2005年06月

2005年06月30日

『女学世界定期増刊 女重宝記』(明治39年1月15日号)・その2

 明治の雑誌って、どうしてこんなに面白いんだろう!……と一人で興奮しているのも馬鹿みたいなので(「みたい」は余計だが)、こうして他人まで引きずり込もうという魂胆で、飽きもせずブログに書いている気がする。
 前回取り上げた『女学世界定期増刊 女重宝記』も、じっくり読み出すと止まらなくなる。残念ながら、時間がないので斜め読みだが……。これが出たのが日露戦争終戦の翌年だ。歴史学的にも社会学的にも、様々な点で日本人の暮らしが変わっていくターニングポイントの時期といっていい。明治維新後、ひたすら西欧化に努めてきたものの、西欧からは極東の“野蛮人”の国としか見られていなかった日本が、世界列強の1つであるロシアと戦って、曲がりなりにも勝ったのである。「これで“一等国”の仲間入りした」という意識を、当時の日本人は強く持っていた。
 こうした雑誌を見ても非常に啓蒙的だ。西欧人の生活習慣などを紹介して、優れている点は積極的に導入するように勧めると同時に、日本人の伝統的な暮らしの知恵も再評価しようとしている。これは、読者が女性に限定されている婦人誌だが、当時の雑誌の作り手というのはほとんど男性だった。そのため、男性の目で見た「新しい日本婦人」の理想というものが、誌面からは浮かび上がってくる。西欧のように男女同権を唱えたり、選挙権を望むような生意気な女性は、決して望ましくはない。あくまでも男性に対しては控えめで、家庭をしっかり守るという「良妻賢母」が理想とされているわけだ。
 『女学世界定期増刊 女重宝記』の序文には、次のように書かれている。

 女子の家庭に於ける任務は極て重大にして其為す所は頗る多端に亘らざるべからず、是を以て家政を完全に処理せんと欲せば其応用を万般の智識に須たざるべからず、女重宝記は眇たる一小冊子に過ぎずして元より大方読者の粲に供するに足らずと雖も聊か婦人斉家の用意に資せんと欲する編者の微意を納れ給はんことを

 目次を見ると「人生観/重宝記/家政門/庖厨門/花鳥門/衛生門/教訓門」という7つの大きな項目に分かれていて、さらに細かい項目が並んでいる。本誌全体の最初が「人生観」で3つの記事が並んでいるが、その最初の記事の見出しが「醜婦安心の礎」だったのを見たときは、笑い出しそうになった。要するに、不運にも醜く生まれてしまった女性も絶望することはない、美人が必ずしも幸せな一生を送れるとは限らない――という内容なのである。
 それに続いて「女訓小言」「家庭錦嚢」と続く。「家庭錦嚢」には短い金言が並んでいて、たとえば「小なる節倹」と題して、次の文章が掲げられている。

正しくして小なる倹約は必ず大なる実を結ぶものなり、仏蘭西が世界の大国たる所以は畢竟其の国民が正しく節倹するの力に在り

 仏蘭西が……といわれてもなあ、という気がしてしまうが。
 とにかく取り上げられているそれぞれの項目の内容が面白い。「重宝記」のなかには「婦人旅行節用」というのがあって、旅行の支度について書かれていた。女性が旅行をする時に所持すべきものの一覧が掲げてあるのだが、百年後の今と比べてみてどうだろうか。半紙と筆墨を持ち歩くなど、よほどの趣味人以外は考えられないだろう。

蝙蝠傘、履物、足袋、跡掛紐(藁草履を履くときに使うといい)、手拭、化粧具、遣い紙、半紙、筆墨、名刺、扇、磁石、手帖、がま口、糸針、ハガキ、封筒、巻紙、郵便切手、万年糊、薬、ゴム引裏の袋(濡れた物を入れるのに重宝する)、耐風マッチ、小刀錐、留針、油紙、袱包、紐類

 「磁石」のように首をかしげるものもあるが、こうしたものを持って旅行すると便利だ、というわけである。さらに、旅行案内書のこと、旅行費用のこと、旅行の衣類のこと、宿での茶代のこと、汽車に乗る心得まで(生まれてから一度も汽車に乗ったことがない人も多かったはず)、細かく説明してある。
 そのすぐあとのページに「新案勝利占ひ」というのが載っていて、これにも笑ってしまった。なにしろキーワードが「東郷明神と大山権現は常勝健全なる活神(いきがみ)也」というのである。今度、暇なときにやってみたいと思う。


2005年06月29日

『女学世界定期増刊 女重宝記』(明治39年1月15日号)

e4767d58.jpg 前回書いた『婦人世界』とともに、東京古書会館のあきつ書店の棚で、面白い雑誌をもう1冊見つけた。『女学世界』の増刊号で、表紙に大きく「女重宝記」の文字がある。刊行は明治39年1月。これはもう、見るなり飛びついた(?)。『女学世界』という雑誌があることは知っていても、すべてのバックナンバーを見ているわけではない。そのため、同誌の増刊号に『女重宝記』という特集号があるのは初めて知った。
 このブログでも過去に紹介したが、村井弦斎はこの前年の明治38年7月に『台所重宝記』という本を出している。これは、大ベストセラーになった『食道楽』(単行本は明治36年〜37年に4巻に分けて順次刊行)の中に出てくる食品や台所に関する実用的な内容を、より詳しくして1冊にまとめたものだ。『台所重宝記』も非常によく売れたらしく、私の手元にある本は4カ月で12版になっている。ちなみに、この『台所重宝記』は『食道楽』と同様に、弦斎の自費出版である。
 『女学世界』のこの特集号は、弦斎の『台所重宝記』の半年後に出ているわけで、同書を参考にしたのはまちがいないだろう。『女学世界』の版元は博文館で、弦斎は博文館からすでに『下女読本』『小僧読本』といった実用書を出していた。弦斎にそれを書くことを勧めたのは、博文館社長の大橋新太郎だったらしい。

 あくまでも想像だが、弦斎の『台所重宝記』を見て、『女学世界』編集部ではすぐにこの『女重宝記』という特集号を企画し、弦斎にも執筆陣に加わってほしいと依頼したのではないか。明治39年1月に刊行しているので、印刷・製本期間のことも考えると、少なくともその2、3カ月くらい前から編集作業に取りかかっていたはずだ。
 だが、弦斎は明治39年に長年勤めた『報知新聞』を辞めて、実業之日本社が創刊した『婦人世界』の編集顧問になっている。『女学世界』とはライバル関係にあるといえる婦人雑誌だ。そのため、弦斎は『女学世界』への執筆を断ったものと思われる。『女重宝記』の目次を見ても、村井弦斎の名前はない。
 明治38、39年頃といえば、人気作家だった弦斎のピークの時期だ。『報知新聞』を辞める話が伝われば、出版業界からは引く手あまただったに違いない。それにもかかわらず、弦斎は実業之日本社社長の増田義一への義理を通して、同社の雑誌以外には一切原稿を書かなくなる(わずかにインタビュー記事は載っているが)。また、単行本も実業之日本社からか、自費出版するかのどちらかで、他社からは全く出していない。
 この1冊の雑誌から、そんなことをいろいろ想像してしまった。それにしても、あきつ書店さんに感謝である。これも300円という安さだった。今回の古書展では、前日の『婦人世界』とこの『女重宝記』の2冊が最大のヒットだった。


2005年06月28日

村井弦斎の写真が掲載された『婦人世界』(大正10年2月号)

fe4f4cf8.jpg この異様な暑さ! まだ6月だというのに、もう真夏のようだ。室内で原稿を書く生活を送っていると、この暑さにはけっこう影響される。私はクーラーが苦手で、“冷房病”で体調を崩すことが多い。とはいえ、窓を開けても熱気が入ってくるだけ。クーラーをつけたり消したりしながら、冷えすぎないようにするしかない。この2日間で、予定の半分の原稿枚数しか書けなかった……。

 先週の東京古書会館では、あきつ書店さんの棚で、思いがけないものに出会うことができた。様々な雑誌が300円〜400円程度で並んでいて、『婦人世界』が数冊目に入ったので手に取ったが、いずれも昭和期の号だった。村井弦斎は昭和2年に没していて、『婦人世界』には大正14年までしか書いていない。
 会場を一周して、帰る前に未練がましく、再びあきつ書店さんの棚の所に行ってみると、別のところに『婦人世界』が1冊ある。さっきは見落としていたらしい。あわてて手に取ってみると、大正10年2月号だった。これには村井弦斎が書いているはず、と思いながら目次を見てびっくりした。
 なんと、この号から弦斎の「山中穴居生活」の体験記が連載されていたのである。彼は青梅の御岳山の山中に、最初はテントをはり、冬が近づくと竪穴式住居をつくって、およそ半年のあいだ山中で暮らしたのだった。その間、“天然食”と称して(原始人のような生活、ともいえるが)、自然界にあるものだけを採取して食べることを試みた。木の根、木の実、山菜、沢ガニや小鳥、さらにはいなごや芋虫などの「生きた虫」まで捕って食べた(!)という。
 当時の新聞も、弦斎のこの「山中穴居生活」について面白おかしく書きたてている。今なら、テレビのワイドショーで奇人ネタとして連日取り上げられる、といった感じだが、実際に、これ以後の弦斎は、奇人変人扱いされるのが定着してしまった。
 だが、弦斎はどうも、「食」の実験という目的以外に、あえてこうした奇行で“話題作り”をしたようなのだ。全部計算の上、だったらしいのである。当時、『婦人世界』は強力なライバル誌が出現したため、売れ行きが低迷していた。
 それにしても、このときの弦斎はすでに還暦に近い年齢だ。にもかかわらず、こうした奇妙な実験をやりはじめ、食べたものと「便通」との関係を調べるために、あの断食実験のときと同様に排便のたびにその重さを計量し、回数や形状、硬さまでくわしく記録している。
 それが、『婦人世界』という婦人誌に掲載されたのだ。読者はいったいどう思っただろうか。残念ながら、その後の号を見ても、読者からの投書でこの記事に触れたものは載っていなかった。むしろ、非難の投書が編集部には届いていたかもしれないが、そういうものは、誌面に載せずに握りつぶされたのだろう。

 それにしても、『婦人世界』のこの号には、記事だけでなく弦斎の写真までが載っている。国会図書館で『婦人世界』のバックナンバーを調べたときにマイクロフィルムで見ていたが、まさか雑誌の現物がこうして手に入るとは思わなかった。
 キャプションには「村井弦斎氏は天然生活研究のため武州御嶽の山中にて天幕生活を営み、穴居生活をしてをられます。上は天幕、中央は縦穴式土窟の入口に立つ弦斎氏、下は入口の前に見ゆる日出山の雪景です。詳しくは本号から連載される記事を御読み下さい」と書かれている。



2005年06月27日

『写真展 パリ・街・人――アジェとカルティエ=ブレッソン』(図録、1988年)

d71c4b07.jpg 24日の五反田での古書展で、昔の恋人に出会ったような気持ちになってつい買ってしまったのが、この写真展の図録だった。1988年6月4日から7月24日まで東京都庭園美術館で開催されたもので、「パリ・街・人――アジェとカルティエ・ブレッソン」とタイトルにあるように、フランスを撮った写真家としては最も有名なウジェーヌ・アジェとアンリ・カルティエ=ブレッソンの2人の写真展である。
 図録は、アジェとカルティエ=ブレッソンと解説篇との3分冊になっていて、箱に入っている。最近、展覧会へ行っても、図録を買うのは、よほど気に入ったときだけにしている。なにしろ図録は重くてかさばるので、書棚がすぐ埋まってしまうのだ。
 それでも、この2人の写真展の図録は、これまでにも買ってきた。アジェの古いパリの街並や人々の写真を見ていると、本当になんともいえない気持ちになってくる。日本でいえば「明治」の頃だ。「ふらんすへ行きたしと思へども、ふらんすはあまりに遠し」と歌ったのは、たしか萩原朔太郎だったか。明治の人々が憧れたフランスか……と思うと、明治人の目でアジェの写真を見たくなってくる。
 カルティエ=ブレッソンといえば「決定的瞬間」。彼は写真が下手だ、という評があるのだけれど(撮影技術的に、という意味だろう)、なぜか1枚1枚の写真に物語を感じさせられる。この図録が500円で出ていて、はっとして手に取ったのだが、なつかしい記憶がいろいろ蘇ってきてしまった。写真というのは、まさに“過去への窓”でもある……。

 私が写真展を見に行き、写真関係の本を読み漁っていたのは、もう7、8年前のことだ。1999年に初めての本『音のない記憶――ろうあの天才写真家 井上孝治の生涯』(文藝春秋)を出したのだが、これは、実は原稿を書き上げてから、1年間ずっと日の目を見ずに眠っていたから、それくらいにはなるだろう。
 1年も本が出せなかったというのは、もちろん、持ちこんだ出版社に次々に断られたからである。しかも、二股をかけるということをせずに、結論が出るのを待ってから次の出版社を当たったため、3社に断られて(しかも1社は半年経っても結論が出ず、こちらから断ったのだが)、1年がすぎて、見かねた友人が文藝春秋に原稿を渡してくれたところ、わずか2週間で「出したいと思います」という返事をいただいた。
 あのときは本当にうれしかった。なにしろ、出版できるあてもないのに、アメリカまで取材に行って、100万円以上身銭を切っていたから。夢中で取材をして、お会いした人も何十人にもなり、できあがった本を150冊ほど買って各地へお送りしたので、本が出ても赤字だった。
 それでも、あの本は素晴らしい出会いを運んできてくれた。こうして今、私が曲がりなりにも書く仕事を続けていられるのも、あの本が存在するからだといえるだろう。
 ほとんど無名のアマチュア写真家だった井上孝治さんが、フランスのアルルで開催された「アルル国際写真フェスティバル」の招待作家となり、その直前に肺がんで亡くなってしまったことは、『音のない記憶』を読んでいただければわかる。遺作展になってしまったが、亡き井上さんには、アルル市長からアルル名誉市民章が贈られた。さらに、フランスの写真評論家に、井上さんは“日本のカルティエ=ブレッソン”だと絶賛される。それ以来、カルティエ=ブレッソンの名前は、私にとって特別なものになった。
 そのカルティエ=ブレッソンも昨年亡くなった。95歳だったという。しかし、こうして彼が撮った写真は残る。本もそうだが、多くのものがすぐに忘れられ、消えていくなかで、百年経っても色あせず、人々を感動させるようなものに出会いたいと思うし、そういうものを書いていけたら――と心から願わずにはいられない。


2005年06月26日

池島信平『編集者の発言』(昭和30年)

00c3e35e.jpg 24日に東京古書会館で見つけた1冊。文藝春秋の雑誌編集者として活躍した池島信平の本が、昭和30年に暮しの手帖社から出ていた。装幀は花森安治。表紙カバーが少々汚れているが、200円だった。
 タイトルの『編集者の発言』はずいぶんシンプルだなあ、と思って「あとがき」を読むと、こんなふうに書かれていた。

 題名の「編集者の発言」といふのは、ラジオ番組の「岡目八目」の解散会へ向ふタクシーの中で、何となく出来て、花森君の賛同を得た。扇谷正造君はその時「編集者の失言とした方がよいだらう」と冗談をいつたが、少し痛かつた。「失言」や「放言」で、この本が終つてゐやしないか――、私は切にそれをおそれてゐる。

 目次を見ると「編集者審問/座談会について/談話記事について/小説家と編集者/ノン・フィクション論/雑誌記者の生態/大阪ジャーナリズム/雑誌編集者の位置/無いものねだりの雑誌評/われら接客業」……など、面白そうな見出しが並んでいる。こうして、読みたいのに読めずに積んである本が、どんどん増えていく――。


2005年06月25日

花森安治装幀の本+古書展めぐり

3dc68d47.jpg 本好きな人は必見のブログweb読書手帖で、昨日、花森安治装幀の本のことを取り上げていた。実はその前の日には、この「古書の森日記」のことを書いてくださっていたので、見たときはびっくりしたのだが、ちょうど花森安治装幀の本を買ったばかりだったので、それにも驚いた。
 この写真の大型本は、神保町の小宮山書店の3冊500円のガレージセール(古書好きな人には有名)で買ったもの。ただし、一度に3冊がそろっていたわけではなく、二度に分けて購入した。見たとたんに、「料理」と「装幀」と両方ですぐに買いたくなった。この3冊、値段を考えたら信じられない安さなのだが(ふつうは1冊1500円くらいの売価がついている)、その場にいた人たちは誰も手に取ろうともしていなかった。古書を買っている人は男性が多いため、料理本にはあまり興味がないのだろうか。そのおかげで、こんなに目立つ本なのに売れ残っていたわけだが。
 3冊とも暮しの手帖社刊行で、『おそうざい十二カ月』(昭和45年)、『おそうざいふう外国料理』(昭和47年)、『一皿の料理(別冊つき)』(昭和49年)である。当時の定価が1500円、1800円、2700円なので、かなりの豪華本だったといえるだろう。箱ばかりでなく、本体のほうの装幀もなかなかセンスがいい。『おそうざいふう外国料理』は、赤のタータンチェック模様がかわいい。中のページも非常に実用的につくられていて、見ていると料理をつくりたくなってくる。
 それにしても、東京古書会館での古書展で山ほど古書を買ったあとに、こんな大型本をさらに買って、送料を惜しんで、それを全部抱えて帰るのだから“古本病”とは恐ろしい。われながら呆れてしまう。

 さて、昨日は月一度の五反田展の日。結局、五反田から神保町へとハシゴして、2カ所の古書展で本と雑誌を計24冊買ってしまった。五反田では200円均一という安さの点で満足し、神保町では意外なものを見つけてこちらも満足。そのあと、さらに神保町の岩波書店に立ち寄り、文庫本担当の編集者のSさんと打ち合わせ。さすがに足が棒のようになった。ただし、仕事のスケジュールの都合上、古書展めぐりも少し我慢せざるをえない。次の古書展は、7月15日の五反田展まで自粛するつもりだ(……とブログには書いておこう)。


2005年06月24日

樋口一葉「にごりえ」掲載『文藝倶楽部 第九編』(明治28年9月号)

cc1baf01.jpg 昨日は編集者のIさんと3時間半打ち合わせ。8月の短期連載と秋刊行の単行本について。……いよいよどうしようもない切羽詰まったスケジュール。間に合うだろうか――というか、必死で書くしかないのだが。去年もそうだったが、またずっと睡眠4時間がつづいている。この調子だと、7月と8月は古書展めぐりをする余裕もないかもしれない。でも、仕事以外の唯一の楽しみだし、この時間だけは何とか死守したいものだが。
 先日、野村胡堂の『胡堂百話』(角川書店、昭和34年初版)を斜め読みしていたら、樋口一葉の原稿を買わないか、と勧められた話が出ていた。野村胡堂といえば、もちろん「銭形平次シリーズ」で有名なのだが、別名「あらえびす」で音楽評論家としても活躍している。『胡堂百話』にはいろいろなエピソードが出てきて面白い。野村胡堂とはこういう人だったのか、と見直した。
 さて、その樋口一葉の話だが、野村胡堂は当時、尾崎紅葉、正岡子規、島崎藤村、高浜虚子、巌谷小波などの手紙をコレクションしていた。「故人の筆跡を集めるなら手紙に限る。文筆家なら原稿も面白い。色紙や短冊は、よそゆきの字だから、大したことはない」と書いている。
 樋口一葉の手紙が、そのころの値段で3000円だったという。高いと思ったが、思い切って買ってしまったそうだ。すると、しばらくして、持って来られたのが『たけくらべ』の原稿で、正真正銘の真筆だった。以下、『胡堂百話』より引用。

「高いんだろう!」
と、いうと、
「エヘヘ、まあ、ね」
と、顔色を見た。もう一声、こちらが乗り気になってみせたら、五万といったか、十万といったか知らないが、これは、ついに手を出す勇気がなかった。
 その後、関西の金持の手にはいったとか、外国に流出したとか、風の便りに噂は聞いたが、今なら何百万円のものか……。

 「今なら何百万円のものか」というのが、昭和30年代の話である! 樋口一葉がついにお札の“顔”になった現在なら、『たけくらべ』の原稿はいったいいくらになるのだろうか。想像するだけで気が遠くなる。
 そういう夢のような話とは関係がないが、樋口一葉で思い出したのが、写真の『文藝倶楽部』である。同誌の創刊第9号だが、そのわりに意外に安く買えたという記憶がある。実は、この号には樋口一葉の「にごりえ」が掲載されている。「にごりえ」が世の中に活字になって出たのは、これが最初なのだ。その翌年に森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨に絶賛されながら、彼女はわずか24歳で亡くなってしまう。そんなことを思いながらこの『文藝倶楽部』の「にごりえ」を読むと、なんだか胸に迫ってくるものがある。


2005年06月23日

森盈流(尾崎紅葉)『夏小袖』(明治25年)

4a535deb.jpg 古書歴がそれほど長くない私は、自分が見つけた古書でそれほど“珍品”といえるようなものはない。せいぜい300円とか400円で買ったものが、ネットで検索してみて8000円とか1万円の値段がついていると、へえーとびっくりするくらいだ。
 少し前に買った古書で面白いものがあった。表紙が大きく破れているのだが、明治25年という刊行年と、裏表紙に「作者不知」と書かれていて、版元が春陽堂だったので、興味を惹かれて手に取ったのだった。400円だったということもある。タイトルは『夏小袖』。奥付に作者名はないが、本文内題の署名は「森盈流」となっている。戯曲として書かれていて、見るからに滑稽なストーリーらしいが、このタイトルにはどこかで聞き覚えがある――と思ってあとで調べて見ると、これが珍品だった。
 実は、「森盈流」というのは、フランスの喜劇作家モリエールを暗示するもので、作者は尾崎紅葉だったのである。モリエールの『守銭奴』を翻案したものらしい。本の販売戦略として「作者あて懸賞クイズ」ということを実施して、あえて明治の文豪・尾崎紅葉の名を伏せて刊行したものだったのだ。写真のこの本は、明治25年9月1日出版の初版本。12月の第三版で、初めて作者が「尾崎紅葉」であることを明かしたそうだ。
 さすがに紅葉らしく、高利貸しの父親とその息子と娘の結婚話のドタバタが、テンポよく描かれている。ほとんど落語のようだ。紅葉の初版本だとわかったときは、ちょっと興奮した。


2005年06月22日

報知新聞附録・村井弦斎『芙蓉峯』(明治30年)

06be6599.jpg 1年前に村井弦斎の評伝を出してから、各方面からいろいろな情報をいただけるようになった。新聞記事や様々な展示などに村井弦斎関係のことが出ていると、知らせてくださる方もいらっしゃって、本当に感謝にたえない。私の狭い範囲のアンテナでは、とても知ることができないものばかりだ。
 昨日は、大珍品の胃腸薬のパッケージを紹介したが、今日は、別のかたからいただいた珍しい本を紹介しよう。昨年、弦斎ゆかりの地にある公立図書館に拙著を寄贈したのだが、今年、その図書館の人から、「研究に役立ててください」と1冊の古書が送られてきた。思いがけないプレゼントにびっくりした。
 写真の本がそれで、村井弦斎の『芙蓉峯』という小説だ。このSF小説めいた作品は、明治30年8月に春陽堂から単行本になっている。しかし、送っていただいた『芙蓉峯』はそれではなく、新聞の読者に1回8ページ(初回のみ16ページ)の小冊子として無料配布された「報知新聞附録」の合本なのである。
 この小説附録は、部数拡大のための販促ツールとしてつくられたものだった。そのため、サイズも小さく、印刷製本も簡易だ。明治30年1月から4月にかけて、4日ごとに配布された27回分が1冊になっている。この時期、弦斎は「報知新聞」で『日の出島』を連載中だったので、なんと本紙と附録の両方に弦斎の小説が載っていたことになる。当時の弦斎がいかに一般大衆に人気があったかがわかるだろう。「報知新聞」を買うのは弦斎の小説を読みたいから、というファンも多かったのである。
 こうした「新聞附録」は、意外に残っていない。この報知新聞附録の『芙蓉峯』の実物を見たのも初めてだった。弦斎の小説では、『芙蓉峯』の前に『飛乗太郎』が報知新聞附録になっている。これは、ネットの「日本の古本屋」で検索すると出てくるのだが、新聞附録という形式が珍しいためか、なんと10万円近い値段がついている。2年前にその古書店へ行って実物を見せてもらったが、もちろん手が出ず買わずに帰ってきた。この『芙蓉峯』はそれほど高くはなく、拙著とほぼ同じくらいの値段で出ていたらしいが……。
 それにしても、あまりに思いがけないことが続くので、昨年から今までで一生分の運を使いはたしてしまったのではないか、と少々不安になっている。


2005年06月21日

大珍品! 村井弦斎発見の胃腸薬のパッケージ

9d48ff49.jpg 先週、関西在住の古書マニアのかたから、信じられないようなものをいただいた。某古書店で見つけたものだという。いかにも古い薬のパッケージなのだが、そこには「村井弦斎先生発見 胃腸良薬 そう(★木+忽+丶)根散」という文字が印刷されているではないか! 製造元は「東京小石川 本舗 無重寿薬園」とある。間違いなく、大正時代に漢方医の久木田五介が、村井弦斎の支援で開いたものだ。
 村井弦斎が、どことなく「いかがわしい」とか「うさん臭い」というふうに見られがちだった一つの理由に、彼が医者でもないのに、病気治療法について「婦人世界」にいろいろ書いたことが挙げられる。そのなかでも、「タラの根」を煎じて飲むと胃がんなど様々な胃の病気に効果があると知って、それを同誌でキャンペーンしたことがあった。「タラの根」はいまでも漢方薬に使われているものだが、当時はこうした自然界のもので病気を治そうとするのは「民間療法」といわれて、西洋医学を信奉する医者や学者からは馬鹿にされていた。
 弦斎は各地でタラの根を採取して、「婦人世界」でモニター希望者を募集した。つまり、胃の難病で苦しんでいる人がいれば、希望者にはタラの根を無料で送るので、代わりにそれを服用した結果を報告してほしい、というのである。明治末期に、弦斎は同誌で脚気治療のために“ぬかキャンペーン”を大々的に行ったが、大正期にはこのタラの根に夢中になっていたのだった。
 西洋医学の治療を受けても効果がなく、見放されたような胃の重病患者たちが、弦斎の書いた記事を見て、すがるような思いでタラの根を試したというのも不思議ではない。しかも、その後の「婦人世界」には、そうした患者たちから届いた弦斎への感謝の手紙が多数掲載されている。実際に病気が治り、信じられないように元気になった、というものが多かった。
 それに自信を得て、医薬品として正式に許可を得て売りだしたのがこの胃腸薬なのである。「婦人世界」に掲載されている広告には、「タラコン湯」「タラコン」という商標で出ている。この「そう根散」という商標は初めて知ったが、「そう」という漢字はタラを意味するので、主要な成分はやはりタラの根なのだろう。パッケージの裏側を見ると、成分については書かれていなかったが、効能については次のように述べられている。
「本剤は弛緩せる胃腸を緊縮して其機能を完全にし、食欲を進め、消化を好くし、便通を整へ、老廃物を排除し、悪血毒素を駆逐し、痞へを去り、痛みを除き、病細胞を変質して、胃腸を根柢より強健に改造するものにして胃腸の諸疾患に効あり」
 弦斎の評伝を書くときに、この人物があまりにもいろいろな顔をもっていて、小説を書くだけでなく、あれこれ手を出しているので困り果てたものだった。そのすべてを調べつくして書くことは、とても私の手に余る。また、もしそれをすべて書いていたら、1000ページを超える枕のような本になってしまうだろう。そのため、この胃腸薬の件もいろいろ調べたのだが、結局、評伝では本文からは外して、涙をのんでわずか10行の「注」に圧縮したのだった。P396にその記述がある。
 それにしても、まさかこうしたものが現存していたとは! 村井弦斎関係の遺品を所蔵する神奈川近代文学館と平塚市博物館にも、この種のものは全く残っていない。送ってくださったかたに、この場で改めて感謝したい。


2005年06月20日

大正9年と12年の「婦人世界」

9a9479a4.jpg 17日の古書展では思いがけず高い買い物をしてしまったが、その原因がこの「婦人世界」である。17日は、発行年によって価格が違っていて、明治期のものには1冊3200円とついているのもあった。明治・大正期の「婦人世界」のほとんどの号に村井弦斎が書いているため、1冊1000円以下で出ていれば買うことにしている。最初の頃は1冊2500円で買ったこともあったが……。すでに30冊ほど手元にあるので、この雑誌だけでずいぶん投資(!)したことになる。
 写真の左は大正9年9月号で、「現代婦人不平号」になっている。これは、裏表紙が欠けているために800円。表紙の絵を美人画の巨匠・伊東深水が描いている。前半には「現代婦人の不平」というテーマで、18人の女性が寄稿している。後半の執筆者を見ると、与謝野晶子、長谷川時雨、長田幹彦、田山花袋といった名前が並び、連載小説は、小杉天外と上司小剣の2人だ。村井弦斎は随筆を書き、妻の村井多嘉子が料理記事を書いている。こうなると、裏表紙が欠けていて、安くなっていたことに感謝したくなるほどだ。
 写真の右は大正12年11月号で、「災厄に処する女性」という増大号。こちらは、目次ページが大きく破れていたために、2100円と微妙に安くなっていた。しかし、2100円はお買い得だった。これは、同年9月1日に起こった関東大震災以後に発行された2冊目の号で、まだ震災の傷跡が生々しく残っている。
 グラビアページには、東京各地の被害の状況や、復興のために働く人々や、震災後はじめて催されたという慰安会(10月14日に開催された日比谷公園での音楽会)や、街頭の花売り娘や、皇族の慰問や、海外からの様々な支援や、校舎がなくなった学童たちの青空学校や、おむすびの炊き出しの様子や、全焼した三越のバラックの建物や、死者の追悼会など、かなりの枚数の写真が掲載されている。
 日比谷公園での慰安会の写真を見ると、文字通り黒山の人だかりで、何万という単位の人々が集まったように見える。当時、被災者がいかに慰安を求め、娯楽に飢えていたかが実感できる。
 また、小説が7篇も載っているのは意外だった。里見とん(★弓+享)、西条八十、長田幹彦、奥野他見男、徳田秋声、小杉天外、山中峯太郎という顔ぶれだ。さらに、竹久夢二、与謝野晶子、岡本かの子、西条八十、金子薫園、野口雨情が、それぞれ震災をテーマにした詩や歌を寄せている。村井弦斎は地震対策について書いているし、妻の村井多嘉子は玄米食について書いている。
 そういえば、東京では19日深夜(日付は今日)に地震があった。このところ地震が多いが、もし、また関東大震災クラスの地震が起こったら――と想像するだけでぞっとしてしまう。与謝野晶子が「悪夢」と題した10首のなかから、以下に5首を挙げておこう。

  天変のいと大きなるものに逢ひさらに心の淋しくなりぬ
  傷負ひし人と柩(ひつぎ)の絶間なく前渡りする悪夢の二日
  地獄をば思ひやるにも限りこそありつれ地震(ない)と大火の以前
  地震(ない)の夜(よ)は茅草のごと黒髪のわびしく濡れて明けも行くかな
  十余年わが書きためし草稿の跡あるべしや学院の灰

 地震のことを「ない」と言うとは知らなかった。『広辞苑』にちゃんと載っていた。


2005年06月19日

明治38年の「萬朝報」

7db005ef.jpg 昨日、“古新聞”のことを書いたので、ついでに手元に持っている明治の他の新聞についても書いておこうと思う。古書以上に古新聞などは、家人には不要なものにしか見えず、捨てられてしまうにちがいない。もし、誰かコレクターがいても、その人が亡くなったりした場合には、古書は残っても、新聞は捨てられる可能性が高いのではないか。
 明治期の新聞の中では、「時事新報」はあの福沢諭吉が創刊した新聞でもあり、当時たくさんあった新聞の中では「上品な」新聞と見られていた。だから残っていた、ということもないのだろうが、不思議なことに「時事新報」は何年か前にも買っていて、明治36年のものを2日分持っている。あとは、明治42年と43年の「大阪毎日新聞」がかなりある。
 写真は、明治38年の「萬朝報」である。「よろずちょうほう」と読むのだが、これはおわかりのように、創刊した黒岩涙香が「よろず重宝」とシャレて命名したものだ。創刊は明治25年。当初はいわゆる「イエロージャーナリズム」で売って、急速に部数を伸ばした。スキャンダルの暴露記事が多く、ピンク色の紙に印刷されていたため、当時の「萬朝報」は「赤新聞」とか「ユスリ新聞」と呼ばれ、社主の黒岩涙香(本名・周六)も、「まむしの周六」というニックネームで呼ばれていた。
 だが、その後、黒岩涙香は内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦、斎藤緑雨、山県五十雄などの人々を入社させて、イメージチェンジを図っていく。特に、読者に対する内村鑑三の影響力は大きかったといわれる。しかし、明治36年になると、日露戦争に対して「非戦論」の立場をとる内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦などと、「主戦論」を掲げた社内の別の一派との対立が大きくなった。黒岩涙香はその中で、ついに「主戦論」の立場に加担することになる。当時、社会では「非戦論」はけしからん、という意見が大勢を占めるようになっていた。そのため、このまま「非戦論」を掲げていては新聞の売れ行きが悪くなる、という経営的な判断もあったにちがいない。同年10月、内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦は「萬朝報」を去っていった。その際に彼らが紙面に掲げた「退社の辞」は有名だ。
 写真の「萬朝報」は明治38年1月と6月のもので、日露戦争戦時下である。紙もピンク色ではなく、ごく普通のものが使われている。6月の新聞は、東郷平八郎率いる連合艦隊が、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に大勝利をおさめた後なので、その勝利に酔っている雰囲気が、記事にも投書にも広告にもよく表れている。「露探(ロシアのスパイ)」疑惑で逮捕されていたフランス人ブグアンが、裁判の結果、有罪と決まった記事などもあって興味深い。いま気づいたが、これは1905年6月16日の新聞なので、まさに100年前だ。


2005年06月18日

古書展めぐり

c7c9be77.jpg 先週の古書展での戦利品がいまひとつだったので、昨日は雪辱戦を期して(?)東京古書会館へ向かった。朝10時台の熱気は、相変わらずすごい。入ってすぐに、明治・大正期の雑誌が何種類も並んでいるのが見えたので、何か見つかるのではないか……と期待が高まる。ただし、それはここに来ている誰しもが抱く期待なので、肝心のその棚の前には二重の人垣ができていて、手を伸ばすことができない。
 仕方なく、他から見始めることにした。結果としてはそれほどたくさんの冊数は買わなかった。いや、買いたかったが、書籍4冊、雑誌2冊その他で計5800円になってしまったため、打ち止めにしたのだ。そんなに高いものを買った覚えはないのだが、おかしい……。
 昨日買った中で、変わったものといえば、古新聞ひと袋で500円というもの。古新聞などなぜ買うのか、といわれても困るのだが、昭和期のものには興味はない。村井弦斎が新聞小説家として活躍していた明治期の新聞が出ていると、できるだけ買うようにしている。
 というのも、国会図書館で明治期の新聞のバックナンバーを調べても、マイクロフィルム化されたものしか見ることはできない。実際のサイズとか、紙質とか紙やインクの色はわからないのだ。雑誌の場合も同じ。そのため、実物がリーズナブルな価格で出ていれば、買っておくにこしたことはない。広告などで意外な発見もある。
 昨日の500円袋はなかなか面白かった。上になっていた「時事新報」の日付が明治24年3月25日だったことと、古そうな英字新聞まで入っているのを見て、あとは確認せずに、帰宅してから広げてみた。すると、明治期のものは、前述した「時事新報」の明治24年が一番古く、あとは明治37年の「時事新報」が2枚と明治39年と40年の「大阪時事新報」(1枚は不完全)。あとは昭和期のもので、英字新聞は「THE JAPAN TIMES」の1933年のものが2枚。それ以外の日付は、昭和19年の1枚を除くと、あとはどういうわけか全部昭和21年のものだった。「毎日新聞」と「朝日新聞」が数枚ずつと、「大阪時事新報」と「神港夕刊」という聞いたことがない新聞が各1枚。このごちゃごちゃというか、何の脈絡もない新聞の束が、全部合わせて500円で入手できたわけだ。おそらく、別の所から出てきた新聞が、一緒の袋に入れられていたのだろう。
 ちなみに、明治24年3月25日の「時事新報」には、まだ健在だった福沢諭吉の「社説」が載っている。また、当時は新聞が互いに広告を載せているので、1面には「郵便報知新聞」の広告が載っていて、その中に「弦斎居士」という村井弦斎の名前を発見した。それだけでも500円払った価値はあった。
 さらに、明治37年の「時事新報」の1面には、「よろづ案内」という欄があるのだが、求人、求職、不動産広告などの他に、「求婚」なんていうのも載っている。
 ●求婚 女年廿四初縁身元血統正容貌好き方普通教育あり官吏会社員等を望む
 ●求婚 知友年齢廿七係累なし財産拾余万円血統正しき身体健全年齢廿一か廿二の淑女を求む写真あらば送られたし
 実際にこういう欄で、うまく結婚相手が見つかったのだろうか。「容貌好(よ)き方」と書いてあったのに、会ってみるとそうではなかった、と相手が怒りそうな場合も想像できる。まさか、「容貌悪し」とは書けないだろうから。

 昨日はさらに、ある作家の人に頼まれていた資料になりそうな本を見つけて、そのシリーズを10冊も買い、東京堂書店で新書を2冊買ったので、やはり大荷物になってしまった。しかし、期待以上の収穫があったのでよしとしよう。



2005年06月17日

出版社の話・続

 昨日、岩波書店のことを書き始めたら、拙著を担当してくださった編集者のHさんのことを書きたくなった。よく、本は著者と編集者の共同作業で生まれるといわれるが、Hさんはまさに、村井弦斎の評伝の生みの親といっていい。私は、Hさんには足を向けて寝られないほどお世話になった。Hさんは岩波書店の“名物編集者”といわれるような人で、装幀も手がけたあの田村義也氏(1923-2003)の部下でもあった。
 拙著が刊行されたのはちょうど1年前の6月下旬だが、その6月末にHさんは岩波書店を退職された。長年、雑誌「文学」の編集長などを務め、60歳をすぎてからも嘱託として2年ほど会社に残って単行本の編集をなさっていたのだった。奇しくも、在職中のHさんが手がけた最後の本が、私の本になったということになる。もし1年ずれていたら、私はHさんと出会うことができず、弦斎の評伝は日の目を見ていなかったかもしれない。そう想像すると、いかに自分は運がいい人間か、とつくづく思わずにはいられない。
 Hさんは、いまの岩波書店の若い編集者の人たちが、「岩波らしい編集者の最後の世代」と表現する人でもある。たまたまHさんは村井弦斎には関心をもってくださっていたのだが、なにしろ、弦斎のことを知っている人は、岩波書店でもごくわずかしかいない。Hさんは、企画会議で没になりそうだった村井弦斎の評伝を、周囲を「煙に巻く」熱弁で通してしまった。そんなふうに強力に押してくれる人がいなければ、今の時代、なかなか分厚い評伝を出すなんてことは不可能だ。「残念ながら……」と原稿を返されても仕方がないような状況だったのである。
 実は、私がHさんと初めてお会いした1年前の「朝日新聞」に、Hさんの小さなインタビュー記事が掲載されている。これがまた不思議なのだが、その記事を私は偶然切り抜いて持っていた。村井弦斎について取材・調査をしていた時である。気になる新聞記事はスクラップしているのだが、Hさんの次の企画が「川上行蔵という農芸化学者が残した日本料理の書誌的研究」と書かれていたので、「料理」という言葉に引っかかったらしい。何かご縁があったのかもしれない。
 この記事では、Hさんがそれまで岩波書店で、自ら“極道本”と称する本を手がけてきたことが紹介されている(“極道本”といっても、その筋の本ではありませんので……念のため)。Hさんが手がけてきた“極道本”とは、営業や販売の部署の人たちが、渋い顔をするような“高価な限定本”のことだ。19世紀のフランスの造本を再現した『ゴンクールの日記』とか、背革継ぎ表紙で三方の小口に金をはった特装版『デュマの大料理事典』とか、部数はわずか数百部で、1冊何万円もするような本を何冊もつくってきたのである。
 Hさん曰く「営業の人間もあいつならしょうがない、と諦めていた」とのことだったが、編集者に勝算がなければ、そうした冒険はできない時代だ。Hさんは、売れると見込んだ部数をきっちり完売させて、時には書店に出た3日後には売り切れ、というようなこともあったらしい。
 そういう“極道本”をたくさんつくってきたという編集者が語る話が、面白くないわけがない。また、さまざまな作家や学者のエピソードなども聞かせていただいて、勉強にもなり、本当に楽しかった。もちろん、文章の書き方や読ませ方など、細かいこともいろいろ学ぶことができた。その意味でも、Hさんには感謝のしようもない。
 自分で言うのもおこがましいが、かつての編集者というのは、こうやって著者を育てていったのだろうな、と思わずにはいられなかった。せっかく育ててもらいながら、まだ次の作品を完成させていない、という点では忸怩たるものがあるが……。



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2005年06月16日

出版社の話

 昨日、ゲラのことを書いたので、ついでに岩波書店のことを少し書いておこうと思う。なにを偉そうに、と言われてしまいそうだが、私にとってはかなりカルチャー・ショックだったのだ。
 長年フリーのライター兼編集者をしてきたので、以前は仕事の大半を編集プロダクションから請け負ってやっていた。つまり、下請けの下請けであり、版元の出版社と接触する機会は少なかった。6年前に最初の本を出してから、様々な出版社の編集者の方々とお付き合いするようになったが、まだそれほどたくさんの出版社を知っているわけではない。
 ただし、昨年初めて岩波書店から本を出した時に、他社との違いにびっくりしたことがたくさんあった。最近、南陀楼綾繁さんのブログを読んでいたところ、チェックしたゲラをバイク便で送ろうかと編集部にたずねると、FAXで送ってほしいといわれ、家庭用FAXで30枚も送信した、というエピソードが書かれていた。これは、私も編集プロダクションの下請けライターをしていた時によくやっていたことだ。もちろん、本を出す期日の関係で、向こうも急いでいるからそういうことになるのだろう。
 岩波書店では、そもそもそういう切羽詰まったスケジュールでの本作りというものをしない。時間をかけて丁寧につくる(だから定価が高くなる、ということもあるが)。昨年の経験からいえば、まず初校のゲラ刷りが宅急便で届いた時に、返信用の宅急便の伝票(着払い)と、ゲラを入れて送るための封筒まで同封されていた。そういう対応は初めてだったのでびっくりした。それまでは、こちらが出版社へ足を運んでゲラを届けるか(万一の紛失が心配なので)、宅急便などで送る場合の費用もこちらが負担していた。
 最初に受け取ったゲラは、印刷所から届いた状態で何も校正が入っていないもの。それを読んで著者校を入れることになる。すると、数日後にもう一式初校ゲラが届いた。今度のゲラには、岩波書店の内部の校正者がチェックした赤字が入っている。そして、最初のゲラに書き入れた文字校を、あとで送ったゲラに転記して、転記したゲラの方を返送してほしい、ということだった。
 ゲラを2部、しかも2回に分けて送られたというのも初めての経験だったので、またもや驚いたが、これは非常に助かった。というのは、普通は1部しかゲラをもらわないので、それを戻すときに、自分でコピーをとっておかないと、どんな直しを入れたのかが後でわからなくなる。電話で編集者に何か聞かれても答えられないし、直しの内容はおぼえていても、それが「何ページの何行目」だということまでは記憶できない。かといって、本1冊分のゲラのコピーをとるなど、時間がかかってとてもできない。
 それに対して、この岩波方式では、あとから届いたゲラに転記すれば、校正を入れた初校ゲラが手元に残ることになる。そのため、著者の便宜を考えて、二度手間をかけて送ってくれるのだろう。これは、私のようなフリーライターではなく、大学の教授とか偉い研究者の方々(中には、短気で旋毛曲がりのお年寄りもいるにちがいない)に対しての礼儀ということで、それが岩波書店の伝統になっているのではないか。
 そういえば、受付で名乗ると、必ず「○○先生がいらっしゃいました」と編集者に連絡をするのも、岩波書店の特徴だ。それまでK社やG社やS社やB社を訪ねた時に、受付で「先生」などと言われたことは一度もなかったので、いったい誰のことだろう、とあたりを見回してしまったほどだ。岩波書店には、いつ本物の“大先生”が訪ねてくるかもしれないので、受付の人も気を抜けないのだろうが……。
 最後にもう一つ、岩波書店で私が知っている数人の編集者は、どなたも必ず原稿のことを「お原稿」と呼ぶ。最初にこれを聞いた時もびっくりした。これも“岩波用語”なのかと思っていたところ、新潮社でも「お原稿」と言います、と教えられた。だが、その他の出版社ではほとんど聞いたことがない。こんなふうに、出版社によっていろいろ違うので面白い。


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2005年06月15日

岩波文庫版の村井弦斎『食道楽(上)』の再校ゲラ

ef3e664c.jpg 昨日、『食道楽(上)』の再校ゲラが岩波書店の編集者のSさんから届いた。厚いのも道理でなんと600ページ近くある。これで文庫1冊になるというのだからすごい。印刷所が精興社なのもうれしい。この味のある文字を見ると、ああ岩波文庫だ、という感じがする。
 自分の著書で600ページなんていうページ数が実現することは、残念ながら、今の出版業界の現状ではほとんど考えられない。よほど知名度が高い書き手の場合か、よほど売れるという確信を編集者が持っているか、組織的に本を購入してくれる支援者でもついていないと無理だろう。いや、ほとんどの出版社では、編集者が出したいと思っても、営業・販売の部署の方からストップが出るはずだ。
 実は、今度の『食道楽』の文庫化も、当初は「抄録ではどうか」という話だった。原著(単行本4冊)を1冊の文庫にして出す可能性もあったのである。しかし、Sさんは原著を読んですぐに「これは面白い。全部やりましょう」と言ってくれた。そして、企画会議で通してしまった。そのおかげで、上下巻に分けて、原著の附録や図版まですべてを収録した本が出ることになった。
 本が出る前のゲラを公開することはめったにないが、この分厚いゲラの写真を記念に撮っておくことにした。刊行は1カ月後の7月15日の予定。


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2005年06月14日

村井弦斎『実地経験 台所重宝記』の宣伝チラシ(明治38年)

87b88da7.jpg 仕事のため、ずっと自宅作業が続いている。1日17時間くらいパソコンの前に座る生活になってしまうのだが、さすがに疲れて途中で息抜きがしたくなる。そうすると、ついネットであちこちのサイトをのぞいては、古書を買ってしてしまう。
 最近、「日本の古本屋」で見つけたのが、写真のチラシである。著者名に「村井弦斎」と入力しても、これまでいっこうに出てこなかったのだが、書名の方に入力して出てきたものだ。そういうこともあるので、油断はできない。売り主の誤入力も、想像できうる範囲ですべて試すことにしている。そうすると、やはり「村井玄斎」でヒットするものも出てくる。玄と弦の1文字違いで、検索結果は全く違ってくるわけだ。そのあたりが、デジタル社会の落とし穴ともいえるのだが……。
 それにしても、『実地経験 台所重宝記』の刊行は1905(明治38)年。ちょうど100年前である。その頃の宣伝チラシが美品で残っていることに感動して、購入してしまった。価格は送料別で1000円。興味のない人にとってはただの紙くずにすぎないものに、1000円も払うなんて……。
 実は、このチラシは初めて見たものではない。3年前、神奈川近代文学館が所蔵する村井弦斎関係の資料を調査したときに目にしている。当時、本を売るために、弦斎はこんなチラシまでつくっていたのかと驚いた。最初から版を重ねて何万単位の部数を売るつもりでなければ、わざわざこんなことにお金はかけないだろう。また、本の内容にそれだけ自信があったからこそ、多くの読者にこの本のことを知らせようとした、ともいえるだろう。
 このチラシの表には本の詳しい目次が紹介され、裏には弦斎がつくった「台所心得の歌」から15首が掲載されている。残念ながら、最近話題になっている弦斎作の「食育の歌」は、ここには載っていなかった。
 今週もすでにネットで2冊注文してしまった。これが増えると、また「UB係数」(家計における古書購入費が占める割合、used book係数と勝手に命名)が急上昇するのだが、どうにも止められない。困ったものである。


2005年06月13日

『太陽浮世絵シリーズ 北斎』(平凡社)

08b51dc5.jpg 少し前に、『太陽浮世絵シリーズ 北斎』を買っていたところ、タイミングよく、日本橋三越で「北斎と広重展」が始まった(6/7〜6/19、日本橋三越新館7階ギャラリー)。「朝日新聞」にこの展覧会の評が出たこともあり、先週、東京駅方面に出たついでに、駆け足で見てきた。平日だったが、お客さんはかなり入っていた。北斎の「富嶽三十六景」や広重の「東海道中五十三次」など、非常にポピュラーなものをはじめ、今回の展覧会には北斎の「幻の肉筆画」といわれるものも展示されている。会場は広く、じっくり見ていると1時間くらいはかかりそうだ。私は時間がなかったので、30分でざっと見ただけだが。
 で、展覧会よりも、やはり本。この平凡社の「別冊太陽シリーズ」を最近少しずつ買っていて、十数冊になった。写真の「北斎」はちょうど30年前の1975年に刊行されたものだが、ページをめくると、当時の平凡社が持っていた「底力」というものを痛感させられる。この「北斎」にしても、作品の集め方、見せ方、記事の読ませ方、どれをとってもさすが、という感じだ。
 これまで、とくに北斎が好きだったわけでも、浮世絵に興味があったわけでもないのだが、この本を見て北斎を再発見した思いがした。まさに“稀代の画家”という言葉にふさわしい。北斎はたくさんの画名を用い、「画狂人」とも称していたというが、これほど夥しい作品を残すには、ある種の「狂」の面が必要だろう。古書を狂ったように買い集めるのも、きっと何かを生み出すことになる……というのは自己弁護。


2005年06月12日

古書展めぐり

 10日の金曜日は、また国会図書館に朝から5時間こもって資料をコピーした。5時間ぶっ通しで作業をしていると、だんだん頭がぼーっとしてくる。それでも、資料が出てくるのもコピーができ上がるのも、非常に早いのは助かった。以前なら2日がかりだったと思われる分量のコピーを、昼過ぎまでには終えることができた。
 最近、疲れがたまっているのか、その日はそれだけでダウン。帰宅してからコピーを読み始めたが、なかなか集中できない。しかも、調べれば調べるほど、いろいろな説が出てくるので、いったいどれを信じるべきか……。歴史上の人物の“読みかた”というのは実にむずかしい。読む人の主観や史料の解釈の仕方で、結論が180度違ってくることさえある。時には、研究者同士が“揚げ足取り”的なことを言い合っていることすらある。1つの仮説を信じ込むのではなく、別の見方もできるのではないか、と常に疑ってみなければいけない。しかも、「歴史」には、誰かが意図したこととは別に、「偶然」というものが必ず絡んでくる。
 人の証言というのもそのまま信じるわけにはいかない。誰かが書いていたが、「取材で聞いた話は、8割はその人の自慢話」だという。まあ、8割というのは極端かもしれないが、人間というのは誰でも、過去の出来事を、無意識に自分に都合よく語るものだ。
 時間がないと言いつつ、昨日は神保町へ。東京古書会館では古典籍が多かったので、2冊のみ購入。古書会館を出てからさらに古書街をあちこちさまよい歩いて、3冊購入。計5冊で1700円というのは、このところの最低金額だった。「食」関係で2冊買ったほか、むかし図書館で借りて読んだ名取洋之助の『写真の読みかた』(岩波新書)を、100円で見つけたのはうれしかった。これは、報道写真というものを考える上での必読書だ。
 東京古書会館では買いたい本が少なかったので、つい300円で「気の本」などを買ってしまった。村井弦斎は晩年、「一元同化力」というものにのめり込むが、これはおそらく「気功」の一種だと考えられる。気功でガンが治るという話はあながち嘘ではなく、現在でも、西洋医学では説明できない奇跡のようなことが起きているらしい。
 買ったのは、梁蔭全という人の『気の奇跡』(福昌堂、1993)で、副題が「仙道気功があなたの肉体と精神を変革する」。「はじめに」を読むと、こんなふうに書いてあった。
「この本を書くときに、道教神霄(しんしょう)派の秘伝陰陽五行仙呪法を使って、本の各部に『念力照射』をおこないました。これによって、宇宙の気が本のなかに封じ込められています。体の具合の悪い方は、次のように使うことをお勧めします」
 要するに、この本を1〜3メートル離したところにおいて、表紙を病気や痛いところに向け、リラックスして目を閉じると、病気が治ったり痛みがなくなる、というのである。ものは試しとやってみたが、今のところ効果があったのかどうかは不明。肩凝りがひどいので、治ってほしいのだが……。ちなみに、この本の目次には、横尾忠則さんも元気になった、と書いてあった。


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2005年06月11日

村井弦斎の「弦斎式新運動法」(2)

 村井弦斎の「弦斎式新運動法」というのは、特に「運動法」と名づけるほどのものか、と思うほど簡単なものだ。前回紹介したように、面倒で二、三日しか続かないような運動法ではなく、旅先でもどこでも手軽にできる、ということが特徴になっている。むしろ、この程度の運動法にまで「弦斎式」と名づけて、雑誌の健康法の特集号で取り上げられている、という事実の方が、私には興味深かった。
 それというのも、当時、弦斎は35日間の長期断食を実践して、「婦人世界」にその体験を逐一報告し、世間をあっと驚かせていたからにほかならない。彼自身がそれを「弦斎式断食療法」と名づけたわけだが、ベストセラー『食道楽』の著者で、美食家として名前を馳せていた弦斎が、こともあろうに断食実験に取り組んだということで、いやでも注目を浴びることになった。ある意味では、「弦斎式」という言葉だけで、人々の注意を惹く状態だったのだろう。
 弦斎は「運動には四つの目的がある」と述べている。
 ・血行の円満――身体の血液を円満に流通させること。
 ・関節の滑転――各関節の滑転力を保つこと。
 ・筋の伸縮力を増す――全身の筋と神経の伸縮力を増加させること。
 ・精神の爽快――運動するときに腹に力を入れることで頭が軽くなって気分がよくなる。それが精神の爽快につながる。
 この四つの要件を兼ね備えた運動を選ばなければならない、と弦斎は指摘する。さらに彼は、特別に運動すること以前に、生活のなかで自然に行う「家庭内の運動」を重視している。とくに、日本の女性は家のなかで様々な家事を行っているため、それがかなりの運動になっている、というのだ。
 その上で、弦斎が「床上運動法(一名 寝床運動)」と名づけた運動法がある。これは、『弦斎式断食療法』(実業之日本社、1917)のなかで簡潔にまとめられている。「床上運動法とは、男女老若に限らず、起床前に寝床の中で容易に行ひ得べき簡単なる運動法です」と書かれているように、とくにむずかしいことはなにもない。その「基本運動」として、弦斎は次の14の動作をあげている。これを毎朝、起きる前に寝床の中で行うことを勧めている。
 ・第一 手足を伸ばすこと。
 ・第二 踵をのばすこと左右各五回。
 ・第三 足尖を伸ばすこと左右各五回。
 ・第四 足尖を内転すること五回。
 ・第五 足尖を外転すること五回。
 ・第六 足の親指を上下に動かすこと五回。
 ・第七 手を前後に覆すこと各五回。
 ・第八 手を内外転ずること各五回。
 ・第九 前膊を内外転ずること各五回。
 ・第十 手首を内外転ずること各五回。
 ・第十一 指を他動的に動かすこと各五回。
 ・第十二 胸式と腹式の呼吸運動を行ふこと各五回。
 ・第十三 坐して身体を屈伸すること十回。
 ・第十四 手を以て斜めに腹を撫でること各十回。
 これとは別に、「特別運動」と名づけて、「基本運動」をした後に余裕がある時に追加して行うことを奨励しているものがある。
 ・第一 膝関節の運動
 ・第二 股関節の運動
 ・第三 腕関節の屈伸運動
 ・第四 肩胛関節の前後運動
 ・第五 立体の屈伸運動
 それぞれに具体的な動きの説明があるが、ここでは省略したい。奇をてらったものではなく、身体の各部署をそれぞれ少しずつ動かしていく、と考えればいいだろう。