2004年11月02日

村井弦斎の『食道楽』(11)

716c5593.jpg 明治の大ベストセラー小説『食道楽』のヒロインお登和のモデルは、著者の村井弦斎の妻の多嘉子だった。これについては、弦斎自身が『食道楽続篇』春の巻の序文で次のように書いている。

 余をして食道楽趣味に傾倒せしめしは、余が夫人多嘉子の君の力多きに居る。味覚の俊秀、調味の懇篤、君は実に我家のお登和嬢たり。小説食道楽の成りしも、一半は君の功に帰せざるべからず。

 写真は、その『食道楽続篇』春の巻に掲載されている多嘉子である。このとき多嘉子はまだ25歳で、弦斎よりも約17歳年下だった。この写真では、刊行された単行本の『食道楽』全4巻を宣伝するようなポーズで写っている。また、身体をすっぽり覆う白い割烹着を着ているのが目を惹く。
 この割烹着は、病院で使われている手術用白衣をヒントにして、多嘉子が工夫したものだという。この割烹着について、「月刊食道楽」創刊号(1906年1月号)では〈音羽嬢式台所上衣〉として紹介し、「此服は加藤病院の手術服の仕立方を同夫人より聞き、村井夫人が応用せられたる物也」と解説している。加藤病院の院長というのは、社会福祉家として知られる加藤時次郎で、当時の村井家とは家族ぐるみで交際していた。
 これについて、弦斎が「日本で初めて割烹着を考案した」と記述しているものがあるが、日本初の料理学校としてすでに赤堀料理教場が1881(明治14)年に開かれていて、生徒が着物を汚さないように“割烹着”を着せて実習を行っている。おそらく、多嘉子が工夫した割烹着は、身体全体を包むという点で目新しかったのだろう。


トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔