2008年02月20日

↓注意! 長いですよ。

下記、アフンルパルを歩く。は長いですよ。携帯の方、十分お気をつけください。

2008年02月18日

164)アフンルパルを歩く。その1

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以下は、ブログ『古い日記』にて、昨年11月に訪れた登別のアフンルパルについて書いた『アフンルパルを歩く。』をまとめて掲載したものである。
現在も続きを書いているところだが、気が向いたら続きを書く、といういい加減な形で書き進めているため、日常の記事と混ざっていて、一つにまとめてもらいたい、との声があったので、まだ完結していないが、現在までの分をまとめて載せることにした。

若干の加筆修正等はご了承願いたい。

**

《1、その経緯。》

それは唐突な一本の電話がきっかけだった。
昨夜、この一年ちょっとの間、一緒に美唄の東部、我路の集落を歩き続けてきたカメラマン・LIOから「明日時間があいたので、どこかへフィールドワークに行かないか?」と電話があったのだ。
奴からの誘いはいつも唐突なのだが、夜のうちに時間があったので喫茶店で落ち合い、どこへ行くつもりなのか聞いてみた。

「いや、どことは決めてないけれど…。」

彼の口からまず出てきたのは積丹か滝川方面という言葉だった。
それから二人でウタリ協会からもらってきた地名リストなる冊子を見ながら、どこに焦点をしぼるか考えてみた。

まず浮かんだのは積丹西岸の泊村海上に聳える茂岩という岩であった。
モイワ(mo-iwa)…藻岩山と同じモイワである。いや、札幌の場合、藻岩山は実はインカルシペ(inkar-us-pe/眺める・いつもする・ところ)という名前であって、本当のモイワは今の円山のことである。

モイワという地名は全道にあって、いずれも独立した円形ないし三角形の小さな山、そして霊的な山であるという。
その中でもこの泊村の茂岩は特殊で、ピラミッド型をした海上の岩という。
以前から気になっていたモイワ、私はまずここを主張した。

しかしそれは二人が大きくうなずく決定打にはならず、砂川・滝川方面もまた、どこに行くべきかがどうにも思い浮かばず、どうしたものかと思っていたら、彼は何を思ったのか突然、登別はどうだろう、と言い出したのであった。

彼が登別と言ったのは、どうやら地獄谷にまだ行ったことがない、という理由らしかった。
そういえば、私も何となくこれまで、目的を絞って登別に行ったことはほとんどなかった。
なりゆきで行き先は泊村や滝川から登別に変更になり、そこで喫茶店にあった『むろらん百年』という本をさらさらっと読んでみた。

登別は室蘭の隣町であるが、同じ生活圏であろうから、何かしら出ているだろう、と読み進んでいくと、
鷲別・幌別・登別の幌別郡3村が合併し幌別村となり、幌別町→登別町を経て、人口3万人で市に昇格出来る当時の特例を真っ先に使い、登別市が誕生した、という経緯について、また温泉街の馬鉄のこと、地獄谷については自殺者が多発し、ある時自殺者の一人が『キング』という雑誌を持っていたことから、自殺者や自殺しそうに見える客を、温泉街の番頭たちが「キング」という隠語で呼びあい、自殺者を出さぬよう連絡をとりあって警戒していた、というような話を見つけることが出来た。

と、ここまで読んだところで、我々は喫茶店を出て、朝早い出発に備えることにした。
家に戻り、床についてからも、山田秀三著『北海道の地名』を引っ張り出して、地獄谷の他にもどこか調べるところはないものか、と考えてみる。
いや、考えなくとも登別はアイヌ語や文化、伝説の類いの宝庫である。
むしろ、今までわかったつもりであまり足を向けなかったことのほうがおかしいのだ。
こうなると、見るべき場所が、とりとめもなく出てくる。
そのまま読み進めるうち、時計は既に4時を過ぎ、9時半集合なのを思い出して、慌てて眠ろうとするが、なかなか眠れない。
ようやくうとうとし出した頃には既に時計は6時を回っていたのだった。


《2、登別に向かって。》

朝9時。

何とか寝坊せずに起きたが、どうにもふらついて仕方がない。
朝飯を食べ終えた頃、LIOが迎えに来た。一路登別へ。
途中、ウトナイ湖付近のセイコーマートで飲み物と何故か吸いたくなったチェリーを買い、運転を交代する。
「苫小牧港に大盛の北寄のカレーを出す食堂がある、そこで早いが昼食をとろう。」とLIOが言うので、まずはフェリーターミナルへと向かう。
ところが、フェリーターミナルに近づくほどに、彼は「おかしいなぁ、こんな景色じゃなかった。」と首をひねり出す。
そして、車を走らすうちに、ついに発見した!



…ミートホープ本社を。



いや、そうじゃなくてな、食堂はどこなんだ、フェリーターミナルじゃないとすると…。

今来た道を戻り、取り敢えず港町へと向かう。が、港町という住所だけあって、まさに倉庫ばかり。店はおろか、人の気配すらも感じられない。
道を変えて西へと進む。「このまま行ったら、国道にもどっちまうぞ。」そう言ってたら、

「あ、この市場だ!」

見ればそこは魚の卸売市場、「それを早く言えっ!」と文句を言って、減速しながら探してみたら、なんともあっさりとその食堂の看板は見つかったのであった。

マルトマ食堂。

きっと○に苫小牧の「苫」なんだろう、えらい直球勝負な名前だ。駐車場へと降りていく。すると、それはすぐに見つかった。




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…ミートホープ汐見工場。



いや、確かに食堂のすぐ脇に、ミートホープの工場はある。しかし、我々の目的はそっちじゃなくて…まずはマルトマ食堂を探さねばな。
港の脇のビルの入口を入ると、食堂には行列が出来ていた。10人以上はいる。まさかこんなところで行列に並ぶとは思わなかったが、10分程度で席にありつけ、我々は北寄カレーに三平汁がついてくる、という微妙な昼食を平らげたのであった。

165)アフンルパルを歩く。その2

《3、登別駅裏の鯨。》

1時過ぎ、登別に入る。
さすがに2〜3時間くらいしか寝てないだけに、私は車を運転しながら、強い眠気をおぼえた。
どこに行くか何も決めてはいなかったが、順序として登別の街を東から西へと移動しながら見ていくつもりだったことと、この眠気を抑えるために一旦車を停めて体を伸ばしたかったこともあって、左、登別漁港の看板に迷わず車を左折させた。

海に向かっているはずなのに、山の際をすりぬけるような漁港への道。切通の国道が出来るまでは、こっちがメインルートだったのだろう。
途中、高波のため通行止、の看板を見るが、通れそうだったため、そのまま直進し、海岸に面した登別駅裏の大きな駐車帯のようなところへ車を滑り込ませる。


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目の前は太平洋。
地図と『北海道の地名』を照らし合わせてみる。

駐車場のすぐ東に、三段に岩肌の剥き出た奇妙な小山があって、頭を海に突き出している。
まるで軍艦のようだ。

『北海道の地名』にこんな項目があった。

フンベ山(フンベサパ)

登別駅のプラットホームの前(海側)にある独立丘の名。アイヌ時代はフンベ・サパ(humpe-sapa 鯨の・頭)と呼ばれ、正にそんな形の山であった。和人はそれをフンベ山といった。その川と海に面した先端部は神祭りをした処だったというが、今は軟石の採掘で、すっかり山容が崩されてしまった。

札幌・藻岩山の上山鼻あたりに延びる尾根を軍艦岬と呼ぶが、これこそ今なら軍艦岬でもおかしくはないな、と思いながら、削られてなくなったと思われるあたりに向かって指で山の延長線を描いてみる。
確かにその空想の線を継ぎ足すと、軍艦だった山が鯨にも見えてくる。

高学生の頃の話であるが、礼文島に渡った際、フェリーの着く香深港の南に奮部(ふんべ)という地域があって、なるほどこれは海から見れば鯨かもしれない、と感心したことがあった。
滞在中、いろいろと歩いてわかったが、富士山を海に浮かべたかのように裾が広く円形をした利尻島とは違い、礼文島は例えるならば板に付いた蒲鉾とでもいうような形状の島である。
利尻に比べ、人が居住出来る場所は極端に狭い。一番大きな街である香深でさえ、まるでその蒲鉾のへりにしがみつくかのように、海岸に伸びる一本の道から外れると、ジグザグに折れ曲がりながら、高度を稼ぐように坂を上らなければならない。
島を南北につなぐ道は海岸沿いの一本のみ、これとて場所によっては海岸沿いに十分な幅を取れないため、車がすれ違うのがやっとの場所まである。
利尻との違いは島を一周出来ないことでもわかる。東海岸はまだこうして南北を往来出来るが、西海岸に至っては徒歩の道しかない断崖絶壁続きで、僅かに島の南端から1/4あたりにある元地地区だけが人の住むところで、それも香深から島を横断する道がつくのみ、島の南北からは歩くしかない。
西海岸縦断には6〜8時間もかかるらしく、とても軽装の高学生には始末におえない。

そうした島であるのに、山に高さがあるかといえばそうでもなく、標高は最高地点でも利尻の1/3といったところだろう。

細長い板蒲鉾が沖に浮かぶ、海から船で見たなら、それこそ鯨が浮いているように見えるかもしれない。
そう思って、帰りの利尻行きフェリーから眺めようと思ったが、帰りはあいにくの濃霧で、出港してすぐに島影は見えなくなってしまった。

話のそれついでにもう少し他のフンベの話を書いてみる。

実は札幌にもフンベはあった。札幌というか、石狩市であるが、石狩湾に面した浜に分部越(ふんべごえ)と呼ばれる地域があったそうな。
石狩湾新港の開発をはじめ、あのあたりは地形ごと大きくかえられてしまったから、今ではこのフンベも姿を消してしまったかもしれない。

フンベは去年行った様似でも見かけた。
様似駅のある大通地区から西へ、チャシ(砦)のあったエンルム岬の麓をV字に近い角度でかわし、会所町、本町といったもともとの様似の中心部を越えていくと、西様似駅のある海辺(うんべ)地区に着く。
海辺はやはり、humpeが語源である。h音はついてもつかなくても意味に変わりはないので、umpe(ウンペ)もまた鯨という意味だ。

その鯨は海辺川河口から西様似駅の方に入ってすぐの処にあった。
何故そんなところに、というくらい唐突な場所にある、小さな小さな、山というのも憚られるような山であった。
高さは10〜20メートルくらいだろうか。
ただ、盛り上がったその小山は登るには角度がありすぎて難しい。個人の敷地であるので、無理に登ることも出来なかった。

松浦武四郎の東蝦夷日誌にはフンベエト(humpe-etu=鯨・岬)というエンルム岬の西の岬に関する記述もある。

これらの鯨たちには幾つかの伝説が残されている。
十勝アイヌに襲撃された様似のアイヌが、砂で巨大な鯨をつくり、その影に伏兵をおいて敵に逆襲した、という話や、
同じく襲撃を受けた様似のアイヌが、一晩で砂の鯨山をつくると、敵は突然現れた巨大な鯨を見て、これは神が戦を止めよ、と現れたに違いないと解釈して、おそれをなして帰ってしまった、という話などがあるという。

では、様似のような鯨にまつわる言い伝えが、この登別のフンベサパにもないのかしら、と探してみると、『北海道の地名』次項のハシナウシの丘にこんな話が載っていた。

かつて登別川は河口がよく東西にずれて変わった。河口がハシナウシの丘(フンベサパの西の丘)に近づくと食糧がよくとれるが、フンベサパに近づいていくとこの鯨(フンベサパ)が食糧を食べてしまうので、食糧がとれなくなる。

がたいの通り、大食いの鯨も、逆に自分の身体を軟石を採るために切り刻まれて、食い尽くされるとは思いもよらなかったであろう。
このフンベサパに昇ることは出来ないのか気になって、車を少し戻してみた。
フンベサパの麓には立入禁止と書かれた山道があった。立入禁止と書かれていると尚更入りたくなる性分ではあるが、石を採掘して危険なところでもあるのかしら、と思い直してその入口を通過してしまったのだった。

166)アフンルパルを歩く。その3

《4、ポンアヨロ河口にて。》

再び国道に戻る。
『北海道の地名』で鯨の話を調べた際に目についた項目、ポンアヨロ川を調べてみよう、と白老方面へと車を返す。

ポンアヨロ=pon-Ayoro-pet=小さい・アヨロ川。
白老町の西端、虎杖浜地区のさらに西端あたりにある小さな川である。

国道に出てすぐ右側に国道より海側を走る道を見つけた。ポンアヨロ川にかかる橋を渡ってすぐのところだ。折れてまたすぐに、ポンアヨロ浜と書かれた看板を見つけて、再び右折。
この砂利道はどうやら、ポンアヨロ川と並行して海に繋がっているようだ。しかし、海は間近なはずなのに、全く浜に下る兆候がない。どこまで車で行けるものやら、恐る恐る車を走らせていく。
川に沿って砂利道を進んで行くと、ポツリと一軒の家があり、その横に『青峯山奥の院 ポンアヨロ観音堂』という看板の掲げられた、ちょっと見た感じでは寺院とは思えぬ建物を見つけた。ポンアヨロ川流域に入って初めて見つけた建物だ。
そして、そこまで来てようやく海が見えてきた。今まで海など何処にあるのか、といった感じの山中をくねりながら走ってきたが、ここまで来て視界が一気に広がった。

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ここは三方を山に囲まれた狭い入江である。その平地は河口から奥行き60〜70メートルぐらいはあるようだ。
ポンアヨロ川河口、ここがどうやらポンアヨロコタン(kotan=集落)のあった場所らしい。
『北海道の地名』によれば、「今は築港されて虎杖浜港のような名になっている。」とあるが、見た限りでは漁港らしき様子はまったくない浜である。
住所で言えば、このあたりも虎杖浜なのであろうが、虎杖浜温泉街や駅からは結構離れており、むしろ登別駅のほうが近いように思う。後になってそちらへ港も移されたのだろうか?
とにかくそれらしき気配は全くなかった。

砂に埋もれないよう車を用心しながら停めて降りてみる。目の前の砂浜を、もうあと僅かで海へ注ぎ込むポンアヨロ川の流れが横切っている。

私は何の気なしにその川を飛び越えてみようとした。一歩で飛び越えられるか、微妙な川幅だが、意を決してヒョイッと飛び越え…られずに片足を水に浸してしまった。
それからしばらく対岸を回って、LIOに転がっていた白い流木を川に渡してもらい、その橋の上で慎重に足場を決め、再び川を飛び越える。

今では全く人気もない、ポンアヨロコタンがあったというこの入江の東の丘は、カムィエカシチャシと呼ばれていたという。

kamuy-ekasi-casi=神の(ごとき)・長老の・砦。

これも何かいわれがあるに違いない。チャシを示す小さな看板があったので、丘に登ってみることにした。
ところが、看板を建てて案内してる癖に、途中の階段に鎖がしてあって、立入禁止と書かれているではないか。
…仕方がない。階段は立入禁止だそうなので、我々は鎖のない、階段の横の土剥き出しの傾斜を登っていく。はい、そうですか、と降りてはいかないのだ。

立入禁止にしてある理由は恐らくは丘の上に立つ灯台のせいだろう。いたずらされてはいけない、と。そんなものにはいたずらなどしないのでしばし勘弁、と思いながら灯台のあるチャシにたどり着いた。
東のアヨロ川、虎杖浜方面を望む。想像以上に何とも爽快な景色だ。

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眼下にこれまた小さな入江があった。ポンアヨロコタンの入江よりも、さらに一回り小さい。
どうやら、これがオソルコチらしい。

オソルコチとは何か?

osor-koti=尻の・その跡(その窪み)。

つまり、この入江は尻の跡→尻餅をついた跡、なのである。では、こんなでかい尻餅をついた、その尻の持ち主は誰か?

それは、アイヌの文化神である。

この神様は、豪快なことにも鯨を蓬の串に刺して、焚き火で焼いていた。ところが、火が串にもついてしまったものか、串は折れ、パチンと跳ねて飛んでいってしまった。それを見ていた神様がびっくりして尻餅をついてしまった。
その跡がオソルコチなのだ。また、飛んでいった串は串で岩になってしまった。
この岩をイマニッ=i-ma-nit(それ・を焼く・串)という。

カムィエカシチャシからイマニッの姿は確認できなかったが、オソルコチは写真の通りに綺麗な半円を大地に描いていた。

このオソルコチ(もしくはオソルコッ)とイマニッの譚も、フンベの話と同じように道内各地の海岸にあるようで、厚田の押琴(おしこと)はこのオソルコッの訛ったものと言われる。様似でも海辺(=フンベ)からそう遠くないところに、尻餅の跡とよばれる窪地があり、ご丁寧なことに街のお菓子屋さんは『尻餅』なるお菓子を売っていた。そして、海上にはやはりイマニッがあった。
浦河の西部、元浦川上流や三石(新ひだか町)の蓬栄地区などにもイマニッはあって、特に三石では串が蓬で出来ていることから、このイマニッに蓬莱岩という名前がつき、そこから蓬栄という地名がついたと言う。
面白いのは羅臼のオショロッコで、ここでは尻餅をついたのは神様ではなく、源義経であったという。神様は実は義経であった、と和人がアイヌを教化する道具として義経を利用したのかもしれないが、それにしても何故羅臼の奥だけに義経の尻餅跡があるのか、考えるとちょっと不思議な気がしないでもない。まるでその分布は飛び地のようではないか。

167)アフンルパルを歩く。その4

《5、蘭法華と山神。》

再び登別漁港に戻り、さらに登別集落の西にある蘭法華岬の下のトンネルをくぐる。
この上はリフルカと呼ばれる丘である。
丘の西は富浦という集落であるが、以前は蘭法華(らんぽっけ)と呼ばれていたところだ。

三上勝生さんの『三上のブログ』で、以前ちらっと見た『山神』碑があったのはこのあたりかしら、と車を室蘭本線のトンネル付近に停めて、しばらく歩いてみる。
それは、山神と彫られた高さ1メートルほどの碑で、蘭法華の海岸にあり、海に直角に東を向いて立っていたが、いつの間にかなくなっていた、というのだ。
碑がいくつか見えたので、碑文を読んでみたが、やはりそれは『山神』碑ではなく、慰霊碑であった。

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それにしても、物凄い数の雪虫が飛び交っている。まさに雪のように。
札幌では2〜3週間前にいなくなった雪虫。改めて札幌と太平洋岸の気候の違いを感じる。

海岸線に沿って走る道から、すぐ脇を走る室蘭本線を横切る踏切を渡ってみる。
玄関上に家印のついた古い家の並ぶ漁村である。渡ってすぐのところに富浦駅が見える。猫が歩いている。
集落を覆うかのようなリフルカの丘の上に、アフンルパルはあるという。しかし、見当なしに丘の上を探しても、これでは広すぎて話にならない。
思った以上にリフルカの丘は高い。近づくまで足で丘の上に登ってみようかと思っていたが、同行のLIOに止められた。止められるまでもなく、こんな丘は直登出来ない。

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写真の通り、えらい傾斜の丘である。下まで行くと、まるで壁のようだ。
『北海道の地名』によれば、このあたりから、リフルカの丘に登るための、電光型の急坂があったという。こんな斜面を登るなんて、獣道しか考えられない。
しかし見たところ、斜面はすっかり崩落防止のためのコンクリートで固められていて、その獣道のつく余地すらなさそうだ。
その獣道の登り口は、室蘭本線のトンネルのすぐ脇にあった、と書かれている。だから、間違いなくこの場所なのだ。
もし発見したにせよ、今の今、それを登るつもりはなかったが、写真に写ってい車の裏に回って、登り口の跡はないものかと探ってみた。

道をはずれて少し入ったところに柵がある。立入禁止、それはそうだろう。立入を許可されていてもあまり登りたくはない。
柵の奥を覗いたら、人目に全くつかないが、明らかに草丈が低いところに、古びた営林署の看板がくくりつけられていた。
この看板こそ、ここがかつて道であったことの証明ではないか、と解釈した。

ここから稲光のようにジグザグに、少しずつ高さを稼ぎながら登る獣道を想像してみる。

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踏切の先にはこんな険しい道が通っていた蘭法華岬を、僅か数秒で貫くトンネルがその真下にぽっかり口をあけている。
3つある鉄道トンネルのうち、使われているのは1本だけ、海寄りの古いトンネルは金網で封鎖され、ただただ丘の土手っ腹に風穴をぶちあけたまま、饐えたような匂いを地上に醸し出している。

トンネルの奥が気になって、汽車に注意しながら、使われていないトンネルに近づいてみる。
まるでこのトンネルこそが、現代のアフンルパルのようだ。
この丘の上にある竪穴状のアフンルパルの奥の地底には、死んだ人々の住む、空も太陽もある、もう一つの世界がある、そう信じられてきた。

あの世とこの世を行き来出来る穴。

この穴の近くにはあの世の人が出てきているかもしれない。あの世の人に接してはいけない。
この穴の近くに近寄ってはいけない。この穴の近くには、あの世にあるべき物や生き物が出て来ているかもしれない。
あの世のものをこの世に持ち帰ったならば、たとえそれが藁一本といえども、必ずあの世に引き戻される。…必ず。

あの金網の向こうの小さな出口からのぞいている世界は、果たして本当に登別の街なのだろうか?
ひょっとして今垣間見えているのは、あの世の世界ではないのか?
…古トンネルはそんな佇まいで、人の侵入を拒絶していた。

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我々は富浦駅を離れて、リフルカの丘に沿うようにして、山手へと入っていく。

アフンルパルを訪れたことのある吉成秀夫さんに電話をかけて、場所にあたりをつけた。アフンルパルはどうやらこの丘の上を走る国道の脇にあるという。
ただ、丘の上に抜けてアフンルパルを探す前に、もう少し謎の『山神』碑について調べてみたい気もする。
我々は車に乗り込んで、狭い小路を極力丘から離れないようにしながら、当てずっぽうで奥に入っていった。そして、しばらく走って、どうやらどん詰まりらしいところに出たところで、我々は呆気にとられた。

富浦会館という公民館らしき建物、
そして目の前に広がる『山神自然公園』なる工事中の広場…。

早速、車を降りてみる。

我々は山神碑のヒントはないものかと探していたわけだが、こんなに簡単に、ばかでかいヒントにぶちあたろうとは。

168)アフンルパルを歩く。その5

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山神自然公園は児童公園のような遊具もあるが、自然公園を名乗るだけあって、児童公園よりは遥かに大きい公園である。
リフルカの丘の斜面は、ここから西へとカーブして延びていて、まるでこの公園は、その懐に抱え込まれているかのような場所だ。
工事用の車両が動き回る園内を観察していると、工事作業員が近づいてくる。

「お水を汲みに来られたのですか?」

こんな人目につかぬ公園の工事に、何故わざわざ誘導員がついているのだろうか?
工事関係者ではそんなに詳しいこともわからないだろうと思いながらも、話を聞けそうな人は他にいそうにもないので、

「お水と言うと?」

ちょっととぼけて私は誘導員に話を聞いてみた。
山神自然公園という名前を見て、山神とは何だろうと思い、入ってきたのだ、と理由を告げて、まずは目の前の工事のことを聞いてみた。

どうやらこの公園のあたりも、リフルカの丘の崖の崩落が進んでいるため、富浦駅付近と同様にコンクリートで斜面を固めているらしい。
自然公園の崖がコンクリートで覆われるとは何とも皮肉な話である。こうしてどんどん打ち固められていけば、この丘はいつかまるでコンクリートの要塞のようになってしまうだろう。

それにしても斜面には妙に黒い点のようなものがばらついている。一体、あれはなんなのだろうか?

「あれは、太平洋戦争の頃に掘られた、横穴の防空壕です。」

なんと、ここにも穴はあったのである。
戦争という遠い記憶の亡骸が、時間を超越して今の世に顔を出すアフンルパル!

「あれらの穴も危険なので、コンクリートを注入して埋めることになります。」

コンクリートで覆われれば、この斜面に防空壕があったことなど誰にわかろうか。
いや、しかし待て。

防空壕です、と言ったその穴がある位置は、海岸とほほ同じ高さの我々が今いる公園と、丘の上との中間より若干上、といったあたりである。
電光型の道も、獣道さえもつけられないような傾斜の真ん中より上に防空壕はあったのだ。

空襲のたび、どうやってあそこまで上がっていくというのか?
いや、そもそもあんなところにどうやってそんな穴を開けることが出来たのであろうか?

あの位置に穴をあけられるくらいならば、地面に近い場所にもっとしっかり穴を開けることが出来るはずではないか。

そういえば『三上のブログ』で三上さんが札幌・石山にある横穴について書いていたのを見た記憶がある。

仮に。

もしあの高所の防空壕が、もとからあいていた穴を利用してつくられたものだとしたら…。

一体、何故そこに?

不自然さを打ち消すための理由を考えると、頭の中がどうしてもそこにもともと穴があったのではないか、という仮説に傾いていく。

電話で聞いたアフンルパルの場所は、まさにこの公園の真上とも言うべき場所であるが、アフンルパルそのものではないのは明白だ。

アフンルパル、
防空壕、
山神…

繋がらないジグソーパズルを無理矢理嵌め込もうとするかのように、頭の中がますますとっ散らかっていく。

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山神の湧き水は、この工事現場から麓づたいにちょっと南に歩いたところにあるが、工事中なので公園入口から迂回路がついているという。この誘導員氏はこの水を汲みにくる人を迂回路に誘導するために立っているのだ。

そういえば公園の敷地内、入口の横には神社がある。この神社に立っていた石には『山神』ではなく、『水神大神』と刻まれていた。
水神とはこの湧き水のことであろうか?

誘導員氏と話をしている間にも車で水を汲みに来た人が行き過ぎていく。
昔からこの地域で大事にされていた湧水なのだろうか?

アフンルパルの、まさに真下から湧き出てくる水の神…。

話を続けているうち、どうやらこの誘導員氏はこの地域の人なのか、随分と詳しい話をしてくれる。
ひょっとしたら、この人はかなり核心に近いことを知っているのではないか…私は一番の疑問を誘導員氏にぶつけてみた。

「ではこの山神自然公園の山神というのは、何のことなんですかね…この神社の通称か何かなのですか?」

「山神と言うのはですね…」
誘導員氏の返答は簡潔で、驚くべきものだった。

「…この公園の土地を持っている方の名字です。」

山神さんの土地にある自然公園だから、山神自然公園。これ以上簡潔な説明はあるまい。この集落に、山神さんという方がいる。
しかし、そうなると例の『山神』碑はどういう説明がつくだろうか?
石碑に自分の名字を彫っただけなのか?
いやいや、どうもそれだけとは思えない。山神さんという名字そのものの成立との関連はないのか?

山神をそのままアイヌ語にすると、kim-un-kamuyであろう。これは一体何を指した言葉であるか?
山の神・キムンカムィとは、つまり羆のことである。ここで私は、かなり強引なこじつけをしてみた。

山神さんというのは、代々この地域に住む家で、名字をつける必要が出てきた際に、何らかの形でこの家なり、地域を象徴するものとしてキムンカムィを訳して名乗った…。

貝沢姓の人が、pipa-o-i(カラス貝・が群在する・ところ)と呼ばれる沢付近に住んでいたから、それを訳した姓を名乗ったように、
或いはウロコベツ(ウロコは意味不明、petは川)と呼ばれる川の流域に住んでいた人が、鱗川と半訳の姓を名乗ったのと同じように、山神さんも何らかの理由で、この丘によく現れていたのか、キムンカムィ=羆をそのまま姓にしたのではないだろうか?

これはあくまでも、土地所有者が山神姓であることを聞いた私の直感、空想でしかないのだが…。

色々と教えてもらった誘導員氏に湧き水の場所を教えてもらい、礼を言ってその場を離れた。
迂回路といっても、公園の中なので、明確な道がついているわけではない。どこがその湧き水なのか、よくわからぬまま歩いているうち、私はすっかりぬかるんだ急斜面で迷ってしまった。
気づけば同行のLIOは随分と下にいるではないか。どうやら湧き水をそれとは認識せずに、ずんずん上まで歩いてきてしまったようだ。おかげでズボンはすっかり泥まみれになってしまった。

どう考えても、水神大神とはこの湧き水に由来するとしか思えない。
水神と山神…山神自然公園を発見し、それは『山神』碑の大ヒントになるはずであったが、疑問はますます膨らんでしまった。

夕暮れまであまり時間がなくなってきた。山神の疑問は宿題にすることにして、水を飲んで一服したのち、我々はこの真上にあるはずのアフンルパルへと、ようやく足を向けることになった。

169)アフンルパルを歩く。その6

《7、アフンルパルへ。》

山神自然公園を出て小川沿いに西へ。この丘の上へと登る道を探す。登別集落手前で漁港へ降りる道と分かれた国道36号は、この丘の上を、頂上部分を切り通して走っているはずである。そこに繋がる道がどこかにあるはずだ。
西へと向かって程無く、その道を見つけることが出来た。国道に合流してUの字を描くように折れる。
電話で吉成さんから聞いたアフンルパルの場所は切り通しの途中にあるT字交差点の脇、切り通しの上である。それらしき交差点を見つけて曲がってみる。曲がった先には登別の市民霊園があるようだ。
どこかしらに車を泊めなければならないが、国道付近には停める場所がなく、T字路をまがり、右左とカーブを切って出た十字路のへりに車を停めた。ちょうど市民霊園の入口にあたるところである。
ここから切通の上まで、ちょっと距離がある。見当をつけて、アフンルパルを探さねばならない。

まず我々は目の前にあった砂利道へと入ってみた。
ここに来るまでに、登別市役所がどうやらアフンルパルを遺跡として整備した、というような話を耳にしていた。
どれほどの整備なのかがよく分からないが、議会の議事録が出元であるから、何かしら手をくわえたのは確かである。少なくとも電話で吉成さんは看板が設置されている、と言っていた。
いくらかでもお金をかけて整備したのならば、ひょっとしたら道もついているかもしれない、それはこの砂利道なんじゃないか、と思ったのだ。

ところが、これが行けども行けどもどこにも出ない。そのうち砂利道も切れてしまい、藪こぎをせざるを得なくなった。
腰くらいの高さの草を薙ぎ払いながら歩くと、ちょっとした林に出た。
林の中をさらに前進する。道内各地にあるアフンルパルは基本的に横穴洞窟で、洞窟を抜けるとあの世の世界がある、と言われていて、
中には西様似のアフンチャル(アフンルパルと同義)のように、海底にあるという変わり種もあるのだが、
この丘のアフンルパルはそのどちらでもなくて、擂り鉢状の窪地に螺旋状の道がついている、というものだと聞いてきた。
ちょっとした窪地を見つけては、これなのかと近づくが、それは余りにも小さくて、こんなはずはない、と足はさらに奥へと進んでいく。
窪んでいるといえば窪んでいるように見えなくもないという、?な場所を幾つか越えていくうちに、行く先を横にぶった切る砂利道に出くわした。
国道を走った際に見た景色とは明らかに違う光景である。

どちらへ行くか悩んで右に折れてみる。ところが、しばらく歩いたら、さらに道は右に直角にカーブしていて、我々は結局、車を止めたもとの位置まで戻ってしまった。

左手を見ると、金網で囲まれた廃棄された看板類の山!

その数たるや、半端ではない。
現代の墓地と、かつて人々があの世の別世界とを繋いでいると信じていたアフンルパルとの間に、そんな迷信など知ったこっちゃあないとばかりに広がる、人間に使い捨てられ雨ざらしにされた物たちの墓場。
その中にポツリと作業している人を見つけて、金網越しに声をかけてみる。

「このあたりに、アフンルパルと呼ばれる遺跡があると聞いたのですが、どこにあるか知りませんか?」

「はぁ? そんなもの聞いたこともねぇ!」

我々はけんもほろろにあしらわれ、見当を違えたのか、とがっかりしながら車に一旦戻る。
いやしかし、吉成さんに電話で確認した場所はこのあたりだ。他に道があるやもしれない、と車を一旦出して近辺をうろついてみることにする。
霊園入口から国道に出て、切り通しを東に下る。左に曲がると知里真志保生誕地、知里真志保の碑といった看板が掲げられている。
看板のある交差点を曲がり、あたりをくるくる回ってみるが、ここらへんは既に丘の麓、登別の集落である。
こんな人里のど真ん中にアフンルパルがあるはずもない、と再び今来た道を切り返して、霊園前を横切る道を今度は西へと折れてみる。

切通付近の道は、実際にはもっと曲がりくねっているが、簡単に言えば海に向かって「干」の字状になっている。その上の横棒が国道であり、切り通しになっている。左は登別市街、右は幌別市街。
さきほどの山神自然公園は、上の横棒のさらに上、切り通しの崖を一旦登り、そのすぐ真下に位置するようだ。
真ん中の横棒はアフンルパルのある場所を挟んで、国道と並走する道である。
縦棒の下は霊園の中だ。

ここまで特定出来ているのに、どうにもアフンルパルは見つからない。

先程歩いたのは、二本の横棒に挟まれた左部分だった。今度は右部分を歩いてみる。
こちら側も何やら柵で囲われた場所で、敷地内に入っていく余地すらない。
柵の中は墓石屋である。ちらりちらりと垣間見える敷地内には、加工された墓石や石灯籠が散らばっている。
墓石屋の塀が切れるところまで行くと、窪んだ土地に小さな階段があり、一本の木を中心にして墓石とも石碑ともつかぬ古びた石が幾つか立ち並んでいる。
明らかに空気が違うその窪地に降りてみて、石に彫りこまれた文字を読んでみる。

南無妙法蓮華経

法華さんの本尊のあの独特の文字で、題目が刻まれていた。墓なのだ。
辛うじて石には、明治廿●年幌別村の某、と刻まれており、建立時期と建立者の名前を読むことが出来る。
アフンルパルがあり、明治二十年代の墓所があり、そして今もまた市民の墓地があり、この丘は時に関わり無く、どこかでこの世界と死後の世界を結ぶ役割を担い続けている丘のようだ。

百数十年前の、木の下の小さな墓に手を合わせ、階段に戻ろうとその木をぐるりと回ってみると、そこには同じくらい古い墓石が廃棄されたのか、折れて打ち捨てられていた。
ちょっとこれには驚いた。墓石の墓場、である。唖然としながらその場を去る。
そういえば通ってきた墓石屋の中にも無造作に墓石らしきものが積み上げられていたようだが、あれもまた墓石の墓場なのであろうか?
新たな墓石に建て替えられたために、集められてきたものだろうか?
それとも今では誰も参らない無縁仏として撤去されたものなのだろうか?

墓地業者の多くは永代供養料と称して契約時にお金を徴収しながら、実際には永代に供養することはない。20〜50年という期限が契約書に書かれていて、それを知らぬ契約者とトラブルになるという話はよくあるが、裏を返せば50年くらいの間に親類縁者の死去、転出などによって無縁仏になってしまう墓がたくさんある、それほど人は永住と口では言いながらも流動するもの、ということであろう。
そうした無縁の墓の墓場だったとしたら、それもまたせつない話ではある。

車を停めていた霊園の西の入口へと踵をかえす。そろそろ太陽は西へ深く傾きつつある。
太陽も急ぎ足の11月、ここまで来てアフンルパルを見つけることはできませんでした、と帰るわけにもいくまい。
霊園の入口には知里幸恵の墓を案内する看板があり、訪れて参らねば、と心ひかれたが、今回はやむを得ずアフンルパルへの道を優先する。

アフンルパルは国道から市民霊園に至る道の東にあるのか、西にあるのか。アフンルパルの位置の特定は予想通り難渋した。どちらも歩いてみたがどうにもそれらしき場所に辿り着けない。
電話では確か東と聞いた気もするが…、ひょっとしたら聞き間違いかもしれない。何より東側は一度探し回ったが、見つからなかったではないか。
しかし、日没の時間は刻々と迫る。とにかくどちら側なのかだけでも、もう一度電話をしてハッキリさせねば…ここで吉成さんにもう一度場所を確認してみた。

道路の東、国道の切り通しの真上。

これが答えであった。
LIOはカメラを抱えている。とても切り通しを無理矢理登るわけにはいかない。どうにか、霊園側から道を見つけるしかないのである。
霊園前の十字路より東は、くだんの廃棄物の山である。ということは、この十字路から国道までの坂道のどこかから奥へ入るしかないのだ。とはいえ、道らしい道などどこにもない。こうなったら道なき道を草をかき分けて入っていくしかないのか…。

…と、その時。
たった一ヶ所、不自然に草の折れたところを、霊園入口と国道の中間辺りに見つける。
獣道というには、ほとんど獣ですら通れそうもない道。草が折れているというだけで、道とは言えぬ道。
ここがアフンルパルへと繋がっている保証などどこにもない。
しかし迷う余裕は無し。覚悟を決めて、その折れた草を頼りに、背丈ほどもある草むらへと躍り出る。

※以下に手描き地図を載せる。

登別駅付近。
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ポンアヨロ。
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蘭法華と霊園付近。
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拡大図。
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170)アフンルパルを歩く。その7

「干」の字型の左真ん中の空白地帯にあるはずのアフンルパルを探して、私は背丈ほどもある草むらへと踏み込んだ。かすかに草が踏み倒された痕跡だけがたよりである。
足元がほとんど見えないので、突然現れる窪みに転びそうになったり、自分がどこにいるのかわからなくなったりしながら、少しずつ、少しずつわけいっていく。
7〜8分かけて、Jの字を逆さまにしたように奥へ入っていった先に、看板らしきものが見えてきた。
これに違いない、と先を急ぐ。

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これが、アフンルパル…。

中へは入れぬようになっている螺旋状のその大きな窪みは、想像していたものよりも遥かに傾斜が急である。
その一部は国道開削の際に削り取られたらしく、切り通しの真上といっていいこの場所からは、こんなところにそんなものがあるとは、そして人がそこにいるなんてことはこれっぽっちも思ってもいないよ、とばかりの勢いで、車のライトが東西に交錯して走り抜けていく有り様が丸見えであった。
カメラを抱えて、草むらに入り込むことを躊躇するLIOを呼ぶために、直前に自分が通ってきた踏み分けを頼りに、迷い迷いながら道路まで戻る。
そして、別な場所をチェックしていたLIOを「あったぞ〜!」と大声で呼び出し、再び今来た獣道へと入り込んでいく。

**

さてここで、以前私が様似のアフンチャルを見てほどなくラジオで聞いた、アイヌの昔話をもう一度とりあげる。
『地名日記』の122〜124として書いた『地獄穴の話』というものである。

アフンチャル=ahuncarとは、アフンルパルと同じものである。様似は日高南部の町であるが、アイヌの言語や文化の面では、十勝からの影響を強く受けている場所でもある。
ここでは口を意味する言葉がパルではなくてチャル、
よってアフンルパルはアフンチャル、もしくはアフンポル(ポルは洞窟の意)と呼ばれていて、
私が教えてもらったのは、西様似の塩釜とよばれるところの海底にあるアフンチャルであった。

ラジオで語られた話は千歳のアイヌの話であるが、様似でもこのアフンチャル周辺から海の幸をとってはいけない、と言われていたという。
また、登別でも子どもは近づいてはいけないとされていたらしく、アフンルパルに近づかぬように子どもを戒める話は、どの地域にもあったと思われる。
以下、文章の再掲である。補足には※をつけておく。

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****

先週(※2006年秋)の土曜の夜中、小樽・手宮線跡地で写真展を見ての帰りのこと。
家に近づいた頃、NHKのラジオ深夜便でアイヌの昔話が流れだした。
慌ててセイコーマートに入って、120分テープを買い、急いで帰って録音した。
5つの話のうち、最初の1つは録音しそこねたが、残りは何とか録音できたので、それから夜中のうちにテープおこしをして、翌日L君(※今回の登別行きに同行したLIOのこと)にそのテープを貸した。
ここんところ、お互い何か資料となるようなものを見つけると、貸し借りして回しているのだ。
私は『北海道の川の名』『網走湖と女満別のアイヌ語地名』『常呂町のアイヌ語地名』の3冊を借りている。

さて、その5つの話の最後、『帰らぬムジナ』という話なのだが、これが様似のahuncar、ahunporuと同じ、地獄穴(あの世への入り口)についての話であった。(※ラジオでは地獄穴と紹介されていた)

物語の中でも、ここに入ってはいけない、近づいちゃいけない、と語られている。
また、そのタブーを破るとどうなってしまうのか、ということを具体的に言っているので、ちょっと紹介したい。

物語は千歳に伝わるもので、主人公はクサンという男の子である。

クサンには友達がいた。

その友達とは、ムジナ(エゾタヌキと説明していた)のこどもであった。
クサンとムジナのこどもはいつも外で遊んでいるうち、すっかり仲良しになったのだ。

ある日、クサンは父にこう戒められた。

あの山へ行ってはいけない。
あの山には地獄穴があって、その穴の奥にはあの世が広がっている。
そこには死者が生前と同じ姿で生活している。
そこに行ってしまうと、再びこっちの世界に戻ってきても、また引き戻されて死んでしまうのだ、と。

ところが、冬も終わり近く、春が近づいた頃、クサンはムジナの穴を探しているうち、その山に入ってしまった。
ムジナの足跡をおっていくうち、クサンは穴を見つけた。足跡はその中へと続いていた。
よもやこれが父に戒められた地獄穴とは想いもよらぬクサンは、穴に入って、ムジナを探して、奥へ奥へと進んでいく。

すると、穴を抜けたところには、まるで季節が真逆になった夏の世界が広がっているではないか。

クサンはあたりを見回した。
そして、漁をしている男たちのそばで、おこぼれの魚にありつこうとしているムジナを見つけた。

そこへ、クサンを呼ぶ声がする。声の主を見ると、それは去年死んだはずの、近所に住んでいたおじいさんであった。

おじいさんはクサンにこう言った。

ここから早く帰れ。
そしてこの世界のものは、何一つ持っていくな。
持っていったら死ぬぞ。
私は去年、ここでギョウジャニンニクを採って、持ち帰ってしまったために死んでしまったのだ。
あそこにいるムジナも、この世界の魚を食べてしまったがために、死んだのだ。
お前の衣服にはワラが一本ついている。
そのワラ一本、つけたまま帰っても、お前は死んで、この世界に引き戻されてしまうぞ、と。

クサンは慌ててそのワラを払うと、穴を通り、山に出て、もとの世界へと戻っていった。

その後、クサンは死ぬ事無く、長生きしたが、その地獄穴のことは、ついぞ誰にも語りはしなかった、という。

****

というお話である。

この穴を通して、この世とあの世はつながっている。その境界線には、あの世のものや、あの世へ行った死者がいたりする。
塩釜の海中にあるahuncarのまわりで、貝や魚や海藻をとってはいけない、というのも、これらがもしもあの世から出てきたものだったら、それを食べることによって、その人が死んでしまうからなのだろうし、
アイヌが墓参をしない、というのも、一度あの世へ行った人には会わない、という感覚なのだろう。

信じようが信じまいが、そう言い伝えられてきたのだ。でも、事件・事故・自殺ばかりの、今生きている我々の住む街こそ、ばかでかいahuncarみたいなものかもしれない。

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LIOを伴って再びアフンルパルの至近まで舞い戻る。
これがアフンルパルである。
…と、この写真では非常にわかりづらいかもしれないが、この中央の部分、ここがアフンルパルなのである。草がこの通り生えているため、窪地が螺旋構造なのかどうかは判別がつかない。しかし、かなりの急角度であることははっきりわかる。写真左側のフレームからはずれたあたりに国道が見えている。
LIOは私の隣でこの様子をどのように写真におさめるべきか、いろいろと試行錯誤している。

そういえばアフンルパルのすぐ脇には、登別市がたてたアフンルパルの説明の看板がある。随分と立派な看板であるが、ここに至る道がないも同然では、一体どれほどの人がこれを見たものやら、と思ってしまう。
以下、看板に書かれていた文言をそのまま掲載する。

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アイヌ伝説の史蹟

アフンルパル

「アフンルパル」はアイヌの伝承で「あの世へ行く道の入口」死者の行くポクナモシリ「下方の国」の入口として語られ神聖視されていた所である。
また此の辺りはカムイミンタル「神庭」とよばれ海神の祭り場(弊場)があった。

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弊場というのは、明らかな誤字で、正しくは幣場であろう。
看板の文章の中で、私が一番気になったのは、ここがカムィミンタルであった、という記述であった。
カムィミンタル、kamuy-mintarは看板にあったように、直訳すると「神・庭」である。ついでだが、札幌の雁来あたりは昔、yuk-mintarと呼ばれていた場所で、これは鹿の庭、鹿の遊び場だったとされる。

神の庭は道内の至るところにある。よくあるのは山の神、つまりkimun-kamuy=羆の遊び場になっているようなところである。
ここで真っ先に思い出されるのはそう、このアフンルパルの真下にあったのは何か、ということだ。
アフンルパルすぐの崖下にあるのは、山神氏の所有地に造られた山神自然公園ではないか!

アフンルパル周辺の山神の遊び場の真下に山神自然公園。あまりにも出来すぎた話であり、両者が繋がらないと考えるほうがよほど不自然というものであろう。
しかし、
この看板にはこうも書かれていたではないか。

「海神の祭り場(幣場)があった。」と。

ここで私はすっかり混乱するのであった。
海神、それは恐らくはhumpe=鯨であろう。それだけが海神ではないだろうが、この丘を東に下れば、登別川を挟んで、humpe-sapaと名付けられた山、つまり「鯨の頭」が対峙しているのである。
しかも、この頭だけが突き出た鯨は、登別川河口の位置が東に移動して近づいていけばいくほど、鯨が魚を食べてしまうので不漁になる、と言われている、そんな山なのである。
漁の好不調を占い、左右するほどの存在、それはまさに「海神」と言って差し支えないのではなかろうか。

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このアフンルパル自体が、鯨をここまで引き上げてきて、儀式をする場所だったのではないか、という話を聞いた覚えもある。
それがもしも本当ならば、それはそれで想像を絶する作業でもある。

登別市街、富浦市街、どちらから浜に揚げたとしても、ここまでの距離は相当なものである。
直線距離にすればさほどでもないかもしれないが、ここは丘の上なのである。
特に富浦、蘭法華の方からこの丘へと上がる道は、トンネル脇にようやく痕跡だけを見つけることの出来た、崖といっていい斜面を電光型に標高を稼ぎながら登っていたという、あの道である。
あんなところを数人で鯨を担いで登ってくるなんて、下手をしたら、鯨もろとも崖下へ転落してもおかしくはない。
道そのものが、複数の人間が並列で登り降り出来るのか疑問な道でもある。
丘の東のほうが傾斜はゆるやかそうではあるが、それとて今は切通があるからこそ、あの程度の斜度で済んでいる、というだけのこと。
いずれにしても、人数にせよ、その労力にせよ、一体どれくらいのものになるのか見当もつかない。

アフンルパル、カムィミンタル、山神、海神…このリフルカと呼ばれる丘周辺を半日巡るうち、随分といろいろなキーワードが出てきた。
これらを如何にして整理すればよいだろうか?

(続く)

2008年01月04日

163)雁来

札幌市東区の雁来。
現在、町名としてあるのは何故か「東雁来」ばかりで、「西雁来」はない。
本家本元の雁来町も、豊平川左岸の一角にポツンとあるが、河川敷であるから人など住んでいるはずもなく、地図を見ても載っていないこともあるくらいで、
ぱっと見たところ、東苗穂の奥に東雁来が並んでいて、不自然なことこの上ない。
最近、明治時代に発行された札幌の案内書をもらった。その中に雁来村の記述があり、明治6年に対雁村から移住した人によって開かれた、と書かれていた。

対雁は江別市北部の難読地名。「ついしかり」と読む。昔の地図などには「津石狩」などと書かれたものもあり、おそらくは同じあたりのことであろう。

豊平川の豊平橋以東の下流は、もともと豊平川ではなかった。
月寒川などを束ねて、雁来から今の旧豊平川、世田豊平川を経て対雁に流れ込む川(私はその流路の一つとしてモショッケショマナイも含まれていたのではないか、と思っているのだが)に200数十年前に決壊した豊平川が流れ込み、今の流れの原型が出来た。
のちに雁来から弓なりに石狩川に流れる放水路が出来て、今の豊平川になるわけだが、
明治の頃には放水路が出来る前の豊平川下流域を対雁川と区別して呼んでいたらしい。

雁来については、「枯れ木」説や「雁が来た」説など、その由来について諸説があり、大体和名であると言われているわけだが、
この本を見ていて、ふと思うのは、もっと単純に「対雁から来た人の村」だから「雁来」、ということは考えられないか、ということである。
ということは、明治6年に付けられた地名である、ということになり、それ以前から雁来と呼ばれていたならば、仮説はあっという間に崩れるわけであるが。

その記述を見ただけで、何を調べたわけでもないので、何ともいい加減な仮説だが、ふとそんなことを思ったのだった。

2007年07月18日

162)モショッケショマナイ現地歩き。7

5e5d7f0c.jpg川から国道を渡ってみる。
4番通の延長線にあたる道にさきほどのポンプ場がある。緑町ポンプ場、と門には文字がある。
日曜なので誰もいない敷地に入り込んでみるが、とりたてて川跡を示すものは見当たらない。
一通り見て国道まで引き返してみる。

と、その時。
石狩大橋のたもとの変形交差点横、つまりポンプ場の南隣に見落としそうな道が沿うようについていて、なぜかそこだけが周囲に比べてやたらとへこんでいることに気付いた。
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凹地の道に入るとすぐに、意外な建物を見つけた。
水天宮である。

モショッケショマナイの河口とおぼしき場所に水天宮…これはここに川があった、まごうことなき証拠といっていいだろう。