2005年06月17日

出版社の話・続

 昨日、岩波書店のことを書き始めたら、拙著を担当してくださった編集者のHさんのことを書きたくなった。よく、本は著者と編集者の共同作業で生まれるといわれるが、Hさんはまさに、村井弦斎の評伝の生みの親といっていい。私は、Hさんには足を向けて寝られないほどお世話になった。Hさんは岩波書店の“名物編集者”といわれるような人で、装幀も手がけたあの田村義也氏(1923-2003)の部下でもあった。
 拙著が刊行されたのはちょうど1年前の6月下旬だが、その6月末にHさんは岩波書店を退職された。長年、雑誌「文学」の編集長などを務め、60歳をすぎてからも嘱託として2年ほど会社に残って単行本の編集をなさっていたのだった。奇しくも、在職中のHさんが手がけた最後の本が、私の本になったということになる。もし1年ずれていたら、私はHさんと出会うことができず、弦斎の評伝は日の目を見ていなかったかもしれない。そう想像すると、いかに自分は運がいい人間か、とつくづく思わずにはいられない。
 Hさんは、いまの岩波書店の若い編集者の人たちが、「岩波らしい編集者の最後の世代」と表現する人でもある。たまたまHさんは村井弦斎には関心をもってくださっていたのだが、なにしろ、弦斎のことを知っている人は、岩波書店でもごくわずかしかいない。Hさんは、企画会議で没になりそうだった村井弦斎の評伝を、周囲を「煙に巻く」熱弁で通してしまった。そんなふうに強力に押してくれる人がいなければ、今の時代、なかなか分厚い評伝を出すなんてことは不可能だ。「残念ながら……」と原稿を返されても仕方がないような状況だったのである。
 実は、私がHさんと初めてお会いした1年前の「朝日新聞」に、Hさんの小さなインタビュー記事が掲載されている。これがまた不思議なのだが、その記事を私は偶然切り抜いて持っていた。村井弦斎について取材・調査をしていた時である。気になる新聞記事はスクラップしているのだが、Hさんの次の企画が「川上行蔵という農芸化学者が残した日本料理の書誌的研究」と書かれていたので、「料理」という言葉に引っかかったらしい。何かご縁があったのかもしれない。
 この記事では、Hさんがそれまで岩波書店で、自ら“極道本”と称する本を手がけてきたことが紹介されている(“極道本”といっても、その筋の本ではありませんので……念のため)。Hさんが手がけてきた“極道本”とは、営業や販売の部署の人たちが、渋い顔をするような“高価な限定本”のことだ。19世紀のフランスの造本を再現した『ゴンクールの日記』とか、背革継ぎ表紙で三方の小口に金をはった特装版『デュマの大料理事典』とか、部数はわずか数百部で、1冊何万円もするような本を何冊もつくってきたのである。
 Hさん曰く「営業の人間もあいつならしょうがない、と諦めていた」とのことだったが、編集者に勝算がなければ、そうした冒険はできない時代だ。Hさんは、売れると見込んだ部数をきっちり完売させて、時には書店に出た3日後には売り切れ、というようなこともあったらしい。
 そういう“極道本”をたくさんつくってきたという編集者が語る話が、面白くないわけがない。また、さまざまな作家や学者のエピソードなども聞かせていただいて、勉強にもなり、本当に楽しかった。もちろん、文章の書き方や読ませ方など、細かいこともいろいろ学ぶことができた。その意味でも、Hさんには感謝のしようもない。
 自分で言うのもおこがましいが、かつての編集者というのは、こうやって著者を育てていったのだろうな、と思わずにはいられなかった。せっかく育ててもらいながら、まだ次の作品を完成させていない、という点では忸怩たるものがあるが……。



hisako9618 at 07:41│Comments(0)TrackBack(0)clip!3.身辺雑記 

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