老い先不明

介護施設への訴訟が増えて来ている、それは筋違いだろう、という論文が日本医事新報の7月8日号に載ってます(No.4863,p18-19)。在宅医療で最近伸して来ている長尾和宏さんの文です。もちろんそんなはっきりと間違いと断じているのではありません。「訴訟自体が介護施設には大きなストレスになる。介護訴訟の増加が医療に及ぼす負の影響はあまりにも大きい」とまとめています。内容はこれだけで推し測れるというものですが、まさにその通りです。介護保険施設に入所している者が誤嚥性肺炎起こして、抗生剤投与などの治療を受けたが死亡した61歳男、適切な病院に転院させなかったと訴訟起こされて敗訴、1870万円の賠償となった例を挙げてます。文中さらりと症例提示してますが、結構詳しく書いてあって、鹿児島沖永良部のいわゆる老健施設に入所していた夫の死亡を尼崎に住んでいる妻が民事訴訟起こしたんだそうです。こういう背景にも筆者は憤っているわけです、よくわかります。沖永良部なんて離れ鄙地に夫を入れておいて自分は尼崎?で、文句だけ言う?です。こういうのは医療現場ではよく経験すること、よくあちこちで事例としてお聞きになることでもありましょう。例えば老いた親がボケて(脳梗塞起こして)施設に入所した、世話するのは長男とその妻。肺炎起こして重篤になって、めったに見舞いにも来ない遠くに嫁いでいる姉なり妹なりがやって来て、どうしてこうなった?どうしてもっと濃厚な治療しない?騒ぐ。こんな時の長男はみな甚六です。妻が矢面に立つ。うちの嫁が悪い、となる。もう延命処置はしないでおきましょうと長男夫婦とは話していても、遠くの長女が引っかき回す。ダラダラと延命治療が続いてしまう。そうでなければこのような訴訟騒ぎになってしまう。介護施設って何?という「そもそも論」に立ち戻ります。家で看られないから預かってもらう。こういう施設の筈です。が、モンスターなんとかであろうがなかろうが、金出すんだからこっちの言うこと聞け!と段々横着になって来る。確かに高いんですよ、ひと月15万は下りません、簡単に出せぬ家庭も多かりましょう。ということは出せる所は横着になって行くのも仕方ないのかなと思いますが、私はこちら(提供側)の人間ですからそういうバイアスがかかっているのでしょうが、いやいやあなた方がイチャモンつけるほどに施設に勤めてる人間は悪者じゃないですよ。もちろん睡眠薬混ぜ飲ませたり、赤ん坊に食塩飲ませたり、殴る蹴る奴はいますよ、いますけれどそれは全くの特殊例。都会がどうかは知らぬのですが、田舎に行けば行くほどこういう施設のスタッフは優しいですよ、仕事に忠実ですよ。病気になるのは本人の運命です。しかも誤嚥性肺炎となると、認知症の末に、脳梗塞で寝たきりになった末に必然と起こって来ることです、しかも何度も繰り返すとなるともはや治療の対象でもなくなります。死ぬべき時なのです。が、確かにそれは我々医療側介護側の理屈ではありましょう。こんなこといきなり言われて、はいそうですかともなり難いでしょう。だから前もってしっかり話しておかねばならぬのです、言うところの信頼感の構築です。言葉にすれば簡単ですがこれが易くありません。特に長男さんが甚六であられる場合はバッサリです。だから今時は大きな病院に行けば次から次に書類に判を押さされるわけです。厄介なのは遠くにいる親戚なのです。特に遠くに嫁いだ姉妹。日頃は見舞いにも来ず金も出さぬ姉妹。いざ死ぬとなると臭いをかぎつけた何やらよろしくあれこれ口を出す、遺産問題もぶら下がりますから。これが日本中あちこちで繰り広げられるドラマですが、今回記事になったような、後は死ぬだけ(そう認めているからこういう施設に入れているのですからね)の人に治療が足りないとイチャモンつけてねじ込む。しかも自分ははるか遠くに悠々と(かどうか知りませんが)暮らしている。大事な夫の命を・・なんて言うても白々しいだけです。ま、ここはこちらの推測です、そんな所まで書いてありませんから。こんな訴訟に有罪判決を出す方も出す方なのですが、こればかりは素人の裁判官の考えることです、弁護士が下手くそだったのでしょう。となると訴訟沙汰になった、そのプロセスが下手だったということになります。訴えた妻が余程その筋の者で、後ろに腕利きの人権弁護士でも医療訴訟専門の弁護士でもついたか、そういう環境も考慮せねばならぬのですが、普通は訴訟沙汰になるまでには結構常識に外れる交渉経過があるもんです。余程ひどい介護だったのか、説明がぞんざいだったのか、患者本人をそっちのけで例えば施設長と妻との人格攻撃合戦になっちゃったとか、一概に妻側のイクセントリックさだけが咎めの対象にはならぬとは思いますが、訴訟になるのはまだ今の日本では普通ではないのです、どちらかが異常なのです。アメリカと違いますから権利云々だけで訴えはしない筈です。介護施設に頼んだのなら後は死ぬだけだとの覚悟が必要だということです。筆者はそう言うているのです(そうは書いてませんが)。全くそこは同意見です。そんなに言うなら自分の家で看ろよ。あなたの代わりに看てあげてるんでしょう?あなたに金で使われてるんじゃないのです、介護のスタッフは。何だかマルクスの労働論のようになっていきますが、金出してる者がオールマイティーだとの傲慢が、そういう価値観道徳観念になってることが責められるべきことなのではありましょう。違いますよね。そう思われるでしょう?

総論賛成

中国新聞に女論説委員が相模原の障害者惨殺事件から一年ということで書いてます(7/13)。当初神奈川県は同じ場所に大きな施設を建て替える構想だったが、障害者団体から、街の中心から離れた場所に施設を作り、障害者を隔離するのは時代錯誤ではないかと異論が出たそうです。住み慣れた身近な地域に小規模のグループホームなどを増やすはずではなかったのかと。筆者はこれぞ正論と思ってた所、入所者の家族から猛反発があるのを知って「自分の考えの甘さを思い知」ったのだそうです。地域で暮らすのが難しいからやまゆり園(当該施設)に辿りついたという事実です。自宅周辺に施設やグループホームをつくろうとすれば、きっと反対運動が起きるだろうとの推測。あの事件が社会の中に潜む差別や分断を照らし出したようにも思える、のだそうです。犯人の偏向した考え、それに同調する者の存在、かたやで今まで「社会が犯した冷たい仕打ち」。内容はこうやって二つの立場を並べ書いて、犯人(犯罪)を咎め(犯人を「決して許すことはできない」、「あの被告の言うような、障害のある人のいない、そんな地域にしていいのだろうか」)、そして神奈川県は「家族の声を聞いたうえでなお、地域での暮らしを諦めない形を模索している」と両論併記の玉虫結論です。こういうのが正しい論説なんでしょうねぇと感心するのですが、人の世の中です、こんなことでしょうにとも思います。障害者を隔離するのは時代遅れ。ですか?精神科医療のトレンドはリエゾンとか何とか呼んで長期入院者を自宅に地域に戻す対応を強いる方向ですが、そうはうまく行きません。総論賛成各論反対が人の常なのです。幼稚園や学校にねじ込む輩が多くなってるご時世です、況やこの手の施設おや。障がい者と表記して、差別疎外を非難しつつ賛同せぬ者を排除する手法。害の字を忌んだところで何も始まらぬところ、嫌う者こそが拘っているだけで差別者と一方的に咎められる側が??とつんぼ桟敷が真相。健常者障害者の区別が気に入らぬなら他の表現すればいいことであるけれども、観念上のごまかしで実相は変わらない。実相とは何か。差別排除と殊更に言挙げすることへの拒絶感です。あの事件の後、あれこれ方向違いの主張が繰り広げられましたね。あくまで普通の考えでない者の個人的犯罪であるのに、まるで世間全体が悪者のような採り上げ方でした。障害者が生きていてはならぬのか、あなたは障害者を差別排除していないか?!そんなこと全然思ってませんから。車椅子押しますよ。席譲りますよ。そのために優遇救済公的保障があれこれありますよ。可哀想だと思うな、同情するな。それは無理です。憐憫の情からあれこれの思い遣りが生まれるのですから。やってやってる、世話してやってる、そういう上から目線、施し態度ががいけない。でしょうね、たぶん。でもそこはきっと個人差です。日本の子供たちへの教育はそこのところはきちんとされている筈ですから神経質なほどに。きちんと認識しなければ改善もされない、そういう考え方であればこその権利の要請なのでしょうが、そのつもりもなく普通に暮らしている者には覚えのないことを咎められる気分でいるわけです。いえ、こう言うと、そうと気づかぬうちに差別しているのが根が深いのだとかの反論があるのでしょうが、それこそ内心の自由とかに関わりませぬか。平凡な概論で恥ずかしい気もしますが、日本人には自由に生きる権利があります、そして他人に干渉しない(されない)自由もあります。Aとの意見があれば少なくとも not A の反論があります。どちらも理解するが、とやってしまうと袋小路です。ポリコレ棒を振り回してよしとする向きには肯ぜませんが、結局私も記事のように両論併記だというおそまつでした。

心のケア考

7月7日の毎日新聞に「DV家庭 子供たちの心に深い傷」という女性記者の記名記事(意見)が載ってます。この表題だけでどういう内容か窺い知れるというものですが、今皆様の心に浮かんだものとおそらく大きく外れません。DVを目の前で見ている子たちへの影響、それへの支援を訴えるものです。正論です。誰にも否定できない正論ぶってます。民間シェルター(があるそうです)を整備して避難させればいいのではない、心の傷をいやさねばならぬという方向です。誰でも考えることですね、誰も反対しない、でも実行する者がいない。総論賛成、各論辞退です。書いてる女記者も同じです。ポイントは避難場所と心のケアのようです。虐待は連鎖すると言いますね。そんなごまかしたような抽象論ではいけません、子を虐待する者は自分の親にやられてきた者ということです。その親はまたその親に殴られ蹴られてきた。先に親子間の性的虐待(ほとんどが父娘関係ですが)に対する法的改正がなされましたね、被害者の勇気ある告発が国会を動かしたのでしたが、これも同じ連鎖でしょう。我が娘に手を出すような鬼畜(犬畜生もしないことですが)行為は遺伝子が発動するしかないんじゃないですか(いえ、これは私見ですのであしからず)。つまりそれはいけない行為だと思わない。制止が利かぬ。常識や社会規範の欠如とか人格異常、発達障害とかあれこれ外見には名札が掛けられてましょうが、親がそうだったから俺も、なのでしょう。恥ずかしながら私にも似た経験があるので、こういう真っ正論をシレっと言われると噛みつきたくなってます。私の両親はDVではなかった(DVの定義知りませんのであるいは当てはまるのかもしれませんが)のですがまぁ私達兄妹の前で大喧嘩する人達でした。叩き合うんですね。それを見てる。当初は私も止めに入ってましたが、中学生なると勝手にせぇという気になっていくんですね、この辺りの変化もよく覚えてます。が、まだ妹はそうはいかないから泣きながら止めに入る。しかしそんなことで喧嘩止める人達ではなく、あれを聞いてるのは辛かったですね。でもこちらも成長しますから、つまり何が原因でどちらがどうでこうなってるというのがわかってきますから、無闇に止めに入らなくなり、こっちも対応が変わります。でも嫌ですよ、あの気持ちもよく覚えてます。ああ、また始まるぞという感じ、果たして罵声が、ものを投げる音が、互いに叩く音が聞こえるのです、そして母親の泣く声。私が社会人になってからもやってました。それこそ延々何十年も晒されていたのでしたが、いえ、私の経験なぞは取るに足らぬことなのではありましょう。でもこういう話題になるとすぐに心のケアとかPTSDとかに逃げ込む説が多すぎます。心の傷という表現です。二言目には傷ついた、傷つけた、傷つけられたです。心の傷は見えないから殆どおもちゃにされてますね。そう思われませんか。悲しい目に遭う、友人が死ぬ、大怪我する、暴行を受ける等々尋常ならざる場面に遭遇した時に人は相当に反応するんです。ショックの受け方は個人差がありましょうが、人の心は悲しみ、怒り、落胆、不安のままではいられないのです。やがて必ず元の戻る、真ん中に戻る、普通に戻る。そういう本来の回復力をわざと無視して、心のケアが必要だとかPTSDなんて名札かけて事を大仰化する病人に仕立てる傾向です。違うだろう?と思うのです。いえ、保護の必要な例はきっとある筈です、親から虐待を受けてる幼児は引き離すしかないです、助けてやらねばなりません。でも、でも、その子にはいくら殴り蹴られても母親なのです、父親なのです。ここがなんともせつないのです。記事にもありますが子供は親を選べないのです。とうとう殺される子も多いですね、そんな子に掛けてやれる言葉って、次は別の優しい親の元に生まれておいでね、でしょう?せつない、やるせないことです。DVを直接受けてる子はとにかく守ってやらねばなりますまい。大きくなってきたらお前の親は間違ってた、お前はそうなっちゃいけないと教えてやらねばなりません。でも、親のDVを見ていただけの子は、私も近いことでしたから言えますが、心のケアなんぞは要りますまい。これこそ反面教師だからです。こんなことしちゃならぬ。私はそう思ってましたし、そう思う人が多いのではないのでしょうか。でも私にも親と同じようなことやってると気付くことが今までありました、叩かれて育った子は人を叩くと何かで知った時でした。ああ、と天を仰いだこと覚えてます。親みたいにはならぬぞと思ってた頃でしたから余計にその落差は大きかったです。心の傷ってきっと空想モノなんです。傷ついたと言えば相手への強力な非難になる。安直に過ぎますね。ですぐに心のケアと続いてくる。これも安易。人の心ってもっともっと強いですよ。自然な修復力を過小評価してます。人の心はその環境に慣れて対応していくもんです。それが成長です。手を加えるばかりが対処ではないのです。そう思います。

livedoor プロフィール

昭和32年 1月6日生まれ
昭和50年 山口県立柳井高校卒業
昭和58年 大阪医科大学卒業
昭和60年 梶川脳神経外科病院 勤務
平成04年 6月1日開業 現在に至る

・医学博士
・日本脳神経外科学会認定専門医 No,2746
・柳井医師会副会長

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