ヒサゴリオン

今も昔もボンクラ魂

ロケットマン


そもそも『ロケットマン』と『イエロー・ブリック・ロード』が大好きなのは置いておいても、ミュージカル・史実映画として大好きです。
私は『グレイテスト・ショーマン』も『ボヘミアン・ラプソディ』も好きではないのです(周りの人間の功績の筈が主人公が一番エラいことになっている)が、『ロケットマン』はだいぶ駄目な時期の方が多くて、何なら今も駄目なんですけど、その点を存命であるにもかかわらず、または存命だからこそ、描けていて良かった。
エルトン・ジョンから距離を置きたい人、利用しようとする人、愛する人、彼との関係性は登場人物によってまちまちで、好きでも嫌いでも、そこにあるグラデーションや考えが違う。その中において、最初から最後まで、エルトンを気にかけるバーニーというのが、本当に泣けてきて、彼らの音楽が立ち上がる瞬間はジョン・カーニー作品のように泣ける。どんなマスに向けている曲であっても、音楽が立ち上がる価値に違いは無い。
あと、今年見た映画の中で一番近いのは『アメリカン・アニマルズ』で、過去からでさえ見えていた未来はあるし、そんな未来が来ると分かっていても避けられていたかというと、決してそうではない。彼らの曲の歌詞が物語に沿うような形で、かなりミュージカル然として使用されているものの、曲の年と一致しているわけではないというのも、こういう仕組みなのではないかと思ったりもした。
ジョン・カーニー作品しかり、『アメリカン・アニマルズ』しかり、その映画でしか得られないと思っていた感情が、得られた時点でなかなかに驚いたりする。
そもそも、ミュージカルとしての快感があるかというと、無い(私はミュージカルが苦手なので、これは逆に好きというのもある)。映像としては『サタデー』の時が最高であって、他は物語のダイナミックな処理としての側面が強いと思う。タイトル曲の『ロケットマン』でさえ、ロクな使われ方もしなければ、馬鹿馬鹿しい絵で締められる。そもそも歌詞が歌詞なので、彼の状況に合っているといえば合っている所がなお面白い。
最後に、真剣にエヴァみたいなシーンがあるんですけど、イエロー・ブリック・ロードがオズの魔法使いモチーフの時点で既にシン・エヴァンゲリオンとの関連が云々。

ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 -永遠と自動手記人形-

 

テレビシリーズよりもジャンルモノとして観れるようになっていて、初見の人でもかなり見易いではないかと思う。そして、私のように良い話過ぎて辛いみたいなことを言っていた人も大丈夫だと思う。
テレビシリーズも各回が一応、ジャンルモノにはなっているものの、類型的なそれではないが故に取っ付きにくいという感じはあったが、『外伝』は前半は百合モノだとか女子寮モノだとか、後半はお仕事体験モノだとか、かなり分かりやすくなっている。特に世界観としても今回、描かれる場所は究極的には二か所での話なので、見易い。あと、女子寮モノにプラスαとしてレアなツインテールが見れるという髪結いシチュ、そういう無難にオタク受けが良い要素を入れ込んできてるのが良い(髪結いシチュも物語的に重要なアレですが)。
『女子高生の無駄づかい』のオタさんにメチャクチャ共感できて(オタさんは性癖に刺さるものに触れたり、美味しいものを食べると、キレながら褒めます)、だいたい映画観てる時の私もこんな感じで、「よくこんなシーン思いつくな⁈大丈夫か⁈」ってなる。投錨を海中から捉えるシーンとかそうですよね。
悠木碧さんの演技が相変わらずおかしいレベルで、喋り方が定まってない。語尾が定まってないとか、時々敬語とか、そういう意味でなく、否定形なら否定形らしい話し方、疑問形なら疑問形らしい話し方で、キャラそれぞれでイントネーションが定まってる筈なのに、設定を活かすとそうなるのか…
あと、これは演技プランとかではなくて、コンテ段階から考えられているであろう部分で、定型的な会話(こういう流れなら、こう返すというような)ほど、会話に一呼吸遅れを生じさせてる。シーンとしては3つくらいあったような気がするが、覚えていない。

エンディングのエイミーの歌詞“元気ですか?”“笑ってますか?”っていう部分も良過ぎてキレてました。それはもうね、即買いましたよね。映画見る前に聞いた時は「エイミーって誰だよ、悠木さんの猫かよ」って思ってたくせに。エイミーは名前でもありつつ、フランス語で「愛しい」という意味らしいので、これまた憎いなと思う。
あと、映画自体の調べ不足も甚だしくて、イベント上映だし、外伝って付いてるし、っていう所で尺が90分もあるとは思ってなかったのですよ。しかも、普通に映画館のサイトで80分って書いてる所があって、実質73分くらいだと思ってました。パンフには本当にOVA2本分で最初は想定していたと書かれてましたが。
ヴァイオレットさんのパンフ読んでて、ユーフォシリーズに比べて正直ボッタクリな昔懐かしの仕様だったものの、監督とか脚本の方とか、なかなかこの時期にパンフ以外でインタビュー記事出せないだろうし、いいかぁと思ってたら、取材実施日が2019年7月16日って書いてあって心臓に来過ぎた…テレビシリーズのことを「良い話過ぎて辛い」とか思いつつ、今はそういうのが一番欲しいという私は掌返しにも程がある。

ヴァイオレットさんの前までの機械的な部分は、いつか破綻してしまいそうな危うさも感じさせていたが、今作ではそういう部分はだいぶ減って、人間らしい部分が出てきて、かなり融通が利くという、もはや本当の意味で完璧な人になりつつある。(この機械的な部分で自動手記人形を本当にアンドロイド的なものだと勘違いしていた時期がありました)
ヴァイオレットさんのある種の不変さというか、これからも変わらないでいてくれるであろうという期待が人と人を繋ぐ。そして彼女自身がそういう信念の揺ぎ無さも持ち合わせている。(これが次の劇場版の予告とも重なり合う部分かなとも思う)
だからこそ、エイミーさんとヴァイオレットさん、ヴァイオレットさんとテイラーさん、テイラーさんとエイミーさんという風に、繋がっていく。永遠とは、そういう意味なのかと思う。そして、仕事という意味でも、ベネディクトさんを含めて、テイラーさんに繋がるような循環が出来上がっているというのも見易い。
「今回、描かれる場所は究極的には二か所」と書いたものの、(10話のように)時間的な跳躍があるという点で、狭さを感じさせないように思うし、ヴァイオレットさんが天体観測所の話(6話)を持ち出したりするというのもそうで、「成長」とかいう曖昧なモノではなくて明確に過ぎた過ぎた時間を表している。

私は偶に「何でもかんでも紐づけるんじゃないよ」と言われるが、そして、それを自覚もしているが、作品と現実、作品と自分、作品と作品、等々を紐づけるのが趣味でもあるし、癖でもあるし、致し方ない所である。
フィクションの価値ってなんだろうかとか真面目に考えてみたりもするけど、結局こういう所な気はする。ターンしてくるものがあるのは良い。
ただ楽しい作品というのも勿論、価値はあるし、「無縁」というのも一つの価値だと思う。現実とも無関係、自分とも無関係、虚構にドップリと浸かれて良い。自分が今まで見てきた作品にも紐づけられない作品、斬新で良い。
パラスちゃんが言うように、「作者の人はそんなに考えてないよ」というのも理解できるし、作者が考えているものを超えている部分もある。それは作者側にも受け手側にも左右されるし、本当に第三者というか、この(便宜上)2人の関係以外に存在する外部要因が差し込まれている時もある。
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』をタランティーノ監督は京都アニメーションの件を意識して撮ったかいうと、絶対にあり得ない。でも、私は今の状況では作品と件を紐づけざるを得ないし、このタイミングで見られたことには感謝せざるを得ない。
自分が北海道だったり沖縄に住んでいたとしたら最初から想像すらしなかったであろう「もし助けられたら」という夢を私は見ている。これで私を病んでると思う人は正しいと思う。相当、確かに病んでる。(『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のパンフレットは今年一番というか、ここ5年単位くらいで考えても最強のパンフレットなので、是非とも買っていただきたい(実質『映画秘宝』)。)
タランティーノ監督のような映画オタクの映画を観ると、元ネタを全部観たくなるので、極力観たくなかったのだが、あまりにも膨大なオタク知識っぷりに諦められたので、良かった。オタク知識によって作り上げられる必要のあった実在感とかディテールとか、もはや、しっかりと存在する、もう一つの世界とも言える。この映画のサントラには幾つかの「広告」が入っているように、ただただ、その時代の曲をカーラジオで流すだけではなく、その時代の商品・サービスまでも聴覚的に表現する。
そういう意味では、のほうずさんも仰っていたように、『この世界の片隅に』と同じだと思う。『この世界の片隅に』は申し訳ないが、(割と日本中が盛り上がっている中で)それほど乗れなかった人なので、今になって逆照射で理解した。(自分のせい、というか普通に日本に住んでるからだと思うのだが、『この世界の片隅に』は「距離」が近くて、そのディテールが知らないことばかりではないから、あまりその部分に気が持って行かれなかったというのはある)
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は最後の「門」のシーンに至るまでに、創作の登場人物である筈の彼らがしっかりと現実の存在になるまで仕立て上げる、それに必要なのが先に挙げたようなディテール、そして映画の尺の長さ(全体は161分ある)。事件自体に割かれる尺とのバランスは確かにおかしいが、「門」のシーンでの余りにも美しい虚実の転倒に捧げられる。

シャロンテートさんの出演作を観ていなくても事件の残酷さは理解出来るし、京都アニメーションの作品を観ていなくても事件の残酷さは理解出来る。どちらにも事件に公共性があるからだ。
最後に蛇足だが、私はマスコミをマスゴミと貶すほど、下に見ていない。(SNSのおこぼれを扱うような所は本当にどうかした方がいいと思うが)
どんな件をどのように扱うか、扱わないか、そういう役割の線引きをこちらですべきではないとも思うし、御都合主義だなとも思う。
『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は残念ながら多くの人にとっても話題作であり、劇場に行けばマスコミに映されざるを得ないことになる、という覚悟も必要だと思う。流石に「行ったらマスコミがワラワラしていた」という状況は想像が容易く、そこで映されたら嫌なのは勿論分かるけれども、避けれる事態ではあるとも思う。ファンが全てにおいてプライオリティが高いとも私は言い切らない。言い切らないが、それでもスクリーンに入る前と出た後に待ち構えるというのは流石にどうかという話である。そこまで踏み込んでいいのかと伺う方も伺う方だが、許可を出す方も出す方である。
興行的に考えても、一番の宣伝には確かになる。松竹でなおかつ京都の映画館であるMOVIX京都だと尚更。ただ、映画館の中にまで入れてしまうのは、プライバシーは勿論のことながら、純粋に作品を楽しみに来た人、悼みに来た人を慮れば、許可を出す側ではなく止める側に回るのが自然ではないのか?
来た人全員が個人個人として何かを想うのはあるとしても、それに干渉することなく、「普通に」楽しんで帰ってもらうべきではないのか?

近況と宣伝

今年も色々と映画を観ているのですが、『ブラック・クランズマン』が近況に合うような気がします。いや、別にどこかに潜入したというわけではないのですが。
この映画の中には、ホワイトパワーとブラックパワーが戦うシーンがありまして(いや、本当に)、本当は複雑に考えなければならない物事が単純な二項対立に消化されてしまうという、(言葉を選ばなければ)馬鹿なシーンなのです(言葉を選ぶべきだった)。
話題性や瞬発力が優先され、正当性や論理がないがしろにされる近況において、「売り言葉に買い言葉」とならないように、私も生きていかなければならないと日々、感じます。『ブラック・クランズマン』はこういう話では微妙に無いのですが、一度頭に固定観念が入るとなかなか抜けない(もしかしたら死ぬまで)、という話ではあります。
あと、最近、「固定観念」を「固定概念」と言う人が増えてきたので、そろそろ「固定概念」が正しい日本語になるんでしょうか。



さて、本題なのですが、アニクリ様の最新号に、何故か、載せていただくことになりました。
(何を載せていただいているのか?と訊かれると難しいです)
いや、本当に毎回すみません。
読ませていただいたモノから察するに、Nagさんの心境に、私の提供したものが何かしらの共鳴する部分を持っていたのかと存じます。
まだ他の方のモノを読ませていただいてはおりませんが、どうやら今回の号は、「愛の賛歌」のような気がしますので、是非ともご購入ください。
※今回の売り上げは京都アニメーション様へ寄付されるそうです。

今更ながら、グリッドマンの話とか書いておくべきだったなどと思いながら〆
ギャラリー
  • ロケットマン
  • ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 -永遠と自動手記人形-
  • 近況と宣伝
  • スパイダーマン:スパイダーバース
  • スパイダーマン:スパイダーバース
  • スパイダーマン:スパイダーバース
  • 劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~
  • 劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~
  • 劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~
  • ライブドアブログ