11 デビュー10年 その後の舟木と和泉(1)

 

 〝歌の別れ〟の後、すっかり忘れていた舟木一夫の消息が私に聞こえてくるのは、連合赤軍が浅間山荘に立てこもった1972年になります。


 

 この事件後、内部での悲惨なリンチ殺人の経緯が明るみに出て、ただでさえ凋落していた新左翼の運動は全く大衆の支持を失ってしまいましたが、さて、問題は舟木です。

 

この年の4月6日、当時27歳になっていた舟木は、立ち寄り先のヒルトンホテルから失踪。夜になって渋谷区千駄ヶ谷の旅館「松実園」・2階〝松炬の間〟から、自らの事務所に電話を入れました。「これから血管に空気注射をして死ぬ」


 この言葉に慌ててマネジャーが駆けつけたとき、寝巻き姿の舟木は「歌はもう死んだ……」との書き置きを残し、布団の中で昏睡状態に陥っていました。睡眠薬を飲み、直前に本当に静脈に空の注射を射っていたのでした。

 直ぐに慶応病院に運ばれ、一命を取り留めましたが、舟木はその月の26日に名古屋でデビュー10周年公演を予定していました。前日に打ち合わせを終えて帰京、「仕事が嫌になった。休みたい」などと話していたといいます。女性週刊誌にスキャンダルが載ったことなどもあり、舟木は前月にも6日間ほど慶応病院に入院していて、心身は疲労の限界でした。


 舟木自身は自伝でこの自殺未遂を次のように述懐しています。

 

《自分を取り巻く歯車が、ひとつ、またひとつ、さらにもうひとつかみ合わないままにこぼれていく。レコーディングで、テレビのスタジオで、事務所で、そして家の中で……。ともかく僕が動くたびに、頭の中でカチッ、カチッと何かが音をたてていた。といって仕事場から、事務所から、家族の前から逃げ出すことはできない。

 こうなると、先読みもマイナーな方向にしか働かない。結局は千駄ヶ谷の旅館でひとり、バカをやってしまった》(『怪傑!!高校三年生』)

 

 実は舟木の自殺未遂は、70年、71年にも引き起こされていて、これが三度目。舟木は当時、躁と鬱が繰り返し現れる心身の不調に悩んでいました。この不調はなかなか回復せず、翌73年から74年にかけては10ヶ月の静養を取り、復帰したもののその後、舟木一夫は十五年以上にわたる長い不遇時代に突入することになります。


(敬称略・この項、続く )