今回が初めての事例ではないですが、千葉大病院でCT画像の病巣見落としがあり、結果治療が遅れてそれが死につながったと大学が謝罪しています。担当医が専門外の領域の画像診断結果を十分に確認しなかったが要因で、このうち一人は4年余り治療が遅れたのだそうです。どういうことか。例えばお腹のCT撮りますね。検査した医者が調べたかったのは肝臓だったとします。当然肝臓をしっかり観ますね、専門ですから。よかった、大事がなかった。が、腹部CTに写るのは肝臓だけではありません。胆嚢、膵臓、胃、脾臓、大腸小腸と消化器専門医が守備範囲とする臓器だけでなく、腎臓、膀胱、女性なら卵巣子宮が写り込みます、これも当然です。専門外の臓器は見慣れていませんからどうしても診断力は落ちます。第一、関心が払われません、見たいのは肝臓ですから。が、果たして何年も前のそのCT画像に明らかに腎臓癌が写っていた。肝臓担当医が腎臓の癌を見落としてた、それが治療の遅れになってしまった、と謝ってるのです。もちろん誰かから(身内からの告発かもしれません、今流行りの自前の医療倫理委員会とやらがマスコミに嗅ぎ付かれる前に早く公表しろと判断したのかもしれません、あるいは既に当の患者に強請られていたか)指摘があってあれこれ相談協議した結果でしょう、危機管理能力という奴です。世の中はポリコレ棒全盛です、こうやってどんどん幼稚になっていきます、何でもかんでも不都合は謝っておけという風潮です。この安直さには今まで何度も噛みついてきましたが、それとは別に私はこういう謝罪は医療の根幹の揺るがす流れだと危惧しています。病変の見落としを許さぬ。これは医者の診断力の問題であり、ひいては医療の質の問題です、要求のレベルを高めるはきっと患者の利益を高めます。医療技術は間違いなくこの方向に進んできたのですから。胸のレントゲン、腹部のレントゲンとは比較にならぬほどの情報をCTから得られます。だからCTを撮る。特に癌の診断です。CT以前には5cmを越えるものしか見つけることができなかったのがCTでは1~2cmのものが見つかる。明らかに利益ですね。でもそれで医者に捕まって手術の抗癌剤の放射線のとさんざんにやられて挙げ句死んでいく人の多いことはここでも何度もとり上げました、近藤誠医師のがんもどき理論も、それに対する反論もこの検査機器検査能力の向上に沿って現れてきたものです、功罪どちらも相半ばします。医学医療の進歩とはすなわち技術の進歩です、診断能力の向上を指します。医療人の進歩ではありません、医療思想の向上確立でもありません。身も蓋もなく言えば、医者の診断能力とは画像の読影能力、データの判断能力の高低です、目の前の患者さんへの対応能力ではないです。そして段々に受診者側もそれを求めなくなって来る。電子カルテの時代になって、患者を見ずにディスプレイばかり眺めて、画像や数字だけを説明する。言う所の脈もとらぬ、聴診器も当てぬ診察です。それに不平を言うても直らない。聴診器を当て聴くのと胸のレントゲンを撮るのとでは情報量は格段の差です、だから昔ながらの診察風景が消えて行く。そして上記した如く今はCTです、MRIです。となるとそういう機械のあるなしが医者個人のの質の上下をはるかに凌駕することになりますね。機械のある所へ行く、検査できる所へ行く。ない所へは行かない。そういう棲み分けはできているのです、昔から。町の開業医へはそれ相当の理由と覚悟で通う。平たく言えば多くは望まない。新たな病気を見つけてくれなんては言わない。でも、それでもありますね、かかりつけで何十年も通うているのに他所の病院で癌が見つかって死んだと。あそこは癌をよう見つけなかった・・と陰口です。ううむ。こちらにはこちらの言い訳言い分もあるのですが、それも事実の一面です。が、大学病院で象徴される大病院、検査機器治療機器の揃っている病院では陰口では済まない。そういうことです。読影したのが専門医じゃなかったから、では言い訳にならぬわけです、同じ病院にその専門医がいるのですから。チクられる前に、マスコミにやられる前に先に公表しろ、となります。これが今の風潮です、ポリコレ遵守です、そのポーズです、危機管理です。となるとその病院側はどう対処しているか。当地田舎の基幹病院の診療部長が言います、半年に一度は必ずⅩ線検査含めて精査している。症状のあるなしに関わらずだ。見逃して、どころか検査しないで(それが不作為というわけです)おいて後で見つかった日には訴えられて負けるから、と。つまりとことん見つけにかかるわけです。症状の有無に関わらず、自分の専門分野に係る範囲、消化器専門なら上記のごとく専門外の腎臓や婦人科臓器も含めて、循環器専門なら肺や胃、肝臓(胸部X線検査で写る範囲)も含めて目を凝らすわけです。患者さんの利益ですね確かに。でも、これが診断なのでしょうか。それは見つかるべくして見つかっているのでしょうか、見つけずともいいものを無理矢理に探し出してるのではないのでしょうか。今回の千葉大の告白事例、明らかな見落とし(普通ならおかしいと思うぞ、のレベル)だったのか、専門医間でも意見の分かれるほどのものだったのか、その差は大きいとは思うのですが、画像を示されて結果から遡られると咎めは免れません。自らに敢えて高いハードルを設定することを自浄と呼ぶのか、自らを律するというのか、あるいは実はそういう対応が医療行為に対する世間の免責閾値をどんどん下げていくことに気づいているのか、知ってか知らずか。二言目には医療に絶対はないのだと言い放ちつつ、こんな謝罪を世間に向けて繰り返していては更に検査漬けで患者を診ようとしない医者ばかりができていこうにと溜息が出ます。街の開業医の一人としてその役目と使命を考えることですが、病に対応するのではなくまだ姿を現さない病変を見つけるのが大病院の役目(国の推進する予防医学とはこの向きです)となると、この風潮は止められぬことではあります。今次の千葉大の症例はそれができずに悪い結果に陥った例でしたが、その逆、見つかったばかりに悪い結果になった例の多いのも確かです。早期発見早期治療のドグマが後ろにデンと控えているわけですが、物事の一面だけでは判断できぬということです。