。介護保険証には有効期間があって、例えば1年間の有効期間を持っている人は、半年以上の日数をショートステイで使うことはできない。

なぜなら、長期に渡って施設の入所利用をすれば、もうそれは「ショートステイ」でないから。まあ当たり前の話だ。
でもYさんや、その他にも認定有効期間の半分を超えてショートステイを利用している利用者なんてざらにいた。これが現実だった。

そのお年寄りたちは現実的に行くところがないのだ。いや、留まれるところがない、と言ったほうが正確だ。いわゆる介護難民である。だから役所もそんな「ロングショート」を特別に認めていたのだ。

Yさんは杖を使えば一人で歩けた。でもパーキンソン症候群が出てきていて、動きはスローだったし、認知機能も低下していた。でも高齢者になれば、動きもゆっくりになるし、物忘れもするのが当たり前なのである。
パーソナリティにはまったく変化はなかった。物静かで優しいおばあちゃんといった雰囲気の人だった。

いつかは僕たちの施設を出て行くことはわかっていた。でもYさんと僕たちスタッフはいい関係を築いていたし、ちゃんとした落ち着き先が見つかるまではずっと僕たちのところにいるものだと思い込んでいた。もうこんなに長いこといるんだから、あせって下手な老人ホームに入所する必要性なんてないのだ。

いい所に入れるまで、僕たちのところにいればいいのだと思っていた。

そんなYさんに老人保健施設への入所が決まった。ある日とつぜん。僕たちスタッフにしてみれば降ってわいたような話しだった。



※「症状は安定しているが長期の療養が必要とされる、主に高齢者など慢性疾患の患者のために、病院内に設けられた長期入院用のベッド。医療保険が適用される医療型病床(医療療養病床)と、介護保険が適用される介護型病床(介護療養病床)とがある」

上記はデジタル大辞泉から引用した。教科書的には上の通りだ。でも介護のことを知らない人には見学に行ってもらいたいと思う。どこの療養病床でもいい。2時間もいれば(看護師が許してくれるかどうかは別にして)、日本の介護の裏面がだいたい理解できる。

埼玉時代 関西に戻ろうと思ったわけ

僕はこの会社に2年5ヶ月いた。25歳から27歳までだ。人が「青年期」と呼ぶ年代の折り返し地点を僕はこの職場にいるときに通過したことになる。

その間にプライヴェートではいくつかの重要な出来事を僕は経験していた。その中にはポジティブな出来事があり、まったくポジティブとはいえない出来事があった。自分がすすんで選択したものもあったし、否応なく選択させられたものもあった。うまく避けられるものもあったし、避けようのない物事もあった。

そういったさまざまな出来事がミックスされた結果、僕は「関西に戻る」ことを決めた。正直心残りはあった。別に故郷に錦を飾るまでは帰らない、なんて決意して出てきたわけではない。

けれど、大阪を出たのはあの地に留まることが自分の中の何かを固定させ、後戻りできない何かに変えてしまうと感じたからだった。だからリスクを承知で遠い土地に移ったのだ。いつかは関西に戻るだろうとは思っていた。でもそれはもっとずっと先のことだと考えていた。

だから予想よりもずっと早く関西に戻ることになったことは、僕の人生の可能性の一つが完全に閉じられたように感じられた。やっと芽吹いた芽をハサミでちょん切るような。

それでも、関西に戻ることはいろんな可能性と現実的妥協点を考えた上で出した結論だった。


仕事は充実していたと思う。職場の人間関係はよかったし、給料もよかった(その時には少しかげりが見え始めていたが)。いろいろなお年寄りと出会えることも楽しかったし、長期入所の人も定期的に利用する人たちとも、お互いに気心がわかるいい関係を作れていたと思う(もちろんときどきはとんでもない年寄りがきたけれど)。

そういう職場が介護業界では得がたいものだったと僕が本当に気づくのはもう少しあとのことだ。でも、当時そのことに気づいていても、僕はやはり同じようなタイミングで辞めていただろうと思う。

前にも書いたと思うが、僕は30歳まではいろいろな職場と職種を経験してみようと考えていた。だから初めからその施設での仕事は通過点だと考えていた。
それにもともと僕は介護職としてずっとやっていくつもりはなかった。だからどちらにせよ辞めるのはタイミングだけの問題だったのだ。

でも辞めるときにはやはりそれなりの理由はあった。僕にとってのそれは、ショートステイの介護職という中途半端な立ち位置に限界を感じたことだった。

たくさんのお年寄りたちとの出会いと別れを経験するうちに、そういった思いが強くなっていった。
ショートステイを使う利用者は流動的な存在だ。彼らはやってきて、僕たちの体をすり抜けて、そして去っていく。ずっと留まっていられる場所ではない。それはわかっている。そういった機能の施設だということも理解している。
でもやはり、長期で利用していた人たちと別れるのは寂しいものがあった。

しかも長期に利用をしていたお年寄りがしかるべきところに落着くのならいい。そうではないケースのほうが圧倒的に多かった。僕が相談員なら(あるいはケアマネなら)、こんな施設は選ばないというところに入所させられる人が多すぎた。

Yさんの出来事がそんな僕の思いを完全に決定付けることになった。

Aさんの死

Aさんが入院していた病院は大宮駅の近くにある個人病院だった。そこがかかりつけの病院みたいになっていて、調子を崩したときにはそこに入院していた。

Aさんの状態が落着いたようだと聞いた僕は、その病院に見舞いにいった。いかにも個人病院という雰囲気の病院玄関を抜け、エレベーターに乗り、Aさんがいる4人部屋の病室に入った。Aさんはベッドに横になっていた。むこうのほうが先に僕に気づいて声をかけてくれた。

でも僕は一瞬Aさんの顔の見分けがつかなかった。別人のように見えたのだ。よくみると口の周りがしわくちゃになっていた。入れ歯が入っていなかった。入院している間は入れ歯をはずしているのだとAさんは言った。入れている必要もないからと。
入れ歯をはずした顔は余計に老けて見えるものだ。そういえば僕は施設ではAさんの入れ歯をはずした顔をみたことがなかった。

でも今になって考えると、僕がAさんの顔が一瞬とはいえ分からなかったのは入れ歯だけの影響ではなかったと思う。

病気が、確実にAさんの生命の残り火を弱めていたのだ。顔は血の気が失せ、唇は乾いていた。
彼女が醸し出していた不敵なオーラを感じることもできなかった。僕の目の前にいるのは病室にいるただの老女に見えた。

それでも、Aさんは普通に会話することができるくらいまでにはなっていた。口調もいつもと変らなかった。それで僕はいくらかほっとすることができた。

彼女が入院中の様子を話し、僕は施設の近況報告をした。Aさんがヨーグルトが食べたいと聞いたので近くのコンビニで買ってきた。そうこうしているうちに息子さんがやってきたので、僕は病院をあとにした。

入院中に見舞いに行っていたのは僕だけではなかった。他の介護職員もほとんどがAさんに会いに行っていた。
みんなAさんの様子を見て、峠は越して、これから回復していってくれるものと考えていた。

僕もそう思っていた。今までだって何度もそうして乗り越えてきたんだもの。今回だってまた元気になって僕たちの施設にまた戻ってきてくれるはずさ、と。

でも長く待ってもAさんが退院したという知らせを受け取ることはなかった。僕がもう一度見舞いにいこうと思っていた頃に、Aさんが亡くなったと聞いた。


今もときどきAさんのことを思い出す。Aさんは僕にとってメンター的な存在だった。

Aさんが僕たちの施設を利用してくれることで僕は精神的な支えを得ていたのだと思う。奇妙な話しだ。相手は介護が必要な年寄りだった。僕は20代の介護者だった。僕が与え、彼女が受け取る。それが客観的にみた僕たちの関係だった。

でも実際は僕が援助を受けていたようなものだった。彼女が僕に何かを具体的に与えてくれていたのではない。彼女にもぜんぜんそんな気はなかっただろう。でも少なくとも僕にとってAさんはそんな「何かを与えてくれる」人だった。うまく説明できないけれど。

だからこそ、Aさんの死は簡単に割り切れるものではなかった。

彼女への共感が深かったのは理由の一つだ。

老人介護の仕事をしている人間にとって、死は身近にある。死が身近にある仕事といったら医療と介護を除けば、葬儀屋と坊さんとヤクザくらいだろう。その中でもやはり、人と一番長く接する仕事といったらやはり介護ではないか。

介護老人保健施設鶴舞の城の高口光子さんが言っていたけれど、医療は昨日今日会った人の死を看取ることができる。介護にはそういうことはできない。

介護職は数ヶ月、数年間、一緒の時間を過ごした人達の死を看取る。記憶の連続性、山積性の中で介護職と老人はかけがえのない想い出を作っていくこともある。

それが僕たちにとって人の「死」が辛い理由だ。死によって記憶の連続性が打ち切られてしまうからだ。

人が老い、病み、そして死ぬということ。それに仕事として付き合うということ。これが僕を捉え、苦しませた。そして今も僕はこの問題を解消できる答えを見つけられていないのだ。

埼玉時代 クリスマス会の二人羽織�

そして当日を迎えた。

デイの出し物が終って今度はショートの出し物になった。
お年寄りが一人ひとり、ボクシングのリング入場みたいに司会にアナウンスされながら舞台に移動していった。全部で5人か6人だったと思う。僕がその人の知っていることをありったけ詰め込んで文章を作り、デイサービスの女子職員にリングアナウンスしてもらったのだ。

お年寄りにしてみれば、みんなの注視を受けがら舞台まで移動することになる。客観的にみれば施設という狭く、小さい空間だけれど、本人にとっては大勢の人にそんなに注意してもらったことは大きい体験だったかもしれない。僕としては主役は誰かということを表現してみたかったのだ。

僕がこんな演出をしたのは他にも理由があった。二人羽織の準備とお年寄りの移動にかかる時間を空白にしないためだった。イベントはひとつながりのリズムを持っていないと、シラけてしまう。舞台の場面転換には早さが求められるのだ。

しかしお年寄りの移動にはどうしても時間がかかってしまう。だったら時間がかかるのを逆手にとろうと思った。観客席にいたお年寄りを舞台に上げるまでの時間を使うのだ。
紹介文を読んでもらう職員には当日ポンっと文章を渡したのだけれど、うまいこと読んでくれた。

二人羽織は大いに盛り上がった。ケーキを食べさせられる相談員や看護師のあわてぶりを観てお年寄りも職員も笑った。


Aさんもすごく楽しんでくれた。ひーひー笑いながら、「こんなに笑ったのは久しぶりだ」と言ってくれた。

僕としては築地行きが中止になってしまって、Aさんに悪いなとずっと考えていた。胸にモヤモヤしたものがたまっていた。しかし上のように言ってくれたのを聞いて、そのモヤモヤが晴れた。本当にいい笑顔だった。あの顔は今でも昨日のことのように思い出せる。

現在の介護施設の勤務体制で行事の企画を立てようとすれば残業しなければ無理だろう。僕はこのクリスマス会の日はなぜか勤務表では「休み」だった。たぶん僕なら休みの日でも来るだろうと思われていたのだと思う。まあその通りに行ったんだけれど。

僕は誰かに強制されたわけでもナイーブな義務感から参加したわけでもなかった。ただその行事を面白くしたかったから参加しただけだった。そこにはやはり利用していたお年寄りたちとの結びつきが強かったためだろうと思う。

毎年やっている行事なんだから、しなければいけないという気持ちでやっていると、利用者の顔を思い浮かべることなのないルーティンワークになりがちだ。僕なんかはそうなるとぜんぜん面白くなくなってしまう。それこそ休日出勤までして行事に参加しようなんて思わなくなる。

しょせん遊びなんだから、職員も楽しまないとお年寄りだって面白いわけはないのだ。
 
それにまだ経験の浅い介護職が行事の企画を立てることはとても大事だ。多勢の人や物を動かすには手順を踏まないといけないことが学べる。企画書の考え方や書き方、下準備の重要性やその方法。そしてこちらが努力した分だけ、利用者はそれに答えてくれる。

管理職の人はそういうチャンスを与え、側面にまわってアドバイスをするべきなのだ。なかなかそういうところって少ないと思うけれど。





Aさんはそのあと、数ヵ月後に亡くなられた。
スポンサードリンク
メッセージ

記事に対するご意見などがあればこちらからどうぞ。

名前
メール
本文
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計: