焼き場に立つ 長崎被爆地の写真で、米国の従軍カメラマン故ジョー・オダネルの著名な「焼き場に立つ少年」という写真が有る。
どこかで目にした人も多かろう。もちろん原爆投下は間違いだったと言うアピール写真の中の1枚だ。オダネル氏が写真を出したのは1989年。原爆正当化論が根強い米国ではタブー視される反核を決心し、批判に耐え、2007年、8月9日に85歳で亡くなるまで各地で写真展を開いた。「核戦争を繰り返さないことにつながるなら」と秘めていた写真で戦争反対を訴えた。「炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいる」「少年があまりきつくかみ締めているため、血は流れることもなくただ少年の下唇に赤くにじんでいました」という、静かに語るトーンが重さを増している。破壊した日本は真面目で必死に生きていた事実の描写だ。アートというには失礼なほど、技術にしても状況でもそれ自体が事実だからその時代の精一杯奥深い意味が込められている。反応は世界で出ているからそれぞれの感じ方に任そう。
 今流行りの「鬼滅の刃」。写真と違ったアニメ文化の作品。以前にブログでも書いたけど、何かしら“おどろおどろしい鬼”とか日本人が感じやすかった“闇”の匂いがしないんですな。正義の主人公にしても、すごい能力の持ち主はサラッと能力を保持してファッショナブル、裏で苦労した部分などを匂わせない。痛みの部分が欠落しているような不自然さと、わざとチャラかすギャグでより軽く見せている。そう・・多分リアリティは不要になっているんだな。それがいかにも現実感が無いアニメ世界を演出しているんでしょうね。それが今の風潮。受け入れやすく、心地よさが有る。
 だけど、ちょっと気になる事なんですが、たとえば広島原爆記念館に有った焼けただれた兵士の蝋人形。気持ち悪いから撤去してという声で無くなっている。“はだしのゲン”は学校の図書から消えているんだ。あまりに見るに堪えない(と今どきの感性)ものは隠してしまえと言う流れは、本来の伝えるべき姿を変えてしまわないだろうか。どこかしら夢を見たくて、重たい事実を隠そうという事?アシュラ平和で育った今の若者には歪んで伝わるというのだろうか。たとえば問題作を書いていたジョージ秋山の「アシュラ」は天保、天明の飢饉で人食いが有った、実際の追い詰められた世界で究極の選択をして生き延びた先祖がいて、それをどう思うかを問うている。同様の痛ましい事実に対して「生きる事」の意義と人間の性をぶち上げているんだ。暗黒の時代の痛ましさは漫画絵で想像するしかない。フィクションと言う意味では手塚治虫の「どろろ」より“人の業”が漂う。霊とか妖怪にごまかさず、「生」を生で感じろと言うメッセージが強い。だが、アニメ化という意味ではいいディテールだし、楽しめるのは手塚作品だ。いいタイミングだが、2012年にアニメ化された「アシュラ」が有る。sabaibaru原作の絵に匂うおどろおどろしいような緊迫感はかなり綺麗に描かれて、ジョージ秋山が訴えたい事はオブラードに包まれた生命感とはなっているけど、現代的なアレンジではぎりぎりの表現なのかな。むしろそういった裏意味を楽しむのにいい。
ちばてつやが“あしたのジョー”で「目の感情を読み取る」ようこだわって描いたのをリメイクで苦心したようなもんだな。
精神的に弱くなったと言われる現代で、脳裏に響く「命」は肉体ではないのかもしれない。バーチャル世界でも精神で感じていれば体現の一つになるかも知れないし、自殺を考えた人との違いを問いたい。その時代を「生き抜く」と言うのは体裁とかルールに縛られるものではない。その中で今の若者が感じることが時代なんだろうな。さいとうたかおの代表作でも有る「サバイバル」は非現実と片付けられないバーチャル感が有る。文明が崩壊した後で生き抜く力は何であるかを、過去の事実をフィクションで描いた「アシュラ」より身近に感じられる漫画かもしれない。アニメ化されないのは、現実に被さる影響で、平和な家庭から湧き出る精神的苦痛のクレームが想定されるからだろうか。バーチャルな苦痛こそ、不足する経験値をカバーする手段じゃないのかな。