女子体操

2008年08月20日

女子体操競技にみる、子供たちのオリンピック

久しぶりに、女子の体操競技をじっくりと見た。特に女子選手の若さに、我が目を疑ってしまった。
「これじゃ、中学生か高校生の国際大会じゃないか!」

技はウルトラ級の選手たちではあろうが、体つきは子供のまんま、ではないか。小さな体格に、メリハリの無いスタイル。そこに申し訳なさそうに伸びているほっそりとした手脚。あどけない顔に、学芸会風の化粧をして、真剣な眼差しで記録ボードに見入っている。

自分の演技が終われば、その小さな身体を、親のようなコーチ陣にハグされ、泣いたり、笑ったり。なんだか、そのチクハグな感覚に、競技そのものより、その背景の裏側を考え込んでしまった。

北京開幕の数カ月前から各メディアは、オリンピック関連のさまざまな特集を組んで、そのムードを煽っていた。もちろんスポーツ系やドキュメンタリー系のケーブルTVも同様で、『東京オリンピック』の記録映画などは、市川崑監督の作品も含めて何度も放送されていた。おかげで、何十年ぶりかに懐かしい映像をたくさん見ることができたのだが、やはり同じ体操選手を見比べてしまう。

かの“オリンピックの華”と謳われた、チェコスロバキアのベラ・チャスラフスカ選手もその一人。彼女の、優雅で、ちょっと時代遅れのような、ゆったりとした演技も、ほのぼのとした一コマであった。金メダルをたくさん取り、その美貌とあいまって、東京オリンピックの人気者となった伝説的な選手だ。当時私は子供だったので、軽く見過ごしていたが、おじさんになった今、改めて見ると、彼女はなんとも貫録を感じさせる“おとなの女”であった。

当時、彼女は22か23歳程度だと思うが、時代のためか、はたまた東西冷戦時代の社会主義国家独特のムードだか知らないが、確かに、大人びて見える。自信を持って落ち着いている。とても20代前半の若さとは思えない。着物を着せれば、そのまま銀座のクラブのママにでもなれそうな色気もあるのだ。そんなポッチャリとした彼女が、申し訳なさそうに、肉感的なその脚を、大きく広げたり、ばたつかせたり、飛び跳ねたり…。なんとも悩ましげな演技である。いくら時代が違い、採点方法が違ってきたとはいえ、21世紀の子供たちの演技とは一線を画す。

今も昔も、おそらく彼女たちは国の代表として、毎週何十時間も練習を義務付けられていることと思う。また現代の体操競技のようなアクロバット的動作は、子供の身体だからこそ実現できるのかも知れない。しかしどうだろう。遊び盛り、伸び盛り、太り盛りの子供たちに、食事制限、体重制限をし、過酷な練習づけにすることが果たして良いことだろうかと考えた。

そもそもスポーツは、身体を育てるためだけにあるとは思っていないが、国家の威信を競うためにあるわけでもなかろう。いわば国を代表する“戦士”として、子供たちがオリンピック選手として育成されることについても、ある一定の“哲学”がなければ、と思う。

競技は違うが、男子高飛び込みでは、イギリス代表として13歳の少年が参加するというニュースも読んだ(本当ですか?)。体操競技の場合は、参加資格として16歳以上となっているそうだが、果たしてそれは守られているのだろうか?そろそろオリンピックにも、出場選手に対する年齢制限の論議が必要なのかもしれない。

うーん。今でも発展途上国では、金(かね)のために、子供たちをコキ使っている。それを批判する先進国では、金(きん)のために、子供たちをコキ使っているではないか。どこが、どう違うのだろうか。



hiro1958hm at 16:12|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!