山田耕筰はほぼ全てのジャンルに作品を残しているが、その創作期はジャンルごとにかなり明確に別れており、山田の代表的ジャンルである歌曲でさえも、主要作品のほとんどが1920年代に集中している。この期間を「歌曲の時代」とすると、室内楽や管弦楽などの器楽作品が創作の中心だった1910年代を「器楽の時代」、そして20年代の「歌曲の時代」を経て、1930年代には彼の音楽の集大成ともいえる「オペラの時代」が訪れる。
ピアノ曲の創作は「器楽の時代」の中でも特に1914年から17年の間に集中的に行われている。この時期、山田はほぼピアノ曲しか手がけておらず、「ピアノの時代」ともいえる期間となっていたが、彼の作風はこの期間に劇的な変化を遂げるのである。
ベルリン留学を終えた山田耕筰はロシア経由で帰国したのち、日本初の交響曲となった『かちどきと平和』を披露したり、支援者であった岩崎小弥太男爵の特命を受けて日本初の常設オーケストラを組織するなど、西洋音楽のパイオニアとして八面六臂の活躍を見せる。
だが、その一方で彼は、自身の創作については行き詰まりを感じていた時期でもあった。帰国途中にモスクワに滞在し、そこで接したスクリャービンの音楽に感銘を受けた山田は、自身の作品に何ら魅力を感じなくなってしまったのであった。「…いくら筆をあらためても、いかように想を練っても、それまで書き上げた私のもののうちには、1つも「私」が見出せなかった。それは全て借り物であった。発見ではなく、反映であった」と後に回想するほどのスランプを抱えていた山田は、ベルリンで魅了されたイサドラ・ダンカンの舞踊芸術に傾倒し、自らも振付の研究をするなど、現代舞踊の世界に活路を見出そうとしたことすらあった。そんなさなかに天啓は突然舞い降りたのであった。
「…その年(1914年)の3月である。陣痛の痛みに悩みあぐんでいた私に、一道の光明が与えられた。3月の20日ではなかったろうか。私は一気に7つのピアノ小品を書き上げた。舞踊詩『彼と彼女』がそれである。私のその時の喜びは真に筆紙に絶するものであったといっても過言ではない(フィルハーモニー回想/1926より抜粋)」
山田本人にここまで言わしめるほどの出来栄えとなった『彼と彼女 7つのポエム』は、もはや無調としかいいようのない斬新な和声や激しい強弱の対比、静と動のめまぐるしい交錯に彩られるなど、前年に書かれた2作の交響詩ではまだ萌芽状態であった山田音楽の特色が、鋭い緊張感とともに全面的に表出している。さらに、音色旋律へのアプローチとなる、片手の単旋律からピアノ音域を十全に活用した幅広いレンジに至る増幅と減縮、響きが減衰するピアノの構造を活かした音の空間形成など、さらには邦楽にも通じるような書法もそこに見出すことができる。山田本人が語る、西洋音楽への「(自己)反映」から、独自の音楽への「発見」が、本作において見事に開花したのであった。そしてこのピアノ曲が持つ「強弱の対比」「静と動の交錯」という運動性は、音楽を通して試みられた舞踊へのアプローチでもあり、「音による舞踊」という新しい形式の創造でもあった。山田はこの後「舞踊詩」という言葉を発明し、舞踊家の石井漠、演出家の小山内薫らと「舞踊詩運動」を展開していくのだが、『彼と彼女』はそうした山田の新たな運動へのターニングポイントとなった作品である。
1915年は前述のオーケストラが本格始動した年でもあり、多忙を極めていたためか、完成した作品は『若いパンとニンフ 5つのポエム』と連作『日記の一頁』の最初の1章のみであった。『若いパンとニンフ』においては、響きの斬新性は控えめになったものの、新たにユーモア的要素が添加され、前作とはまた異なる奥行きを見せる。
1916年2月には、山田が心血を注いだ日本初のオーケストラ、東京フィルハーモニー会管弦楽部は解散の憂き目に遭うのだが、その一方で山田のピアノ曲への創作熱は爆発し、翌17年末までの間に今日知られるピアノ曲のほとんどが書き上げられている。後にアメリカで初演された舞踊交響曲『マグダラのマリア』のスケッチもこの時期に書かれており、「器楽の時代」のピークであったといって良いだろう。
ちょうどこの頃、山田とある夫妻との交友が始まる。著名な林学者である寺崎渡とその妻悦子である。悦子は四男五女の母として家庭を守る一方、日本の古典文学に造詣が深く、短歌を詠むことを愉しみにしていたという。その悦子が、近所に住んでいた山田にピアノのレッスンを受けるようになったことがきっかけで、家族ぐるみの交際が始まったらしい。山田は彼女の持つ豊かな国文学の知識や詩的感覚に大いに刺激を受けたようで、書き上げるピアノ曲は次第に文学的な表題を持つようになり、詩的な叙情性を湛えた作品が増えていく。1917年には、日本の古典文学をモチーフにした唯一のピアノ連作『源氏楽帖』が書かれるが、これは寺崎悦子からの示唆を受けて作曲されたものであるという。この時期に書かれた多くのピアノ曲が寺崎悦子に捧げられていることをみても、彼女との親交が創作に与えた影響の大きさを推し量ることができよう。そして山田はさらに彼女の詩をテキストにした歌曲集の筆を執る。1917年9月12日に完成させた連作歌曲集『澄月集』は、寺崎悦子のテキストに見られる古典文学的な表現を十分に反映すべく、日本の伝統音楽の語法や音階を取り入れ、さらには歌と伴奏の間にも、これまでの作品にはなかった、時間軸にとらわれない“間”を持ち込むのである。歌と伴奏の緻密な融合は本作をもって本格的に始まったともいえ、1920年代の「歌曲の時代」の原点はこの『澄月集』にあるといっても過言ではない。山田の音楽にこれほどの影響を与えた女性は後にも先にも寺崎悦子のみである。しかし両者の関係がどこまでのものだったのかは不明であり、彼らの交流は1917年末に山田が渡米したことによって途絶えた。なお、寺崎悦子は後に夫の渡と離婚し、1928年に病死する。
山田は渡米中の1919年に『澄月集』に英訳歌詞を付け、「A cycle of five Japanese Love - songs」というタイトルで出版したほか、寺崎悦子に捧げた『夜の歌2』『夢噺』『みのりの涙』の3曲のピアノ曲をまとめて『プチ・ポエム集』として出版している。悦子のために書かれた作品群を日本人の目の届かないアメリカで出版しているのは、どこか暗示的である。
「ピアノの時代」の前期に支配的であった舞踊的躍動と前衛的和声に彩られた斬新な作風は、悦子との交流の中で得た詩的叙情性、そして古典文学を媒介した伝統音楽への接近により、新たな展開を迎える。
1920年に完成させた山田の代表的管弦楽曲『明治頌歌』や、北原白秋との出会いから大きく開花した、山田の黄金期ともいえる「歌曲の時代」は、この「ピアノの時代」なくしては語れない。山田歌曲の特徴の一つに、ピアノ・パートが非常に充実していることが挙げられるが、それは「ピアノの時代」において多彩な表現のパレットを獲得したからであり、そこで得たピアノの豊潤な響きが、歌曲の充実度をさらに高めているのである。
1920年代以降、山田はピアノ独奏曲を散発的にしか手がけなくなった。しかしその一方で、創作の中心になった歌には必ず“山田の響き”を持ったピアノ譜がついてくる。ここで奏でられるピアノの響きは単なる伴奏の枠を越え、声と一体化したような満足感をピアニストに届けてくれるのである。山田歌曲がピアニストの間でも人気が高いのは、ピアニストにとっても弾きがいのある“ピアノならでは”のスコアだからであろう。
「ピアノの時代」の楽曲には、そうした山田耕筰の音楽の原点ともいうべき響きが詰まっている。
ピアノ曲の創作は「器楽の時代」の中でも特に1914年から17年の間に集中的に行われている。この時期、山田はほぼピアノ曲しか手がけておらず、「ピアノの時代」ともいえる期間となっていたが、彼の作風はこの期間に劇的な変化を遂げるのである。
ベルリン留学を終えた山田耕筰はロシア経由で帰国したのち、日本初の交響曲となった『かちどきと平和』を披露したり、支援者であった岩崎小弥太男爵の特命を受けて日本初の常設オーケストラを組織するなど、西洋音楽のパイオニアとして八面六臂の活躍を見せる。
だが、その一方で彼は、自身の創作については行き詰まりを感じていた時期でもあった。帰国途中にモスクワに滞在し、そこで接したスクリャービンの音楽に感銘を受けた山田は、自身の作品に何ら魅力を感じなくなってしまったのであった。「…いくら筆をあらためても、いかように想を練っても、それまで書き上げた私のもののうちには、1つも「私」が見出せなかった。それは全て借り物であった。発見ではなく、反映であった」と後に回想するほどのスランプを抱えていた山田は、ベルリンで魅了されたイサドラ・ダンカンの舞踊芸術に傾倒し、自らも振付の研究をするなど、現代舞踊の世界に活路を見出そうとしたことすらあった。そんなさなかに天啓は突然舞い降りたのであった。
「…その年(1914年)の3月である。陣痛の痛みに悩みあぐんでいた私に、一道の光明が与えられた。3月の20日ではなかったろうか。私は一気に7つのピアノ小品を書き上げた。舞踊詩『彼と彼女』がそれである。私のその時の喜びは真に筆紙に絶するものであったといっても過言ではない(フィルハーモニー回想/1926より抜粋)」
山田本人にここまで言わしめるほどの出来栄えとなった『彼と彼女 7つのポエム』は、もはや無調としかいいようのない斬新な和声や激しい強弱の対比、静と動のめまぐるしい交錯に彩られるなど、前年に書かれた2作の交響詩ではまだ萌芽状態であった山田音楽の特色が、鋭い緊張感とともに全面的に表出している。さらに、音色旋律へのアプローチとなる、片手の単旋律からピアノ音域を十全に活用した幅広いレンジに至る増幅と減縮、響きが減衰するピアノの構造を活かした音の空間形成など、さらには邦楽にも通じるような書法もそこに見出すことができる。山田本人が語る、西洋音楽への「(自己)反映」から、独自の音楽への「発見」が、本作において見事に開花したのであった。そしてこのピアノ曲が持つ「強弱の対比」「静と動の交錯」という運動性は、音楽を通して試みられた舞踊へのアプローチでもあり、「音による舞踊」という新しい形式の創造でもあった。山田はこの後「舞踊詩」という言葉を発明し、舞踊家の石井漠、演出家の小山内薫らと「舞踊詩運動」を展開していくのだが、『彼と彼女』はそうした山田の新たな運動へのターニングポイントとなった作品である。
1915年は前述のオーケストラが本格始動した年でもあり、多忙を極めていたためか、完成した作品は『若いパンとニンフ 5つのポエム』と連作『日記の一頁』の最初の1章のみであった。『若いパンとニンフ』においては、響きの斬新性は控えめになったものの、新たにユーモア的要素が添加され、前作とはまた異なる奥行きを見せる。
1916年2月には、山田が心血を注いだ日本初のオーケストラ、東京フィルハーモニー会管弦楽部は解散の憂き目に遭うのだが、その一方で山田のピアノ曲への創作熱は爆発し、翌17年末までの間に今日知られるピアノ曲のほとんどが書き上げられている。後にアメリカで初演された舞踊交響曲『マグダラのマリア』のスケッチもこの時期に書かれており、「器楽の時代」のピークであったといって良いだろう。
ちょうどこの頃、山田とある夫妻との交友が始まる。著名な林学者である寺崎渡とその妻悦子である。悦子は四男五女の母として家庭を守る一方、日本の古典文学に造詣が深く、短歌を詠むことを愉しみにしていたという。その悦子が、近所に住んでいた山田にピアノのレッスンを受けるようになったことがきっかけで、家族ぐるみの交際が始まったらしい。山田は彼女の持つ豊かな国文学の知識や詩的感覚に大いに刺激を受けたようで、書き上げるピアノ曲は次第に文学的な表題を持つようになり、詩的な叙情性を湛えた作品が増えていく。1917年には、日本の古典文学をモチーフにした唯一のピアノ連作『源氏楽帖』が書かれるが、これは寺崎悦子からの示唆を受けて作曲されたものであるという。この時期に書かれた多くのピアノ曲が寺崎悦子に捧げられていることをみても、彼女との親交が創作に与えた影響の大きさを推し量ることができよう。そして山田はさらに彼女の詩をテキストにした歌曲集の筆を執る。1917年9月12日に完成させた連作歌曲集『澄月集』は、寺崎悦子のテキストに見られる古典文学的な表現を十分に反映すべく、日本の伝統音楽の語法や音階を取り入れ、さらには歌と伴奏の間にも、これまでの作品にはなかった、時間軸にとらわれない“間”を持ち込むのである。歌と伴奏の緻密な融合は本作をもって本格的に始まったともいえ、1920年代の「歌曲の時代」の原点はこの『澄月集』にあるといっても過言ではない。山田の音楽にこれほどの影響を与えた女性は後にも先にも寺崎悦子のみである。しかし両者の関係がどこまでのものだったのかは不明であり、彼らの交流は1917年末に山田が渡米したことによって途絶えた。なお、寺崎悦子は後に夫の渡と離婚し、1928年に病死する。
山田は渡米中の1919年に『澄月集』に英訳歌詞を付け、「A cycle of five Japanese Love - songs」というタイトルで出版したほか、寺崎悦子に捧げた『夜の歌2』『夢噺』『みのりの涙』の3曲のピアノ曲をまとめて『プチ・ポエム集』として出版している。悦子のために書かれた作品群を日本人の目の届かないアメリカで出版しているのは、どこか暗示的である。
「ピアノの時代」の前期に支配的であった舞踊的躍動と前衛的和声に彩られた斬新な作風は、悦子との交流の中で得た詩的叙情性、そして古典文学を媒介した伝統音楽への接近により、新たな展開を迎える。
1920年に完成させた山田の代表的管弦楽曲『明治頌歌』や、北原白秋との出会いから大きく開花した、山田の黄金期ともいえる「歌曲の時代」は、この「ピアノの時代」なくしては語れない。山田歌曲の特徴の一つに、ピアノ・パートが非常に充実していることが挙げられるが、それは「ピアノの時代」において多彩な表現のパレットを獲得したからであり、そこで得たピアノの豊潤な響きが、歌曲の充実度をさらに高めているのである。
1920年代以降、山田はピアノ独奏曲を散発的にしか手がけなくなった。しかしその一方で、創作の中心になった歌には必ず“山田の響き”を持ったピアノ譜がついてくる。ここで奏でられるピアノの響きは単なる伴奏の枠を越え、声と一体化したような満足感をピアニストに届けてくれるのである。山田歌曲がピアニストの間でも人気が高いのは、ピアニストにとっても弾きがいのある“ピアノならでは”のスコアだからであろう。
「ピアノの時代」の楽曲には、そうした山田耕筰の音楽の原点ともいうべき響きが詰まっている。