障害者報道

障害者惨殺事件、承前。あれから一ヶ月とかでTVがあれこれ特集を組んで放映してますが、どれも同じ色です。つまり障害者を差別してはなりません、皆同じ命なんです、みな同じように生きているのですと。マスコミはわざと事件の本点を外して偽善欺瞞を振りまわすだけです。マスコミの追う的は二つです、犯人がどうしてああいう考え方に至ったのか(なぜああいう行動に出たのかではなくて)、もう一つはだから障害者を差別するのはいけないという啓発です。中国新聞のコラムは「容疑者が「障害者なんていなくなればいい」なぜ考えたのか、いまだ闇の中である」と嘆いてます(8/25)。そんなこと百年考えてもわかりはしません。例えば犯人の部屋にその手の本がズラリと並んでいたり、パソコン覗くとその手のサイトに嵌っているのがわかったり、ヘイトスピーチの集会に出ていたりといった「証拠」が見つかればいいんですかね。つまらぬことです。人の好みなんて説明できません。左の右のと、私は十分にトンガッてると自覚してますが、何故?と問われてもわかりません。そういう考え方に賛成し同調し染まってきただけです、もともとそういう性質(タチ)なのだとしか言えません。彼もそういうことです。そういう頭だったのです。そういう心、内心、思想傾向。何故もクソもありません。しかしマスコミは犯人を探したいのです、感化された思想は?人物は?後ろで糸引いてる黒幕は?本人が口走るから余計に優生思想とかヒトラーの無体が槍玉にあがります。が、くどいですが何故こんな考え方を?に答えは永劫出ません。そういう奴だったのです。それだけです。が、こう問題提起することによって、より大声で啓発し易い題材が見つかるわけです。障害者を差別するな。こっちの勢力にはもってこいの流れです。でもこの事件の本質はどうしてこんな殺人事件が起こったのか、防げなかったのか、ですよね。こんな危ない奴は世の中にゴマンといる。あなたの隣にいるかもしれない。それは今まで多くの理不尽な殺人事件が起こってきたことによって証明されているし、そこには何の対応もされてないのです。だから起こるべくして起こっている。もっと正確には起こるに任せている。どう止めるか。どう防ぐか。これが本質本点でしょう論議すべき。そこをわざと外して責め易いところ、誰彼からも反論喰らわないところを見つけて言い立てるのです。先日のNHKの特集も障害者を差別するなといやというほど強調してました。そんなこと何度も言われなくても普通の人にはわかっていることなのです、食傷することです。過猶不及。識者も結局今の社会環境を非難するばかりでどうすればいいんだ?となるとヘナヘナです。朝日新聞の耕論(8/26)で最近とんとTVで見なくなりました雨宮某女が書いてます、期待通りの経済効果を生まない者は生きる価値がないという価値観、かけがえのない命と言われる一方、経済が人の命よりも優先されるというダブルスタンダードと現状を強く非難しておいて、ふだんから命を大切にする実践を積み重ねることでしか、利益を創出する者にだけ価値があるという暴力的な価値観に抗えないと何だか腰砕けです。現状批判にはきつい言葉を並べておいて、じゃぁどうするんだ?には自己チェックするとか生きづらさを感じている誰かへの優しいまなざしを忘れないとか、中学生の反省会並みです。トホホです。もう一人、こちらは最近よくワイドショーに出てる元宮城県知事、浅野史郎さんが言います。障害者をかわいそうと思うのはひとえに私たちが障害者に対して無知・無理解だからだと。障害者を知ることで社会からそんな偏見はなくなっていくんだそうです。自分の役人時代の自慢話が文章の半分以上を占めてますが、施設から地域へが大事なんだそうです。何を今更・・。今回の事件を受けて警備強化を進める動きがあるけれどもそれは間違いで、施設を一種の要塞にしてしまうと特異な場所に住む特異な人という認識を再生産してしまうと言います。なんとまぁベタなことを。あなたの方が十分に差別してるけどなと感じますが、役人根性というか役人目線は治らない典型です。現場を知らずに仕組みばかりを作ってきた連中の戯言なのですが、私たちが有難く御高説承る要などこれっぽっちもなく、識者といえどこの程度なのであります。もっとも朝日に載る(朝日が呼ぶ)文章ですからこれほどのバイアスは承知の上ではありますが。だから、この手の事故の再発防止はどうするんだよ?一箇所に集めておいたから大量殺人を可能にしたという因果律ですねこの人は。だから分散しろと。本質外しも甚だしいし、発想の転換という評価も与えられません、自宅で看られないから施設に入れるという順序を無視してる机上論だからです。もう一人、柳田邦夫が毎日新聞に書いてます(深呼吸、8/27)。究極の無差別殺戮の恐怖、殺人ロボットという題でこの事件のことを書いている文章ではないのですが、文中で触れてます。評論家や文章屋のよくやることですが定義づけのレトリックです、一人称の視点(自分のことを考える)、二人称の視点(近しい人のこと)、三人称の視点(他の大勢のこと)ときて、無人称の視点を定義します。曰く、相手を人間として見ないという感情停止の思考だそうです。個別の人間を大切にする意識を断ち切って、単なる数としてしかとらえない、虫けら同然にしか見ないことだそうです。この犯人はこうだったんだそうです。ホロコーストもここに分類されるそうで。ううむ。だからどうなんだよ?ですね。そんな分類は要らぬでしょう?現実にこういう奴らがウヨウヨいるのですこの社会には。これが私たちの父祖が勝ちとってきた(とは欧州の革命史観です、王制から民主主義を血を流して奪い取ってきたというあれです、日本には具体的にはないのですが)自由社会の一側面、いえ、根源的に包含する危険なのです。この危険を抱くことなく自由社会はないのです。だからどうする?モラルですか?これ以上にどうしろと言うんです?日本人以上に道徳的に均れて優れた民族国民はないでしょう。それでもこういうのが混じるんです。差別するな?皆頭の中では分かってますから。人を殺すな、人を傷つけるな(マスコミ好きな心のなんとかではなくもっと具体的に刺すの斬りつけるの殴るののことです)は誰もが弁えてます。危険因子どう排除するか。虞犯対象をどう監視するか。そういう具体策でしょう。地域で地域でとお題目唱えるのが常ですが、じゃぁ地域で見張りなさいよ。誰々が危ないって皆の共通認識があるでしょうに。が、こんなこというとそれこそ朝日勢力がうるさいわけです、すぐに拡大解釈されて管理社会になる、密告社会にするな!って。トラは暴れるにまかせておいて、何もしない羊にばかり訓示垂れている。何人殺されたらいいんでしょうね。そしてあの施設はまたすぐに満室になるでしょう。それが現実なのですから。

自由社会の宿命

障害者施設での大量殺人事件。またまた危ない奴の犯罪で、世の中の溜息は深くやるせないことです。要はこの手の危ない奴らをどう抑えておくか、なのですが、マスコミをはじめ関係業界はわざと知らん顔をします。正確には論点をすり替えます、制度の所為にします、自分達が金科玉条にしている加害者人権優先を恬として恥じません。この偽善欺瞞にまみれた虚構を崩さない限りこういう事故はなくなりません。多くの識者がそれこそため息混じりに言うように、何人殺されればいいのだ?であり、もっと端的には人が殺されなければ警察もマスコミも行政も動かない(動けない)というこのシステムを誰も変えようとしないわけです。ひとえに人権擁護の壁です。だから世の中の失望も深いのです。あの事件以来、新聞や週刊誌月刊誌に識者が論を寄せてます、制度の不十分さを指摘しながら仕方ないやむをえないという結論モノが多いです。警察が積極的に介入すればいいように思いますが、暴力装置と捉える向きからの反対は小さくないでしょうし、それ考えると実に面倒くさいことです。ならばもっと積極的に危ない奴らを病院に収監しろとなりますが、病院にはそんな権限もなければ欲しくもないことでしょう。精神病患者の犯罪が後を絶ちませんね、それは入院させ続けることが否定されて社会の中で治療しろというトレンドが何十年も前から続いていること、加えて医療費削減とやらで病気の種類によらず長期入院自体が悪とされてきて(それでも精神病院には十年以上入院している人が多いのですが)少々の場合は退院させられます。これも一因ですというか、これこそが原因です。社会の安全と個人の権利とやらの比較。確かに極端に全体主義に振れた時代がありました、治安維持法という悪法が確かに存在しました。しかしだからと言って現代のように左に振れ過ぎるとこういう不利益が生じるのです。危険行為を繰り返す明らかな病的状態の者の排除には反対する人はいないでしょうが、その一歩手前の人格障害者に対して何とも世の中は手ぬるいのです。サイコパスとお聞きになったことはありませんか。病気じゃないからという理由です。そういう性格だから仕方ない、個人差の範疇だとするわけです。迷惑行為がなければ行政も警察も手を出せぬ、病気じゃないから入院もさせられぬ。のです。周りはあいつは危ないと皆知っているのに、誰も抑えられない。拘束できない。行政なり病院なりの公的権力が介入するしかないと誰が考えてもそうなのに、立法しようとしない。人権の壁なのです。建前の壁、戦後民主主義の壁、安倍さんの言う共通の価値観の壁です。偽善欺瞞の塊と皆知っていて崩せぬ壁。確かに具体論になると文言化が難しいでしょうが、無闇に殺されるのを待つ状態はなんとかせねばならぬでしょう。と、この方向に進み始めると、彼の犯人が宣うていたという優生思想に行きつきます、そしてその適応範囲が恣意的にどんどん拡げられる虞が大です。まさかこの現代にとは思いますが、密告社会、魔女狩りと個人が蔑ろにされる方向です。そうならないようにと、戦中戦時の全体主義を繰り返すなとの反動が現代なのです。その逆振れの不利点を訂正できぬのです。だから国民の溜息は深いのです。どちらがいいかと考えてのことではないです、国民は肌で感じるのみです。理不尽な殺人に憤る、私のように乱暴な意見を言う者も出てくる、それでもこれはこれで仕方ないのかなと諦める、自由な社会とはこういう理不尽を対価に払うことによって維持されるのだと諦めているのです。取り締まれと簡単に言いますが、権力は増長します、国家権力は末端に行けば行くほどに安直硬直化します、密告社会は息苦しいことです。と、話は大きくなります。自由社会とはこういう雑多性(多様性と書くと別のニュアンスになりますか)を包含しているのです。私たちはこれを選択しているということなのです。ふ~~。やはり深い溜息をつくしかないですか。

薬の副作用

薬の副作用。どういう印象、定義をお持ちでしょうか。薬剤の内服や注射によって好ましからざる結果(症状)が出ること。これで間違いありません。小難しく言う必要などありません。区別は色々できます。(1)想定内外の差。その薬に特有のもの、薬一般的にあり得るもの(胃腸障害、湿疹など)、それらは薬の能書きにこれでもかと書き並べてあります。一度市販薬の能書きを読んでごらんになればいい、結構怖いことが書いてありますよ、まれにではあるが死亡例のあるとか何とか。書かねばならぬからです(法令)、と言うより事が起こった時のための言い訳です。こうなることを承知でお飲みになりましたので・・。ここに書いてないことが起こると責任問題です(だからこれでもかと書き並べるのです)、訴訟問題補償問題になります。薬が悪かったのか、処方した医者が悪かったのか。(2)誤用か否か。医者が処方そのものを間違える場合、投与量を間違える場合と、本人が飲み間違える場合。前者には大きい病院の場合は薬剤師や看護婦が介在することもありましょう。処方箋は正しかったけれど患者に渡った薬が違っている場合です。これは患者は全くの無責ですわね。本人が飲み間違えることもありますよ、わざとの時と知らずにの時と。自殺企図での安定剤の大量服薬は昔から有名ですが、その他には例えば糖尿病薬を飲み過ぎて低血糖となって意識をなくしてそのまま・・というのはあり得る悲劇ですし、抗てんかん剤を飲まずにおいて発作を起こしての大事件もよく報道されます。が患者側の間違いで、少なくとも町医者で処方される飲み薬の誤用で死亡に至ることはまずありません。大事になってしまうのは大概は用量過多によるものです、適当量の数倍数十倍量を飲ませられる。一方的に医者の過誤です。重大重篤な結果に終わることが少なくありません。もう一つ(3)不可避な例。医者の立場でこれを言い過ぎるのは不適切かもしれませんが、これは根絶できません。薬に対する反応は文字通りの十人十色です、よく効く人、そうでない人、不適切な症状の出る人。用量の間違いがなくても、飲み間違いがなくても、出てしまいます。薬に弱い人、は確かにおられます。ですから個体差に考慮しつつ注意深く、と医者に要請される対応は厳しく求められます。当然です。でも、起こります。要は起こった時の対応なのですが、これも足りぬケースが多い。現に目の前に症状の出ている人がいるのに、薬の能書きに書いてないから、とか、単に自分の経験上の判断で薬害と断ぜず、適当な処置の機を逸するケースが新聞ネタ週刊誌ネタになっているのです。先日も抗てんかん薬の過量投与による薬害のニュースがありましたが、医者に言い訳の余地はありません。少ない量からそろりそろりと使う(飲んでもらう)。こう心がけるのですが、それでも起きるのです。何が言いたいのか?ですね。言い訳してるのか?薬ってのはそういう怖いモノですよと言いたいが一つ、いつもと違う薬が出た時は今時のことですからググってみて医者がどういうつもりで出したのかとか用量に間違いはないかとか調べてみてはどうですかというお勧めと(さらに一歩進んでもう一人別の医者にかかってみるのもいいと思います)、医者がうるさく言う薬は飲み続けるが得策ですよと確認したいのです。専門になればなるほど医者はうるさく言います、例えば心臓の医者(循環器科)は血圧にうるさいでしょう?糖尿病の医者は HbA1cの数字にうるさいでしょう?そこのところはかなり許容範囲は広い筈なのですがそういう差は措いて、飲みなさいとうるさく言う薬はまず副作用がでますまい。出ぬように注意もしてましょうから、です。とまれ、医者を信じて下さいと言い切れぬ所が一番のネックで、こういうこと書いても言い訳に採られかねぬ恨みは大きいことではあります。自戒します。

livedoor プロフィール

昭和32年 1月6日生まれ
昭和50年 山口県立柳井高校卒業
昭和58年 大阪医科大学卒業
昭和60年 梶川脳神経外科病院 勤務
平成04年 6月1日開業 現在に至る

・医学博士
・日本脳神経外科学会認定専門医 No,2746
・柳井医師会副会長

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