2006年11月30日

久生十蘭を探して(11)***キャスタナリー街***

1618cc39.jpg8c7a615b.jpgさて、阿部鑑のアルバムからいくつかの写真を複写してパリに向いました。
昨年も同じ時期にパリに行ったのですが、この時は手掛かりが少なすぎて成果は全くありませんでした。

今回、持参したのはビルのバルコニーでポーズを取る十蘭、「セイヌ上流の中洲で」と書き込みがある橋を背景にした水辺の十蘭、植物園のような場所に和服で立つ阿部鑑、「パリ・キヤスタンヤリー入り口」と書き込みがある絵葉書などです。

十蘭の取材だけで渡仏したわけではないので、十分な時間をかけることはできませんでしたが、多少の収穫はありました。


事前に地図で調べてあった「キヤスタンヤリー」(Rue Castagnary)を実地踏査してきました。「Rue Castagnary」はパリ15区のモンパルナス駅からそう遠くないSNCF線路の近くにあります。絵葉書の画像に写っているのは六差路になっている「Falguiere」広場から「Rue Castagnary」一番地を臨んだものです。もう一本写っている画像右側の通りは「Rue Labrouste」です。メトロの「Pasteur」駅から歩いて20分ほどの場所です。幸いに絵葉書に写っている主な建物は70年ほど前とさほど変化していませんでした。二つの画像を見比べてください。

阿部鑑は「パリ・キヤスタンヤリー入り口」と書いています。これは何を意味していると思いますか?私はこの通りの奥に何かがあるから「入り口」と書いたのではないかと思いました。十蘭が住んでいたのか、あるいは鑑が滞在していた宿があったのか。私は十蘭のアパルトマンがあったと仮定して一番地から百四十八番地まである通りを一往復しました。十蘭がポーズをとっているバルコニーがある建物、背景に写りこんでいる建物に似た建物を探しました。

「入り口」付近は変化が無かったものの、全く新しい建物も多く、再開発が進んでいました。番地は百四十八までありますが、通りの二、三割は片側がSNCFの線路で建物はありません。フランスの番地は片側が奇数なら、もう一方は偶数で、片側に建物が無ければ番号は欠番となるので実質的には百番地分の建物を見ました。結論は「Rue Castagnary」に面した建物に該当するものはありませんでした。十分な時間が無かったので主要な建物の外観をざっくりと撮影してきました。次に行く時には「Rue Castagnary」と交叉する全ての道を見るつもりです。

帰国後、資料を漁っていたら「Rue Castagnary」に十蘭がいたかもしれない傍証が出てきました。十蘭の師である岸田国士は一九二〇年から一九二三年までフランス留学をしていますが、一九二一年五月には「Rue Castagnary」の近くの「Cite Falguiere」の十四番地にいたのです。(「パリ・日本人の心象地図」296P)フランス行きに先立って、十蘭は当然岸田に彼の地の事情などについて聞いたはずです。岸田に限らず日本人が多く住んでいたこの辺りを岸田が薦めたり、斡旋したことは十分考えられそうです。

長くなったので、項を改めます。

と思いましたが、改められなくなりました。「Cite Falguiere」の場所を特定しようと検索していたらなんと画家の清水登之の大正一四年の日記に「現住処、14 cite Falguiere (15e) Paris France 澄子 育夫ト一緒ニパリーノオ正月ヲ迎ヘタ」と言う記述があるではないですか。西暦では一九二四年のことです。岸田国士の直後に同番地に日本人画家が…。

そこで、「 パリ・日本人の心象地図」の索引で清水登之を調べると驚くべき記述がありました。長くなりますが引用します。

「さて山本(鼎)は、当時ヴィラ・ファルギエールと呼ばれていたシテ・ファルギエール十四番地に住んだ。『早速和田三造君を訪問、つれだちて地下鉄道にのって満谷国四郎さんを訪ね、丁度画室のそばに明き間があるので直ちに借りうける事にしました』という経緯であった。一五区にあり、モンパルナス駅よりさらに西に位置し、パストゥール研究所にほぼ隣接している。細い袋小路となった路地の行き止まりが一四番地で、ここには二〇ほどの貸しアトリエがあった。十四番地のみならず、シテ・ファルギエール一帯は集合アトリエの集る場所で、与謝野寛とともにやってきた徳永、長谷川、満谷、柚木たちもここにアトリエをもった。ヴィラすなわち一四番地が有名であるが、他にも、例えば伊原宇三郎や上永井正などは一一番地に住んでいる。ここもまた、日本人画家たちにとって重要な『場』であった。(中略)

藤田嗣治も、一時、ここを仕事場としていた。さらに後には清水登之や清水多嘉示、里見勝蔵、高田広厚などが住んだ。里見のアトリエは一四の七で、ここに、パリを訪れた佐伯祐三を迎えている。」

これでは日本人の巣窟ではありませんか。いや、資料は一度読んだだけでは意味がないことにようやく気づきました。読んで、現場を踏んで、また読んで、の繰り返しが必要なんですね。良い勉強をしました。

また、同書19Pにも「モンパルナスの『日本人村』の草分けの一つは、シテ・ファルギエールだろう。高村真夫『欧州美術巡礼』は、『満谷君が最初の開拓者で、長谷川。小杉。抽木。小林。徳永。小川。金山。足立。山本。森田。正宗。澤木、生田。青山の諸君、及び僕なぞである』と、ここを拠点とした日本人画家を列挙している。」

最後の「青山」は青山義雄ではないでしょうか。神経衰弱になった十蘭を南仏カーニュに連れて行った友人です。


ここで本当に項を改めます。


hisaojuran at 22:41│Comments(4)TrackBack(0)久生十蘭を探して 

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この記事へのコメント

1. Posted by 十蘭好き   2006年12月01日 20:16
このブログ、本当にすごいことになってますね。父親は分かる、岡本家との関わりも見えてくる…。これは本当にすごいことで、知的興奮というのでしょうか、そういうものを
感じさせられました。
こういうブログはほかになかなかないですから、
今後も楽しみにしてます。
2. Posted by 亜子十郎   2006年12月03日 08:34
十蘭好きさん、こんにちわ。

仰る通りです。謎が多い分、調べ甲斐もあります。父親の件については、なぜ今まで特定できなかったのか不思議な気がします。今回栄子さんの話を聞く前にも系図や過去帳を素直に見れば小林善之助が父親だと分かりそうなものです。おそらく、ほら吹き十蘭の韜晦を周囲が真に受け、やがて定説になったのでしょう。

キャスタナリー街入口に立って、絵葉書の写真と変わらない風景を見た時には感慨深かったです。あの、通りにはこれからも何度か通うことになりそうですが、古いパリが良い形で残されて欲しいと思います。


                                 亜子十郎 拝
3. Posted by 河童頭   2006年12月05日 22:38
「ほら吹き十蘭の謎は、謎のままにしておいてほしい」
と思っていた十蘭ファンも多いことでしょう。
けれど私には、その謎を追ってゆく著作権継承者さん・亜子十郎さんの
おふたりまでもが、彼の小説の登場人物のように思われてなりません。
もう、あたらしい彼の小説を読むことはできない、けれどその続きはまだ紡ぎつづけられているのでは?などと、妄想してしまいます。。。
4. Posted by 亜子十郎   2006年12月06日 06:09
河童頭さん、こんにちわ。

過分なお言葉ありがとうございます。

確かに、久生十蘭の構想の下、彼の掌の上で操られているような気もします。

演出家の意図を汲めない役者たちだなぁ、などと草葉の陰で苦笑している十蘭の姿が目に浮かびます。


                    亜子十郎 拝

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