2004年10月

2004年10月31日

村井弦斎の『食道楽』(10)

c83fa9eb.jpg 写真は、村井弦斎が1904(明治37)年7月に出版した『実地経験台所重宝記』である。この本は『食道楽』と違って美しい口絵などはなく、いわば実用本位でつくられたといえるだろう。『食道楽』は小説なので、本文中に組み込めない食物や料理に関する情報は、上欄を設けてそこで詳しく説明していた。『実地経験台所重宝記』は、『食道楽』の小説の部分を取り去って、上欄の部分を拡充したような内容になっている。
 とはいえ、単なる実用書にしないところは、やはりヒットメーカーの弦斎である。読みやすくするために、全体を家庭の主婦と「下女」との問答の形式にしている。なお、「下女」という言葉は現在ではほとんど使われないが、当時は普通に用いられていたので、ここではあえて言い換えずにそのままにした。

 目次を見ると、米問答、飯問答、漬物問答、醤油問答、酢問答、味醂問答、酒問答、味噌問答、牛乳問答、水問答、氷問答、砂糖問答、虫問答、臭気問答、野菜問答、名物問答……とまだまだ続く。読んでみると、現代でも通用する内容が少なくない。たとえば、臭気問答では、いろいろな臭いごとに、それを消す方法が述べられている。天ぷらを揚げる時は、最初にひね生姜を入れて揚げ、それから他のものを揚げると油臭くなくなるとか、イワシを煮る時には、梅干しを一つ入れておくと生臭味がとれるとか、かなり参考になる。
 写真の本は、刊行から1年4カ月で12版になっている。まずまずの売れ行きだったようだ。今、テレビに「伊東家の食卓」という人気番組があるが、こうしてみると『実地経験台所重宝記』は、「伊東家の食卓」の“明治版”だといえるかもしれない。ちょっとした便利なアイデアを伝える点が、家庭の主婦層に受けたのだろう。


2004年10月30日

村井弦斎の『食道楽』(9)

7a421166.jpg 『食道楽』が大ベストセラーになった村井弦斎は、その後、続けて2冊の「食」関係の本を出版している。1904(明治37)年6月に『玉子料理鶏肉料理二百種及家庭養鶏法』を、さらに、同年7月には『実地経験台所重宝記』を出した。写真は、『玉子料理鶏肉料理二百種及家庭養鶏法』である。

 この本は、前半に「玉子の効能」「玉子の貯蔵法」「玉子料理百種」「鶏肉の効能」「鶏肉の良否鑑別法」「鶏の屠殺法」「鶏の分割法」「鶏肉料理百種」という具合に、玉子と鶏肉に関する知識と料理のレシピを計二百種掲載している。後半には、「家庭の養鶏法」が詳しく解説されている。
 実は、これは村井弦斎と尾崎密蔵の共著で、主に前半を弦斎が、後半を密蔵が書いたものらしい。尾崎密蔵は弦斎の妻の多嘉子の二人の兄のうちの一人で、もう一人の尾崎藹吉とともに、当時は養鶏場を経営していた。この本が刊行されたのは日露戦争の最中で、大隈重信なども家庭で鶏を飼うことを奨励している。実際に大隈は当時、自邸で家庭養鶏を始めているが、その管理を任されていたのはこの尾崎兄弟だった。前に書いたように、大隈重信と尾崎兄弟の父の尾崎宇作とは従兄弟だったため、両家は親しくつき合っていたのである。

 玉子と鶏の料理書と、養鶏法の解説書を一冊にまとめたという点が、いかにもアイデアマンの弦斎らしい。私の手元にある本は4カ月で7版と版を重ねているので、かなり売れたと言っていいのだろう。料理も、日本料理と西洋料理を半分ずつにしていて、一般の人にとっては目新しい料理も多かったに違いない。そして、以後の弦斎は小説の筆を自ら折り、もっぱらこうした“実用の書”を書くようになっていく。


2004年10月29日

出張先の広島から-----原爆ドーム

a472ef77.jpg 昨夜まで広島に出張していた。携帯電話を自宅に置き忘れたため、誰とも連絡がとれなかったばかりか、このブログを書き始めてから初めて更新できなくなった。しかし、携帯電話を持たずに何日間か過ごすと、なんとも言えない開放感を感じるようになってくる。それほど携帯電話を使わないにもかかわらず、気持ちの上では携帯の“奴隷”になっているらしい。

 実は、これまで一度も広島の原爆ドームを見たことがなかった。見るのが不安でもあった。あまりにも恐ろしいことからは目をそむけていたい、という感情がどこかにある。ここで亡くなった人びとに対して何もできないでいる、というのが後ろめたくもある。そして、自分が生きている間に、再び戦争で核兵器が使われて大量殺戮が行われるのではないか、という恐怖もある。
 しかし、実際にその前に立った時、それらと同時に全く別のことも思った。朝の9時頃、私以外にも何人かが、世界遺産に指定されたこの原爆ドームにカメラを向けていた。構図を決めながら、原爆ドームがあまりにも“絵になる”ことと、いい写真を撮ろうと思っている自分に気づいて、ショックを受けた。360度あらゆる角度から何枚も写真を撮りながら、私はこの被写体を“美しい”と感じていた。そう感じることを恥じながら。涙が出た。


hisako9618 at 09:02|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!4.出張先から 

2004年10月26日

村井弦斎の『食道楽』(8)

9a305fd0.jpg 『食道楽』冬の巻の口絵はたいへん美しい。「大隈伯邸花壇室内食卓真景」と書かれている。ここは、当時有名だった大隈伯爵家の温室で、絵の中には様々な観葉植物やランの花などが見える。種類も豊富で、丹精して育てられているのがわかる。また、テーブルについているのはほとんどが外国人で、西洋式に男女男女と交互に席についている。男性はダークスーツに蝶ネクタイ姿で、女性は色とりどりのドレスに、華やかな帽子をかぶったままなのも面白い。全部で14人の会食のようで、右の列の右から三番目が大隈伯、左の列の右から四番目が綾子夫人だろうと思われる。一人の席にグラスが6つもあるが、いったいどんな飲み物が供される予定だったのだろうか。
 以下に、村井弦斎が書いている解説文から一部を紹介する。

 我邦に来遊する外国の貴紳が日本一の御馳走と称し、帰国後第一の土産話となすは、東京牛込早稲田なる大隈伯爵家温室内の食卓にて、巻頭に掲ぐるは、画伯水野年方氏が丹青を凝して描写せし所なり。
 此粧飾的温室は、所謂コンサーバトリーにして、東西七間、南北四間、東西は八角形をなし、シャム産のチーク材を選び、梁部は錬鉄製粧飾金具を用ゆ。中間支柱なく、上部は一尺二寸間毎に垂木を置き、一面に玻璃を以って覆はれ、下部は粧飾用敷煉瓦を敷詰め、通気管は上部突出部及中間側窓と、下方腰煉瓦の場所に設けらる。(中略)周囲に置ける二層の花壇には、絶えず熱帯産の観賞植物を陳列し、クロートン(布哇産大戟科植物譲葉の類)、ドラセナー(台湾及ヒリッピン産千年木の類)、サンセビラ(台湾産虎尾蘭の類)、パンダヌス(小笠原島辺の章魚の木)其他椰子類等は其主なるものにて、之れを点綴せる各種の珍花名木は常に妍を競い、美を闘はし、一度凋落すれば他花に換へ、四時の美観断ゆる事無し。
 此爽麗なる温室内に食卓を開きて、伯爵家特有の嘉肴珍味を饗す。此中に入る者は恰も天界に在る心地して、忽ち人間塵俗の気を忘る。彩花清香眉目に映じ、珍膳瑶盤口舌を悦ばす。主客談笑の間、和気陶然として逸興更に渇くる事無けむ。


2004年10月25日

村井弦斎の『食道楽』(7)

fd998444.jpg 『食道楽』秋の巻の口絵は「天長節夜会之光景」だ。天長節といっても、若い人には通じないと思うが、明治になって制定された天皇誕生の祝日のことである。その後、「天皇誕生日」と改称され、明治天皇の誕生日は現在は「文化の日」と呼ばれている。この口絵は、1903年11月3日に帝国ホテルで開かれた天長節夜会の食卓を描いたものだ。『帝国ホテル100年史 1890-1990』にも、この口絵とともにこのときに供された料理について書かれている。
 この口絵を見ても、明治時代とは思えないほど豪華なテーブルだったことがわかるが、村井弦斎は次のようにメニューの解説を書いている(これも2ページにわたっているので、一部を抜粋)。

 有名なる夜会の事とて、一千有余名の来賓に充つる其献立の如何に按配され、厨人の如何に苦心せしやは、料理法に重きを置かるゝ者の等しく知らんと欲する処ならん。今其概要を説明せんに、第一は生蠣及魚卵(ウィトル、カビア)の料理にて、生蠣はレモンの汁を湛え、カビアは魯西亜産鱒魚の卵の製したるものなり。第二は冷製魚肉玉子掛汁及寒天寄物(マヨナイズ ド サモン アンギール ア ラ ゼリー)にて、冷製魚肉玉子掛汁は鮭の冷肉に玉子の黄身にて作りたる掛汁を添へ、寄物は鰻の肉をゼリーにて寄せしものなり。第三の料理は雁肝冷製寄物(アスピック ド ホアグラ ド ストランボルグ)と云ひ、雁の肝をゼリーにて寄せたるもの、第四は豚肉冷製寄物(ジャポン デコレ ア ラ ジェリー バアンド フルツ アッソルチ)にしてハムを寄せしもの、第五は冷製混肉及冷製饂飩粉入鳥肉(パテ ド ジビィ ガランチン ド ワライ)とて、混肉は軍鶏の肉へ豚の肉を砕きて詰めしもの、饂飩粉入り鳥肉は雉子の肉を用ひたるなり。第六の松露入冷製鴫肉(ペカシン トリッフェ)は仏蘭西松露を砕きて鴫の腹へ詰め、第七の海老及混菜入洋菜(サラダアラルース サラダ ド オマー)は、野菜類及海老を用ひ、第八の氷酒(ポンチ、ロヤル)は酒を氷結せしめしもの、第九の牛酪製菓子及玉子入り製菓(バボロア ア ラ シャンテー ブウダン アラ デプロマ)は牛乳の寄物にて、玉子入製菓は菓物を包みたり。第十は三鞭入寒天寄冷菓(ジェリー オー フリイ ア ラ シャンペン)にて、ゼリーに三鞭の入りし菓子、第十一の牛酪製氷菓(ムース オー フレイズ)は菓物入の菓子なり、第十二の挽茶及香入氷菓(グラス オー ティーグラス ア ラ ワニー)は、挽茶及香料入のアイスクリーム、第十三の果実製菓(ガドー エ フルツ)は水菓子と干菓子なり。

 シャンペンを「三鞭」と書いているのが面白い。それにしても、生ガキにキャビアにトリュフに鮭に鰻に雁に豚に軍鶏に雉子に鴨に海老にババロアにゼリーにムースにアイスクリームに……と、書いているだけで疲れてしまった。こんな世界が、百年前の帝国ホテルにはすでにあったのである。


2004年10月24日

村井弦斎の『食道楽』(6)

4032f9f2.jpg 続いて、『食道楽』夏の巻の口絵は、「岩崎男爵邸二階建台所」である。大隈伯爵家の25坪の台所もけた外れだが、二階建ての台所というのもさらにすごい。口絵の左上の円内が地下の西洋室で、それ以外は階上の日本料理室である。ちなみに、私が生活しているマンションは、大隈伯爵家の台所よりも狭いのだが。
 この大隈家や岩崎家という当時の上流階級の邸宅の台所が、なぜ『食道楽』に登場したのかといえば、どちらも村井弦斎の妻の多嘉子の親戚だったのである。多嘉子の父親は尾崎宇作といい、大隈重信の従兄弟だ。また、多嘉子の叔母の雪子は伯爵後藤象二郎の後妻になったが、その際に岩崎家の養女となり、岩崎家から嫁入りしている。さらに、後藤象二郎の長女の早苗は、男爵岩崎弥之助に嫁いだ。そういうわけで、弦斎は両家および後藤家とはずっと親しく交際していた。
 春の巻の口絵は山本松谷が描いたものだったが、あとの3巻の口絵は水野年方の手による。水野年方は鏑木清方など多くの門人を育てた絵師である。もともと「報知新聞」連載時の『食道楽』の挿絵は、水野が描いていた。ところが、ちょうど春の巻を単行本にする時期に、水野が一ヶ月ほど病臥してしまった。そのため、春の巻の口絵だけは急遽、山本松谷に依頼したらしい。
 この「岩崎男爵邸二階建台所」の口絵にも、弦斎は2ページの解説を書いている。その一部を紹介しよう。

 同邸の台所は二層の建築にて、階上は日本料理に用ゐ、階下は西洋料理に用ゆ。口絵の正面に見ゆるは階上の日本料理室にて、十二坪の板の間には、諸品秩序よく整頓し、正方形の盛台三脚は三箇の七輪を控えて、前に二脚、横に一脚を据へ、料理物を配列す。(中略)
 階下の西洋料理室は地下を掘下げて造りたるものにて、階上と同じく十二坪あり、四尺四方の暖炉(ストーブ)に高三尺、長六尺、幅三尺と、同じ高さに長四尺、幅三尺の盛台二脚を備へ、諸事の整頓せる事、階上に劣らず。図に見ゆる階梯は階上の西洋室に通じ、其階梯の傍に釣棚ありて食器を納む。二ヶ所の氷室、水道栓一基、電燈四基、瓦斯燈三基あり、階下と言へども明り取りは充分にして、頗る清潔を極む。且つ西洋料理に特有なる一種の臭気決して外に漏れず、是れ此の料理室の特長なり。

 長くなるのでここまでにするが、文中にあるように、西洋料理室と日本料理室で計24坪。これとは別に炊事場が12坪あり、食品などを保管する物置場が5坪、さらに、肉や野菜の下ごしらえをするために5坪の部屋が設けられているという。全部併せるとなんと46坪! くれぐれもお間違えなきように。これは「台所」だけの坪数である。


2004年10月23日

村井弦斎の『食道楽』(5)

7f3ec0f1.jpg 村井弦斎は『食道楽』を単行本にする際、春夏秋冬の各巻の巻頭に、色鮮やかなカラーの口絵を三つ折りにしてつけている。写真は春の巻の口絵で、「大隈伯爵家の台所」を描いたものだ。この絵は、日本の食文化や厨房関係の歴史の本には必ずといっていいほど紹介されている。描いたのは山本松谷である。
 山本松谷は当時、「風俗画報」を中心に活躍していた絵師で、報道画という特異なジャンルの第一人者だった。なにしろ、まだ報道カメラマンは存在しない。新聞や雑誌で写真が絵に取って代わるまでの間、山本松谷は災害現場や行事などの現場に派遣され、その状況をリアルに再現する絵を描いている。この大隈伯爵家の台所の図も、後世まであちこちで引用されることになった。山本松谷については山本駿次朗著『報道画家 山本松谷の生涯』(青蛙房)にくわしい。
 村井弦斎はこの口絵の解説を2ページにわたって書いている。以下はその中からの抜粋である(旧漢字は常用漢字に改め、句読点を適宜補った)。

 台所は昨年の新築に成り、主人公の伯爵が和洋の料理に適用せしめんと最も苦心せられし新考案の設備にて、其の広さ二十五坪、半は板敷、半はセメントの土間にして、天井に凡そ四坪の硝子明取りあり。極めて清潔なると器具配置の整頓せると立働きの便利なると鼠の竄入せざると全体の衛生的なるとは、此の台所の特長なり。(中略)
 此の台所にては毎日平均五十人前以上の食事を調ふ。百人二百人の賓客ありても、千人二千人の立食を作るも、皆な此にて事足るなり。伯爵家にては大概各日位に西洋料理を調へらる。和洋の料理、此の設備に依れば手に応じて成り、復た何の不便不足を感ずる所無し。此の台所の斯くまで便宜に適したるは、ストーブにも竃にも瓦斯を用ゐたるが為めなり。瓦斯なる為めに薪炭の置場を要せず、煙突を要せず、鍋釜の底の煤に汚れる憂も無く、急を要する時もマツチ一本にて自在の火力を得べし。(中略)
 文明の生活をなさんものは文明の台所を要す。和洋も料理を為さんものは宜しく此の新考案を学ぶべし。


2004年10月22日

週末の風邪は最悪

 20日から風邪気味だったのだが、仕事に追われて、休養をとるどころではない。そのため、昨日は完全に風邪の症状になってしまった。しかし、10月末までにあと60枚は書かねばならない計算で、しかも来週は出張で3日間つぶれてしまう。ついに、今日は南部古書会館(五反田)の古書展へ出かけるのをあきらめた。会期は明日までだが、多分明日も無理だろう。古書漁りに行けないとなると、無性に本が読みたくなるので困る。
 風邪薬が切れていたのだが、一番近い薬局へ歩いていく気力も出ない。昨日、そんなことを講談社の編集者のAさんに話したところ、ちょうど送る予定の資料があるので、その中に薬を一緒に入れてくれるという。今日、宅急便が届き、資料のコピーや本の間から風邪薬が出てきた。思わず、西行ではないが「かたじけなさに涙こぼるる」とAさんにメールを送った。


hisako9618 at 16:08|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!3.身辺雑記 

村井弦斎の『食道楽』(4)

4b5aab11.jpg 左は、『食道楽続篇』に掲載されている村井弦斎の肖像写真である。写真からも、非常に個性の強い人物だったことがうかがえよう。
 村井弦斎は「報知新聞」に連載した『食道楽』を単行本化する際に、これまで彼の小説を出版してきた春陽堂や博文館に頼まず、自費出版の形で出している。そのため、よく弦斎を紹介する際に「『食道楽』で得た莫大な印税で、平塚に広大な土地を買って住んだ」というように書かれているが、厳密に言えば「印税」ではなかった。書店に直販して得た収入だったのである。なぜ自費出版という面倒な形で出したのかといえば、自分が納得いくまで原稿に手を入れて、将来的にも改訂を続けていきたい、ということだったらしい。
 弦斎は『食道楽』を自費出版する際に、様々な工夫をしている。ページには上欄(註釈欄)を設け、巻末には「日用食品分析表」「料理法の書籍」「台所道具の図」「西洋食器類価格表」「西洋食品価格表」などが追加されている。また、メモ用に罫線だけのページも用意されている。小説でありながら、料理の実用書としても使える本。それが、読者に受けた理由の一つでもあっただろう。
 また、弦斎は自分で本の広告の宣伝文も考えていて、春の巻が出たときは「此本一冊は鶏一羽を買うよりも安し」、夏の巻が出たときは「一升の酒を飲まんより此書一冊を買うに如かず」という広告が出ている。特製の帙(本を入れる箱)も作り、秋の巻が出ると「お歳暮やお年玉の御進物には、弦斎居士の食道楽、春の巻、夏の巻、秋の巻を用ゐ給ふ程、貰う人に悦ばらるゝ事はありません」と、『食道楽』を進物用としても勧めた。
 最後の冬の巻が出たのは日露戦争開戦の直後である。戦争中に、『食道楽』などというタイトルの本が売れたのは不思議な気もするが、弦斎はこんな宣伝文を書いていた。
  出征軍人への贈物はこの書に限る
  此書の料理法は戦地にて大評判
  病人料理百五十種は医師の大賛成
  傷病者平病者へ贈らば唯一の慰藉たり

 実際に、日露戦争に出征した軍人たちが、『食道楽』を持ちこんで料理をつくったり、読んで楽しむということがあったらしい。当時の新聞記事や、水野広徳による『此一戦』の中にも『食道楽』が登場する。
 村井弦斎という人、もし百年遅く生まれていたら、なかなかの売れっ子コピーライターとして活躍していたかもしれない。


2004年10月21日

村井弦斎の『食道楽』(3)

d05a9121.jpg 写真の右がオリジナルの『食道楽』冬の巻、左は柴田書店から出た復刻版。やはり、復刻版はどうしても色合いが微妙に違ってくる。それでも、表紙はあまり気にならないが、中に三つ折りにして綴じ込まれている多色刷りの版画は、オリジナルに比べて復刻版は色がくすんでいて、同じものとは思えないほどだ。

 『食道楽』の主人公は、大食漢だが気が優しく、誠実な大原満という文学士。そして、ヒロインは料理上手で美人なお登和嬢。この2人の結婚話がまとまりそうになるのだが、そこに思いがけない邪魔が入り、大原は別の女性との不本意な結婚をせざるをえない状況に追い込まれる。最後は、苦肉の策で大原はお登和を日本に残して洋行し、問題を先送りした形で『食道楽』は終わっている。
 小説のストーリーとしては非常に単純で、大原とお登和譲がうまく結ばれるかどうかの一点で、読者をはらはらさせながら進んで行く。しかし、『食道楽』における主役は、ある意味ではこの2人以上に“料理”だといえるだろう。『食道楽』の本文中には、約630種もの料理が登場するのである。
 そのため、ストーリーとは関係なく、途中でお登和が大原に手料理をふるまったり、知人の奥さんに料理を教えたり、お登和の兄の中川(著者の村井弦斎の分身)が、料理に関する蘊蓄を傾ける、という場面が延々と続くことになる。
 630種全てではないが、小説の中に多くの料理のレシピが登場し、その作り方まで丁寧に説明している。しかも、一番多いのは日本料理だが、明治30年代ではまだ非常に“ハイカラ”だった西洋料理のレシピもたくさん登場し、読者を惹きつけた。もちろん、中華料理も出てくる。
 そのため、『食道楽』は現在、“日本初のグルメ小説”とか“食通小説”と呼ばれて、食の歴史に関する本には必ずといっていいほど登場する。また、『食道楽』が発表された当時の読者の多くも、料理を教えてくれる実用の書、としてこの小説を読んでいたらしい。だが、それも『食道楽』の一面ではあるが、実際にはそれだけではなく、この作品はもっと奥が深い。
 結果的に見ると、村井弦斎はこのベストセラーを書いたことで、明治文壇と完全に決別するような形になってしまう。当時の文壇作家たちは、「あんなものは小説ではない」と蔑むのである。


2004年10月20日

村井弦斎の『食道楽』(2)

1a5dfcb7.jpg 村井弦斎は、明治20年代から「郵便報知新聞」(のちに「郵便」を取って「報知新聞」と改題)の小説記者として活躍し、『食道楽』を書く以前も同紙に様々な作品を連載している。弦斎の新聞小説は、それぞれの時代の読者を熱狂させるほど人気があった。『小猫』『桜の御所』『写真術』『深山の美人』『両美人』『伝書鳩』など、多数の作品が春陽堂などから単行本化されている。
 また、『日の出島』は「報知新聞」に足かけ6年(途中休載も含む)連載された“超大作”で、明治に書かれた小説のなかでは最も長いと言われている。単行本が11巻13冊、合本が上中下の3巻(いずれも春陽堂)になっている。この小説も当時の読者には大いに受けた。しかし、あまりの長さが災いして、のちに復刻されることはなく、現在この小説を読みたいと思っても、国会図書館に通うか、古書市場に出るのを待つしかない。ちなみに、神奈川県立図書館には全巻が揃っている。
 このように、一世を風靡した村井弦斎の著作はいまはほとんど忘れられてしまっている。その中で、時代を超えて読み継がれてきた唯一の作品が『食道楽』だと言ってもいいだろう。明治以来、『食道楽』はくり返し復刻されてきた。

 写真は様々な『食道楽』である。一番右の2冊は縮刷版の『食道楽』と『食道楽続篇』。判型は文庫本よりも小さいが、厚さは4cm近い。1914(大正3)年と1915年の刊行。その隣は1920(大正9)年に刊行された『十八年間の研究を増補したる食道楽』で、小説の後にいろいろな料理に関する記述が加えられている。その隣の2冊は、弦斎が没した翌年(1928年)に玉井清文堂から刊行された『食道楽』春・夏の巻と秋・冬の巻の2冊。このシリーズでは、『食道楽続篇』の2冊と『十八年間の研究を増補したる食道楽』の増補部分を納めた『食道楽続々篇』の計5冊が刊行されている。これは当初、「弦斎全集」として刊行が企画されたらしいのだが、結局、『食道楽』のみで終わってしまった。
 その隣は、新人物往来社から1978(昭和53)年に『食道楽』の正続4冊が復刻されたうちの2冊。そして、一番左はやはり新人物往来社から1976年に刊行された『食道楽』である。新人物往来社から出たものは、いずれも弦斎の長女の村井米子の編訳で、現代語訳されているので読みやすい。これ以外に1905(明治38)年に新橋堂から出た『食道楽 全』という春夏秋冬4巻の合本があるが、写真に入れ忘れた。
 現在までに出ている『食道楽』は、おそらくこれで全部だろうと思う。このすべての部数を合計すれば、村井米子が書いているように50万部以上になっているかもしれない。


2004年10月19日

村井弦斎の『食道楽』(1)

cc90be67.jpg 閑話休題。iMacが正常に動いているうちに古書の話に戻ろう。
 実は、2年半かかって、今年6月末に村井弦斎の評伝を岩波書店から上梓することができた(「『食道楽』の人 村井弦斎」)。そのため、いま私の手元には、弦斎関係の本や資料が山積みになっている。この評伝の中で写真を掲載できなかったもの、あるいは、弦斎以外の人が書いた明治の料理関係の書物などをこの場で取り上げてみたいと思う。
 写真は、柴田書店から1976(昭和51)年5月に復刻された『食道楽』の春・夏・秋・冬の巻の4巻だ。特製版と普及版の2種類があって、こちらは特製版で価格が1万8000円。「限定500部のうち342」とナンバーが打たれている。花のカバーが美しい。1903(明治36)年から翌年にかけて刊行されたオリジナルも持っているが、表紙カバーが残っているのは1冊だけだ。100年以上経つと、よほど保存状態がよくないと紙のカバーなどは破れてしまうようだ。

 『食道楽』は「報知新聞」に1903年1月から12月まで連載された新聞小説である。作者の村井弦斎は、翌年からの日露戦争が終わると、同紙に『食道楽続篇』を1906年1月から12月まで連載した。どちらも、連載中から3ヶ月分ずつをまとめて、春・夏・秋・冬の巻の単行本として出版されている。つまり、単行本は正・続で計8巻になっている。
 続篇のほうはあまり話題にならず、売れ行きも芳しくなかったようだが、正篇の『食道楽』の方は飛ぶように売れたばかりか、社会的にも大ブームを引き起こした。春の巻は6ヶ月で30版を記録し、4巻では軽く10万部を越えた。明治のよく売れた小説としては、この『食道楽』と徳冨蘆花の『不如帰』の2冊が挙げられるほどである。しかし、『不如帰』が文学年表などには必ず載っているのとは対照的に、『食道楽』の方はほとんど掲載されていない。『広辞苑』には弦斎の項目があるものの、いま百年前のベストセラー作家のことを知る人は少ない。


2004年10月18日

パソコンが壊れる・その3

 昨日の夕方、iMacを抱えて、秋葉原の「クイックガレージ」というアップル提携の修理会社へと駆け込んだ。ここは、アップルサービスセンターから紹介してもらった1つ。アップルサービスセンターに修理を頼むと、最初からマシンを初期化するのが原則だが、こうした提携会社の場合は、相談次第で初期化せずにデータを残すことも可能だというのである。それなら、少しでも望みのある方に賭けたい。

 ところが……マシンを持ち込んで、その場で電源を入れると、なんとあれほど悩まされた「カーネル・パニック」が出ずに、スイスイ動くではないか。まるで、お腹が痛くなって病院に駆け込んだとたんに、痛みが嘘のようにおさまった、という気まずい状態。これはいったいどういうことなのか。
 向こうの人が言うには、マシンにはどこも異常はなさそうだが、接続している周辺機器同士のソフトの関係の相性が悪かったりすると、そういう“悪さ”をする可能性があるという。つまり、持ち込んだ場では、電源とキーボードだけをつないだ状態だった。しかし、自宅で使っている時は、プリンタとNTT東日本のBフレッツのケーブルをつないでいる。さらに、可能性が高いのがキーボードだ。アップル純正のキーボードにUSBで親指シフトのキーボードを接続して使っている。これらを接続していない状態で正常に動くということは、このどれかが怪しいことになる。

 実は、親指シフトについて話し始めると1冊本が書けそうなほどだが、私は「富士通オアシス」時代からの親指シフトユーザーである。同じ立場の人ならわかってもらえるはずだが、パソコンをバージョンアップするたびに、それに接続できる親指シフトのキーボードを探すのに大変な思いをしてきた。キーボードだけで4万5000円という法外な値段にも、涙をのんで使ってきた。
 そうまでして親指シフトに固執するのは、普通のキーボードの2倍近い高速で入力できるからだ。ひらがなの配列が全く違うのである。実際には、英文はJIS配列で打っているので、2種類のキーボード配列を覚えて使っていることになる。バイリンガルみたいなものだ。
 しかし、今年iMacに買い替えた時、iMac用親指シフトキーボードが見つからなかったので、ついに使うのをあきらめようと思った。ただし、Windows用の親指シフトキーボードは1万円弱であったので、ダメもとでつないでみたところ、Macでも動いた。以来、Windows用キーボードを接続して、7ヶ月ほどずっと使ってきたのだが、これが今回のトラブルの元凶である可能性がある。
 クイックガレージの人からは、OSから全部再インストールするのが一番いい、と勧められたが、とりあえず自宅にマシンを持ち帰って、プリンタドライバを再インストール。さらに、インターネット閲覧ソフトを変更し、キーボードはアップル純正のものだけにした。
 その結果、全く異常なくこれまで通り動くようになった。本当にうれしかった。もちろん、一度初期化した方が万全なのだろうが、忙しい時にそれをするのは辛い。当面、この状態で使っていこうと思う。それにしても、親指シフトが使えないのはもどかしい……。


hisako9618 at 10:38|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!3.身辺雑記 

2004年10月17日

パソコンが壊れる・その2

 大変なことになってしまった。朝からアップルサービスセンターに電話をして、iMacの故障について電話で聞きながらいろいろ試してみた。一昨日から繰り返し出ているエラーメッセージは「カーネル・パニック」と言って、パソコンのOSの根幹部分に何か不具合がある時に出るものだという。
 電話で指示を受けた通りにDVDを入れてHDをチェックすると、「問題なし」と出る。だが、再起動しても、やはり「カーネル・パニック」が出てしまい、全然動かない。
 最後の(?)手段として、データを消去せずに再インストール、ということを電話で指示されてその通りやってみたが、再起動するとまたもや「カーネル・パニック」が死神のように現れる。
 さすがにがっくりして、気力を失った。こうなるともう、原因がわからないので、バックアップを取っていない写真約1000枚と700名ほどの住所録と原稿類のすべてを失うことを覚悟して、修理することになるらしい。バックアップをとることの重要性を、これほど痛感したことはない……。
 しかも、パソコンの箱を処分してしまったので、宅急便で送るのも大変で(iMacはモニターの下に首の部分があって、そこが折れやすい)、どうやって修理に持ち込むかも問題。さらに、どれくらいの期間、修理にかかるかもいまのところわからない。何週間もiMacなしでとなると、本当にパニック状態だ。
 まだ買ってから8ヶ月しか経っていないのだが、1日20時間稼働という感じであまりに酷使したので、ストライキをしているのか。ブログも当分、写真なしになってしまいそうだ。せっかく、紹介しようと思っていた本の写真をストックしていたのだが、まさかこんなことで挫折するとは……。

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2004年10月16日

パソコンが壊れる

 大ショック! 昨日から突然、愛用のデスクトップパソコン(iMac)の調子がおかしくなったかと思ったら、今日はついに立ち上がらなくなってしまった。今はノートパソコン(iBook)から更新している。しかし、iMacの文書のバックアップを取っていなかったので、何も手につかなくなってしまった。今年春に買い換えたばかりだったので、まさか壊れるなんて、と安心しきっていた私が悪いのだが。機械はしょせん機械だと、改めて肝に銘じた。

 昨日は久しぶりに、毎日新聞出版局で仕事をしていた頃の同僚T氏と会った。私が同社で「助っ人編集者」をしていたのは、1年余りにすぎない。しかし、振り返ってみると、ずいぶんいろいろなことがあった。1時間ほど雑談したが、新聞と出版の未来など、暗くなる話も多かった。

 その後、東京古書会館の古書展へ。時間があまりなかったので、1時間ほどさっと見て4冊購入。掘り出し物はそれほどなかったが、古書の森を彷徨してしばし浮き世を忘れる。

 夕方から、都内某所のサロンに講師として招かれて行く。集まっていたのは20名ほどで、業種は様々。これまでの著書2冊と、今年6月に出版した村井弦斎の評伝の話をする。取材のエピソードや調査の苦労話などをしたが、普段はあまり接触がない業界の方々だったので、はたしてどれくらい興味を持っていただけただろうか。
 何冊かでも本の売り上げにつながれば……などと考えてしまうのが情けないが、これはホンネ。なにしろ、ノンフィクションの分野は厳しい。毎回、赤字覚悟で書いていて、予想通り赤字になるのだから。それでも、好きで書いているのだからどうしようもない。

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2004年10月15日

黒漆塗り金蒔絵木箱入りの本

71cd64cf.jpg 変わり種の古書といえば、こんなものもある。と言っても、別に自慢するようなものではないが。写真は、黒漆に金の蒔絵で松と川が描かれた木箱入りの2冊組みの本だ。タイトルは『日本女礼式大全 上下巻』で、著者は坪谷善四郎、版元は博文館である。初版は1897(明治30)年だが、私が手に入れたこの本は10年後に13版になっているものだった。
 購入した時は、この金の蒔絵の上に汚れがこびりついていて、ほとんど絵柄もわからない状態だった。それをきれいにすると、下から松の木が鮮やかに浮かび上がってきたのである。漆もあちこちはがれているが、つくられた当時は、もっとずっと美しいものだったことだろう。

 この贅沢な木箱入りの本の内容は、いったいどのようなものか。明治時代において、日本女性にもとめられたもの(知識、心得、マナー等)が、マニュアル化されているのだ。目次からその細目を書き出すと、婚姻礼式、出産、小児の教育、奉仕(夫や親への奉仕)、交際、料理、身じまい(髪の結い方や化粧のこと)、作文、和歌、茶道、生花、盆石、香、琴、手芸(編み物、裁縫など)、家事経済、奉公人使役、衛生、進物贈答、金銭出納……などである。
 おそらく、嫁入り前の娘に対して両親がこの種の本を授ける、というのが慣例になっていたのだろう。ある程度、上流階級の子女が対象だったかもしれないが、それにしても、当時の家庭の婦人はなんと大変だったのだろうか。
 なにしろ、家事を楽にしてくれる電化製品など、なに一つない。使用人がいたとはいえ、洗濯機も掃除機も冷蔵庫も電子レンジも存在しない。しかも、こうした家事一切をとりしきった上に、花も生け、和歌も詠み、お茶もたて、琴も奏でられなければならなかったわけだ。婦人としてのたしなみ、教養も求められていたのである。
 いま、日本でこうした“花嫁マニュアル”みたいなものをつくるとしたら、はたしてどんな内容になるだろうか。若い女性たちには、「ウッソー!」とか「アリエナ〜イ!」と一蹴されそうだが……。そんなことを想像しながら読んでいると、明治の女の強さ、というものがなんとなくわかるような気がした。

2004年10月14日

百年前の世界の文豪

485211b3.jpg 「歌は世につれ、世は歌につれ」と言うが、時代とともにさまざまなことが移り変わってゆく。ある時代には常識と思われていたことが、しばらく経ってから見ると、まったく通用しなくなっていることもある。そこで、左の『世界文豪伝』(中内蝶二、文光堂刊)。これは、「秀才文壇」の臨時増刊号として1905(明治38)年10月に刊行されたものだ。日露戦争が終わった直後である。ちなみに、明治の月刊誌は、現在のように実際より日付が1〜2ヶ月早いということはなく、ほぼ日付通りに刊行されているようだ。
 この中には16人の名前が挙げられている。どんなラインナップかというと、バイロン(英)、シェレー(英)、トルストイ(露)、マコーレー(英)、カーライル(英)、エマーソン(米)、ゲーテ(独)、シルレル(独)、司馬遷(中国)、ウォルヅヲォス(英)、アーヴィング(米)、ハイネ(独)、ユーゴー(仏)、シェークスピア(英)、ミルトン(英)、韓退之(中国)である。
 これを見て、かなり意外に感じる人が多いのではあるまいか。まず、バイロン、シェレー(シェリー)と詩人2人がトップに躍り出て、続いて、日本で大人気のトルストイが小説家では最初に登場する。それはいいが、続くマコーレー、カーライルとなると、現在の日本でどれほど読まれているだろうか。名前も知らない人が多いのではないか。また、アジアでは司馬遷はいいとして(文豪に数えるかどうかは別だが)、韓退之の名前も私にはピンとこなかった。国別に見ると過半数がイギリスである。当時の世界の文壇の中心はロンドンにあった、といっても過言ではない。
 こうしてみると、歴史家や評論家が文豪として高く評価されていたことがわかる。小説などは男児一生の仕事ではない、という社会通念が当時の日本にはまだ残っていたわけである。
 マコーレーとカーライルは、19世紀前半のイギリスの思想界の代表として紹介されている。明治維新以後、日本が西欧文化を取りいれた際に、この両人の歴史書が日本語に翻訳されて、知識人必読の書のようになっていた。アーヴィングは『スケッチ・ブック』で名をなした随筆家・小説家だが、この人も今ではそんなに知られてはいない。韓退之というのは韓愈の別名で、唐代の詩人。
 それにしても、ウォルヅヲォスとはいったい誰? 次の瞬間、一人で笑ってしまった。イギリスの詩人ワーズワースのことだった! まさに「ギョーテとは俺のことかとゲーテ言い」である。

 ところで、数時間前に京都出張から帰ってきたが、雑用が山積みになっていてどっと疲れた。また、携帯電話からも書き込みができることが確認できた。こんなふうに、どんどん便利になっていくのが、なんだか信じられないほどだ。


2004年10月13日

出張先から

秋の京都は観光客であふれている。まだ、紅葉には早いのだが。仕事以外で来たいものだ。少し疲れ気味で、体がいうことをきかない。

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2004年10月12日

出張先から

いま京都のホテルにいる。携帯からこのブログを更新できるかどうか、テスト。

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2004年10月11日

1893年の東京地図

416a26e1.jpg 地図の話をもう1つ。写真は、1893(明治26)年の「東京全図」(2万分の1)だ。日清戦争の前年の東京市がどんな様子だったのか、知りたいと思って手にとったのが運のつき。別に復刻版でもかまわないのに、本物を見てしまうとつい欲しくなってしまう。結構高かったのだが、こうしていま手元にある。
 見ていてすぐに気づくのは、当時の“東京”がいかに小さかったかということだ。現在のような東京湾の埋め立て地は存在せず、地形がかなり違っている。鉄道のマークは、この地図の中で新橋駅から横浜へのわずか1本のみ。今の網の目のような鉄道網が嘘のようだ。
 しかも、東京市は当時15区しかなく、あとは6つの郡だった。15の区とは、日本橋区、京橋区、麹町区、赤坂区、芝区、神田区、本郷区、浅草区、麻布区、牛込区、四谷区、下谷区、小石川区、本所区、深川区。現在の品川・中野・新宿・池袋・渋谷などは6つの郡の方に入っている。こう言っては失礼だが、当時は、都心から遠く離れた辺鄙な場所だったのである。

 また、この地図の周囲には、東京の名所33カ所がイラスト入りで紹介されている。そのうちのいくつかを挙げてみると、芝公園地紅葉館、高輪泉岳寺四十七士墓、新富町演劇場新富座、京橋、永代橋、両国橋、亀戸神社、駿河町三井銀行、市ヶ谷士官学校、九段坂上靖国神社、神田神社、不忍池弁天、浅草公園金龍山、吉原遊郭、吾妻橋、日本橋、宮城二重橋などで、「神社」と「橋」が多いのが印象的だ。
 いまや、世界でも指折りの大都市となった東京。わずか百年余りでこれほど変わってしまったのかと、改めて痛感させられる。変わらないのは、中心にある皇居周辺だけだろうか。

 今日から13日まで京都へ出張。まだ紅葉には少し早いが、秋の京都は楽しみだ。