2008年08月30日
初心を忘れるべからず
今週は、介護実習の学生さんの指導をさせていただきました。
21歳の笑顔が優しい男性でした。
「ケアの仕事に対しては、これからの選択肢の一つとして考えています」
彼はそう言っていました。
実習が終わった今、彼にはケアに携わる仕事をしてほしいと願う気持ちが
私の中では大きく膨らんでいます。
実習指導にあたり、大切なことは・・・
知識や技術を指導し、修得してもらう
現場体験を有意義なものにしてもらう
そして、実習者の思いに応えること
そして、私自身が実習者から学ぶこと
彼は、ケアに入るときには、必ず、利用者の方に
「宜しくお願いします」
そして、ケアを終えると、「ありがとうございました」と
声をかけていました。
それは、儀礼的なものではなく、心からの言葉だと感じました。
私たちが忘れがちな「尊厳」と「感謝」の気持ちです。
あらためて、初心を思い出しました。
彼は、ひとつひとつのケアもとても丁寧で懸命でした。
入所されて2週間くらいの利用者様がいらっしゃいます。
言語障害もあり、言葉を発することもなく、私たちの声がけにも、
まだあまり反応していただけず、時折、うなづかれた?かも
といった感じです。
少しずつではありますが、表情がやわらかくなりつつ・・・といった感じです。
彼とは、その方のケアを主に実習を行いました。
彼は、ひとつひとつのケアに声をかけて、とても熱心に
関わっていました。
すると・・・
彼の何度かの声がけに、利用者様は、うなづかれ、微かな笑顔を見せられました。
その時の利用者様の微かな笑顔も、私はとても嬉しかったのですが
何より、その笑顔を見た時の彼の驚きの笑顔が忘れられません。
まさに、「心からの笑顔」だったと思います。
その瞬間に、利用者様と彼との心のつながりの糸が見えたような感じでした。
その後も、その利用者様は、彼のケアには
とても穏やかな表情をされていました。
そして、彼もまた、嬉しい笑顔満面でした。
利用者様への「尊厳」と「感謝」の気持ちで
ひとつひとつのケアに一生懸命に心を尽くす
あらためて、彼から学んだ私でした。
実習を終えるにあたり、彼にいくつか問いかけをしました。
嬉しかったこと
印象に残っていること
学んだこと
彼は・・・うつむき加減に言葉を迷い選びながら
「すみません。頭でいろいろ考えると上手く答えられないんです。」
私は伝えました。
「うん。○○さんは、いろんなことを感じてくれたと思うの。
答えることよりも、感じたことを大切にしてね。」
心から私はそう思いました。
彼には、利用者様のあの笑顔を忘れないでほしい。
どんな仕事でも、相手の思いに寄り添って
心をこめて関わることが何よりも大切であることを。
そして、私の大きな反省は・・・
彼の一番の気持ちに応えられなかったこと
それは、彼が実習を終える少し前に
「ここに人形を置いていってのいいですか?」
「(・−・)・・・ん?どんな人形?」
「車の中においてある○○なんですが・・・」
「それってキャラクタ?」
「うーん まぁそうですね」
「そっかぁ・・・ここではね、利用者様がご高齢なので
尊厳の尊重という意味では、キャラクター的なものは
あまりふさわしくないということがあるの。その○○のキャラクタを、
私は知らないんだけど、どんな感じ?」
「うーん・・・いいえ。ご迷惑をかけては申し訳ないからいいです。」
「そっか・・・ごめんなさいね。」
その後、彼はひとり言のようにつぶやきました。
「何か残して置きたかったなぁ・・・何か作ってこればよかった・・・」
彼は、きっとこの実習で関わった利用者様のことを
忘れないだろうなぁと思います。というより・・・そう祈っています。
だからこそ、利用者様にも自分のことを覚えていてほしかったのだと思います。
その思いを受けとめて何かできることがあったはず。
そのキャラクターを車の中から取ってきてもらって
主任に確認しても良かったはず。
正直に言うと・・・私の頭の中に
「キャラクターはいけないってことを指導者としてわかっていないの?
といわれるだろうなぁ。あぁ〜叱られてしまうかも・・・」
という気持ちがありました。
彼の思いに寄り添うことができず、何もできなかった自分を
今、とても悔いています。
実習を終えてフロアーを去るときに、彼は、ひとりひとりの利用者様に
自ら「ありがとうございました」と挨拶をしていました。
そして、私たち職員にも
「上手く言えないんですけど・・・本当にいい体験をさせて頂きました。
何て言ったらいいのかわからないんですけど・・・本当にありがとうございました。
これしか言えなくて・・・すみません。ありがとうございました。」
「こちらこそ、いろいろと大切な気づかせてもらったの。
本当にありがとうね。」
2008年08月29日
その人らしい生活
「その人らしい生活を尊重する」
これは、ケアの原点です。
私も、何より「その人らしい生活」を大切に日々ケアをさせて頂いています。
先日、ご夫妻で入所されている利用者様のカンファレンスがありました。
2ヶ月前の入所時は、施設での生活への緊張感や戸惑いがあったことと思います。
食事の時間にも、お声がけをする前に、時間に合わせて
身支度を整えられて、ご夫妻でフロアーに出向かれていました。
お食事の後も、居室でTVをご覧になったり、他の利用者の方とカラオケを
されたりして、時間を過ごされていました。
ご夫妻は、入所する前までは、おふたりで暮らしておられ
外へ出かけることもなく、ご自宅で寝ておられるばかりだったそうです。
ご家族としては、このままでは、身体的にも寝たきりになってしまうかもしれない。
また、人と触れ合うこともなく、社会的な生活を送ることができなくなってしまう。
そう思われ、ご夫妻に入所を勧められたそうです。
ご家族も、入所されてから他の利用者の方とお付き合いしながら
日々を過ごされていることを驚きとともに喜ばれていました。
でも・・・1ヶ月を過ぎた頃から・・・
居室でお昼間もウトウトとされることが多くなってきました。
おそらく、ここでの生活にも慣れてこられたのでしょう。
そして、今現在では、ご夫妻ともに「お昼寝」時間が生活の大部分に
なってしまわれました。
「その人らしい生活」を尊重する
眠りたい時に眠っていただく
もちろん、これも大切なケアです。
ただ、「お昼寝」時間が生活の大部分になってしまわることが
その人らしい生活であるかどうか・・・これは考えていかなければ
ならないことだと思います。
カンファレンスで、ケアマネジャーは言いました。
「これは、恥ずかしいことだ」
「結局、ご家族が心配されていた元の生活に戻ってしまったのだから」
この言葉に、あらためてケアのあり方を自分に問いました。
確かに高齢者の方には、体調管理や健康管理において
私たち以上に、充分な睡眠や休息が必要です。
「眠たくなる」
もちろん、身体的に眠りたいという時もあります。
そしてまた、退屈ですることがなくて・・・寝ることしかない。
そんな生活空間を作っていないかという点を
私たちケアに携わる者は、考えなければいけないのです。
本当の意味での「その人らしい生活」
心からの笑顔いっぱいの生活 を取り戻していただくために
楽しみ 喜び 生きがい 探しを!です。
これは、ケアの原点です。
私も、何より「その人らしい生活」を大切に日々ケアをさせて頂いています。
先日、ご夫妻で入所されている利用者様のカンファレンスがありました。
2ヶ月前の入所時は、施設での生活への緊張感や戸惑いがあったことと思います。
食事の時間にも、お声がけをする前に、時間に合わせて
身支度を整えられて、ご夫妻でフロアーに出向かれていました。
お食事の後も、居室でTVをご覧になったり、他の利用者の方とカラオケを
されたりして、時間を過ごされていました。
ご夫妻は、入所する前までは、おふたりで暮らしておられ
外へ出かけることもなく、ご自宅で寝ておられるばかりだったそうです。
ご家族としては、このままでは、身体的にも寝たきりになってしまうかもしれない。
また、人と触れ合うこともなく、社会的な生活を送ることができなくなってしまう。
そう思われ、ご夫妻に入所を勧められたそうです。
ご家族も、入所されてから他の利用者の方とお付き合いしながら
日々を過ごされていることを驚きとともに喜ばれていました。
でも・・・1ヶ月を過ぎた頃から・・・
居室でお昼間もウトウトとされることが多くなってきました。
おそらく、ここでの生活にも慣れてこられたのでしょう。
そして、今現在では、ご夫妻ともに「お昼寝」時間が生活の大部分に
なってしまわれました。
「その人らしい生活」を尊重する
眠りたい時に眠っていただく
もちろん、これも大切なケアです。
ただ、「お昼寝」時間が生活の大部分になってしまわることが
その人らしい生活であるかどうか・・・これは考えていかなければ
ならないことだと思います。
カンファレンスで、ケアマネジャーは言いました。
「これは、恥ずかしいことだ」
「結局、ご家族が心配されていた元の生活に戻ってしまったのだから」
この言葉に、あらためてケアのあり方を自分に問いました。
確かに高齢者の方には、体調管理や健康管理において
私たち以上に、充分な睡眠や休息が必要です。
「眠たくなる」
もちろん、身体的に眠りたいという時もあります。
そしてまた、退屈ですることがなくて・・・寝ることしかない。
そんな生活空間を作っていないかという点を
私たちケアに携わる者は、考えなければいけないのです。
本当の意味での「その人らしい生活」
心からの笑顔いっぱいの生活 を取り戻していただくために
楽しみ 喜び 生きがい 探しを!です。
2008年07月14日
父の幸せは?
仕事帰りに実家へ行きました。
玄関を開けると・・・「あっ・・・またか」と思いました。
母が奥の部屋から出てきて「今、ヘルパーさんを呼んだから、何もしなくていいから。」
ときつく言います。
父の部屋をのぞくと・・・父はズボンを膝下まで下げ、便失禁したままの状態で
ぼんやりと椅子に座っていました。
母も在宅酸素療法を受けている状態で、呼吸状態も悪く
身体介護や生活援助を受けています。
当然ながら、父の介護ができる身体ではないのです。
それゆえ、父の介護のストレスも日に日に大きくなっています。
母は念を押すように「すぐにヘルパーさんが来てくれるから。アンタがすると
ヘルパーさんのすることがなくなるから。何もしないで。」と苛立ったように言います。
母は、頼んだヘルパーさんが来てくださったのに、何もすることがないと
申し訳ないという気持ちと・・・
私に、父の便失禁の世話まで、させたくないという思いもあったのでしょう。
けれど・・・父は、排便の感覚を訴えることができなくなっても
今こうして、自分が便だらけになって、気持ち悪いという感覚は
持っているのです。
おそらく、ヘルパーさんは、あと10分もしないうちに、来てくださることでしょう。
でも、父は、たとえ、5分でも、早くこの気持ち悪さから開放されたいと
思っているはずなのです。
私は・・・一瞬、母に
「お父さんの気持ち悪さをわからないの?」
「こういうことは、虐待と一緒なんだよ。」
と責め立てたくなりました。
でも、その言葉をぐっとこらえて、黙って父のケアを始めました。
母は、仕事から帰ってきた私の疲れも心配してくれているのだから。
ケアを始めて、ほどなくヘルパーさんは来てくださいました。
そして、お任せすべきことはお任せして、一緒にケアしました。
ヘルパーさんが帰られた後、母は私に「ありがとう」と言いました。
私は「うん」とだけ言い、それ以上何も言いませんでした。
私は、母に何かを問いかけるより、自分自身に問いかけていました。
父は、こうして、便失禁して、気持ち悪い思いをしながらも
時には、母に「何をやってるのっ!」と責めるように言われても
それでも、何も言えない。
ヘルパーさんをお願いできない夜遅くの時間帯であれば・・・
朝まで、その状態でいなければいけない。
在宅でケアをしたいという私の思いは・・・
私のエゴに過ぎないのか・・・?
施設に入所していれば、少なくとも、巡視のタイミングで
ケアしてもらえます。
誰に責められることもなく・・・。
父にとって、何が幸せなのか・・・。
そんな問いかけを自分自身しながら、心が痛くなりました。
TVの上の写真立てには、ディサービスやショートスティで
お世話になっている施設の職員さんと並んで笑っている父の姿があります。
父がこうして笑顔でいるために、私は何をしたらいいのか・・・。
玄関を開けると・・・「あっ・・・またか」と思いました。
母が奥の部屋から出てきて「今、ヘルパーさんを呼んだから、何もしなくていいから。」
ときつく言います。
父の部屋をのぞくと・・・父はズボンを膝下まで下げ、便失禁したままの状態で
ぼんやりと椅子に座っていました。
母も在宅酸素療法を受けている状態で、呼吸状態も悪く
身体介護や生活援助を受けています。
当然ながら、父の介護ができる身体ではないのです。
それゆえ、父の介護のストレスも日に日に大きくなっています。
母は念を押すように「すぐにヘルパーさんが来てくれるから。アンタがすると
ヘルパーさんのすることがなくなるから。何もしないで。」と苛立ったように言います。
母は、頼んだヘルパーさんが来てくださったのに、何もすることがないと
申し訳ないという気持ちと・・・
私に、父の便失禁の世話まで、させたくないという思いもあったのでしょう。
けれど・・・父は、排便の感覚を訴えることができなくなっても
今こうして、自分が便だらけになって、気持ち悪いという感覚は
持っているのです。
おそらく、ヘルパーさんは、あと10分もしないうちに、来てくださることでしょう。
でも、父は、たとえ、5分でも、早くこの気持ち悪さから開放されたいと
思っているはずなのです。
私は・・・一瞬、母に
「お父さんの気持ち悪さをわからないの?」
「こういうことは、虐待と一緒なんだよ。」
と責め立てたくなりました。
でも、その言葉をぐっとこらえて、黙って父のケアを始めました。
母は、仕事から帰ってきた私の疲れも心配してくれているのだから。
ケアを始めて、ほどなくヘルパーさんは来てくださいました。
そして、お任せすべきことはお任せして、一緒にケアしました。
ヘルパーさんが帰られた後、母は私に「ありがとう」と言いました。
私は「うん」とだけ言い、それ以上何も言いませんでした。
私は、母に何かを問いかけるより、自分自身に問いかけていました。
父は、こうして、便失禁して、気持ち悪い思いをしながらも
時には、母に「何をやってるのっ!」と責めるように言われても
それでも、何も言えない。
ヘルパーさんをお願いできない夜遅くの時間帯であれば・・・
朝まで、その状態でいなければいけない。
在宅でケアをしたいという私の思いは・・・
私のエゴに過ぎないのか・・・?
施設に入所していれば、少なくとも、巡視のタイミングで
ケアしてもらえます。
誰に責められることもなく・・・。
父にとって、何が幸せなのか・・・。
そんな問いかけを自分自身しながら、心が痛くなりました。
TVの上の写真立てには、ディサービスやショートスティで
お世話になっている施設の職員さんと並んで笑っている父の姿があります。
父がこうして笑顔でいるために、私は何をしたらいいのか・・・。
2008年07月09日
食べたいものは?
閉塞性動脈硬化症で、足の指の壊死が進行し、その痛みに耐え続けていらっしゃる利用者さんがおられます。
服薬と座薬でのペインコントロールをしながら、懸命に痛みに耐えておられます。
最近は、食欲も落ち、食事の摂取量もかなり減ってきています。
全量の2〜3割り程度です。
けれど、いつも、ゆっくりと食べられるものだけでもと・・・
一生懸命にを召し上がっているように感じます。
「○○さん、何か食べたいものはない?」
「そうだなぁ・・・カツが食べたい。」
「そうかぁ。カツね。力がつきそうだよね。」
「○○さんは、カツが食べたいのはどんな理由からなの?」
「栄養をとらないといかんからね。肉は栄養があるし。」
「○○さんは、本当に、からだのこと、とても考えておられるものね。
いつも、栄養を取るために、一生懸命、食べてくださるものね。」
「うん。うん・・・。栄養を取らんと治らんから。」
少し涙ぐまれるそのお顔をみていると・・・私も涙があふれそうになります。
私はその方の背中を摩りながら・・・
「カツ食べにいこうか?」
「昔は良く食べたよ。」
「そううかぁ。良く食べたんだね。私も好きよ。」
「カツ丼もいいね〜」
「そうだね。とろ〜り卵がいいね。」
「そうそう、味の濃い甘辛いのがいいわ。」
「いいね。いいね。甘辛いカツ丼!」
「じゃあ、リーダーさんにお出かけして、食べにいけるようにお願いしてみようか?」
「うん。そうしてもらえるといいね。」
食べたいものは何?と尋ねて、その答えが、この方から聴くことができたことが
私は、とても嬉しかったのです。
生きる力をとても感じたから・・・。
2007年02月06日
介護される人 と 介護する人
父は、半年ほど前から、膀胱に導尿のための
バルーンカテーテル留置しています。
挿入したカテーテルにはレッグパックを接続して排尿しています。
ところが・・・1週間もすると、そのレッグパックを
自分で取り外してしまうようになりました。
当然、パックに溜まった尿が漏れてしまいます。
時には、椅子に座ったまま取り外したり・・・
時には、ベッドで横になったまま取り外したり・・・
認知症が進んでいることもあり、取ってはいけないことを
話しても理解してくれているのか・・どうか・・・
ところがさらに・・・今度は、カテーテルそのものを
抜去してしまうようになりました。
当然、かなりの痛みと出血が伴います。
感染症の危険もあり、早急に病院で再度留置して
もらう必要があります。
平日の日中ならまだしも、休日や夜間では、病院でも
すぐに処置してもらうことも難しくなります。
すでに4回ほど、抜去して病院へ駆け込んでいます。
どうしたものか・・・。
ところがところが・・・ディサービスやショートスティで
過ごしている時には、レッグパックを外したり、
カテーテル抜去をすることがないのです。
うーん。。。どうして?
外出時に身につけるものと理解して、帰宅したら
外してしまうのか?
そんなふうにも思ったりします。
また、もしかしたら・・わずかに尿意感覚があって
自分で自己排尿しようと思って、抜去してしまうのか?
父に問いかけても、答えは返ってきません・・・。
母も肺気腫を患っており、低酸素吸入器を常時つけている
生活で、呼吸が乱れることが多く、無理はできないのです。
父の介護がストレスになり、病状も安定しません。
いわゆる老老介護です。
そして、母は、父が抜去してしまうと・・・
「また、何度いったらわかるのっ!いい加減にして!」
と苛立ち叫びます。
母の気持ちもわかりますが・・・ついつい私は言ってしまうのです。
「お父さんに、そういう言い方しちゃダメっていってるでしょっ!」
これでは、母が父に対して言っていることと同じです。
介護される人 と 介護する人
その両方の心の支えにならなければ・・・。
バルーンカテーテル留置しています。
挿入したカテーテルにはレッグパックを接続して排尿しています。
ところが・・・1週間もすると、そのレッグパックを
自分で取り外してしまうようになりました。
当然、パックに溜まった尿が漏れてしまいます。
時には、椅子に座ったまま取り外したり・・・
時には、ベッドで横になったまま取り外したり・・・
認知症が進んでいることもあり、取ってはいけないことを
話しても理解してくれているのか・・どうか・・・
ところがさらに・・・今度は、カテーテルそのものを
抜去してしまうようになりました。
当然、かなりの痛みと出血が伴います。
感染症の危険もあり、早急に病院で再度留置して
もらう必要があります。
平日の日中ならまだしも、休日や夜間では、病院でも
すぐに処置してもらうことも難しくなります。
すでに4回ほど、抜去して病院へ駆け込んでいます。
どうしたものか・・・。
ところがところが・・・ディサービスやショートスティで
過ごしている時には、レッグパックを外したり、
カテーテル抜去をすることがないのです。
うーん。。。どうして?
外出時に身につけるものと理解して、帰宅したら
外してしまうのか?
そんなふうにも思ったりします。
また、もしかしたら・・わずかに尿意感覚があって
自分で自己排尿しようと思って、抜去してしまうのか?
父に問いかけても、答えは返ってきません・・・。
母も肺気腫を患っており、低酸素吸入器を常時つけている
生活で、呼吸が乱れることが多く、無理はできないのです。
父の介護がストレスになり、病状も安定しません。
いわゆる老老介護です。
そして、母は、父が抜去してしまうと・・・
「また、何度いったらわかるのっ!いい加減にして!」
と苛立ち叫びます。
母の気持ちもわかりますが・・・ついつい私は言ってしまうのです。
「お父さんに、そういう言い方しちゃダメっていってるでしょっ!」
これでは、母が父に対して言っていることと同じです。
介護される人 と 介護する人
その両方の心の支えにならなければ・・・。
2007年01月31日
もったいないで〜の思い
今日は、失敗談です。
施設には、週に1回、お菓子販売の日があります。
お菓子や果物、日持ちのするお漬物などを業者さんが
持ってきてくださり、利用者さんが購入されます。
ある利用者さんが、買われたお菓子が美味しくて召し上がったそうなのですが・・
偶然にも、お菓子を召し上がった日の夜にお腹を少しこわされたそうです。
そして、その利用者さんは、次の販売日に、どうしても業者さんに
話したいことがあるから、連れて行ってといわれました。
聴いてみると・・・そのお菓子を大事に持ってこられ
「これ、美味しかったの。美味しかったから3つも食べたら
シャーシャーに(下痢してしまわれた)なったもんでね。
もう、食べられんから返したいの。」と。
この方は、いつもの食事の時も少食なので
「こんなに食べられないから、もったいないから少なくして。
誰かに食べてもらって。」とおっしゃいます。
きっと、それと同じことを伝えたかったんだと思います。
「もったいないからお返ししたい」その思いだったと思うのです。
決して、苦情ではなかったのです。
そこで、その方を販売にこられた業者さんのもとにお連れして
お話をしていただこうと思いました。
私も業者さんには、あらかじめ、話だけ聞いてあげていただきたいと
いうことをお伝えました。
そして、その方が話された後
・商品自体の賞味期限も充分期限内であり、私自身が食べてみて
何ともなかったので、お菓子には問題はないと思っていること
・利用者さんのからだに合わない成分があったのかもしれないので
栄養士に確認してもらったこと
・ご本人は、自分では食べられないので、お返ししたいという気持ちからのこと
私もその利用者さんも菓子そのものをお返ししたかっただけで、
返金は全く考えていなかったのですが・・・・
業者さんが
「今回のお買い物から差し引いておきます。」
とおっしゃってくださったので、ご好意として、そうしていただきました。
ところが・・・のちほど事務所からお叱りを受けてしまいました。
「利用者が返金を迫っているのを、職員が止めなかった」と。
o(´^`)o ウー・・・そんなつもりではなかったのですが。。。
業者さんから返金の申し出を頂いた時に、すぐに
事務所に報告・連絡・相談へいかなければいけなかったことを
深く反省しています。
事務所にも業者さんにもご迷惑をおかけしてしまいました。
利用者さんの思いを上手く相手の方に伝えられなかったこと
業者さんだけでなく、ボランティアの方々なども含めて
利用者さんと外部の方との関わりについては、
もっともっと双方への気配りと心配りをしていかなければならないこと
そして、事務所への報告・連絡・相談をしっかりすること
反省することしかり・・・です。
だた・・・嬉しかったことがあります。
この利用者さん 私に言われました。
「もったいないから 返せてよかったわ〜」と
嬉しそうに微笑まれましたから。
ちなみに・・・利用者さん自身は、返金のことはご存知ありません。
そして翌日、おかずを配膳した私に言われました。
「こんなに食べれんでね〜 半分にして頂戴な。
アンタやあの兄ちゃん(他の男性職員のことです。)が食べて
くれればいいがね。もったないで〜。」
私はなんだか微笑ましく思い、おかずを半分にしてお持ちすると
その方は、両手を合わせて「いただきます。」と
美味しそうに召し上がっておられました。
施設には、週に1回、お菓子販売の日があります。
お菓子や果物、日持ちのするお漬物などを業者さんが
持ってきてくださり、利用者さんが購入されます。
ある利用者さんが、買われたお菓子が美味しくて召し上がったそうなのですが・・
偶然にも、お菓子を召し上がった日の夜にお腹を少しこわされたそうです。
そして、その利用者さんは、次の販売日に、どうしても業者さんに
話したいことがあるから、連れて行ってといわれました。
聴いてみると・・・そのお菓子を大事に持ってこられ
「これ、美味しかったの。美味しかったから3つも食べたら
シャーシャーに(下痢してしまわれた)なったもんでね。
もう、食べられんから返したいの。」と。
この方は、いつもの食事の時も少食なので
「こんなに食べられないから、もったいないから少なくして。
誰かに食べてもらって。」とおっしゃいます。
きっと、それと同じことを伝えたかったんだと思います。
「もったいないからお返ししたい」その思いだったと思うのです。
決して、苦情ではなかったのです。
そこで、その方を販売にこられた業者さんのもとにお連れして
お話をしていただこうと思いました。
私も業者さんには、あらかじめ、話だけ聞いてあげていただきたいと
いうことをお伝えました。
そして、その方が話された後
・商品自体の賞味期限も充分期限内であり、私自身が食べてみて
何ともなかったので、お菓子には問題はないと思っていること
・利用者さんのからだに合わない成分があったのかもしれないので
栄養士に確認してもらったこと
・ご本人は、自分では食べられないので、お返ししたいという気持ちからのこと
私もその利用者さんも菓子そのものをお返ししたかっただけで、
返金は全く考えていなかったのですが・・・・
業者さんが
「今回のお買い物から差し引いておきます。」
とおっしゃってくださったので、ご好意として、そうしていただきました。
ところが・・・のちほど事務所からお叱りを受けてしまいました。
「利用者が返金を迫っているのを、職員が止めなかった」と。
o(´^`)o ウー・・・そんなつもりではなかったのですが。。。
業者さんから返金の申し出を頂いた時に、すぐに
事務所に報告・連絡・相談へいかなければいけなかったことを
深く反省しています。
事務所にも業者さんにもご迷惑をおかけしてしまいました。
利用者さんの思いを上手く相手の方に伝えられなかったこと
業者さんだけでなく、ボランティアの方々なども含めて
利用者さんと外部の方との関わりについては、
もっともっと双方への気配りと心配りをしていかなければならないこと
そして、事務所への報告・連絡・相談をしっかりすること
反省することしかり・・・です。
だた・・・嬉しかったことがあります。
この利用者さん 私に言われました。
「もったいないから 返せてよかったわ〜」と
嬉しそうに微笑まれましたから。
ちなみに・・・利用者さん自身は、返金のことはご存知ありません。
そして翌日、おかずを配膳した私に言われました。
「こんなに食べれんでね〜 半分にして頂戴な。
アンタやあの兄ちゃん(他の男性職員のことです。)が食べて
くれればいいがね。もったないで〜。」
私はなんだか微笑ましく思い、おかずを半分にしてお持ちすると
その方は、両手を合わせて「いただきます。」と
美味しそうに召し上がっておられました。
2007年01月29日
誰が痛みを聴いてくれたか?
ここ数ヶ月、腱鞘炎の痛みに耐えています。
ある利用者さんは、身体介護の時に、ズボンを持ち上げることを嫌がられ、
両脇下から支え持ち上げてほしいとおっしゃいます。
腕の力と腰を上手く使うことができればいいのですが
なかなか上手く力を利用することができず、両手で
持ち上げるようにしていたためだと思います。
その利用者さんは、左麻痺なので、私自身にも
特に左手に力が入り、まず、左手の親指を曲げることが
できないほどになってしまいました。
そこで、病院へ行ったのですが・・・
担当していただいた医師は・・・
「どんな状態ですか?」
「はい。親指が動かせないんです。」
「ここですか?」 と痛みの箇所を圧さえられる。
「痛いっ!」
「動かせない?」と痛みの具合や箇所を簡単に確認した後・・・
「これは、典型的な腱鞘炎です。安静にするしかありませんよ。」と。
「そうですか・・・仕事上、なかなか安静にしていることも
できないのですが・・・」と私。
「痛みを抑えるには、まず、塗り薬をしっかり塗ることですね。
それでも、ひかないなら、注射することはできます。
どうしますか?」 と。
注射嫌いな私は、まず、薬をもらうことにしました。
1時間も待ったのに、ほんの3分くらいの診察。
なんだか・・・もやもやした気分で、薬局へ行きました。
そして、薬局の薬剤師さんは・・・
「どうされました?」
「はい。親指が動かせないんです・・・。」
「そうですか。それはお困りでしょうね。痛みもかなりあるのですか?」
「はい。仕事にも無理がかかります。」
「仕事ができないのは大変ですね。お仕事は何を?」
「介護の仕事をしています。たぶん、介護の仕方が悪かったのだと
思いますけど・・・。」
「介護の仕事ですか。大変な仕事をされているのですね。
自分のからだにも気をつけていかないと大変ですね。」
「はい。もっと自分で気をつけけないといけないですね。」
「腱鞘炎は安静にすることが一番いいけど、お仕事もあるからね。
それも、なかなか難しいでしょう?」
「はい。そうなんです。」
「テーピングすることもいいと思いますよ。固定されるから無理に
使わないようにはなるでしょうから。」
「あぁ〜なるほど。それはいいかもしれません。」
「やれることはやってみてください。」
と・・・私の気持ちをじっくり聴いて下さった。
私は・・・医師よりもこの薬剤師さんに治療して頂いた気分になりました。
痛みを聴いてもらえるだけでも
痛みは和らぐものです。
ある利用者さんは、身体介護の時に、ズボンを持ち上げることを嫌がられ、
両脇下から支え持ち上げてほしいとおっしゃいます。
腕の力と腰を上手く使うことができればいいのですが
なかなか上手く力を利用することができず、両手で
持ち上げるようにしていたためだと思います。
その利用者さんは、左麻痺なので、私自身にも
特に左手に力が入り、まず、左手の親指を曲げることが
できないほどになってしまいました。
そこで、病院へ行ったのですが・・・
担当していただいた医師は・・・
「どんな状態ですか?」
「はい。親指が動かせないんです。」
「ここですか?」 と痛みの箇所を圧さえられる。
「痛いっ!」
「動かせない?」と痛みの具合や箇所を簡単に確認した後・・・
「これは、典型的な腱鞘炎です。安静にするしかありませんよ。」と。
「そうですか・・・仕事上、なかなか安静にしていることも
できないのですが・・・」と私。
「痛みを抑えるには、まず、塗り薬をしっかり塗ることですね。
それでも、ひかないなら、注射することはできます。
どうしますか?」 と。
注射嫌いな私は、まず、薬をもらうことにしました。
1時間も待ったのに、ほんの3分くらいの診察。
なんだか・・・もやもやした気分で、薬局へ行きました。
そして、薬局の薬剤師さんは・・・
「どうされました?」
「はい。親指が動かせないんです・・・。」
「そうですか。それはお困りでしょうね。痛みもかなりあるのですか?」
「はい。仕事にも無理がかかります。」
「仕事ができないのは大変ですね。お仕事は何を?」
「介護の仕事をしています。たぶん、介護の仕方が悪かったのだと
思いますけど・・・。」
「介護の仕事ですか。大変な仕事をされているのですね。
自分のからだにも気をつけていかないと大変ですね。」
「はい。もっと自分で気をつけけないといけないですね。」
「腱鞘炎は安静にすることが一番いいけど、お仕事もあるからね。
それも、なかなか難しいでしょう?」
「はい。そうなんです。」
「テーピングすることもいいと思いますよ。固定されるから無理に
使わないようにはなるでしょうから。」
「あぁ〜なるほど。それはいいかもしれません。」
「やれることはやってみてください。」
と・・・私の気持ちをじっくり聴いて下さった。
私は・・・医師よりもこの薬剤師さんに治療して頂いた気分になりました。
痛みを聴いてもらえるだけでも
痛みは和らぐものです。
2007年01月28日
誰が犠牲になるか?
誰かが「犠牲」になるしかないのか・・・?
母からの電話の後、ふっと私の頭の中をそんなつぶやきが過ぎりました。
私の父は、脳血管障害による認知症とパーキンソンで要介護認定3を受けています。
半年前に、腎臓機能が低下して、自己排泄することができなくなり、
導尿カテーテルを装着することになりました。
1年位前から、自己排泄の感覚が弱まり、尿失禁が増えてきて
母の介護負担もかなり重くなっていました。
導尿カテーテルを装着によって、尿失禁の心配はなくなるので
父にとっては、悲しいことでしたが、母の介護の負担を考えると
これもよかったのか?とも思っていました。
ところが・・・父は、導尿カテーテルを装着していることが
理解できなくなっているのか?
導尿カテーテルに接続されているレッグパックを
すぐに取り外してしまいます。
もちろん・・・レッグパックを取り外してしまうので
尿がパックからこぼれてしまいますし、父も導尿カテーテルから
尿が漏れてしまいます。
尿失禁よりも大変な状態になり、ますます母の看護負担は大きくなりました。
母は、肺気腫で常時、低酸素吸入器をつけています。
少し動くだけでも呼吸が乱れてしまうこともあり
今では、外出さえも無理な状態になってしまいました。
母も、要介護1を受けています。
もちろん、父も母もヘルパーさんやディサービス・ショートスティなど
利用できる限度枠のサービスを利用しています。
今夜の電話で母が言いました。
「もう・・・うちも限界・・・。頑張りきれない。」 と。
誰かが犠牲にならないといけないのか?
母がこのまま自分の病気を抱えて耐え切るか?
父がホーム施設へ入所するのか?
私が、仕事を辞めて両親を介護するか?
福祉に「犠牲」があっては、福祉にならない!
社会的問題になっている老老介護や介護者の負担を
どうしていくか?
まさに、私自身が直面している問題。
介護者の4分の1の人が”うつ病”だと言われ、
そのうちの30%が「死にたいと」と思っているという
現実の社会がある。
犠牲のない介護・・・
その答えを 私自身がまず見つけなければ・・・。
母からの電話の後、ふっと私の頭の中をそんなつぶやきが過ぎりました。
私の父は、脳血管障害による認知症とパーキンソンで要介護認定3を受けています。
半年前に、腎臓機能が低下して、自己排泄することができなくなり、
導尿カテーテルを装着することになりました。
1年位前から、自己排泄の感覚が弱まり、尿失禁が増えてきて
母の介護負担もかなり重くなっていました。
導尿カテーテルを装着によって、尿失禁の心配はなくなるので
父にとっては、悲しいことでしたが、母の介護の負担を考えると
これもよかったのか?とも思っていました。
ところが・・・父は、導尿カテーテルを装着していることが
理解できなくなっているのか?
導尿カテーテルに接続されているレッグパックを
すぐに取り外してしまいます。
もちろん・・・レッグパックを取り外してしまうので
尿がパックからこぼれてしまいますし、父も導尿カテーテルから
尿が漏れてしまいます。
尿失禁よりも大変な状態になり、ますます母の看護負担は大きくなりました。
母は、肺気腫で常時、低酸素吸入器をつけています。
少し動くだけでも呼吸が乱れてしまうこともあり
今では、外出さえも無理な状態になってしまいました。
母も、要介護1を受けています。
もちろん、父も母もヘルパーさんやディサービス・ショートスティなど
利用できる限度枠のサービスを利用しています。
今夜の電話で母が言いました。
「もう・・・うちも限界・・・。頑張りきれない。」 と。
誰かが犠牲にならないといけないのか?
母がこのまま自分の病気を抱えて耐え切るか?
父がホーム施設へ入所するのか?
私が、仕事を辞めて両親を介護するか?
福祉に「犠牲」があっては、福祉にならない!
社会的問題になっている老老介護や介護者の負担を
どうしていくか?
まさに、私自身が直面している問題。
介護者の4分の1の人が”うつ病”だと言われ、
そのうちの30%が「死にたいと」と思っているという
現実の社会がある。
犠牲のない介護・・・
その答えを 私自身がまず見つけなければ・・・。
2007年01月16日
心からの笑顔いっぱいに
ずっと更新しないままだったブログを再開しようと思います。
もうすぐ、今お仕事をしている特別養護老人ホームで
介護の仕事を始めてから1年になります。
毎週、3日〜4日、早番勤務で頑張っています。
早番なので、朝、5時過ぎに起きて6時過ぎに自宅を出ます。
この時期、出かける頃はまだ暗い夜道です。
そして・・・施設に到着する頃、朝陽が昇ってきます。
ほんのり朝焼け色に染まる東の空を見ていると・・・
今日も新しい1日が始まるんだなぁ〜 と新鮮な気持ちになります。
”たいせつなことは どれだけ たくさんのことをしたかより
どれだけ 心をこめたか です。”
これは、私の尊敬するマザー・テレサの言葉です。
ある時、職員さんが、利用者さんの話を 長い時間をかけて
じっくり聴いていた姿を見かけました。
利用者さんも、嬉しそうな顔をして話されていました。
その光景を見て、私も微笑ましく思いました。
そして・・・その職員さんが休憩室に戻ってきて言いました。
「あぁ〜ぁ また、愚痴聞かされちゃった。話し出したら長くて長くて。」
「話を聞いてあげないと、また 『話を聞いてくれない』って言われるし。」
たくさんの時間をかけて、話を聞いてあげても
心をこめて聴かせていただかなければ・・・
”利用者さんの思いは支えられない” そう思う私です。
もうすぐ、今お仕事をしている特別養護老人ホームで
介護の仕事を始めてから1年になります。
毎週、3日〜4日、早番勤務で頑張っています。
早番なので、朝、5時過ぎに起きて6時過ぎに自宅を出ます。
この時期、出かける頃はまだ暗い夜道です。
そして・・・施設に到着する頃、朝陽が昇ってきます。
ほんのり朝焼け色に染まる東の空を見ていると・・・
今日も新しい1日が始まるんだなぁ〜 と新鮮な気持ちになります。
”たいせつなことは どれだけ たくさんのことをしたかより
どれだけ 心をこめたか です。”
これは、私の尊敬するマザー・テレサの言葉です。
ある時、職員さんが、利用者さんの話を 長い時間をかけて
じっくり聴いていた姿を見かけました。
利用者さんも、嬉しそうな顔をして話されていました。
その光景を見て、私も微笑ましく思いました。
そして・・・その職員さんが休憩室に戻ってきて言いました。
「あぁ〜ぁ また、愚痴聞かされちゃった。話し出したら長くて長くて。」
「話を聞いてあげないと、また 『話を聞いてくれない』って言われるし。」
たくさんの時間をかけて、話を聞いてあげても
心をこめて聴かせていただかなければ・・・
”利用者さんの思いは支えられない” そう思う私です。
2006年06月13日
障害を乗り越えるのではなく受け入れる
聴覚に障害を持った介護福祉士のドキュメンタリー番組を見ました。
盛岡に住む 八百奏美さん 20才の女性
福祉専門学校の274名の代表として、答辞を読んだ彼女
私の障害ではなく 私の個性 神様からの贈り物
耳が聞こえなかったら・・・介護師になってはいなかった。
耳が聞こえないからこそ、高齢者で聴覚に障害を持っている人の孤独を感じられる。
初めて中学の時に施設にボランティア活動に行った時に、高齢者の方から
「ありがとう」の言葉を頂いて、自分も人の役に立てるのだと嬉しく思い、
介護師になりたいと思ったといいます。
実習では、常に筆談用のメモとペンを持ち歩いたけれど、筆談しようとしても
目が見えない高齢者もいて・・・
コミュニケーションが上手く取れない悔しい思いをいっぱいしたと。
その彼女の就職先は、京都にある「ろうあ者だけの施設」
京都綾部市 特別養護老人ホーム いこいの村梅の木 寮
この施設には工房があり、利用者さんは工房でそれぞれに仕事をしているそうです。
その姿を見て、人生の最後まで働くことが、その人を生き生きさせることにつながると感動したといいます。
彼女は今、利用者さんから、常に何かを学ぶ気持ちを持って、関わりながら、生活を援助するだけでなく、一緒に生活を楽しむこと、そして、人生の最後の部分を支えられる介護師になることを目指しています。
番組の最後で、彼女は言いました。
「あなたに出会えてよかったといわれる介護師になりたい。
持ち前の明るさと笑顔で頑張ります。」
「夢を現実にした」彼女
「決して夢をあきらめない」彼女
あなたが夢をあきらめなければ、あなたを必要としている場は、必ずあるのです。
決して、あきらめないで、自分の場所を探すこと。
盛岡に住む 八百奏美さん 20才の女性
福祉専門学校の274名の代表として、答辞を読んだ彼女
私の障害ではなく 私の個性 神様からの贈り物
耳が聞こえなかったら・・・介護師になってはいなかった。
耳が聞こえないからこそ、高齢者で聴覚に障害を持っている人の孤独を感じられる。
初めて中学の時に施設にボランティア活動に行った時に、高齢者の方から
「ありがとう」の言葉を頂いて、自分も人の役に立てるのだと嬉しく思い、
介護師になりたいと思ったといいます。
実習では、常に筆談用のメモとペンを持ち歩いたけれど、筆談しようとしても
目が見えない高齢者もいて・・・
コミュニケーションが上手く取れない悔しい思いをいっぱいしたと。
その彼女の就職先は、京都にある「ろうあ者だけの施設」
京都綾部市 特別養護老人ホーム いこいの村梅の木 寮
この施設には工房があり、利用者さんは工房でそれぞれに仕事をしているそうです。
その姿を見て、人生の最後まで働くことが、その人を生き生きさせることにつながると感動したといいます。
彼女は今、利用者さんから、常に何かを学ぶ気持ちを持って、関わりながら、生活を援助するだけでなく、一緒に生活を楽しむこと、そして、人生の最後の部分を支えられる介護師になることを目指しています。
番組の最後で、彼女は言いました。
「あなたに出会えてよかったといわれる介護師になりたい。
持ち前の明るさと笑顔で頑張ります。」
「夢を現実にした」彼女
「決して夢をあきらめない」彼女
あなたが夢をあきらめなければ、あなたを必要としている場は、必ずあるのです。
決して、あきらめないで、自分の場所を探すこと。
2006年05月24日
そのままの気持ちを受けとめる
先日、認知症の方とのコミュニケーション技法「バリデーション」についての
セミナーを受講してきました。
講師は、きのこ老人保健施設 施設長 篠崎人理氏 でした。
バリデーションは、米国のソーシャルワーカー、ナオミ・フェイルさんが生み出した療法。
その特徴は、騒いだり、徘徊したりにも「意味がある」として捉え、なぜ騒ぐのか、
なぜ徘徊するのか、その方の歩まれた人生に照らして考えたり、共に行動したりする
というものなのです。
バリデーションは元々、「確認するとか、強くする」の意味に用いられるのですが、
フェイルさんによると、認知症の人の「経験や感情を認め、共感する」意味で
バリデーションという言葉を用いているそうです。
篠崎氏は、バリデーションの意味を Val → Value つまり、価値であると。
「人としての価値は、何も変わらない。」
認知症の方に対しても、自分と同じ人として寄り添うことが何より大切であると
いうことなのです。
これは、言葉にするとあたりまえのことですが、このあたりまえのことが
一番できないのです。
ついつい・・・「認知症だから」という枠をつけて関わってしまうのです。
たとえば 「今日は何日?」 とある認知症の方に聞いたとします。
「えっと・・・3月10日かな?」(実際には、5月21日です。)
あなたは次に何というでしょうか?
「今日はね、5月21日なの。これ見て。(新聞などの日付を見せて)
忘れないように、ここに書いておきましょうね。わからなくなったら、ここを見てね。」
これは、介護者の立場での関わりです。認知症の方の見当識を正そうとしています。
では、バリデーションではどう関わるかというと・・・
「そうなのね。3月10日なのね。3月のはじめだから、春が近づいてきているのかしら?」と
いうように相手の世界にともに寄り添います。
今日、施設でこんなことがありました。
「うちの人はどこへ行ったの?」とAさんはうろうろされていました。
ある職員さんは言いました。
「Aさんのご主人は亡くなったでしょ。だから、お部屋にお位牌があるでしょう?」
Aさんは「・・・そうなの?」とつぶやきながら・・・また、うろうろし始めます。
そして、「うちの人はどこいったの?いろいろ話したいことがあるの。どこへ行ったの?」
そこで、職員さんは、Aさんをお部屋に連れて行き、お位牌を見せながら、
「これ、ご主人のお位牌よ。ね?わかるでしょう?ご主人のお位牌だから、
Aさんのお部屋にあるんでしょう?」
Aさんは・・・ぼんやりそのお位牌を見つけていました。
そして、また・・・30分くらいすると「うちの人はどこにいるか知らない?」と
たずねてきました。
そこで、私はAさんに言いました。
「ご主人を探しているのね?」
「そうなの。どこへ行ったのかしら?」
「ご主人、どこへ行ったのかしらね。Aさんは、ご主人をどこかで見かけたの?」
「ここに来てから、会ってないの。」
「そうか・・・ここへ来てから会っていないのね。何か困っているみたいだけど?」
「年金のこと聞かないといけないの。お金のこと、私はわからないから。」
「そうかぁ。年金のことね。お金のことで、何が心配?」
「暑くなってきたから、この服じゃ嫌なの。新しいのが買いたいの。」
「そうだったのね。ここ数日、お天気いいし、暑くなったからね。新しい服がほしいのね?」
「そう。暑いもの。」
「じゃあ、Aさんのお世話をしてくれる人がいるんだけど、その人に伝えておこうか?」
「そういう人が私にいるの?」
「うん。いるよ。」
「じゃあ、伝えておいてくれる?」
「うん。伝えていくから、服のこと、心配しないで。」
「ありがとう。」
その後、Aさんは、もううろうろすることもなく、居室で休まれていました。
バリデーションの関わりは、私が今まで学んできたコーアクティブコーチングの
関わりと同じくするところがとても多いのです。
認知症の方との関わりの中でも、コーアクティブコーチングの真髄は活きています。
バリデーションについて興味のある方は、「バリデーション―痴呆症の人との超コミュニケーション法(筒井書房)」や日本バリデーション協会サイトを参考にされるといいでしょう。
セミナーを受講してきました。
講師は、きのこ老人保健施設 施設長 篠崎人理氏 でした。
バリデーションは、米国のソーシャルワーカー、ナオミ・フェイルさんが生み出した療法。
その特徴は、騒いだり、徘徊したりにも「意味がある」として捉え、なぜ騒ぐのか、
なぜ徘徊するのか、その方の歩まれた人生に照らして考えたり、共に行動したりする
というものなのです。
バリデーションは元々、「確認するとか、強くする」の意味に用いられるのですが、
フェイルさんによると、認知症の人の「経験や感情を認め、共感する」意味で
バリデーションという言葉を用いているそうです。
篠崎氏は、バリデーションの意味を Val → Value つまり、価値であると。
「人としての価値は、何も変わらない。」
認知症の方に対しても、自分と同じ人として寄り添うことが何より大切であると
いうことなのです。
これは、言葉にするとあたりまえのことですが、このあたりまえのことが
一番できないのです。
ついつい・・・「認知症だから」という枠をつけて関わってしまうのです。
たとえば 「今日は何日?」 とある認知症の方に聞いたとします。
「えっと・・・3月10日かな?」(実際には、5月21日です。)
あなたは次に何というでしょうか?
「今日はね、5月21日なの。これ見て。(新聞などの日付を見せて)
忘れないように、ここに書いておきましょうね。わからなくなったら、ここを見てね。」
これは、介護者の立場での関わりです。認知症の方の見当識を正そうとしています。
では、バリデーションではどう関わるかというと・・・
「そうなのね。3月10日なのね。3月のはじめだから、春が近づいてきているのかしら?」と
いうように相手の世界にともに寄り添います。
今日、施設でこんなことがありました。
「うちの人はどこへ行ったの?」とAさんはうろうろされていました。
ある職員さんは言いました。
「Aさんのご主人は亡くなったでしょ。だから、お部屋にお位牌があるでしょう?」
Aさんは「・・・そうなの?」とつぶやきながら・・・また、うろうろし始めます。
そして、「うちの人はどこいったの?いろいろ話したいことがあるの。どこへ行ったの?」
そこで、職員さんは、Aさんをお部屋に連れて行き、お位牌を見せながら、
「これ、ご主人のお位牌よ。ね?わかるでしょう?ご主人のお位牌だから、
Aさんのお部屋にあるんでしょう?」
Aさんは・・・ぼんやりそのお位牌を見つけていました。
そして、また・・・30分くらいすると「うちの人はどこにいるか知らない?」と
たずねてきました。
そこで、私はAさんに言いました。
「ご主人を探しているのね?」
「そうなの。どこへ行ったのかしら?」
「ご主人、どこへ行ったのかしらね。Aさんは、ご主人をどこかで見かけたの?」
「ここに来てから、会ってないの。」
「そうか・・・ここへ来てから会っていないのね。何か困っているみたいだけど?」
「年金のこと聞かないといけないの。お金のこと、私はわからないから。」
「そうかぁ。年金のことね。お金のことで、何が心配?」
「暑くなってきたから、この服じゃ嫌なの。新しいのが買いたいの。」
「そうだったのね。ここ数日、お天気いいし、暑くなったからね。新しい服がほしいのね?」
「そう。暑いもの。」
「じゃあ、Aさんのお世話をしてくれる人がいるんだけど、その人に伝えておこうか?」
「そういう人が私にいるの?」
「うん。いるよ。」
「じゃあ、伝えておいてくれる?」
「うん。伝えていくから、服のこと、心配しないで。」
「ありがとう。」
その後、Aさんは、もううろうろすることもなく、居室で休まれていました。
バリデーションの関わりは、私が今まで学んできたコーアクティブコーチングの
関わりと同じくするところがとても多いのです。
認知症の方との関わりの中でも、コーアクティブコーチングの真髄は活きています。
バリデーションについて興味のある方は、「バリデーション―痴呆症の人との超コミュニケーション法(筒井書房)」や日本バリデーション協会サイトを参考にされるといいでしょう。
2006年05月18日
一期一会に尽くす
どうせ汚れちゃうんだから・・・
施設では、麻痺によって、自分ひとりではスプーンを口に上手く運べなかったり、
おかずを手で掴もうとする利用者さんもおられます。
私は、こういう方の食事介助の時、やはり、口の周りや手が食べ物で汚れたら、
きっとべたべたして気持ち悪いだろうなぁ〜と思い、その都度都度ではありませんが、
食事の途中でも、何度か口の周りや、手をおしぼりで拭いてあげています。
ある職員さんが言いました。
「どうせ汚れちゃうから、拭くのは最後だけでもいいんじゃない?」
確かにそうかもしれません。
でも・・・手がべたべたしていたら、余計にスプーンを持つ手が滑って、
食べにくいし・・・
何より、気持ちよくないに違いありません。
また、上手く噛むことができなかったり、飲み込めない方は、
おかずを極刻みにした状態で、食事が用意されます。
主食のごはんは、お粥になります。
食事介助する職員さんは、あたりまえのように、利用者さんに断りもなく、
おかゆに極刻みされたおかずを混ぜ込みます。
たとえ、言葉をしゃべることができなくても、
理解力や判断力が低下していたとしても・・・
食されるのは、利用者さん本人なのです。
「ごはんにおかずを混ぜてもいいですか?」
「どれから召し上がりたいですか?」
たとえ、この言葉が利用者さん本人に理解できなくても・・・
言葉をかけることが、その人を敬うことではないでしょうか?
一期一会とは、「茶道で、客との出会いは一度限りのものであると考え、
心をこめてもてなすようにと教える心得」とあります。
一度だけの掛け替えのない出会いであると思えばこそ、それに相応しい、
衷心からのもてなしをしようとの心遣いが生まれるのでしょう。
そして、私は思うのです。
同じ人と、何百回何千回、あいまみえようとも、あたかも一生に一度の出逢いとして
心をつくすことこそが、真の一期一会であると・・・。
たとえ同じ人と何回会おうとも、会ったその「今」という時は二度と戻りません。
「今 ここにいる瞬間」に心をつくし、お互いに充実して、その時を過ごす。
その積み重ねがお互いを慈しみ、尊びあう関係を築き、自らの心も豊かに
満たされることでしょう。
そして、おそらく・・・いろいろなことに、“感謝”の心が芽生えるでしょう。
私は、いかなる時も 出逢い こうして 今を一緒にいられること に
感謝の心を持っていたい。
施設では、麻痺によって、自分ひとりではスプーンを口に上手く運べなかったり、
おかずを手で掴もうとする利用者さんもおられます。
私は、こういう方の食事介助の時、やはり、口の周りや手が食べ物で汚れたら、
きっとべたべたして気持ち悪いだろうなぁ〜と思い、その都度都度ではありませんが、
食事の途中でも、何度か口の周りや、手をおしぼりで拭いてあげています。
ある職員さんが言いました。
「どうせ汚れちゃうから、拭くのは最後だけでもいいんじゃない?」
確かにそうかもしれません。
でも・・・手がべたべたしていたら、余計にスプーンを持つ手が滑って、
食べにくいし・・・
何より、気持ちよくないに違いありません。
また、上手く噛むことができなかったり、飲み込めない方は、
おかずを極刻みにした状態で、食事が用意されます。
主食のごはんは、お粥になります。
食事介助する職員さんは、あたりまえのように、利用者さんに断りもなく、
おかゆに極刻みされたおかずを混ぜ込みます。
たとえ、言葉をしゃべることができなくても、
理解力や判断力が低下していたとしても・・・
食されるのは、利用者さん本人なのです。
「ごはんにおかずを混ぜてもいいですか?」
「どれから召し上がりたいですか?」
たとえ、この言葉が利用者さん本人に理解できなくても・・・
言葉をかけることが、その人を敬うことではないでしょうか?
一期一会とは、「茶道で、客との出会いは一度限りのものであると考え、
心をこめてもてなすようにと教える心得」とあります。
一度だけの掛け替えのない出会いであると思えばこそ、それに相応しい、
衷心からのもてなしをしようとの心遣いが生まれるのでしょう。
そして、私は思うのです。
同じ人と、何百回何千回、あいまみえようとも、あたかも一生に一度の出逢いとして
心をつくすことこそが、真の一期一会であると・・・。
たとえ同じ人と何回会おうとも、会ったその「今」という時は二度と戻りません。
「今 ここにいる瞬間」に心をつくし、お互いに充実して、その時を過ごす。
その積み重ねがお互いを慈しみ、尊びあう関係を築き、自らの心も豊かに
満たされることでしょう。
そして、おそらく・・・いろいろなことに、“感謝”の心が芽生えるでしょう。
私は、いかなる時も 出逢い こうして 今を一緒にいられること に
感謝の心を持っていたい。
2006年05月12日
ひとりひとりを尊ぶ
ブログのデザインをかえました。
蓮の花は、開く瞬間に「ポン」と音がするのだそうです。
何か・・・命の誕生の強さを感じますね。
花言葉は・・・神聖 遠くへ去った愛
蓮って泥中に咲きながら、その汚泥にそまらず、清らかで美しく香気を放つことから、
清純と美しさの象徴とされています。
なんだか・・・私たち自身が、自分の持ち場で自分らしく生きることを
意味しているように思います。
蓮の伝説 極楽の花「蓮華」
お釈迦様(仏陀)は、生まれるとすぐに立って歩いたといわれています。
生まれたばかりのお釈迦様が歩きはじめると、最初に地面に足を着いたところから
ハスが生まれ、北に向って七歩歩んだその足跡のひとつひとつから、
大輪の蓮の花が咲きました。
そして、お釈迦様は、蓮の花に立ち、「天上天下唯我独尊」と、第一声をあげた・・・
と伝えられています。
「天上天下唯我独尊」
この天と地の間に、自分より尊(とうと)いものはない、ということ。
この「我」というのは、決して釈尊だけのことをおっしゃったものではなく、
人間1人1人のことなのです。
だから、人間だれしも釈尊と同じように、「天上天下、唯我独尊」なのであり、
またそういえるのです。
では、「独尊」とはどういうことかというと、たった1つの尊い使命ということで、
決して自分1人が偉いのだということではありません。
ですから、「天上天下、唯我独尊」ということは、我々人間には、天上天下広しと
いえどもたった1つしかない聖なる使命を果たすべく、この世へ生まれてきたのだと
いうことなのです。
どんな時も、自分を大切にすることと同じように、
あらゆる生きとし生けるものを大切にする
この尊さは自分ひとりだけでなく、すべてのものが尊い・・・
そう思います。
みんなちがっていい そして みんないい!
蓮の花は、開く瞬間に「ポン」と音がするのだそうです。
何か・・・命の誕生の強さを感じますね。
花言葉は・・・神聖 遠くへ去った愛
蓮って泥中に咲きながら、その汚泥にそまらず、清らかで美しく香気を放つことから、
清純と美しさの象徴とされています。
なんだか・・・私たち自身が、自分の持ち場で自分らしく生きることを
意味しているように思います。
蓮の伝説 極楽の花「蓮華」
お釈迦様(仏陀)は、生まれるとすぐに立って歩いたといわれています。
生まれたばかりのお釈迦様が歩きはじめると、最初に地面に足を着いたところから
ハスが生まれ、北に向って七歩歩んだその足跡のひとつひとつから、
大輪の蓮の花が咲きました。
そして、お釈迦様は、蓮の花に立ち、「天上天下唯我独尊」と、第一声をあげた・・・
と伝えられています。
「天上天下唯我独尊」
この天と地の間に、自分より尊(とうと)いものはない、ということ。
この「我」というのは、決して釈尊だけのことをおっしゃったものではなく、
人間1人1人のことなのです。
だから、人間だれしも釈尊と同じように、「天上天下、唯我独尊」なのであり、
またそういえるのです。
では、「独尊」とはどういうことかというと、たった1つの尊い使命ということで、
決して自分1人が偉いのだということではありません。
ですから、「天上天下、唯我独尊」ということは、我々人間には、天上天下広しと
いえどもたった1つしかない聖なる使命を果たすべく、この世へ生まれてきたのだと
いうことなのです。
どんな時も、自分を大切にすることと同じように、
あらゆる生きとし生けるものを大切にする
この尊さは自分ひとりだけでなく、すべてのものが尊い・・・
そう思います。
みんなちがっていい そして みんないい!
2006年05月11日
カリスマホストに学ぶ
先日、大阪のカリスマホストのドキュメンタリー番組を見ていました。
売上NO1のカリスマホストが、新人ホストが売上が伸びず、荒れて同僚と
喧嘩騒ぎを起している場面で言います。
「どないしたんや?」
「原因は何や?」
「おまえはわかってるはずや!」
「オレは、どんなことでもサポートしたる!」
まさに、パワフルコーチング!です。
「どないしたんや?」 と まず、相手の感情や気持ちを聴き
「原因は何や?」 と 相手を詰問することなく、事情を問い出し
「おまえはわかってるはずや!」 と 相手を認知し
「オレは、どんなことでもサポートしたる!」 と 協働関係を築く
とてもシンプルですが、相手にとっては心にぐっときたに違いありません。
コミュニケーションにおいて、承認や認知は力強いものです。
そして、ポイントはこの「おまえはわかってるはずや!」という言葉です。
「おまえはわかってるはずや!」言われた時、あなたは何を考え、思うでしょうか?
すでに、自分の中にいる「わかっている自分」に「何をわかっているのか?」と
問いかけることでしょう。
つまり、その言葉をかけられた瞬間に、自分自身が「わかっている自分」になるのです。
「あなたは気づいていますか?あなたに力があることを・・・」
「わかっているあなただからこそ、できることがあるはずです。」
「もうあなたはすでに〜をはじめているのですね。」
これらの問いかけは、NLPのミルトンモデルにつながるものがあります。
ミルトンモデルとは、曖昧なことを言って普段意識していない「無意識」の部分に
問いかけて、相手にいろいろとイメージさせ、相手が自分の経験にとって適切な
解釈をするような質問をすることです。
相手が持ちえていないと思い込んでいることに対して、その経験や可能性を
間接的に引き出しているのです。
そして、それはすでにその人がその可能性を持っていると信じているからこその
認知でもあるでしょう。
売上NO1のカリスマホストが、新人ホストが売上が伸びず、荒れて同僚と
喧嘩騒ぎを起している場面で言います。
「どないしたんや?」
「原因は何や?」
「おまえはわかってるはずや!」
「オレは、どんなことでもサポートしたる!」
まさに、パワフルコーチング!です。
「どないしたんや?」 と まず、相手の感情や気持ちを聴き
「原因は何や?」 と 相手を詰問することなく、事情を問い出し
「おまえはわかってるはずや!」 と 相手を認知し
「オレは、どんなことでもサポートしたる!」 と 協働関係を築く
とてもシンプルですが、相手にとっては心にぐっときたに違いありません。
コミュニケーションにおいて、承認や認知は力強いものです。
そして、ポイントはこの「おまえはわかってるはずや!」という言葉です。
「おまえはわかってるはずや!」言われた時、あなたは何を考え、思うでしょうか?
すでに、自分の中にいる「わかっている自分」に「何をわかっているのか?」と
問いかけることでしょう。
つまり、その言葉をかけられた瞬間に、自分自身が「わかっている自分」になるのです。
「あなたは気づいていますか?あなたに力があることを・・・」
「わかっているあなただからこそ、できることがあるはずです。」
「もうあなたはすでに〜をはじめているのですね。」
これらの問いかけは、NLPのミルトンモデルにつながるものがあります。
ミルトンモデルとは、曖昧なことを言って普段意識していない「無意識」の部分に
問いかけて、相手にいろいろとイメージさせ、相手が自分の経験にとって適切な
解釈をするような質問をすることです。
相手が持ちえていないと思い込んでいることに対して、その経験や可能性を
間接的に引き出しているのです。
そして、それはすでにその人がその可能性を持っていると信じているからこその
認知でもあるでしょう。
2006年05月10日
思いを綴る
今日、執筆した
日本看護協会出版会 コミュニティケア 2006年5月臨時増刊号
86号(Vol.8,No.6)
「コーチングを活用した 円滑コミュニケーション術」 が発行されました。
私の夢のひとつが叶いました。
応援していただいたみなさま 本当にありがとうございました。
本当に小さな一歩一歩が大切なのだと実感しています。
ホームヘルパーの資格を取得し、ボランティア活動を少しずつ行ったり・・・
日本コーチ協会東海チャプター(Hesso)の体験談小冊子の編集に携わったり・・・
看護師さん向けのセミナーを行ったり・・・
そして、その活動を些細なことではあるのですが、HPで掲載したり・・・
ひとつひとつが積み重なって、この執筆のチャンスを頂きました。
ひとつひとつが直接大きな影響を与えたわけではありません。
今できることを、精一杯、行ったことへのGIFTでした。
完成した増刊号を読み返すと・・・またまたあれもこれも・・・と想いが駆け巡ります。
毎日、自分自身の中に気づき生まれているということなんですね。
私のひとつのステージの集大成として・・・みなさまに想いを
お届けしたい気持ちでいっぱいです。
ご興味を持っていただければ嬉しいです。
この執筆を通して、自分の医療福祉のあり方に対しての思いや考え・・・
そして、より自分らしく生きるということを見つめ深めることができました。
そしてまた・・・人はひとりでは生きてはいけない。
お互いの想いを通して、その人そのものを 真に受けとめあい、慈しみあい、尊びあい
生きていくことこそが・・・かけがえのない満たされた人生と心から思います・・・。
日本看護協会出版会 コミュニティケア 2006年5月臨時増刊号
86号(Vol.8,No.6)
「コーチングを活用した 円滑コミュニケーション術」 が発行されました。
私の夢のひとつが叶いました。
応援していただいたみなさま 本当にありがとうございました。
本当に小さな一歩一歩が大切なのだと実感しています。
ホームヘルパーの資格を取得し、ボランティア活動を少しずつ行ったり・・・
日本コーチ協会東海チャプター(Hesso)の体験談小冊子の編集に携わったり・・・
看護師さん向けのセミナーを行ったり・・・
そして、その活動を些細なことではあるのですが、HPで掲載したり・・・
ひとつひとつが積み重なって、この執筆のチャンスを頂きました。
ひとつひとつが直接大きな影響を与えたわけではありません。
今できることを、精一杯、行ったことへのGIFTでした。
完成した増刊号を読み返すと・・・またまたあれもこれも・・・と想いが駆け巡ります。
毎日、自分自身の中に気づき生まれているということなんですね。
私のひとつのステージの集大成として・・・みなさまに想いを
お届けしたい気持ちでいっぱいです。
ご興味を持っていただければ嬉しいです。
この執筆を通して、自分の医療福祉のあり方に対しての思いや考え・・・
そして、より自分らしく生きるということを見つめ深めることができました。
そしてまた・・・人はひとりでは生きてはいけない。
お互いの想いを通して、その人そのものを 真に受けとめあい、慈しみあい、尊びあい
生きていくことこそが・・・かけがえのない満たされた人生と心から思います・・・。
2006年04月25日
協働関係を築く
今日、9ヶ月間のCTIジャパン資格コースが修了しました。
さらに、資格試験を受験して合格すれば、CPCC(Certified Professional Co-Active Coach) を取得することができます。
ちなみに私の試験受験日は6/7です。
このコースで、私がテーマとしていたことは、協働関係。
協働関係とは、互いがその持てる力を余すところなく発揮し、人生の可能性を極限にまで拡げられるよう、協働的( Co-Active )に働きかけていく関係。
とっても・・・何やら難しく聴こえますね。
一番大切なことは、互いの心を開いて、互いの力を真に信じあうこと。
シンプルだけれど、実際にはなかなかできないことでもあるのです。
自分の心を本当に開くということは・・・多くの恐れを手放すことになります。
まさに、真の自分の心と向き合うことになります。
自分の心と向き合うことを恐れるがゆえに・・・
常識や世間体などに身を任せてしまうことも多いでしょう。
そして・・・それは自分の生き方に妥協するということにもなるのでしょう。
妥協した人生に何があるか?
おそらく・・・やり残したことばかりの人生になるに違いありません。
そして、妥協しないことで、人が持っている力は余るところなく、最大限に発揮することができるのです。
たとえ、多くのものを手放したとしても、妥協することなく、自分の心を開き、
自分の心に偽りなく、真実に生きることができれば、満たされた人生になります。
自分の力を 相手の力を 互いに真に信じてあえる関係。
それは、本人自身よりも相手の真の力や可能性を信じあう関係。
そして、お互いを慈しみ、愛し、尊びあえる関係。
その関係においては、どんな困難にも、必ず、感動 感激 感銘 が訪れます。
この関係は・・・「できない」と思えばできません。それまでです。
そして・・・「できる」と思えば、必ずできます。 信じるか 信じないか だけです。
そんな学びを得た9ヶ月間でした。
私は・・・
人生 航海 だなって思って。 つくづく・・・。
今日、また、ひとつ、碇をおとした港から あたらな海へ出航する気がしています。
さらに、資格試験を受験して合格すれば、CPCC(Certified Professional Co-Active Coach) を取得することができます。
ちなみに私の試験受験日は6/7です。
このコースで、私がテーマとしていたことは、協働関係。
協働関係とは、互いがその持てる力を余すところなく発揮し、人生の可能性を極限にまで拡げられるよう、協働的( Co-Active )に働きかけていく関係。
とっても・・・何やら難しく聴こえますね。
一番大切なことは、互いの心を開いて、互いの力を真に信じあうこと。
シンプルだけれど、実際にはなかなかできないことでもあるのです。
自分の心を本当に開くということは・・・多くの恐れを手放すことになります。
まさに、真の自分の心と向き合うことになります。
自分の心と向き合うことを恐れるがゆえに・・・
常識や世間体などに身を任せてしまうことも多いでしょう。
そして・・・それは自分の生き方に妥協するということにもなるのでしょう。
妥協した人生に何があるか?
おそらく・・・やり残したことばかりの人生になるに違いありません。
そして、妥協しないことで、人が持っている力は余るところなく、最大限に発揮することができるのです。
たとえ、多くのものを手放したとしても、妥協することなく、自分の心を開き、
自分の心に偽りなく、真実に生きることができれば、満たされた人生になります。
自分の力を 相手の力を 互いに真に信じてあえる関係。
それは、本人自身よりも相手の真の力や可能性を信じあう関係。
そして、お互いを慈しみ、愛し、尊びあえる関係。
その関係においては、どんな困難にも、必ず、感動 感激 感銘 が訪れます。
この関係は・・・「できない」と思えばできません。それまでです。
そして・・・「できる」と思えば、必ずできます。 信じるか 信じないか だけです。
そんな学びを得た9ヶ月間でした。
私は・・・
人生 航海 だなって思って。 つくづく・・・。
今日、また、ひとつ、碇をおとした港から あたらな海へ出航する気がしています。
2006年04月17日
成功者よりも成幸者になる
やっと日本看護協会出版会発行の月刊誌「コミュニティケア」の
臨時増刊号の執筆が終わりました。
この臨時増刊号には、愛知県看護協会の訪問看護ステーション「たかつじ」の
看護師さんとケアマネジャーの方には多大なご協力を頂きました。
実際にコーチングを学んでいただき、患者さんにコーチングを行っていただき
いろいろなケース事例をまとめて下さいました。
また、コーチ仲間である まのっち さんにも執筆のご協力を頂きました。
多くの方のご協力のもと、いよいよ5/5に発行される予定です。
できあがったゲラを読んでいると・・・あれもこれも直したいと
いう思いでいっぱいになります。
あ〜・・・これでいいのだろうか?もっとわかりやすくしたい。もっと思いを伝えたい。
数え上げたら・・・きりがありません。
自分自身が、日々、成長しているということなのでしょう。
昨日よりは今日 今日よりは明日・・・自分の思いや考えは変わっていきます。
変化すること・・・人は瞬間瞬間に変化し成長しています。
変化していくことは、悪いことでも良いことでもなく当然のことなのです。
からだの中の細胞が瞬間瞬間に生まれ変わっているのですから・・・。
往々にして・・・人は自分の変化に気づかないのです。
そして・・・自分の成長を見失ってしまっているのです。
悔やんだり、嘆いたり、悩みながらも、人はその中から何かを学び成長しています。
だからこそ、もっとよくなりたいと願い、また、新たに進もうとするのです。
「何も変わっていない」人はいないのです。だた・・・気づいていないだけなのです。
頑張っているから素晴らしい のではなく
素晴らしいから頑張っているあなたがいるのです。
購読しているメルマガに「成功者よりも成幸者になる」という言葉がありました。
功績をあげて目標を達成することももちろん大切なことでしょう。
そして・・・それよりも大切なことは「幸せに成る」ことでしょう。
本当の成幸者になるために・・・何が大切でしょうか?
それは・・・自分らしさを何より大切にして、自分自身の素晴らしさを
満喫することでしょう。
臨時増刊号の執筆が終わりました。
この臨時増刊号には、愛知県看護協会の訪問看護ステーション「たかつじ」の
看護師さんとケアマネジャーの方には多大なご協力を頂きました。
実際にコーチングを学んでいただき、患者さんにコーチングを行っていただき
いろいろなケース事例をまとめて下さいました。
また、コーチ仲間である まのっち さんにも執筆のご協力を頂きました。
多くの方のご協力のもと、いよいよ5/5に発行される予定です。
できあがったゲラを読んでいると・・・あれもこれも直したいと
いう思いでいっぱいになります。
あ〜・・・これでいいのだろうか?もっとわかりやすくしたい。もっと思いを伝えたい。
数え上げたら・・・きりがありません。
自分自身が、日々、成長しているということなのでしょう。
昨日よりは今日 今日よりは明日・・・自分の思いや考えは変わっていきます。
変化すること・・・人は瞬間瞬間に変化し成長しています。
変化していくことは、悪いことでも良いことでもなく当然のことなのです。
からだの中の細胞が瞬間瞬間に生まれ変わっているのですから・・・。
往々にして・・・人は自分の変化に気づかないのです。
そして・・・自分の成長を見失ってしまっているのです。
悔やんだり、嘆いたり、悩みながらも、人はその中から何かを学び成長しています。
だからこそ、もっとよくなりたいと願い、また、新たに進もうとするのです。
「何も変わっていない」人はいないのです。だた・・・気づいていないだけなのです。
頑張っているから素晴らしい のではなく
素晴らしいから頑張っているあなたがいるのです。
購読しているメルマガに「成功者よりも成幸者になる」という言葉がありました。
功績をあげて目標を達成することももちろん大切なことでしょう。
そして・・・それよりも大切なことは「幸せに成る」ことでしょう。
本当の成幸者になるために・・・何が大切でしょうか?
それは・・・自分らしさを何より大切にして、自分自身の素晴らしさを
満喫することでしょう。
2006年04月16日
風をおくる
桜の花びらが春風に舞い散ります。
花びらは・・・まるで舞い散る瞬間を知っているかのように・・・
その瞬間を待っています。
どんなに強く春風が吹いても・・・しっかり花びらを開いています。
そして・・・ふっとした瞬間に、自ら潔く舞い散ります。
風に吹かされるのではなく、自らの意志を持っているかのように・・・。
一番 自分が美しく舞い散る瞬間を知っているのですね。
それは、旅立ちにも似ているように感じました。
今いるところから、もっと自由に舞うことができる空間へと・・・。
そして、舞い散った花びらは・・・地面が桜色染まるように降り積もります。
舞い降りた花びらは、降り積もって・・・少し息苦しそうでした。
桜色のじゅうたんのような地面を、優しく撫でていると・・・
今度は、風を吹き込まれたように、花びらは息づいて舞い上がります。
舞い散る花びらと 舞い上がる花びら・・・風の中でともに戯れていました。
これは・・コーチとしての関わり方にも通じるものがあると感じました。
クライアントさんが、今いる場所から、もっと自由なところへ舞い立ちます。
時には、自由に舞い踊ることでしょう。
そして、時には舞い落ちて、埋もれてしまっている時もあるでしょう。
そんな時・・・コーチは、ほんの少しの風をおくります。
そして、クライアントさんは、また、舞い上がっていくのです。
舞い踊ったり 舞い散ったり 舞い降りたり・・・
いつもそばにいて風をおくるコーチでありたいと思います。
花びらは・・・まるで舞い散る瞬間を知っているかのように・・・
その瞬間を待っています。
どんなに強く春風が吹いても・・・しっかり花びらを開いています。
そして・・・ふっとした瞬間に、自ら潔く舞い散ります。
風に吹かされるのではなく、自らの意志を持っているかのように・・・。
一番 自分が美しく舞い散る瞬間を知っているのですね。
それは、旅立ちにも似ているように感じました。
今いるところから、もっと自由に舞うことができる空間へと・・・。
そして、舞い散った花びらは・・・地面が桜色染まるように降り積もります。
舞い降りた花びらは、降り積もって・・・少し息苦しそうでした。
桜色のじゅうたんのような地面を、優しく撫でていると・・・
今度は、風を吹き込まれたように、花びらは息づいて舞い上がります。
舞い散る花びらと 舞い上がる花びら・・・風の中でともに戯れていました。
これは・・コーチとしての関わり方にも通じるものがあると感じました。
クライアントさんが、今いる場所から、もっと自由なところへ舞い立ちます。
時には、自由に舞い踊ることでしょう。
そして、時には舞い落ちて、埋もれてしまっている時もあるでしょう。
そんな時・・・コーチは、ほんの少しの風をおくります。
そして、クライアントさんは、また、舞い上がっていくのです。
舞い踊ったり 舞い散ったり 舞い降りたり・・・
いつもそばにいて風をおくるコーチでありたいと思います。
2006年03月20日
何をどう見ているかを整理する
人がある視点に縛り付けられ、エネルギーが高まらない時というのは
いろいろな場合がありますね。
たとえば、世の中の常識や通念、自己の経験からの思い込みに縛られ、
自ら行動に枠をつけている時
環境や周りの人などの外部のせいにいて、自分自身を振り返ることができない時
自分の可能性を見出すことができず、自分自身にダメだしをしている時
おかれている状況に振り回されて、自分自身さえも見失っている時など・・・。
そして、怒りや苛立ち、嘆き、苦悩に苛まれ、何かに翻弄され、エネルギーを
吸い取られ小さくなってしまっているのです。
そしてまた、どの場合も、その感情をもたらす視点を自分自身が選んでいることに、
自分自身が気づいていないことなのです。
まず、大切なのは、その視点を選んでいるのは自分自身であるということに
気づいてもらうこと。
そして、今感じている感情は、「何をどう見ているからなのか?」という視点に
気づいてもらうことです。
ひとつの視点にとらわれていると、選択の余地がなく、自分自身が選択していることに
すら、気づかないのですが、その他の視点があることに気づくことで、
その視点を選んでいるのが、自分自身であることに気づくことができるのです。
そして、ひとつひとつの視点を整理しながら、自分のエネルギーが最も高まる視点を
自分自身が選択することで、気持ちが軽やかになり、自然に行動へのエネルギーが
高まっていくのでしょう。
まるで、自分で自分の呪縛を解く瞬間のように、息ついてくる視点が必ずあるのです。
続きを読む
いろいろな場合がありますね。
たとえば、世の中の常識や通念、自己の経験からの思い込みに縛られ、
自ら行動に枠をつけている時
環境や周りの人などの外部のせいにいて、自分自身を振り返ることができない時
自分の可能性を見出すことができず、自分自身にダメだしをしている時
おかれている状況に振り回されて、自分自身さえも見失っている時など・・・。
そして、怒りや苛立ち、嘆き、苦悩に苛まれ、何かに翻弄され、エネルギーを
吸い取られ小さくなってしまっているのです。
そしてまた、どの場合も、その感情をもたらす視点を自分自身が選んでいることに、
自分自身が気づいていないことなのです。
まず、大切なのは、その視点を選んでいるのは自分自身であるということに
気づいてもらうこと。
そして、今感じている感情は、「何をどう見ているからなのか?」という視点に
気づいてもらうことです。
ひとつの視点にとらわれていると、選択の余地がなく、自分自身が選択していることに
すら、気づかないのですが、その他の視点があることに気づくことで、
その視点を選んでいるのが、自分自身であることに気づくことができるのです。
そして、ひとつひとつの視点を整理しながら、自分のエネルギーが最も高まる視点を
自分自身が選択することで、気持ちが軽やかになり、自然に行動へのエネルギーが
高まっていくのでしょう。
まるで、自分で自分の呪縛を解く瞬間のように、息ついてくる視点が必ずあるのです。
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2006年03月18日
自分が嫌なことは相手にしない
当たり前のことなのに・・・ついついやってしまうのです。
自分だったら嫌なことを、自分のことでいっぱいになっていると、
相手のことを考える余裕がなくなってしまうのです。
相手の立場になるということ 大切ですね。
先週は、施設で早番(7:00〜16:00)業務に就きました。
午前中は、やらなければいけないことが山ほどあります。
朝食の準備、食事の前の排泄介助、食事介助、食後の口腔ケア、食事の後片付け・・・
食事は通常の食事ができる方もあれば、流動食を経管によって摂取される方もおられます。
そして、バイタルチェック、入浴の準備、入浴介助・・・お部屋の掃除・・・
その間にも、排泄チェックや介助、オムツ交換を2時間おきくらいにします。
6:30に職場について、息をつけたのが・・・12:00前です。
介護士は、それぞれに役割分担して、黙々と仕事をやり続けます。
話す時間などほとんどありません。
お互いに気づいたことを指示や依頼しながら、利用者さんの動きに目を配ります。
休憩もバラバラなので、スタッフの方と、どこでどうコミュニケーションを
とったらいいのか?というくらいの多忙さです。
続きを読む
自分だったら嫌なことを、自分のことでいっぱいになっていると、
相手のことを考える余裕がなくなってしまうのです。
相手の立場になるということ 大切ですね。
先週は、施設で早番(7:00〜16:00)業務に就きました。
午前中は、やらなければいけないことが山ほどあります。
朝食の準備、食事の前の排泄介助、食事介助、食後の口腔ケア、食事の後片付け・・・
食事は通常の食事ができる方もあれば、流動食を経管によって摂取される方もおられます。
そして、バイタルチェック、入浴の準備、入浴介助・・・お部屋の掃除・・・
その間にも、排泄チェックや介助、オムツ交換を2時間おきくらいにします。
6:30に職場について、息をつけたのが・・・12:00前です。
介護士は、それぞれに役割分担して、黙々と仕事をやり続けます。
話す時間などほとんどありません。
お互いに気づいたことを指示や依頼しながら、利用者さんの動きに目を配ります。
休憩もバラバラなので、スタッフの方と、どこでどうコミュニケーションを
とったらいいのか?というくらいの多忙さです。
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