終活事情

尊厳死,安楽死。そこに繋がる終活、リビングウイル、エンディングノート。DNRというのもあります、蘇生処置拒否 do not resuscitation。自分の最期に係る意志表示です(will 意志です)。終活の内容を書いたものがエンディングノート、その中に延命治療は無用とか希望を書くわけです、その内容の一つがDNR。尊厳死と安楽死とは定義が違いますが、どちらも日本では認められていないですから詳しい区別は意味が薄いです。自殺や自殺幇助はいけない(刑事罰)ですが、余命幾許もない時点で自ら死を選ぶことは許されていいだろう、積極的か消極的かの差はあるけれど。積極的なのは、無理矢理に呼吸をできなくしたり心臓を止めたりするものではなくて(ドラマでよく見る青酸カリとかヒ素とかの服用や、人工呼吸器、いわゆる生命維持装置を外す)、鎮静剤を多量に投与して深く眠らせてそのまま逝かせる。前者は殺人罪に問われます。消極的には言葉乱暴に言えば餓死脱水死させる。口から食べられなくなったらそれ以上何もしない、水分も栄養分も与えない。干からびるのを待つ。食べられなくなったら点滴などの補給は却って体に負担になる(事実、過ぎると顔も手足も腫れます)、無理やりに胃管で栄養したり点滴するより何もしない方が本人は楽なのだと説得する向きもありますが、私もそういうケースの場合にそう説明することがありますが、本当かどうかは分かりません。多くはそのまま亡くなられますから問いただすこともできません、ましてや私に経験があることでもありませんから。真偽は措いても、誰も経験できぬことですからそうかもしれぬと思わせることはできます。私は徒らな延命治療、マニュアル化した大病院の終末期治療に与せぬ者です、望まれるような終末を心がけています。が、本人の具体的な意思表示(文書や書きつけ等)を見たことはありません。示されたこともありません。家族から本人がこうこう言ってたという伝言を聞くばかりです。終末治療に対する本人の意向を聞く方が珍しいです、聞くにしても「こんなこと言うてましたがねぇ」という昔話としての事が多いです。現実に家族から「もうこれ以上は・・」と具体的に言われることは少ないです。もっともこちらから水を向けることはあります、高齢者の場合です。どこの病院でも五十歩百歩だと思いますが、病院によっては入院時に延命治療の可否を確認するところも多いやに聞きます。その書面の効力がどこまであるのかわかりませんが、いざとなったら家族の意見は割れます。入院している場合と自宅で臥せっている場合とでは違いましょうが、どうしますか(延命治療しますか)の質問に応えるのは本人じゃないのです、家族です。医者とすれば家族の反対を本人の書面で押し切ることは困難です、というかそんなことはまずしません。トラブルの元ですからね。そして往々にしてこんな時に声が大きいのは、普段は知らん顔していて初めて駆け付けた者、遠くに嫁している長女(象徴化して揶揄して、東京の娘とよく喩えます)です。ずっと看てきた家族と医者との間に話はついているのに混ぜくる。どうしてこんなになった?もっと治療しろ!自宅で看ている場合はもっとヒステリックです、どうしてこんなになるまで放っておいた?すぐに大きな病院へ連れて行け!単なる自己満足、自己陶酔ですがね。こっちの家族が抑えられればいのですが、えてして東京の娘の正論は強い。言う通りにして運びこむと病院の若い医者がマニュアルに沿って延命処置してくれますから死ねずに生きながらえる、あれこれチューブ付けられてやがて別の施設へ追い出される。当の本人は早々に帰っていく、自分が看るのでも何でもない。極々普通にどこででも繰り広げられている光景です現場です。だからリビングウィルだエンディングノートだ、自分の言葉で残しておけとなります。遺産相続に関する遺言のようなものですが、あちらは死んでからの話。こちらは生きている間の話です、生かすか殺すかの選択のイメージです、そんな書きもの示されても「生きててほしい」という正論が勝つでしょう?本人は死にかけてます、三途の川を渡りかけてます、意思表示などできません。だからこそ、間に入れる医療関係者の力は大きいと私は信じて、あれこれ働きかけます。誤解を生む表現ではありますが、死ぬべき時には死ぬがよかろうという誰かの言葉を念じてます。但し、あくまで高齢者の場合だけです。私の経験からいえば、本人さんの意思表示があれば当然に強くその意向に沿うことができます。その意を汲む家族がおられればより強く押せます。東京の娘にも対抗できましょう。ここですね。生きているうちの身辺整理は本人しかできません。が、死ぬの生きるのの今わの際に本人は意志表示できません。そう心得ておられますか?もっとも、自分の意向が通じない所でどうしろと言うんだ?という話ではあります。自分の思うように死ねません。死ぬまでは生きるしかないです。生きるとは切ないことであります。せめてもの意志表示を残しましょうか。

パワハラの構図

世の中パワハラ話題で持ちきりです。と言うか、出るわ出るわの態。その気で捜せばここにもあそこにも、です。清く正しく美しい筈のスポーツ界でどんどん見つかりますから(いきなり記者会見ですからね、今時の選手は)マスコミは嬉しいわけです。ワイドショーは正義の味方でいればいいのです、言いたい放題、向こうは反論できませんから。反論しようものなら・・です。日大然り、塚原夫妻然り。返す刀で叩っ切られます。選手は弱者、監督指導者協会幹部は悪者。こう分けて叩けばいいんですから楽です。責められる方は黙ってるしかありません。初動を誤ると(ウソだ、でっちあげだの発言)一気に寄られます。弱者強者の世界そのままです。弱い立場の選手を苛める上司。でも、上司達に言わせれば、どうしていけないんだ?に違いないです。自分達がそうやってきたんです、そうやられてきたと言うか。で、内田さんや山根さんは措いても、塚原さんや日大のチアリーディング、日体大の駅伝監督、マラソンの瀬古さんなどは自分のキャリアがあるんですね。有無を言わせぬ実績がある。塚原さんはまさに「世界の塚原」だった人です、金メダルを何個も獲って、ムーンサルトの創始者です。こんな人の言う事を聞かぬわけにいかないでしょうペーペーの選手が。そういうのは正当な秩序です。名選手必ずしも名伯楽ならずとはよく言います、選手としての能力と指導や統制能力は別モノですから。でも個人の輝かしいキャリアに対してはまずリスペクトすべきですし、頭を垂れるべきです。それが秩序です、順番です。もちろんそこにはその個人の資質性格人格が関わります、当然です。ですからマスコミは勢い人格や素行非難に向かいます、週刊誌の如く。指導者としての実績はこの際無視です。塚原妻も弱い時代の女子体操を支えた人ですが、あの体躯面構え表情を指して女帝などと呼んで格好の餌食です。玉木某、元柔道のメダリストの女が、マイクの前で一も二もなく暴力追放を唱えます、問答無用の態です。それもどうかなと思いながら聞いてます、ポリコレ棒のブン回しですから。そして二言目には選手(アスリート)ファーストと来る。小池百合子の都民ファーストのもじりです。でも考えるに、どうしてそんなに選手に気を遣わにゃならぬ?です。師匠を越える選手になるならなればいい、けれど当初は当然ながら歴然たる力量差があるわけです。理不尽な指導云々は答え(実績)が出てからの話です、あのコーチに潰されたとモノにならなかった奴が言うたところで・・です。だから今次の20歳の体操選手の告発が効く。五輪選手ですから。でもあの騒動も結局スポーツという業界の構造を教えてくれる事例でした。虎の穴に行かなければ強くなれないのです。そこに引っ張られるために頑張る。甲子園に出る事がプロへの第一歩であるように、朝日生命クラブがそうだったのですね。そういう所へは金も集まるから設備が整う、そうじゃない所は何も揃わない、貧乏くささと悲壮感に溢れた熱意と根性だけ。そういう構図です。だから怨念も湧く、引き抜かれた日には怒りが湧く、これも当然です。が、選手がそこで尚一層に強くなって行けば、ですが、潰れたりもする。手塩にかけた選手ですが、向こうにすればモノにならなかった一人に過ぎず。そうです、つまり選手がモノになるかならぬかにかかっているのです。で、名門の指導者にはその競争に勝った、輝く実績に飾られた大物がいるわけです。言われるままでしょう普通。そして人は皆自分がやってきたことしか他人に教えられぬのです。自分はこうだったからこうやれ、しかできぬのです。キャリアの輝く人ほどにそうでしょう。長島が一番の好例と思いますよ。よく芸能人がギャグにしてますけれど、その昔日曜朝に御幸(みゆき)野球教室という番組があってよく見てましたが、名物アナの越智さんが王や長島らのスター選手にインタビューするんです、長島に打撃のコツを聞いた時に彼は、素振りを何度かくれて「こうやって腰をブンと回して、右手をバーンと払うんです」と。何?原も同じようなこと言うてたのを覚えてます。自分にしかわからない事、自分はこうだったけれどそれは他人には通用するどころか伝わらないことが多い筈です、一身専属の極意。それが一流選手ということで。イチローもそうでしょうきっと。よくぞ松井が育ったものと奇跡を感じるほどですが。一方自らの実績のない人が指導者になって成功する例も多いことですが、名選手だった人の前ではやはり縮むものでしょう。東大出京大出に構えるように、ノーベル賞受賞者や直木賞芥川賞受賞者に勝手に人格者と思いこんで構えるように、日本人の一般的な性質「肩書への忖度」に加えてスポーツは力量の差が歴然です、努力云々で埋まるものではない基礎値初期値の差は同じ競技やってると嫌でもわかります。同じ動きができないんですから。仮に理不尽があったにしてもこんなもんかなぁと思いましょうし、それが名選手から指導者に横滑りした人の強みですね。指導者側の傲慢ももちろんあるわけです(お前誰に文句言うてるんだ?)が、指導される側もその人に稽古つけてもらいに行ってるわけです、選抜されたという優越感に背を押されて虎の穴に自ら進んでいるわけです。マスコミが作り上げてるように、選手達が純粋無垢なはずもないし、そういう所をくぐり勝ってきた横滑り指導者達に見抜かれぬ筈もないことだし、所詮は同業者同士の憎悪劇のようなものです。中高校の運動部の先輩後輩の序が連綿と引きつがれるのです。体育会嫌いの者達の非難する体育会気質です。でも仕方ないのですよ、そういう皆様。体育会(運動部)のよさはまさにここなんですから。一歳違えば天と地の差、その年齢差と能力差の微妙なバランス、この秩序。悪くないんですよ実は。内田山根式ののさばり方は非難されるべきでしたが、その他はどうでしょうねぇ。問答無用の暴力否定論者の説にも首をかしげることです。

医学部入試男女格差

東京医大の裏口入学調べていたら思わぬ駒が飛び出して。入学試験に下駄履かせならぬ女子一律に減点してた事がわかってこっちに喰いつかれて。男女差別だ、人権侵害だのと非難の色はいつもの通りですが、東京医大の釈明がまた火に油で、女医は妊娠出産子育てで戦力にならぬからなんて言うて。いやいや、今更今時そんなこと言うか?のアナクロ。女が戦力にならぬなんて口に出しちゃあなりませんよポリコレ棒全盛時代に。そっちではなくて、大学の言い分を少し考えます。まず医学部の男女比。私の学生時代(40年前ですからとうに昔話ですが)は一学年100人うち10人前後が女です、一割。でも、息子の時代(10年前)はそれが三割四割に増えてます。今はもう五割の半々なんじゃないですか(調べてません、推測です)。そしてこれはいつの時代でもでしょうが女子学生の方がうんと成績はいい。テスト前にノート借りて云々、医学部に限らぬことでしょうが。ですから医者の世界は男社会です、女が外科に行くのは何年に一人くらいの割で、手術して当直してヘロヘロになる科にはもともと女はいなくて、戦力になるとかそうじゃないとかの選択が元々ない。私は脳外科でしたが、大学では5年上に一人、2年下に一人、モノ好きな女医がいました。上は役に立たぬで有名、下のは結構男に混じって対等にやってたようです。同学年や以後の職場に同僚の女医ってのがいなかったので実感が全くないことなのですが、今時の学生や若い医者達がどうかは知りませんが、少なくとも私の世代の男どもは一応は夜討ち朝駆けやハードワークは男が引き受けるという暗黙の了解と言うか常識事と言うかそういう共通理解があったように思います。いや、相手が妙に女であることを理由にしてあれこれ逃げたりすればこんな建前は通らなくなりましょうし、何より相手の性格ですわね。夜勤や具体的な(肉体的な)ハードワークは男がやりましょう、すみませんお願いしますね、で済んでた事ですが、男女共同参画で象徴される平等公平至上主義で男も女もないとなってしまって、夜の酔っぱらいの応対も小さな若い女医がやってる。こんな所にまで(それは働き方改革とやらにも言えることなのですが、ここではそれも措いて)「平等」なんて言わずともいいのです。夜は男が働きゃいいんでしょうに。力仕事や危険な仕事も。そういう前提で読んでもらいたい事ですが、その入学者選抜時の男女差別を調べると文科省がやって全国の医学部医大に尋ねたんでしょう。裏口入学はどうだったのかデータは出てません(そんなこと、どこも出しはしませんから)が、女子受験生の「下駄脱がし」は他の大学にはないということになってまして、データとしてまとまったのは入学試験の男女別平均合格率一覧だけで、それでもってマスコミが男女格差を非難するというつまらん顛末です。毎日新聞が9月5日に記事にして一覧表を掲げてます。行政や学者がよくやることですがここに出てるのも比率です。例えば北大は男の合格率(合格者数/受験者数)は32.4%、女子は27.0%、これを比較して「男子の合格しやすさ」と表記して32.4/27.0=1.20と出します。これを全国の大学で調べて、平均は1.18と出す。多い?少ない?きっちり男女同率の 1 にならねばいけませんか?比率同士を割り算しても何が何やらわからなくなるわけです、これはここでも何度も言うてきたことです、実数を出せ!です。全81校です。女子医大は一つだけです、東京女子医大、ここが11.8%です。この数字が一つ基準になりそうですがでも、受験者数の多寡で大きく変わりますね、入学数はどこも100人前後ですから。国公立大は男女とも合格率は軒並み20~30%ですが私立大学は高々14%で多くは一桁です。この差は?つまり受験者数が違うわけですね。今時入学者の4割が女子としましょう、定員100人として男60人女40人、北大の数字で考えれば男の受験者は60÷0.32=187人、女は40÷0.27=148人。受験者数の男女差が大きいだろうに、という予想で、それを率に変えてごまかして比較するのはいかがなものか、合格者の実数を出しなさいよと言うているのですが、こう計算すると受験者数に差がないですよ。187:148=1.26ですからおよそ 5:4 です。国立大の医学部受けるなんてのは男女とも優秀者ばかりでしょう、実力差なんてないでしょう、公平に点数順に入学させたとすれば受験者数比に近づきましょう、5:4 ですね。これが私立になると実力差が顕著になりますし、受験者数も増えましょう、ここしかダメ、が多くいますから。帝京大学は男が3.2%女が3.0%です。北大に倣って計算すると男の受験者数は1870人、女が1333人です。ゼロが一つ違う。くだんの東京医大は6.8%と5.3%です。男が女より成績優秀者が多いなんては絶対に言えません、そういう前提自体が間違いです。でも受験者数の多寡はこれはどうしてもあって男の方が多かりましょう、医学部行きたくて何浪もするのは男ですから。記事にあります、男の受験者数は77000人程度で横ばい、女は増えて来て48000人だそうです。男女比1.6です。フラットに考えれば合格し易さ男女比1.18(全国平均)てのはまぁ順当のように思いますがねぇ。入学者が6:4なら男女比は1.5です、受験者数比に近づきます、これが5:5にならねばならぬと決めるのどうかと思うし、もっと言えば受験勉強なんてのはきっと女子の方に向いてる作業だろうし、医者になるならぬは措いて受験だけでもしてみたら?と唆したら、あっという間に上から女子がズラリと並びますよ。事実、高校の先輩の教員から聞いたことがあります、教員の採用試験、名前も性別も伏せて成績順に並べたらほとんど女子を採用することになると。真面目さや確実さで男は女に適いません、だから東京医大のあの操作もあながち故なしとしないわけで(こんなこと言うた日には大叩かれされますけれど)、まだ受験者数が男の方がうんと多いからああいう選択の余地が残っているという単純則であると晒されてます。男は数で、女は実力で。トホホですけれどこれが現実です。ちなみにこの一覧表見て、男子の合格し易さが一番高いのは順天堂で1.67(この程度ですよ所詮)、次が昭和大で1.54、逆に少ないのは弘前大0.75、次に岐阜大0.84、こちらは女子の方が入り易い(くどいですが単純に受験者数との比率です)。ちなみに天下の東大は1.03、京大は1.27です。ここにも操作があったら大騒動ですが。ま、お上が調べたと言うてもこんな数字しか出てこないわけで、これで点数操作したしないなんては窺い知れないです。大学によるレベルの差、つまりそこを選ぶ受験者のレベルの差を無視して話はできぬわけです。つまり東京医大だからできたということです。男を優先して入学させるのは女が劣っているからではない、その逆で成績順にしてしまうと女が増えてしまうからという本音で、卒後の戦力云々論にすり替えねばならぬというのが実際です。外科や脳外科、産婦人科小児科医の不足はもう長く叫ばれてますが、女医さんがこれらを選んでくれる確率は小さいでしょう、またまた肩を持つようですが東京医大のあの操作は差別の誹りを受けるばかりの代物でもないというわけではあります。
プロフィール

hirotanougeka

昭和32年 1月6日生まれ
昭和50年 山口県立柳井高校卒業
昭和58年 大阪医科大学卒業
昭和60年 梶川脳神経外科病院 勤務
平成04年 6月1日開業 現在に至る

・医学博士
・日本脳神経外科学会認定専門医 No,2746
・柳井医師会会長

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