二分の一

新聞広告です、日本対がん協会が出してました一面広告です、がんは万が一じゃなく、二分の一、と。うむ、レトリカルなものと知りつつ、こういう煽りにはいつも違和感を思います。この理屈は(日本人は二人に一人が癌になる)過大過剰な放射線被害言い立て傾向に対して、専門家としての立場で抑制的に語る事の多かった東大の中川医師(ために御用学者などと非難もされてましたが)が、がんになる危険は放射線被害よりもたばこや生活習慣病の方が大きいのだし、そもそも日本人は二人に一人ががんになる時代なのだ、という論の中でよく見るフレーズでした。それだけ医者が見つけにかかってるんだなという感心、検査技術の進歩簡便化への感心、そして人々のがんへの怖れの大きさ、国の啓発効果の大きさの証明という事です。もちろん集計の仕方によって数字は変わりましょう、全国民のデータというからには広く拾っていなければなりませんがそこの所はわかりません、二分の一を信じての話です。数字に拘って因縁つけようという意図ではありません。あなたが(私が)がんになるかならぬかは所詮は二分の一の確率です、なるかならぬか。今更何を、なのですが、こういう時の数字(有病率と言います、この病気の存在率です)は大きな数が分母です。(その病気になった人)/(その地域の全人口)です。どんな病気も二桁になるような事はまずないです。が、がんの場合は寿命が延びれば延びるほど捜せば見つかる人が多くなるわけです、がんとはそういうモノですから。癌で死ぬかどうかは別でしょう、がんが見つかる人が二人に一人という意味です。がんに罹ると二人に一人が死んでいくのならこの国はとっくに絶えてましょう(ちなみに平成28年の厚生省の集計では総死亡者数が129万6千人、がんでの死亡者が37万3千人です、28,7%、三人に一人弱です)。風邪はどうなんでしょうね。一生のうちに風邪に罹る人は二人に一人よりも多いでしょうか、三人に二人とか。ああ、そういう事?そうです、きっとこういう事です、この数字は。一生のうちでがんにかかる人が二人に一人。皆が亡くなるわけではなくて、です。でもこう大きく文字にされて読まされると、がんに罹ると死ぬという先入観を皆持っている所です、二人に一人はがんになって死ぬのかぁと思いますね。福島で声高に危険を叫ばれてる甲状腺癌、血液検査(PSA)で簡単に見つかる前立腺癌など、検査の簡便さや頻回悉皆の検査によって必要以上に見つけ過ぎてるという事情は大きい筈ですが、がんには違いがないのでどんどんカウントされていきます。で、二分の一。そりゃちょっと言い過ぎじゃないですか?の違和感です。そしてもう一つ、二人に一人がかかる病気って、予防のしようがないでしょうに。風邪と違って死に病ですからそれだけ注意喚起しているというわけですが、老化現象の一つとして起こってくるものであれば(遺伝子の傷みが原因とされてますから)それこそ長生きした結果として仕方のないことでしょう。そう考えるべきじゃないんですかね。もちろん若くして発症して亡くなる人も多いです、そういう例を減らす為に早期発見早期治療と言われ続けて来たのに、たばこを吸うなとあれだけ強制して現に喫煙者はガッタリ減ったけれども肺がんだけでなくがんでの死亡者は減りません。ノーベル賞受賞した新たな薬剤への期待が大きいわけですが、この広告が読み手にどう伝わったかに興味があります。私の様なへそ曲がりは少ないのでしょうが、そうか歳とったら仕方ないのうと、そういう諦観を啓発するものであってもいいなぁと思ったことです。違和感とはつまり、徒らに不安を煽る、受診を勧める、治療に向かわせる(広告者は当然にそういう意図でしょうけれど)傾向に対してです。それが正しいとされている風潮に対してです。万が一ではなくて二分の一。キャッチコピーとしては優秀作なんでしょうね。

人生いろいろ

新潮45が廃刊になりました。長く定期購読してきた者ですので月末20日に届かないとあれ?という感じがします。昔に女編集長に替わって素人目にも色が変わった時期がありましたが、それにも慣れてその後誰が編集長なのやら知りません。名を聞いた所で門外漢ですからわかりません。で、あの騒動です。とはいえこの手の月刊誌を読まれぬ向きには何のことやらでしょうし、痛くも痒くもないことで。そのいきさつが問題だったのです、改めて説明しますと、お騒がせの(いえ、知る人に言わせると特に左筋の言い募るイデオロギーに対して熱心な言論人だとの評価もあります、所詮は両論です誰でも)自民党の女議員杉田某の論文がきっかけです。LGBTは生産性がないとやって、その生産性ばかりが切り取られてやんやの総叩きにあって、次号でそんなに悪い論文か?の特集を組んだのでした。そこまではよろし、それでこそ天下の新潮社というわけでしたが、その中の小川榮太郎氏の論文がまた格好の餌食になって、とうとう編集長自身がこの文章はよくなかったですと謝罪し、休刊しますとさっさと引き下がりました。ええ?一読者の私でさえええ?でした。他の月刊誌はこれをネタにジャーナリズムとはの大上段論から左筋の常套手段との非難から満載です、いささか食傷するくらい。いわゆる言葉狩りです。マスコミのよくやる切り取りです、都合のいいところだけ切り取って大非難する手法です。そしてポリティカルコレクトネス(ポリコレ)ドグマ。ダメと言ったらダメ、のイデオロギー。これ以外の他論を許さない。弱者強者論です。弱者こそが最強者だと。弱者エリアがまたどんどん広がります(連中が拡げて行くのですが)、若年者高齢者の社会的弱者に始まって障害者、少数者。害は差別だ、障がい者と書け。性的少数者という呼称、LGBTと横文字で禍々しく。男色は日本でも(海外のキリスト教聖職者達は有名ですね)昔からあった事、しかし陰間との呼び名が象徴するように、表立ってはならぬものとの共通認識。ある本によれば、Lは2%、Gは4%、Bは10~20%、T(性別不一致。性的違和という表記をこの前見ました、体と心の性別の不一致者です)が男は10万人に一人、女は40万人に一人だそうです、全人口の。多いと思われるかそうではないか。特にB、両刀遣いの割合は多いですね思っているより。病気に例えれば花粉症並みですか。認知症の有病率は高齢者の14.5%と言われてますから、多いですね。そういう御認識でしたか?ま、それは措いて。少数者の権利云々を振り回して騒ぎ立てるが左筋の常套ですが、まさにnoisy。silent majority に対する所の noisy minority。当該論文をしっかり読んだかどうだかわからないような連中が新潮社にデモ掛ける、朝日毎日勢力が大叩きする。ヘナヘナと腰折れた(様に見えますから)新潮社も新潮社ですが、この百犬声に吠ゆる態は情けない事です。少数者達自身も表立つ事を望んでないでしょうにね、現に身を明かして反論する人達の口調は至って穏やかですから。杉田某が文中意味した生産性とは子を生む事、子を為す事だったのでしたが、LもGもBもその気になれば子は為せるだろうに、という「そういうことじゃないだろう!」というバカ言う文も中にはあったのでしたが、性的指向を嗜好とわざと書き換えたとのイチャモンに始まり、少数者の差別はならぬ!に大きく拡大解釈しての一点張り、他論を許さぬイデオロギーそのままの態です。嫌な世の中というより幼稚。本当に幼稚な風潮が罷り通ります。人生いろいろです。男も色々、女だって色々。それを許してのこの社会です。多様性と叫ぶ一方で自分たち以外を口をきわめて排除するのが左筋の性癖です。そうじゃないでしょうに。

賛否両論

福岡で行なわれた女子駅伝(10月21日)で19歳の選手が中継点300m手前で走れなくなって以降這って襷を繋いだ「事件」、翌日はTVも新聞も結構量の報道してました。ワイドショーがまた面白がって必要以上に煽るんだろうなと思ってました(一連の暴力事件やパワハラ事件のように選手じゃなくて関係者を叩けますから)が、どの局もそれ以上に追いません。この辺り、まことに恣意が罷り通ると呆れる事ですが(だからフェイクが生まれると)、ま、人間のやる事です、報道するか否かという単純な選択です。朝日がよく言う「報道しない自由」ってのもありますし。毎日だけが後日囲み記事を載せました、10月24日「アクセス」枠です、はってたすきに賛否、の見出し。どうして平仮名なんだ?這って襷、と書けよと、そっち?のツッコミ入れたことでしたがまず。内容はこの見出しから想像される通りではありました。19歳の若い娘が、両の膝小僧を擦り切らして流血のまま這い続ける、襷を繋ぐためにだけ這う、あの姿をどう評するか。もちろん記事には両論表記です。骨折の重傷だった、監督は選手が這い始めた時点で棄権を申し出ていた、とか後から大会関係者のあの判断はまずかったぞという事実が判明して、開催者側の分は悪いのではありますが、感動したっ!は必ずあるわけです。ま、観ている側は勝手なこと言ってればいいのです、大和魂の(女にも言うんですかねこれ)、感動根性元気のと、きっと溢れたんでしょうよSNSで。一方で非難も湧きあがる、これもステレオですが、選手生命にかかわる蛮行批判系です。記事には、「けがより感動が重視される風潮」「あれを見て感動したという人がいるから過労死がなくならない」との意見を載せてます。あそこでレースをやめさせないのがいけなかった、というわけですが、しかしそうは書きません、これが狡いことと思うわけです。あれを褒めるなと。選手のあの行為を責めるのではないです、どうしてあそこで止めなかった?そしてどうしてあれを賞讃する?という非難です。あそこで誰かが手を出す(体に触れる、抱える、支えるなど)と失格です、自動的にチームが棄権です。これは箱根駅伝でおなじみです、日テレのアナウンサーがここぞとばかりに叫ぶあれです、フラフラになった選手に監督が車から降りて来て声を掛ける、水を渡す、暫く横を歩く、そして抱きかかえる、棄権だぁ~!。でもレース投げだした選手はきっとその後は針の筵ですよ。いられませんよきっとそのチームに。そう思うから選手は走る、自分からは絶対やめない。団体競技とか、for the team だとかそういう体面綺麗事じゃなくて、ここでやめたら後で今の辛さに数倍する地獄が待ってる。事実、箱根でもどれだけ煽りますかアナウンサー達。きつい練習をみんなで耐えて来て、そして今日の本番、走りたくても走れない仲間のためにも母校の襷は必ず繋ぐ!なんて言い続ける。それに感化された長距離の早い小中学の生徒達が高校(京都)で走り、箱根で出雲で伊勢で走る。どんなことがあっても襷を繋ぐってのは連中の共通認識です。彼女もそうだったに違いないことでしょう。自分の将来のために今回は調子悪いので途中棄権します、なんてこと言える筈がないです、ましてや19歳です。否、こんな時にそんな勝手したらそれこそ選手生命が危なくなる(干される、信用なくなる)ことの方を怖れるでしょう。その筋の人達が忌み嫌うであろう意気に感じての行為、腕も折れよと投げ続ける、骨折を押して走り続ける、あの根性モノなのですが、それにはあれこれの思惑も含んでいるというわけです。骨が折れて、両膝すりむいて血が出てすっかり悲劇のヒロインですが、彼女はああやってよかったんでしょう。傷はすぐに治ります、骨折部の回復具合や今後のランナー生命への影響は分かりませんが、あそこで這うのをやめてたのとどっちが良かったかと言えば100%今回の選択でしょうね。きっと彼女はそう言うと思いますよ。世の正義の味方達は彼女の行為そのものではなくて、ああいう風景に手を叩く事を批判する。中身のないポリコレ棒のブン回し。彼女の将来を考えろ?。いえ、今次の選択で彼女の将来は明るい筈ですよ、襷を繋いだ事実が残ったのですから駅伝選手としては満点です。ああ、あの時のあなたですかぁって。もっと言えばああやって這ったから話題になったのであって、救急車で運ばれててもチームの棄権と後の針のむしろしか残りません。自己責任論での処理を嫌う向きこそ、弱者に寄り添うふりをする偽善者達です。心意気や責任感を否定して何でもかんでも他人の所為社会の所為体制の所為にして自分は安全地帯にいて何もしない、そんな者達に批判されても、です。いつからこんな幼稚な社会になったんでしょうね日本は。いかがですか。

プロフィール

hirotanougeka

昭和32年 1月6日生まれ
昭和50年 山口県立柳井高校卒業
昭和58年 大阪医科大学卒業
昭和60年 梶川脳神経外科病院 勤務
平成04年 6月1日開業 現在に至る

・医学博士
・日本脳神経外科学会認定専門医 No,2746
・柳井医師会会長

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